三歩進んでピンチです
お久しブリーフ。
2.三歩進んでピンチです
どれだけ大きく叫んだところで、結局何も変わらない。それは認める。
…でも…もし運命の女神サマってのがいるんなら……。しょっぱなから事態を悪化させるのは…止めてほしい…。
「……」
森は一見、すごーく平和だった。
ピピピ、と頭上のどこかで小鳥がさえずってて、風が木々の梢を揺らしてる。
様々な生き物の気配が、重なっては消えていく。
「………………」
その中で、あたしの喉がコクリ、と唾を飲み込んで上下に震えた。
グルルル……。
前方に乱立する木々。
その向こうから聞こえてくるのはイヤな感じの重低音。……それから…認めたくない獣の気配…。
例えば、林の向こうにヒグマがいて、その姿がチラ見えしてる……って想像したら、今のあたしの気持ちがちょっと分かると思う。
(う……。足が、身体が、動かない……)
もし、一歩でも前に進んでしまったら…多分「あいつ」は飛び出してくる。
一声聞いただけで確信できる大型獣特有の唸りは、まるで嵐の前の静けさ。
緊張感が肌にビンビンくる。目の前の木立から、視線を離せない。
(そうだった……ここはこういう世界だった。危険が、それも命に関わる危険が、そこいらにゴロゴロしてる場所……)
危機感がゆっくり、ゆっくりと戻って来る。
もしあたしの迂闊な行動や危機感を取り戻すまでの時間の長さを「ちょw遅過ぎっしょw」って誰かが言ったとしたら、その意見を一応は受け付けよう。
……でもこの異世界から弾き出されて、もう十五年も経ってる。赤ん坊が中学校を卒業するぐらいの時間が過ぎてる。
挙げ句、無理矢理再召喚されて、まだたったの十五分ちょっと。
そりゃ危機感を忘れてたってしょーがないでしょ!?そう思うでしょ!?
急に図書館から森の中に連れて来られて、滅茶苦茶ショックだったのを何とか立て直して……「仕方ないから取りあえず移動しよう」と歩き出した途端に、大型獣の唸り声がお出迎えしてくるとか……。
(早い、危険がやって来るのが早過ぎる…!)
怒りに浸る時間さえくれない訳!?
『グゥルル……』
「うわ、」
獣の鳴き声と共にぶわり、と生臭い風が吹き付ける。長い事嗅いでいなかった肉食獣の強烈な臭いに思わず顔がギュッと強張った。鉄臭い…血に塗れた、しかも多分、食べたばっかりの「お肉」の臭い。
ガサリ…と下草を踏みしめる不穏な音が聞こえた。
静かに視線を動かすと、食事をしに来た「ヒグマちゃん」の姿が数メートル先にあった。
(…クマっていうか、猫っぽい。大型の肉食獣…)
縞模様の入ったボディはトラに似ている。でもカラーリングは黄色い毛皮に黒、じゃなくて、鮮やかな朱色に深緑のクリスマスカラー……。なんて禍々しいクリスマスカラーなの。
それにトラを二回り大きくしたこのサイズ…四メートルはあるんじゃないかしら。
耳まで裂けた口からは上下二対の大きな黒い牙が黒曜石みたいな輝きを放ってる。
実際……サーベルタイガーの牙より大きな、硬そうな、鋭そうなそれは、ナマクラ剣ならへし折るぐらいの強度を持ってたハズ。
駆け出しの冒険者が無謀に突っ込んで行って剣を折られ、そのまま……という『事故』はよくあったものね。
(確か、牙と体格以外は普通の大型肉食獣とそんなに変わんないからって油断するのよね…。……ああ、段々思い出してきた)
この禍々しいクリスマスタイガーの種族名は『デンス』。
初級の冒険者向けモンスター。
出現地方によって強さにバラツキがあり、アンブルムデンスやクラッスムデンスみたいに幾つかの進化した個体も存在してる。
ノーマル種のデンスであれば牙以外の……爪や身体能力は、通常の大型肉食獣、つまり熊だのライオンとか……と対して変わらない。
だから冒険始めたばかりの若い子が、牙だけ気を付ければ楽勝っしょ!と突撃してしまうのだ。
(そもそもピルツの森は、とりあえず初級者向けエリアだもんね……ロープレ的に言えば『始まりの村』から出て直ぐの場所、って感じで)
ずしり、とデンスが一歩を踏み出した。体格に見合った重々しい一歩……ぐん、とこっちと距離が詰まる。
背中に嫌な汗が滲む。ああ、目の前のモンスターの圧倒的な存在感……。
異世界に飛ばされてパニックになる!っていうのは、十五年前に経験済みだけど……それでもモンスターと対峙する時の恐ろしさは、今も昔も大して変わらないかも……。
だってほら、幾ら初級者向け低難易度の敵っていっても、目の前に立ちはだかる大きな獣はやっぱり怖いでしょ。牙とか爪とか、鋭いし。
しかもついさっきもお食事してたから、口臭いし。血肉の臭い酷いし!よく見ると牙がぬるぬる光ってるし!あれ絶対血だよ!
