7
「君は…、あの時の少女か!」
ナリアの声に振り向いたリベリオの瞳が大きく見開かれている。吸い込まれそうな碧い瞳に見つめられ、ナリアはニコリと微笑んで胸の高鳴りを抑えた。
「お久しぶりです、リブ様。私の事を覚えておいででしょうか。」
「もちろんだ!庭で飛び跳ねてたナリーだろ?お前、随分雰囲気変わったな。あっちで話そうか。」
リベリオは周りをとり囲んでいた女たちに微笑みを向けて謝罪をすると、ナリアの手を取り人の少ない壁際へと移動した。ただ手を取られただけなのに、女性として扱われることにこそばゆさを感じる。
リベリオが自分を覚えていた事と、以前と変わらない笑顔を見て、ナリアは少し落ち着きを取り戻した。
「リブ様はおいくつになられたのですか?」
「俺か?24だ。…おい、まさかまた『私てっきり…』とか言い出すんじゃないだろうな。」
「まぁ!そんな事は…無い…かしら?」
「おい!なんだよその間は!」
久しぶりの再会と変わらない会話に笑いあっていると、リベリオがウェイターから葡萄酒を受け取った。慣れた手つきでナリアの前に差し出すと、ハッとした顔でグラスを引っ込めようとした。
----まだ私を子供扱いする気ね。お酒なら練習して少しぐらい飲めるようになったのよ!
「リブ様、ありがとうございます。いただきますわ。」
ナリアはリベリオの指に触れ、首を少し傾げてニコリと微笑んだ。角度は完璧だ。グラスに口を付け、チラとリベリオを見てから目を閉じて飲む。大胆に喉元を晒して、喉がゆっくりと動く程度の速さで流し込んだ。
----これでいいはず。…いいのよね?間違えてないわよね?
ナリアがチラとリベリオを見る。が、リベリオはそっぽを向いてグラスの酒を一気に呷っていた。
----全然見てない!!
ナリアがガックリと肩を落としていると、リベリオは振り向き懐かしそうな表情で壁に寄りかかった。
「そういえば、去年だったかな。街に旅芸人の一座が来たんだよ。お前と踊って以来だったから一度実際に見てみようと思って見物に行ったんだが、なかなか楽しかったな。お前も見に行ってたか?」
ナリアはドキッとして、一瞬言葉が詰まった。サフィと一緒に見に行った一座の演目。その踊りを見ている途中で、ナリアは美女と楽しそうに見物するリベリオを見つけていた。
ドクドクと鳴る胸の鼓動を悟られないようグラスに少し口を付けると、ニコリと微笑んだ。
「はい。同じものかどうかはわかりませんが、私も見物に行きましたよ。」
ナリアは頭の中に浮かぶ光景を消し去るように、ダンスについて話し始めた。水中を泳ぐ魚のような優雅な踊りを、うっとりとした顔で説明する。身振り手振りを交えて夢中で話し込んでるうちに、美女の事などすっかり頭から抜け出ていた。
----あぁ、やっぱり楽しいわ。こんな話ができるなんて、リブ様って本当に…あら?
ナリアがハタとリベリオを見ると、自分に向けられる熱い視線に心臓が跳ね上がった。先ほどまでの屈託のない笑顔ではない。真剣な眼差しでじっと見つめる男の瞳に、ナリアは身体中が縛られるような感覚に襲われた。
「リブ様?どうかなさいましたか?」
「いやっ、何でもない。」
リベリオが咄嗟に顔を背けると、ナリアは無意識に止めていた呼吸を再開させ、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。胸を打ち付ける鼓動に手が震える。リベリオの赤くなっている耳を見て、ナリアは期待に胸を膨らませた。
----これって、もしかして…。少しは女性として見てくれているのかしら…。
膨らんだ期待は、ナリアを無意識に、そして少しずつ大胆にさせていく。少しでも多く会話がしたくて饒舌になりだしたところで、突然リベリオが核心を突いてきた。
「今夜はどうして参加しようと思ったんだ?」
----来た!
瞬時に母エドラの言葉を思い返す。
----『もし、お会いしたら近々婚約する予定だと言いなさい。』
「私、先日婚約することが決まりまして。」
----ちょっと間違えたけど、言った!言っちゃった!
