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20. 無知

 不品行だと思いながらも、リアナは廊下を駆け抜ける。


 すれ違った男が驚いた顔でリアナに道を空けた。


 走ってはいるものの、実際、ラセルがいまどこにいるかは知らなかった。


 走りながら、彼の居場所を考える。――が、考えてわかるような問題ではない。


 リアナは父の執務室に向かった。


 父の執務室の扉に立っていた衛兵も、リアナの必死の形相を見て、すぐに道を空けてくれた。


 扉は「自動」で開いた。


「お父さま!」


 リアナは父の部屋に駆け込むなり叫んだ。


「ラセルはどこです?」


 父は慌てた様子のリアナに対して怪訝な顔をした。いつもならば、はしたない、と注意されるだろうが、今日ばかりはなにも言われなかった。


「客間だ」


 父が言い終わるまえに、リアナはもと来た廊下を走り出した。


 客間はいくつもある。一番豪華な客間はイリアスが使用している。第二、第三の客間も、イリアスの側近が使用しているはずだ。


――となると、第四の客間……。


 案の定、第四の客間の前にはラング風の軍服を身につけた男がふたり、立っていた。


 中にいるのは、高貴な人物か、罪人であろうことが察せられる。


 やはり、貴人と罪人は似ているものだ、とリアナは思った。



 リアナに気づいたラングの軍人が扉のまえに立ちはだかった。


 トレオン国王とその近衛兵以外が王宮内で帯剣することは禁じられている。

 そのため、このふたりは武器こそ持ってはいなかったが、素手でも十分に強そうだった。


「中に、ラセルがいますね。通しなさい」


 リアナはいつもよりも低い声で言い放った。

 イリアス側の人間がラセルを見張っていることにリアナは腹が立った。ここはトレオンだ。ラングではない。


「要件は?」


 ラングの軍人のひとりが質す。


「わたしはこの国の王女です」

「罪人を逃がす気ではないのか」


 王女に対して、極めて無礼な口調だった。それが、さらにリアナの怒りを煽った。

 リアナは軍人ふたりを交互に()めつけた。そして、自分以上の眼光で睨み返された。


「通しなさい。ここはトレオンの王宮で、わたしはトレオンの次期女王です」


 リアナが命令しても、軍人らは、だからなんだ、と言わんばかりの顔をしていた。


 世界は矛盾に満ちているのかもしれない。


 トレオンにおいて、他国の人間が、トレオン人を監視する。

 そして、トレオンの王女は他国の人間に対して敬意を要求するのだ。


 このふたりにとってはリアナは王女ではない。本来ならば、トレオンの法に従わないといけない存在でもない。

 だが、彼らは現在、トレオンの地を踏んでおり、トレオンにいる人間が敬意を払うべき人物をまえにしている。


 リアナははじめて、なぜ日本史の授業で「領事裁判権」または「治外法権」という言葉を覚えさせられたのかを悟った。

 いまここで起きている矛盾は、この世界での「ノルマントン号事件」なのだ。なんで、歴史の授業で覚えさせられるほど重要なのかはわからなかった。だが、いまならわかる。


「代言人以外の立ち入りは禁止せよとの命令だ」


 だれの命令だというのか。父ではないだろう。イリアスか。


「わたしは代言人です。トレオン法はすべて頭に入っています」


 軍人は道を空けようとはしない。


「薬物使用等の罪とは、次に掲げる罪をいう」


 リアナは刑法を暗唱した。

 

「第一項、刑法第百三十九条第一項若しくは第百四十条の罪又はこれらの罪の未遂罪。第二項、大麻取締法第二十四条の二第一項の罪又はその未遂罪。第三項――」


 軍人ふたりは顔を見合わせてから、リアナに道を空けた。


 しかし、今回は扉が自動で開かれることはなかった。


 リアナは自分の手で重い客間の扉を開いた。



 部屋では、窓辺で長身の男がひとり、外を眺めていた。


 男は振り向きはしなかった。

 リアナと軍人のやりとりは聞こえていただろう。


 だが、この部屋には彼自身のほかには何も存在していないかのように、男は窓の外を見つめ続けていた。


 リアナは無言で男のほうへと近づいていった。


 男の視線の先には、空にそびえるふたつのもの――学者の研究棟と竹林があった。


 リアナは男の隣に肩を並べた。

 長身の男の肩はリアナの顎の高さにある。


「わたしたちは結ばれる定めだわ」


 竹の求愛は百年に一度――。

 そして、求愛したあとには、竹林は枯れ尽くしてしまう。


 この感情がきっと竹が百年に一度感じるそれだ――そうリアナは確信していた。


「おまえは何も知らない」


 男が言った。その視線はまだ外を見たままである。


「いいえ、知ってる」


 リアナは男の腕に触れた。


 父はリアナとラセルの婚約を真剣に考えていた。

 リアナが女王となったのち、その王配が密売人であったと明るみになれば、リアナの名誉に傷がつく。


 だからラセルはリアナに別れを告げたのだ。


 ラセルのせいで、リアナに不利益が被ることがないように。


「ずっと好きだった」


 ラセルが呟いた。まるで遠い昔に起こったことのように――。


「チョコレートなどでおまえの気を引こうとした罰なのかもな」


 イリアスはここ数年、密使をトレオンに送って調査させていた。

 ラセルはそれに気づいていたのだろう。だから、彼もここ数年は密売をしてはいなかったのだ。


 しかし、とうとうイリアスが犯人の目星をつけたと知り、隠し通せなくなったとわかって、裁かれるより先にリアナに別れを告げたのだ。


「理不尽よね。世の中って」


 リアナに贈り物をするためにラセルは毒を売り、そのためにふたりは引き裂かれることになった。なんという皮肉だろう。


「チョコレートがなかったら、おまえはおれと仲良くはしなかっただろう」

「そうかもしれない」


 チョコレートを楽しみにして、ラセルに会いたがっていた自分がいたのは否めない。

 あのころのリアナは幼かった。ラセルも、幼かった。


「でも――」


 この想いが子どものチョコレートの恋ではじまらなかったとしても。

 大人になってから、出会っていたとしても。


「わたしはいつかは絶対、あなたに惹かれていた」


 ラセルがリアナのほうを向いた。


「やはり――」


 振り向いたラセルの顔は、これから深い谷底に落とされようとしている人間のそれであるかように悲しそうな顔をしていた。


「おまえは何も知らない」

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