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ナリアとサフィが孤児院から屋敷へ戻る頃には、すでに陽が落ち始めていた。
「お帰りなさいませ、ナリアお嬢様。旦那様より、戻り次第執務室へ来るように、と言付けられております。」
玄関の前で馬車から降りたところで、出迎えた侍女が伝えに来た。ナリアはサフィと別れてクレトンの執務室へと向かう。ノックをして中へ入ると、エドラがソファに座り浮かない顔でナリアを見つめていた。
「お父様、お母様、ただいま戻りました。お父様、私をお呼びでしたでしょうか。」
「あぁ、ナリー。待っていたよ。さ、そこに座りなさい。」
クレトンの弾むような声に首を傾げつつソファに座ると、クレトンがエドラの隣に座った。なぜか満面の笑みを湛えている。
「あの、どうなさいましたか…?」
「実は、今日グラナード伯爵様がこちらに来られたのだ。二年程前から仕事でご懇意にさせていただいているのだが…まぁその辺りは良いとして。」
クレトンは身を乗り出して、ニコッと笑った。隣ではエドラが目を伏せている。ナリアは嫌な予感がした。
「伯爵様が、ナリーを『グラナード家の長男の嫁に』と仰って下さったのだ!」
クレトンが飛び上がらんばかりに喜ぶ傍らで、エドラは目を閉じ大きく溜息を吐いた。ナリアは何を言われたのか理解ができないまま、正反対の反応を示す両親の顔を交互に見る。
「今日、こちらにいらっしゃる直前にナリーを孤児院で見かけられたそうなんだ。ナリーが子供たちと遊んでいる姿を見て、心を打たれたそうでね。」
「ちょっとお待ち下さいお父様。」
興奮する父親を何とか宥めようと、ナリアは両手を前に出した。出してみたはいいが、どうして良いのか分からない。分からないが、おかしな事になっているのは分かる。
「あの…どうして急にそのようなお話になるのですか?私はグラナード伯爵様とは一度しか、それもほんの一瞬しかお会いした事がないのですよ?」
「それが私にもわからないのだ。これまでナリーの事を聞かれた事も話した事も一度も無いのに、突然婚約のお話をいただいたものだからな。私としても、何が何だか…。」
全くもって分からない、といった顔で肩を竦めている。ふぅ、と息を吐くと、再びパッと顔を上げて身を乗り出した。
「どちらにせよ、グラナード伯爵様のご長男であれば、こちらとしては大変ありがたいお話だと思っている。ただ、ナリーがどう思うかを先に聞いておこうと思ってね。」
「お断りいたします。」
「相変わらず、断る時はハッキリ言うなぁ。」
クレトンがエドラの方をチラと見る。ふと、自身の過去に思い至り、ナリアに向き直った。
「ナリーには、気になる人でもいるのかい?」
「はい?いえ、そういった方はおりませんが…。」
「ふむ。まぁ急にこのような話をされて、混乱する気持ちもわかる。この話はまた後日ゆっくりしよう。」
ナリアがノロノロと立ち上がり、部屋を出ようとしたところでエドラが呼び止めた。ナリアが振り向くと、先ほどまでの険しい顔から一変して微笑みを浮かべている。
「夕食の後、私の部屋においでなさい。」
「はい、わかりました。」
ナリーは静かに扉を閉めた。
*
テーブルに置かれた灯りが、椅子に座る二人の顔を照らしている。ゆらゆらと揺れる小さな火を見つめながら、エドラは頬杖をついて溜息を零した。
「まさかこのタイミングで婚約の話が出るとは思わなかったわね。」
「なぜ私なのでしょう…。グラナード伯爵様のご子息でしたら、花嫁候補はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。」
ナリアが俯いて手をギュッと握る。それを横目に、エドラは声を落とした。
「…実はね、私とグラナード伯爵様は…ルミゴン様は、昔からの知り合いなのよ。」
「え、お二人がですか!?まさか…そういう…?」
「そんなわけがないでしょう。私の心は昔も今もこれからも、クレトンのものよ!」
エドラはフンッと胸を張った。ナリアの方でも「そうだろうな」という顔をする。両親の互いへの熱愛ぶりは、物心つく頃には当たり前の光景になっていた。
エドラの実家は広大な領地を所有する旧家エスタリカ侯爵家であり、エドラはその家の次女だった。
18歳の頃に参加した夜会でクレトンに一目惚れして以来猛アタックを開始するのだが、真面目で穏やかなクレトンにはなかなか通じない。さらには侯爵家の令嬢が子爵家の子息との結婚など、と周りは猛反対したが、エドラは一切聞かなかった。