緊張でグラスを持つ手が震える。ナリアは恐る恐るリベリオを見上げると、呆然と自分を見下ろす瞳と目が合った。少しの沈黙の間見つめ合うと、リベリオはスッと視線を逸らし考え込むように口元に手を添えた。
----お、驚いた…。リブ様があんなお顔をなさるとは思わなかったわ。それにしても…
その整った横顔から目が離せない。凛々しい眉毛に伏せた目元。ゴツゴツとした大きな手。広い肩幅とがっしりとした腰回り。ナリアが口を開けたまま思わず見惚れていると、リベリオがパッと振り向き、咄嗟に俯いて顔を隠した。
----きゅ、急に振り向かないでよ!ジロジロ見てたの、気付かれてないわよね!?
ナリアが冷や汗を流しながら心臓をバクバクと鳴らしていると、リベリオの穏やかな声が耳を貫いた。
「お前の歳を考えたら、そういった話があってもおかしくはないだろう。」
リベリオの言葉に、ナリアの頭の奥で警鐘が鳴り響く。まるで気にも留めていないかのような優しい声音。ナリアは眩暈を覚えると同時に、再び母の言葉を思い出した。
----『正式に婚約する前に…もう一度貴方に会いたかったのです。』
ナリアはゴクリと唾を飲み込み、緊張で張り裂けそうな胸を必死で抑えた。抱いた期待が崩れさり、恐怖でだんだんと呼吸が浅くなる。息苦しさに肩を上下させ、グラスを持つ手をギュッと握り締めると、ナリアは大きく息を吸い込み真っ直ぐにリベリオを見上げた。
「ですから正式に婚約する前に、もう一度夜会に参加してみようと思ったのです。」
その瞬間、自分に向けられたリベリオの表情にナリアはハッとした。言葉を間違えたからではない。リベリオの優しい眼差しに、最初から希望など無かったのだという現実を突きつけられた。
「そうか。婚約おめでとう、ナリー。」
*
朝から雨が降り続いている。窓の小さな粒模様をぼんやりと眺めながら、ナリアは自室の椅子にもたれていた。
リベリオと再会した夜会から三日が経つ。どうやって帰ったのかすら覚えていないが、最後に見たリベリオの笑顔がナリアの胸を締め付けた。
----おめでとう、か…。
フフ、と笑いが込み上げる。初めての恋を自覚してすぐに失恋した自分の滑稽さが、ただただ可笑しくなった。
----それもそうよね。二年前に一瞬会っただけの子供を相手に、大人の男性が何を感じるっていうのよ。
「おめでとう」と言った後、すぐにリベリオはナリアの元から離れていった。その後ろ姿を呆然と眺めるしかなかった自分に今更ながら嫌気がさす。
----仕方ないじゃない。最初から叶わない恋だったのよ…。
両手で顔を覆い、ハァッと大きく溜息を吐く。持っていき場のない胸の痛みに息を震わせていると、扉をノックする音がした。返事をしてそちらを見やると、入ってきたのはエドラだった。
「ナリー、ちょっといいかしら。」
「お母様…。はい、どうぞ。」
ナリアが椅子を用意すると、エドラは連れていた侍女にお茶の用意をさせてゆったりと座った。お茶から立ちこめる花の香りが心地良い。侍女が焼き菓子を添えて部屋から出ると、エドラはナリアに向き直った。
「少しは落ち着いたかしら?」
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません…。」
エドラは小さく息を吐くと、カップに口を付けた。そして椅子にもたれてナリアを見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「お父様がね、あなたとキュリオさんの縁談を進めたいと仰っているの。まだお返事はしていないのだけれど、お断りするにしてもこのまま放置しておくわけにはいかないでしょう?」
「お母様…そのお話、進めていただけますか。」
「なんですって?」
ナリアの言葉にエドラは目を見開いた。目も合わさず、俯いたまま返事をするナリアの姿に、本心からの言葉ではない事は手に取るようにわかる。
エドラが声を出すより早く、ナリアが口を開いた。
「グラナード伯爵様のお申し出をお受けしようと思います。私もいつまでもこの家にいるわけには参りませんし、私がキュリオ様と結婚すればお父様のお仕事の為にも良いと…」