こっちは武具ナシ防具ナシ、装備一切ナシ、ブランクあり。
過去に異世界召喚された時の能力は残ってるっぽいけど、試したのはさっきの『炎舞』一回きり。
(コントロール出来るかしら……いや、そもそも確実に発動出来る…?)
口元が恐怖でヒクつく。
久しぶりに運動すると、昔出来てた事が出来なくなってたりとか、するじゃない。加齢……のせいだとは思いたくないけど。
(魔法のコントロールを失敗するのはイヤ……でもそれ以前に発動に失敗したら喰われる……死ぬ……)
ずし……ずし……と嫌な音が近付いてくる。血の匂いが濃くなってくる。身体が強張る。
デンスの目と、視線が合った。
赤い瞳の中に黒い瞳孔がギラギラと歪に光っていた。その目が、きゅう…と厭らしげに細まる。獲物の弱さに悦んでいるんだ……モンスターは世界に害を与えるためだけに産み出された存在だから。
僅かにデンスが身を沈め、あたしはハッと目を見開いた。これは猫科の動物が飛び掛かる前に行うタメ動作だ!
デンスが地を蹴り飛び掛かってくるのとあたしが息を吸ったのはほぼ同時だった。
四メートルはある巨体が一直線に向かってくる――ほとんど反射的に、叫んでいた。
「炎舞!」
途端に周囲の空気が前方へ向かって引き絞られた。大気の中にある魔力が無理矢理掻き集められて、あたしの叫びに応えるように炎の魔法と成る。
ノーイメージで、タメも集中も何もない咄嗟の攻撃だったから、そんなに威力は無いけれど――あたしの手前の空間から生み出された炎はあっという間に丸太のような太さの大蛇に成長し、恐ろしい勢いで飛び出していく。
大蛇はデンスと正面切ってぶつかり……左半身を食い千切った。
爽やかな森の中に微かに嫌な臭いが漂った。肉の焼けるそれに、嫌悪感で口元がへの字に歪みそうになる。
「駆け上れ!」
そう言いながら右腕を振り上げると、デンスの身体を焼き切ってなお進んでいく炎の蛇は進行方向を変え樹上へと飛び上がり、森の緑を突き破った。
ひらひらと木の葉が落ちて来る、その遥か上空で炎舞が掻き消えたのを感じて、右腕を胸元に引き寄せ、ほっと息を吐く。
とりあえずは、死なないで済んだ。
「…………」
目の前には半身のみになってしまったデンスが横たわっている。
何が起きたかも分からずに、ただ、苦しそうな呼吸をして死を待っている。
モンスターは生命力が強いから、半分になっても直ぐには死なない……でも、半分になってしまったから、生きてはいられない。もがいて、もがいて……力尽きるまで、苦しむ。
炎で削り取ったから、血はほとんど出てない。でも火傷が酷い……ああ、焼け焦げた身体から内臓らしきものがはみ出てる。
肉の焼ける臭いに、罪悪感と拒否感と嫌悪感と……それから、あらゆる嫌なキモチが刺激される。
「……」
あたしの吐いた息に苦々しいモノが混じる。
デンスの目には苦しさと憎しみと恐怖が浮かんでいた。
(そうだよね、死にたくないよね、怖いよね)
あたしも怖い。死にたくない。
「でもね、なるべく……殺したくもないの」
デンスの傍にしゃがみこんで、そう囁いた。
申し訳なさで一杯だったけど、それでもトドメを刺す気はなかった。
「……あんたが食べようとしたんだから…………あんたが悪いのよ」
ヒュー、ヒュー……と弱い呼吸が続いている。でも止まるまではきっと時間が掛かる。その間、ずっとこいつは苦しむんだ。
「……」
心苦しいけど、あたしはゆっくり立ち上がり瀕死のデンスに背を向けた。
こいつが死ぬところは見たくないから、少しでも遠くに行こう。そして少しでも早く安全な所に行こう。