一方で、態度には出さないが、クレトン自身にも自分の家の方が爵位が下だという『男のプライド』が邪魔をした。結局、エドラの熱烈なアプローチは1年余りにも及び、クレトンも周りの者たちも彼女の情熱の前に溶けてしまった。
「あれは確か私がまだ17歳の頃だったわ。ルミゴン様がまだ爵位を授かる前の事よ。」
エドラが静かに話し始める。
「当時、私は父の領内にある救護院で、病人や怪我人の看護のお手伝いや、そこで働いている人たちの子供たちのお世話をしていたの。」
「まぁ!そうだったのですか。」
「ふふ、そうよ。そして今のナリーのように、子供たちに歌や踊りを教えていたの。」
「えぇっ、お母様が!?」
「あら、意外だったかしら?私も相当なお転婆だったのよ。」
ウフフ、と笑うエドラの顔をまじまじと見る。穏やかでおっとりとした普段の母からは、活発に跳び回る姿など想像できない。ナリアが思わず吹き出すと、二人でクスクスと笑いあった。
「ある雨の日だったわ。救護院のお手伝いをしていた時に、急患が運ばれてきたの。馬がぬかるみに足を滑らせてバランスを崩し、崖のような場所の下に落ちてしまったらしくてね。幸い崖自体は馬の背程の高さだったのだけれど、落ちた所が悪かったのか左腕を裂いてしまったのよ。」
痛い話にナリアの背筋がゾワリとした。思わず顔をキュッと顰める。
「それがルミゴン様だったの。護衛の方に担がれて飛び込んできた時は本当に驚いたわ。左腕全体が血だらけになっていて、顔が真っ青だった。急いで治療室に運んだのだけど、その日は偶然人手が足りなくてね。私も治療室に入って、お手伝いしたのよ。」
「大きな怪我をしたのは腕だけだったのだけれど、馬から落ちた時に全身を打っていたからしばらく入院していたの。それで、度々会って話をするうちに親しくなったのよ。」
「そうだったのですか。」
ナリアが母とグラナード伯爵の意外な繋がりに目を丸くしていると、エドラは続けた。
「ルミゴン様のご実家の領地は、王都から随分離れた田舎だと仰っていたわ。自然は豊かなのだけれど、作物がうまく育たず民はいつも苦しい生活をしていたそうなの。そこで、育たないのには何か原因があるのではないかと考えた彼は、その原因を探りつつ各地を訪問して、他所ではどのように生産性を上げているのかを視察してらしたそうなのよ。」
「では、グラナード伯爵様はお母様のご実家であるエスタリカ侯爵領をご訪問中に…。」
「そういうこと。父の領地は古くから試行錯誤を重ねて良質な資源を確保していたから、それを学びに来たと仰っていたわ。怪我をされたのは、父の屋敷に向かう途中だったの。後日、彼が我が家を訪れた時に私が応対に出たら、口をパクパクさせて驚いていたわ。私は『エドラ』としか名乗っていなかったから。」
エドラがクスクスと笑うと、ナリアも笑いだした。あの厳めしい顔つきのルミゴンがどのような顔だったのか、想像するだけで可笑しい。二人はカップに口を付けると、エドラはふぅ、と息を吐いた。
「二年前にルミゴン様がお父様に商談をしに来られたのは、あの時の恩返しだと仰っていたわ。父はかなり保守的な人で、よそ者はまず相手にしないような人なの。だから私が間に立ってルミゴン様を父に紹介したのよ。その時に土壌の改良や気候の利用の仕方、資源の有効活用方法、それから有能な専門家も紹介してね。彼は爵位と財産を受け継いだ後、自領の立て直しに乗り出したのよ。」
ナリアは初めてルミゴンと出会った日のことを思い返した。
----そうか、あの日グラナード伯爵様がわざわざ子爵家まで来られた理由は、相手がお母様の夫だからだったのね。
その時、ナリアはふと気になった。なぜそれが、今回の縁談と関係があるのか。
「お二人が旧知の仲だったのはわかりましたが、私を嫁にと言うのは…?」
「さっき、お父様が『ナリーが子供たちと遊んでいる姿を見て』と仰っていたでしょう?」
「はい、そういえばそんな事を。」
エドラは椅子にもたれかかり、手を組んだ。
「きっと、当時の私を重ねたのかもしれないわね。ルミゴン様は入院中、よくお庭にいらしたの。そこで私が子供たちに歌や踊りを教えているのをよく眺めてらしてね。腕の包帯を取った日には『お祝いだ』と言って、子供たちの輪の中に入ってきて。私が彼に踊りを教えていたのよ。」
「まぁ!そんな事があったのですね。で、それが何の関係が…。」
ナリアはハッとして口を噤んだ。頭に浮かんだことに、妙な冷や汗が流れる。チラとエドラの顔を見ると確信に変わった。
「翌年、ルミゴン様に求婚されたのよ。でも、その頃にはすでに私の心の中にはクレトンがいたから、お断りしたの。その後は社交界で人伝に彼の活躍を耳にするようになったのだけれど、二年前に再会するまではお会いした事はなかったわ。」
