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小さな火を灯したランプを側に置き、リベリオはベッドの上で寝転がっていた。一度に押し寄せるドロドロとした感情に頭の中が追いつかない。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしてなんとか心を落ち着けようとした。
*
訓練を終えて急いで着替えを済ますと、すぐに団長室へと戻り、補佐官のルミオを捕まえて問い詰めた。
「キュリオ殿の奥方様ですか?えぇ、確かにリーシャというお名前ですよ。ブロンセ子爵家の次女だったと思いますが。」
「何だと!?奥方はナリア・アマティスタではないのか?アマティスタ子爵家のご令嬢だ。彼女がキュリオ殿と婚約をしたと聞いたのだが…。」
リベリオの必死の形相に、ルミオはしばらく考え込んだ後「あぁ」という顔をした。
「ナリア・アマティスタ嬢!えぇ、確かにその方と一度ご婚約はされましたよ。」
「ぐ…、そうか。」
----婚約はしたのか…。
「ですが確か…そうそう、キュリオ殿が『他に本命がいる』といって、アマティスタ家に白紙に戻してもらいに行ったそうですよ。」
「それで、どうなったんだ?」
「どうもこうも、アマティスタ家の方もそれほど問題視はしていなかったそうです。」
リベリオが呆然としているのを横目に、ルミオは続けた。
「もともと貴族の婚姻に本人の自由意思なんてものはありませんが、他に本命がいると直接言われたらどうしようもなかったのではないでしょうか。ただ…」
リベリオが片眉を上げると、ルミオは肩を竦めた。
「なぜか、アマティスタ家の方から婚約を解消してほしいと願い出たそうです。キュリオ殿と奥方様の赤子に関する噂については以前お話ししましたよね。すでにその頃にはリーシャ嬢のお腹に子が宿っていたのではないでしょうか。ですから、それを気使ってナリア嬢が身を引く形を取ったのではと思うのですが、真相はわかりません。」
リベリオは胸に熱いものが込み上げた。出会った頃から周りに気を使い、身を引いていたナリアの姿が思い浮かぶ。自信なさげに俯いていた少女は、再会した時には堂々と胸を張る大人の女になっていた。それでも…
----見た目は随分変わったが、中身は何も変わってはいない。あれから更に二年経っているが、きっと…
その時、ふと気にかかった事が無意識に口をついていた。
「では、彼女はまだ独身なのか…?」
ハッとして口を噤むリベリオを、ルミオは半目になって見据えた。リベリオの手癖の悪さは男の間では誰もが知るところで、当然その類のものだと受け取っている。
リベリオがゴホンと咳払いをすると、「ナリア嬢と言えば」とルミオが呆れ顔のまま口を開いた。
「キュリオ殿と婚約される前に出席された夜会で、男性陣から注目を浴びていたそうですよ。彼女が婚約したと聞いて肩を落とした男が大勢いたとか。」
「ほぅ…。」
リベリオがピクリと反応する。自分と再会した夜のことかと思うだけでも腹立たしいのに、他の男の目に晒されていたなど考えたくも無かった。確実に自分と同じ目で見ていたに違いない。
リベリオが押し黙って顔を顰めていると、ルミオはチラとリベリオを観察しながら続けた。
「ですから、二人が婚約を解消した途端、色めきだった男たちが次から次へとナリア嬢に婚約を申し込んだそうです。」
「!?」
「ところが、ナリア嬢はそれら全てを断ったんです。その内に、彼女には良くない噂が広まってしまって…。」
「良くない噂?何だそれは。」
リベリオが食いつたのを見計らって、ルミオはニコリと微笑み、手で酒を飲む仕草をした。
部下の笑顔の後ろに「ゴチニナリマス」という文字が見えるが、今さら引くこともできない。リベリオが渋々頷くと、契約成立といったように仕事へと戻っていった。
*
ルミオと酒場の前で別れ、平屋に帰ったのは辺りがすっかり寝静まった頃だった。ふらつく足取りで荷物を放り投げ、ベッドに倒れ込む。ルミオから聞いた話の内容を思い出しては顔を顰めて天井を睨みつけた。
----どいつもこいつも、いい加減な事ばかり言いやがって!!