やらなくちゃいけない事もある……魔法の制御を一刻も早く思い出さないと。コントロール出来ると確信が持てるまでは、危険な場所には行けない。
「……また、誰かを殺しかねないからね」
そう呟いた時、シュルシュルシュルッと鋭い音が聞こえた。それから「グエッ」という呻き声も。
「……?」
振り返ると、デンスの残った半身に何本ものツタが絡み付いていた。いや、締め付けてるといってもいい。
紫色した禍々しいツタには大きなトゲがブツブツと生えていて、それがデンスの毛皮を突き抜けて……多分、皮膚にまで刺さってる。
デンスは……ピクリとも動かない。
「何、これ…」
「毒蔓よ。獲物に一刺しすれば、毒が回って麻痺が起き、呼吸も出来なくなる。……コイツは死にかけてたから、ショックを起こしたのね」
急に、頭上から声が降って来た。だけど仰ぎ見ても、こんもりと茂った葉と幾つも伸びた太い枝のせいでどこから見下ろしてるのか分からない。
「誰…?」
枝葉を見上げながら見当を付けて声を掛けると「そっちじゃないわ、こっちよ」と、またしても……今度はちょっと小ばかにしたように…………し、仕方ないじゃない。森なんて久しぶりに来たんだから。
(それにしても、この声…)
滑らかな低音で、耳に心地良い響き。ベルベットのような…ってこういう声の事を言うのかしら。子守歌でも寝物語でも何でも来いって感じだわ。聞かされた方は三秒で安眠できそうな音色は、どこからどう聞いても美声ね。
(でも…)
「ねえ、あたしこの森で迷っちゃったの!良ければ助けてくれない!?」
あたしがそう叫ぶと、少し間があって「何で迷ってるのよ」と返事がきた。
「……ええと」
どうしよう、そこは答えを考えてなかった……正直に言う?『昔召喚された聖女枠の異世界人なんですけど、何だか再召喚されちゃって~』……って。
正直に言って大丈夫な状況なんだろうか。
「ま、いいわ。アタシも丁度聞きたい事があったのよ」
十時の方向で木の葉が揺れて、人影が飛び降りて来た。その着地点から逆回しするように目線を持ち上げていくと、遥か高い場所に太い枝が伸びていた。……あんな高いとこからジャンプして、無傷で着地したのか。
(人間じゃないな……魔物か、もしくはキノコの精霊ってとこかしら…)
ピルツの森はキノコの森。様々な種類のキノコが生い茂ってる。
そこそこ昔からある森だから、年月を経たキノコが結構精霊になってたりするのよね。あたしも以前精霊と会った事があるし…。
なーんて事をつらつら考えてたら、人影が近寄ってきた。
ざくざくと森の下草を踏みしめて近寄って来る……ん?
(で、でかい……)
あたしより頭一つぶんぐらい大きい。180はあるんじゃない?
長い手足とメリハリの効いたボディをぴったりとした青紫のコートで包んでる。
つややかな薄紫のロングヘアは緩くウエーブが掛かってて、何だかセレブーって感じ。コートと同じ色のメッシュが幾筋か入っているのがまたオシャレ……。
猫みたいな目尻吊り上がり系の瞳も薄い唇も、気紛れっぽくて魅力的。細身のパンツと細いブーツもダークブルーで纏めててあたしよりずーっとセンスがありそうだわ、
(このお兄さん……)
いや、オネエさんかな。
「さっきの大きな魔力の気配、知ってる事全部吐いてもらうわよ」
……冷たい顔も魅力的デスネ、って言ったら見逃してもらえないかな……。
このデンスの趣味は穴掘りでした。森のどこかには、デンスが掘った穴に宝石と黄金と人骨が埋まっております。