「えーと…それでは、この急な縁談のお話は…。」
「ナリーは私の若い頃にそっくりだから、『妻』には無理でも『娘』には欲しかったのかもしれないわね。」
ナリアは唖然としてエドラを見つめた。割と高慢な事を堂々と言ってのける母の姿にもだが、息子の為ではなく、伯爵の為の縁談だったことに開いた口が塞がらない。ただの憶測で決めつけるのは良くないと分かってはいても、沸々と込み上げる怒りは止められなかった。
「冗談ではありません。そんなご自分勝手な妄想にご子息の将来を巻き込むなんて、何をお考えなのかしら!それに、私にはリ…」
リブ様が、と言いかけてナリアが頬を染めて俯くと、エドラはフフ、と笑った。
「ねぇ、ナリー。もうすぐ夜会シーズンが始まるわよね。きっとリブ様もいらっしゃると思うのよ。」
ナリアは母の口から出た『リブ様』という言葉にピクリと反応すると、小さく頷いた。
「もし彼にお会いしたら、近々婚約する予定だと言いなさい。」
「はい!?お母様、私は…!」
「いいから、最後までお聞きなさい。あなたは今や立派なレディーよ。二年前とは比べ物にならない程にね。その時、もし彼があなたと二人きりでお話しをしようとしたら、一歩前進よ。周りに人がいても、とにかく会話の時は二人になるの。わかるわね?」
ナリアがエドラの目を見つめて小さく頷く。
「そして、彼の瞳を真っ直ぐに見つめてこう言うのよ。」
エドラがナリアの瞳をじっと見つめて切ない表情を作る。ナリアは一瞬も見逃さないよう、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「正式に婚約する前に…もう一度貴方に会いたかったのです。」
*
五の月。
ナリアは夜会会場へと向かう馬車に揺られながら、早鐘を打ち続ける心臓を持て余していた。正直、度を越した緊張のせいで胃に圧迫を感じ、すでに帰りたくなっている。それでも深呼吸を繰り返し、なんとか自分を奮い立たせた。
----今夜、二年ぶりにリブ様に会えるかもしれない。私の事、覚えていてくれているかしら…。
停車所に着き、同行したサフィが先に降りてナリアの手を取る。ゆっくりと降りて顔を上げると、すでに大勢の来賓者がエントランスホールへと向かっていた。その流れに紛れるように歩きながら、ナリアはキョロキョロと周りを見渡した。探し人の姿が見当たらず、次第に不安が募る。
----リブ様はまだ来られていないのかしら。それとももう会場にいらっしゃるのかしら。
サフィに連れられて会場に足を踏み入れた途端、ナリアの足が震えだした。頭の中が真っ白になり、二年前の記憶が蘇る。
誰にも話しかけられず、勇気を出して話しかけても見向きもされない。自分に向けられるのは、見知らぬよそ者を見る冷たい視線。
ナリアは視線を彷徨わせて庭へと続く出入り口を見つけると、壁際に身を寄せ逃げるように足早に向かった。
「ナリアお嬢様、どうなさいました?そちらはお庭で…」
サフィはナリアに追いつくと、肩に手を添えて顔を覗き込んだ。ナリアの肩が上下に揺れ、顔を顰めて唇を固く結んでいる。サフィが思わず言葉を失うと、会場の入り口の方から騒めきが聞こえてきた。
「ご覧になって!リベリオ様がいらっしゃったわよ!」
「本当だわ!早くお話ししに行かなくちゃ!」
側で囁き合う女たちの視線の先を目で追うと、会場の中へ颯爽と歩く一人の男が目に入った。ライトブラウンの髪をかき上げるように整えてふわりと微笑みを浮かべれば、あっという間に多くの女に囲まれていた。
----リブ様!リブ様だわ!本当にまたお会いできるなんて…って、ちょっと!囲まれすぎじゃない!?
ナリアが首を伸ばしてゆらゆらと揺れながら見えるポイントを探すが、すでににこやかに微笑むリベリオの頭しか見えなくなっている。これでもかと伸ばしたふくらはぎが悲鳴を上げだし、ナリアはガックリと肩を落とした。
----どうしよう…。声かけてもいいのかな…。でもせっかく楽しくお話しをされているのに、お邪魔したら申し訳ないし…。私なんかより、綺麗な女の人といる方が…。
ナリアが無意識に俯いたその時、ミネラの言葉が脳裏をよぎった。
----『もっと欲しいものは欲しいって言わないと、伝わらないわよ?』
----『もっと自信を持たなくちゃ。下ばかり見てる女に惚れる男なんかいないわ。』
唇をキュッと引き締め、顔を上げる。母エドラによって叩き込まれた『レディー修業』を頭の中でフル再生させ、胸を張ってゆっくりと近付いた。
「あの…、リベリオ・デガート様。」
振り向いたリベリオの表情に、ナリアは胸を高鳴らせた。