10. 隠し通されてきた秘密
イリアスたちとの会食までは、身支度にかかる時間を差し引いても、まだ十分に時間があった。
午後の稽古も、すべてキャンセルしてしまっている。
リアナは自分の部屋には戻らず、植物園に隣接している研究棟に足を運ぶことにした。
研究棟では学者が数十名、王宮に住み込みで研究している。その中の何人かとラセルは仲がよいらしかった。
彼らは、ラセルが「おれたちは結ばれる定めではない」と言った理由か何かを知っているかもしれない。それに、ラセルが妙に植物に詳しいことも気になった。
研究棟に足を踏み入れるのははじめてだった。
リアナにとって、大学の理系学部の建物のようなものだ。
前世では数学も化学反応式も見ただけで鳥肌が立つくらい嫌いだった。大学は外国語学部、英語専攻だ。国仲理愛はもっぱらの文系人間であった。
王女の教育には数学や化学は組み込まれていない。小学生の算数や理科の段階までだった。
といっても、この世界ではまだ天動説が唱えられているし、世界は神によって創造されたことになっているから、日本の小学生の知識よりも少ないかもしれない。
そもそも、この世界では天動説が正しいかもしれないし、ビッグバンではじまっていないかもしれない。
興味がないからどうでもいい。
ほとんどの日本人が、天動説だろうが地動説だろうが、地球が丸かろうが平面だろうが、微分だか積分だか、sinだかcosだかθだか――そんなものを必要とせず、意識もせず、気にもせず生きているのと同じだ。
ただ、この世界に来てから、理系科目を勉強しなくてよいのは切実に嬉しかった。
それゆえ、学者たちが集う研究棟についても、その存在については知っていても、えてして中に入ろうとしたことはなかった。
理科に興味はなかったが、今日はこうして、はじめて研究棟の内部に興味を持って近づいているのである――。
案の定、リアナが入り口に現れただけで、そこにいた学者たちは目を丸くした。
本物の王女だろうかと、リアナを二度見、三度見、した者もいる。
「あの――植物に詳しい方をお願いできますか」
リアナが言うと、こちらへどうぞ、と震え声でひとりの若い学者が応じた。
案内された部屋には「ガイウス・イダル」と書かれていた。例の著名な研究者だ。
「このガイウス・イダルという者はご不在なのではありませんか」
彼が急用だったから、代わりにラセルがイリアスを案内したはずだ。
「いえ――そのようなことは聞いていませんが」
学者は恐る恐るといった様子で答えた。
謙譲語がなっていない。そこは「うかがっていませんが」と言うべきだ。いつも敬語が身についている人間と話しているから、そんなことをが気になったりする。
若い学者が、ガイウスの部屋の扉をノックした。
「何用だ」
煩わしい、と言わんばかりの濁声が扉の中から飛んできた。
「リアナ王女殿下がお見えです」
「遊びに付き合っている暇はない」
「いえ、けっして冗談ではありません」
若い学者は、彼に非はないのに、申し訳ございません、とリアナに謝った。
扉が開いて、中から白髪頭の初老の男が現れた。
いかにも学者というような風貌――アインシュタインのようなそれで、リアナは笑いそうになった。
白髪頭の男はリアナを見るなり意外そうな表情を見せた。が、驚きまではしなかった。
「リアナ王女殿下……なぜこんなところに?」
「少しお話ししたいのですが、よろしいですか?」
「それは――もちろん」
どうぞ、と学者はリアナを部屋の中に入れた。
ガイウスの部屋はとても広かった。王宮一の学者と称される者にはこれくらいの部屋は与えられて然りだろう。
しかし、広いはずなのに、書物と書類と標本が溢れているせいか、狭苦しく思われた。
ガイウスの部屋には、まだ若い――十五、六の少年がいた。
ガイウスが顎を動かすと、すぐに少年は小鳥のように部屋から飛び去っていった。
部屋の中には、さらにふたつの扉があった。ひとつはガイウスの寝室らしかったが、もうひとつは謎だった。
ガイウスはリアナにソファに座るよう促した。
それから、ソファまえのローテーブルに積まれた書物や書類をどかして、別の机の書類の上に積み上げた。
机上の高くなりすぎた本の山が崩れ落ちた。
「小汚くて申し訳ありません」
床に散らばった本や紙を、慌てて拾いながらガイウスが言う。
「もっと広い部屋が必要なのではありませんか」
とんでもない、とガイウスは首を横に振った。
最初はぶっきらぼうな老人だと思ったが、優しげで剽軽なおじいちゃんというような様子だった。
「すべての書物を本棚に入れて、書類をファイルに閉じればよいのですが――やりかけの研究がいくつも並行していまして――」
いちいち本棚に本を片付け、取り出すという作業がもどかしいから、広げたままなのだと、とガイウスは説明した。