ルミオの言葉が頭から離れない。それがどうしようもなくリベリオの胸を締め付けた。
----『婚約を断られた男たちの中には逆恨みする者もいたんですよ。』
----『彼女が結婚をしないのは同姓が好きだからだとか、身体に何か問題があるのだとか根も葉もない噂を流したのです。終いには身体の関係を持ったが具合が良くなくて興ざめした、なんて言う輩まで出だしまして。』
----『それらの噂に次々と尾が付き始め、今や彼女に縁談を申し込む者はいなくなりました。』
「クソッタレッッ!!」
リベリオはガバッと起き上がると同時に拳をベッドを叩きつけた。重く鈍い音が部屋中に鳴り響く。跳ねるように剣と外套を掴み、外へと飛び出した。
*
「貴方も懲りない男ね。またそんな顔をして…。」
息を切らして天井を見上げていると、横からルマリナが覗き込んだ。馴染みの女の上気した頬と汗ばんだ肌が、リベリオの視界に入り込む。
「もう忘れたんじゃなかったの?」
額の汗を指で撫でながら呆れたように言うと、身体を起こして布で身体を拭き始めた。リベリオはその後ろ姿を眺めながら、再び沸きあがる衝動に耐え切れず腕を伸ばしてベッドに押し倒した。
「ちょっと、何よ。」
「…もう一回。」
「何言ってるのよ!すでに三回もしてるのよ、ちょっとは休ませて!」
ルマリナが下からペチッと額を叩くと、リベリオは渋々身体を横に倒した。ルマリナは身体を起こして肌着を手に大きく溜息を吐くと、テーブルに置いてあるカップに葡萄酒を注ぎ入れた。
「で、何かあったの?どうせまたあの子のことでしょう?」
ルマリナの言葉にグッと喉が詰まる。バツの悪さを誤魔化すように、リベリオはのそのそと身体を起こしてベッドの上に座り込んだ。
「…ナリーはキュリオと結婚していなかった。」
「あら、そうなの?それじゃあこの前言ってたのは別の女だったのね。良かったじゃない。」
「それが良くないんだよ!もしかしたら、もっと悲惨だ。」
リベリオはルミオから聞いた話をルマリナに話した。話しているうちに自分の頭が項垂れていくのがわかる。話し終わる頃には頭がベッドに倒れ込んでいた。
二人の間に沈黙が流れる。リベリオはゆっくりと身体を起こしてルマリナを見ると、その唖然とした表情に軽く仰け反った。
「何だよ。」
「貴方…こんなところで何やってるのよ。」
「は?」
「は?じゃないでしょう。ここまできたのなら、そろそろ腹を括ったらどうなの?その子の事好きなんでしょう?」
「いや、何を言って…。」
リベリオの困惑した態度に、ルマリナは軽い苛立ちを込めた溜息を吐いた。額に手を添えてしばらく目を伏せると、長い睫毛の奥から冷たい視線を投げつけた。
「リブ、私ね、結婚することにしたの。店も辞めるわ。」
ルマリナの突然の告白に、リベリオはパッと顔を明るくして身を乗り出した。
「そうなのか?そうか、それはおめでとう!お前の心を掴むなんて、一体どんな奴なんだ?」
「街の広場でそこそこ大きな宿屋を営んでいる人よ。年下だけど。最近店を継いだの。」
「なんだ、貴族じゃないのか?どうしてまた?」
「そう、貴族じゃないわ。それでも私に会いにこの高級娼館に通ってくれたのよ。針子の仕事帰りに偶然会って、家の近くまで送ってくれたこともあった。とても紳士的にね。」
「ほぅ。」
「もちろん、それだけじゃ無いわ。私も最初は断っていたのよ。それでも彼は諦めずに私にこう言ったの。」
『君が今までどんな道を歩んでいようと、この先何が起ころうとも、僕は君の手を離したりはしない。もし君が僕の手を離すとしたら、それは僕が最も愚かな事をした時だ。だが、その時は永遠に来ないと誓える。なぜなら、僕は君を心から愛しているからだ。』
ルマリナは頬に手を添えてうっとりと天井を見上げた。
「真っ直ぐな瞳で言われるとねぇ…。緊張してるのが丸わかりなぐらい、私の手を握る彼の手が震えているのよ。針子仲間やここに来る客にそれとなく彼の事を聞いたら、女の噂なんて聞いた事無いって言うのよ?これはもうダメでしょう。」
リベリオはポカンと口を開けてルマリナを見つめた。長年の付き合いだが、まるで少女の様に頬を染めて身を捩る姿は初めて見る。
恋をするとこうも変わるものなのか、と感心して眺めていると、ルマリナにジロリと睨まれ再び仰け反った。
「リブ、貴方私を抱いている間、誰の事を考えてたの?誰を抱いてたの?」
「え?いや、それは…」
「今日だけじゃないわね。そうね、言い方を変えようかしら。女の『心』に無関心だった貴方の心を、これ程までにかき乱すのは誰?」
「!!」
リベリオが手を口元に当てて視線を彷徨わせると、ルマリナはニコリと微笑み、キッと睨み付けた。
「わかったらこんなところで腰振ってないで、さっさと彼女の元に行きなさい!!」
*
ドレリア暦1575年、三の月。
暖かい陽射しが降り注ぐよく晴れた空の下、アマティスタ子爵邸の玄関の前に一台の馬車が停まっていた。美しく磨かれた豪奢な馬車には、デガート伯爵家の紋が掲げられている。
従者が御者台から降り、声をかけて扉を開けると、中から一人の美丈夫が降り立った。騎士団の礼服に身を包みマントを翻す凛々しいその姿に、出迎えた侍女たちの吐息が漏れる。
「デガート伯爵家より、王宮第五騎士団副団長リベリオ・デガートが参りました。クレトン・アマティスタ子爵様に取り次ぎを願いたい。」
リベリオの従者が前に立ち、侍女に伝える。侍女は頬を染めて一礼すると、応接室へと案内した。リベリオは途中、失礼にならない程度に屋敷内を見渡した。
----ここがナリーが暮らしている屋敷か。華美過ぎず、質素過ぎない。うん、調度品のセンスも良いな。
こちらです、と侍女が扉の前で足を止めた途端、リベリオの心臓が跳ね上がった。この扉の向こうにナリアがいる。そう考えただけで、緊張で喉がカラカラに乾いた。
侍女が扉をノックすると、中から返事が聞こえてきた。侍女がそっと扉を開け、促されるままに部屋の中へと足を踏み入れると、ソファの側に並んで立つ三人の姿が目に入った。
----ナリー!ナリーだ!
