きずのなか
あの子は常日頃から、リストバンドをしていました。左手首から肘下にかけて、やたらと長いものです。まあ、大して珍しがることでも無いだろうと思っていました。
不自然に感じたのは、あの子と体を重ねるようになってからです。服を脱ごうと下着を脱ごうと、あの子はとうとうバンドを外すことはありませんでした。
恥部を晒そうとも、左手首だけは晒したくないということです。僕は察しました。あの子は左手首に傷があるのだろうなと。あの子自身で付ける傷です。
例え恋人どうしであろうとも、むやみに心へ侵入するのは、僕にとってクールなことではありません。あの子にリストバンドのことを聞いたり、それを外そうとしたりはしませんでした。
あるとき肌を重ねたあと、あの子は訳もなく僕の首筋を触りながら、聞きました。
「ねえ、リストカットする女の子ってどう思う?」
あの子だけのことを聞いているのか、それとも自傷行為自体のことを聞いているのか、少し考えました。しかし、どう思うと言われても僕にとって傷も行為も見えないそれは、あまりにも抽象的でした。
「できれば、やめてほしいかな」
「気持ち悪いとか思わない?」
あの子の聞きたいことが、なんとなく分かりました。
「君のことをそんな風に思うわけない」
「やっぱりバレてた?」
「なんとなくね。心配はしてた」
「なんかね、しちゃうんだよね。メンヘラっぽくて嫌だよね? 嫌いにならないで」
あの子はそう言って、僕の胸に頭を乗せてきました。僕はあの子の頭を撫でながら考えました。
あの子はなぜ、自分で自分を傷つける必要があるのでしょうか。ない。
けれども、心療内科のお医者に「お酒はやめなさい」と言われても毎日飲み続ける僕が、誰かに対して「やめろ」などと言う権利があるのでしょうか。それほどの面の厚さは、持ち合わせておりませんでした。
あの子と僕がしている事は、似ている様に感じました。あの子は手首を痛めつけ、僕は肝臓を痛めつけているのです。肉体の外部か内部か、それだけの違いに思えました。
「嫌いにならないよ」
と言うと、あの子は僕の腕を枕にして、安心したのでしょうか、もっと話し始めました。
「あのね、前に首吊り縄買ったの」
「ふうん、でも使ってはないんだ」
バカみたいな返事をしました。あの子が縄を使っていたら今ごろこの世にいないのだから、当たり前です。
「うん。でね、この前引っ越したときに捨てたの。もったいないことしたなあ」
「捨てて正解だよ」
「でも結構高かったのよ」
「そうなのか。でもね、普通の縄買って自分でくくるわけにもいけないしね。中途半端に苦しいところでほどけて、自殺失敗とかになったら一番嫌だし」
「それそれ、分かる。でも結局捨てちゃったから、無駄な買い物だった」
「無駄とまでは言わなくていいんじゃない」
「捨てて正解って言ったのに?」
「『いつでも死ねる』って思うことで楽になることもある」
僕もときどき、死のうと思うときがありました。けれど、恋人や家族に話すのは気が引けて、口を結んできたのです。その日はなぜか、糸をほどきたい気分でした。
「俺もあるよ」
「え、そらくんが?」
「うん。だから一緒」
「そっか、そらくんみたいな人でも思うことあるのね。生きてた方が良い人なのに」
では、あの子は自分のことを、死んでいた方が良い人だと考えているのでしょうか。ちらとそう思いました。
「ちょっと考えてみたけど、大概の人は人生で何度か思うんじゃないかな」
「どうやって?」
「どうやって死のうとしたかってこと?」
あの子は虚空を見ながら頷きました。
「海でね。その日会社に行けずに、そのまま海に行って、入ってった」
「海かあ。いいね、綺麗そう」
「いいや、おすすめはしないや。怖かったし。もう一回するとしても海はなしかな。
スーツのまま入ってさ」
「えースーツのまま? もったいない!」
「もったいないも何も、俺としてはその日死ぬつもりだったからね。二度と使わないんだから、もう関係ないだろ」
「そっか、ごめん」
「まあ結局無理だったけどね」
あの子はまた僕に寄り添って、
「病んでるの私だけじゃなくて安心した」
と言いました。
「違うよ、君も俺も病んでない」
「え?」
「世の中が病んでる」
あの子が「続きは?」という代わりに、目を見つめてきました。丸くて大きい目です。こんなに可愛らしい目をしていても、本人は「鏡を見ると自分のブサイクさに絶望する」と、しょっちゅう言っていました。
「サラリーマンなんか見てみろ。毎日会っているけどさ、あいつら全員頭おかしいよ。大事でも急ぐべきでもないことを、たいそうなことをしてるみたいな顔してさ。忙しい忙しいって。喜劇だね。
『今自分がやっていることは世の中に必要なことなんだ、凄く大切なことに違いないんだ』って自己暗示しながら働いているのさ。実際は時間とお金を交換しているだけなのにね。
とっくに頭のネジが外れちゃってるんだ。常識人のフリしてる。常識人ごっこだ」
「そらくんもサラリーマンでしょ?」
「社会的な立ち位置はね。でもあそこまで間抜けになれないよ。だから酒とクスリを飲んでないとやってられないんだ」
「常識人ごっこは無理?」
あの子は微笑みながら聞いてきました。
「無理無理。君も無理だろう」
「じゃあ私らがしてるのは何ごっこ?」
いたずらっぽい質問でした。別に、微笑んで流すこともできたでしょうが、僕にはそれが、考えられずにはいられませんでした。
あの子は首を吊ろうと思って、手首から血を流して。僕は海に沈んで残念ながら浮かんできて、クスリを飲んで酒を浴びて。
ああ、死んでいる。死んではいないけれど、生きている中でできる限りそちら側へ近付きたがっている。まさしく、ごっこ遊びのように思えたのです。
「死体……死体ごっこ?」
「なにそれ」
あの子は「ふふふ」と笑って、枕に顔を埋めました。そのあと顔を半分だけ出して
「なんとなく分かる」
と言ってまた小さく笑いました。
それきり、しばらく笑い合ったりはしたけれど、会話は途切れて、じゃれあっていました。頬にキスをしたり、あの子の胸に顔を埋めたりして。僕らはたぶん、こういう時間が好きでした。
なんとなく、シーツの上に伸びているあの子の左腕に触りました。手首にはバンドが巻かれています。上から触ると、少し凸凹している感覚が伝わりました。裂かれた傷のかさぶたが、この凸凹をつくっているのです。
僕は言いました。
「痛いね」
「ううん。もう塞がってるから痛くない」
「凄く痛いよ」
手首を優しく撫でながら、僕はそう言いました。
あの子は僕の目を見て、つつと涙を垂らします。高い鼻を伝って、落ちていく雫。
そのとき僕らは、こんなに死に損ねた二人なのに、どうしようもなく生きていたのです。
「きずのなか」完