「あなた、それ本気で言っているの?リブ様のことはどうするのよ。諦めるつもりなの?」
エドラの鋭い眼差しに、ナリアは言葉を詰まらせた。どうするもこうするも、最初から希望は無かった。その揺るぎない現実が、ナリアの心を沈めていく。
そんな自分の気持ちに蓋をするように、ナリアは努めて明るく振る舞った。
「諦めるもなにも、婚約すると言ったら面と向かって『おめでとう』と言われてしまいました。最初から、私が一人で浮かれていただけなのです。リブ様は大人ですもの。もっと素敵な女性がお似合いだと思います。」
----あの時の女性の様に…。
不意に、街で見かけた女を思い出す。見目麗しいリベリオの傍にいても見劣りしない程の美女。胸の痛みを紛らわせるようにお茶を啜ると、水面にポタポタと水滴が落ちていることに気が付いた。
「ナリー、あなた…。」
「う…うぅっく…。グスッ…。」
エドラは立ち上がると、そっとナリアを抱き締めた。
*
ドレリア暦1574年、十二の月。
白い息がふわりと舞い、冷たい空気に鼻の奥がツンと痺れ始めた頃。
王宮の騎士棟にある着替え室は、屈強な体躯をした男たちで込み合っていた。訓練場には、第五騎士団の旗が立て掛けられている。訓練服に着替えた男たちと入れ替わるようにして着替え室へと入ったリベリオは、机仕事を終えたばかりの固まった身体をグッと左右に捻った。
----さて、と。今日はいつもより打ち合いを増やすか。
着替えを済ませ、自分用に作らせた訓練用の剣を握り締める。手にしっかりと馴染むそれは、実際に振る剣とほぼ同じ重さのものだった。
リベリオが騎士棟の門を出て訓練場へ向かっていると、反対側から歩いて来る男の姿が目に入った。突然地に足が貼り付いたかのようにピタリと足を止め、その見覚えのある顔を凝視する。
リベリオは基本的に相手の顔、特に男の顔など覚えることはないが、その男だけはそうはならなかった。実際に見かけたのは過去に一度だけだったが、今では鮮明に記憶に残る唯一の男になっている。
----あれは…キュリオ・グラナードか!!
連れ立っている男と真剣な顔で話しながら歩いて来るキュリオの姿に、俯くナリアの影が映る。頭の奥で何かが弾けるとともに、リベリオの全身の血が沸き立った。
----あの野郎ォ!!
忘れようと決心したのは十の月だった。それ以来、長い時間を費やし必死で蓋をした憤怒の炎が瞬く間に再燃する。気が付けば大股に詰め寄り、二人の行く手を阻むように立ちはだかっていた。
「あの…何か私にご用でしょうか?」
剣を握り締め、鬼のような形相で自分を見据える男に、キュリオは恐る恐る声をかけた。男が見ても見惚れてしまうような長身の美丈夫が、何も言わずにただじっと自分を見下ろして顔を歪めている。
隣にいた男の「知り合いか?」という囁き声にリベリオはハッと我に返ると、奥歯を噛み締めてにこやかに微笑んだ。
「これは失礼。キュリオ・グラナード殿ですね。私は王宮第五騎士団の副団長を務めております、リベリオ・デガートと申します。」
「リベリオ・デガート殿?あぁ、貴方が!」
キュリオの反応に、リベリオは心の中で舌打ちをした。ナリアからすでに自分の話を聞いていたのかと思うと、たったそれだけで腸が煮えくり返る。
キュリオの差し出す手を振り払う衝動をなんとか飲み込むと、努めて上品に振る舞った。
「私をご存知なのですか?グラナード侯爵家のご子息にそう言っていただけるとは光栄ですね。」
「いえいえ、私など父に比べるとまだまだ未熟者で。実は、貴殿の事を知ったのは妻からなのです。夜会ではいつも女性の憧れの的なのだとか。確かにこうして実際にお会いしてみると、妻が言っていた事も頷けます。」
----アイツ、何ペラペラ喋ってんだよ…。
『妻』という言葉にリベリオは鳩尾が抉られるような不快な感覚がした。次にその言葉を聞いたら、うっかり殴り飛ばす自信がある。リベリオは剣の柄をギュッと握り締めると、貼り付けた笑顔が剥がれないよう慎重に言葉を選んだ。
「そうですか、奥方様が…。ところで、奥方様はお元気でしょうか。」
「おや?うちの妻と…」
リベリオがカッと目を見開き一歩踏み出した瞬間、キュリオの言葉がリベリオの耳を貫いた。
「リーシャとお知り合いですか?」