両親の後ろで控えめに立つ若い女の姿に、リベリオは釘付けになった。逸る気持ちを必死で抑え、クレトンが出迎えるのを待つ。ゆったりとした足取りに内心苛立ちを感じながら、クレトンのにこやかな挨拶に応えた。
「ようこそお出でくださいました、リベリオ・デガート殿。私はアマティスタ家当主のクレトン・アマティスタと申します。ささ、こちらへ。」
「リベリオ・デガートと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます。」
----いよいよだ。やっと…やっと、ナリーに会えた!
クレトンに連れられ、二人の元へと歩み寄る。エドラとナリアはドレスの裾を持ってお辞儀をし、目を伏せたまま静かに控えていた。
「リベリオ殿、紹介いたします。妻のエドラです。」
「初めまして、エドラ・アマティスタと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
「リベリオ・デガートと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。」
「それから、こちらが…」
----ナリー…?ナリーだよな?なんだか、雰囲気が…
リベリオはナリアを見て唖然とした。記憶にある女とはまるで別人のような女が目の前で佇んでいる。
「こちらが、娘のナリアです。」
「ナリア・アマティスタと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
ナリアは目を伏せたまま、ニコリともせずに無表情で挨拶をした。まるでリベリオとは初対面であるかのような態度に、リベリオは頭の中が真っ白になる。
言葉を出せないまま呆然と眺めていると、クレトンが訝しげに覗き込んできた。
「リベリオ殿?いかがなさいました?」
「え?あ、いや。リベリオ・デガートです。その…よろしく。」
リベリオが咄嗟にナリアに笑顔を向けると、促されるままにソファに座った。リベリオに対面するように、ナリアが座る。目を伏せたまま未だに表情を変えないナリアから目が離せなかった。
「では、リベリオ殿。早速ではございますが、本日のお話を進めていきたいと思いますが、よろしいでしょうか。」
クレトンの言葉にハッと我に返ると、リベリオは背後で控えている従者に視線を向け、書類を用意させた。従者から受け取り、クレトンに渡す。その間も視界の端にナリアを置いた。
クレトンが書類に目を通すと、しっかりと頷きエドラに渡した。
「求婚の請願書に持参金の明細、確かに拝見させて頂きました。リベリオ殿がいかに娘を望んで下さっているのかが十分に伝わる内容でした。」
「それは、前向きに捉えても良いということでしょうか。」
「もちろんですよ。なぁ、エドラ?」
エドラが書類の内容に目を走らせる。リベリオは悠然と構える姿勢で、内心固唾を飲んで見守っていた。この場合、実際には父親であるクレトンよりも、母親であるエドラに認めてもらう方が重要だ。
エドラは読み終えると、ニコリと微笑んでリベリオを見た。
「ええ、十分すぎるぐらいですわ。リベリオ様のご厚意に感謝いたします。」
「それは良かった。それでは…。」
リベリオがナリアに向き直る。クレトンとエドラもナリアに視線を移すと、ナリアは黙ったまま目を伏せていた。リベリオは心臓が爆発しそうになるのをなんとか堪えながら、静かに口を開いた。
「…ナリア嬢、いかがでしょうか。私と婚約を結んでいただけますか?」
リベリオの言葉にナリアがピクリと反応する。ゆっくりと視線を上げて、リベリオの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「…はい。私でよろしければ、よろしくお願いいたします。」
その何も映していないような瞳を向けられた瞬間、リベリオは今度こそ言葉を失った。