おそらく、この部屋は、彼なりに研究しやすいように「整理」されているのだろう。
片付いていることは、整理されていること、もしくは便利であることとは同意ではない。
さっきの少年が戻ってきて、リアナに茶を運んできた。
目を伏せて、リアナと目が合わないようにしている。
その様子はリアナには新鮮に映った。
おそらく少年は貴族の出身ではないのだろう。貴族ならば、礼儀作法を王立学園で教わるから、このような態度をするとは思えない。
貴族ならば王女に顔を覚えてもらえるチャンスを絶対にものにしようと、自分を売り込みはじめる。目を合わさないようにする者はまずいない。
庶民とて、言葉を交わしたり、握手をしたりしたがるものだ。
研究棟は王宮内にありながら、王宮とは完全に非なるものであるのだろう。ここだけ、俗世を超越している。
たまに研究棟を訪れるのもおもしろいかもな、なんてリアナは思った。
「こうして近くでお尊顔するのは初めてですが、そのような気がいたしません」
床を片付け終わったガイウスが、リアナの向かいのソファに座った。
「リアナ様のことは、よくラセルからうかがっておりますので」
「ラセルがわたしのことを?」
ええ、とガイウスは頷く。
「わたしたちの――その……関係を知っておられるのですか」
再び、ええ、とガイウスは頷き、にこやかに笑う。
王宮内で――いや貴族の中で、リアナとラセルの関係を知らない者はない。宮殿の中をお散歩しながらデートをしているし、舞踏会ではいつもダンスを踊っている。
だが、俗世や政治に興味がなさそうな学者が、リアナたちの関係を知っているのは意外だった。
「お恥ずかしいことを、ラセルが申していなければよいですが」
「リアナ様はとてもすばらしい方だと、ラセルからいつもうかがっておりますよ」
「ラセルから?」
「ええ、彼は王女様に骨抜きです」
リアナは小さく自嘲した。
「もう、わたしたちはそのような関係ではございませんが――」
ガイウスがはじめて驚いた顔をした。
「そんな――。なにか、あやつが粗相でもしでかしましたか」
「あ、いえ――」
ラセルに振られたのは自分の方だ――とは言いづらい。言う必要もない、とリアナは判断した。
「少し、ラセルのことでお話しをうかがいたいのです。彼、かなり植物に詳しいみたいなのですが、どうしてあれほどの知識を持っているのですか。王立学園では植物学の授業など行わないでしょう?」
「そうですね、学園では習いません」
「あなたや、他の学者さんに、ラセルは師事でもしているのですか」
「たしかにわたしも少しは教えていますが――それ以上に彼は天才なのです」
「天才? ラセルが?」
それはもう、とガイウスが強調する。
「彼は薬草や毒草を見分けるのが得意で、いままでに薬効や毒が知られていなかった植物を、次から次へと発見しています。植物に関する勘がとてもよいのです。いや、植物だけではない――自然全体に関してです」
「へえ……」
ラセルが王立学園で優秀な成績をおさめていることは知っていた。
だが、乙女ゲームの中でも、ラセルは成績優秀・眉目秀麗な才色兼備なキャラだったから、自然なことだと思っていた。
ラセルは子どものときから王女のことが好きで、王女に振り向いてもらえるために一生懸命努力してきたのである。
だが、一緒に喋っていて、ラセルを天才だとは思ったことはなかった。優秀ではあるが、学者肌という感じでもない。
ラセルは理系の難関大学に受かるような静かめの秀才系男子という種類ではなく、どちらかというと、勉強もスポーツもそこそこできる女子に人気の爽やかモテ男タイプとでもいうような存在だろう。旧財閥系の総合商社で働いているような人間とでもいおうか。
ガイウスによると、ラセルはいままで解明されていなかった遺伝の謎や植物が毒を作る仕組みなどを、どんどん解明しているらしい。しかも、生物学の分野に留まらず、数学や物理学にも相当に通じているということだった。
「だが、あやつは学者になるつもりはないというのですよ。それに――」
ガイウスは言葉を切った。
「それに――何です?」
リアナはガイウスを促す。
「なんでも、ありません」
ガイウスは微笑みながら首を横に振った。
「教えてください」
「王女様に伝えるようなことでは――」
「教えてください。命令です」
しばらく考えてから、ガイウスは口を開いた。
「ご命令とあらば。ですが、わたしが申したということは、ラセルには内密にしていてください」
「――いいでしょう」
どんな話だろうとリアナは身構えた。
ラセルのことは四歳のころから知っている。もはや物心がついてすぐだ。
そのラセルが、リアナには言えないどんなことを隠し持っているというのか――。
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