聞こえますか、僕の信号
「冬が来た、寒い寒い冬が来た」
雲の様な白煙とともに彼女は呟いた。
「どうしよう」
僕は袖をいじりながら聞いた。
「逃げよう」
そういう彼女の目には光があった。僕にはない光だ。
「どこへ行けばいいの」僕はたまらずそう聞いた。
「さぁ、分からないよ。でも暖かい所がいいな」彼女はそう言って僕に微笑んだ。
久しぶりに朝目覚めた。布団から足を滑らせて抜け出す。床の冷たさは覚悟していてもうめき声が出てしまう。本棚の上に置いてある眼鏡をする。氷でできているんじゃないだろうか。しょぼしょぼした目にはいいきつけだ。天気を窺う。少しだけ開けておいたカーテンからは一筋の光が差し込んでいる。今日はいい天気だそうだ。便座の冷たさを感じたら、やかんに火をかける。どんどん体の温かさが奪われる。冬の朝いちばんの飲み物はこれを補うためだと思う。僕の家のコンロは調子が悪い。温かさを残して置いた布団に戻る。冷たそうな一線を眺めれば外の音がやけに大きく聞こえる。外の世界はもう忙しそうにうごめいている。ここで初めて時計に目をやった。十時半。ああ、今日も授業が始まっている。
「まぁいいか」
自分を安心させる。外はあんなにも忙しそうなのに、僕は九十分五千円の授業にすら出席出来ずにいる。温かかった布団が冷たく感じる。自分を責めて頭に布団を搔き集める。自分の息が苦しくなる。死んでしまえ。このまま僕は冷たくなってしまえばいいんだ。重なった繊維のせいで死ねるわけもなく。丈が足りなくなった足元がスッと冷えていく。
「ぶはっ」
鼻息で湿った顔を出してみれば寒さが襲ってくる。畳みかけてくる様に熱湯が気づけと声を大にしていた。ああ、時間が経つのが早くて遅い。
残り二本である事を確認して煙草に火をつける。二、三度煙をくゆらせればコーヒーは飲み頃だ。やけどしない程度に急いで体を温めよう。お湯なのかどうかも分からないほどに薄いそれは弱い僕の拠り所だ。大丈夫。僕は大丈夫。今日は朝起きれたのだからそれで充分前に進んでいる。今日も生きていこう。
「らっしゃいせー」
私はこれでもいらっしゃいませーと言っているつもりだ。お客様は神様だと店長から聞いているのだから。
「あきちゃーん、ダメでしょ。お客様に失礼だよ」
隣で弁当を出している店長が小声でつついてきた。
「しゃーす」私は軽めのドリンクを棚に入れながら適当に返す。だって店長は神様じゃないからいいでしょ。
「ほらぁ、またそんな言葉使いしてー、僕がお客様だったらダメでしょ」いや、お前客じゃねーし。
「朝にもヘルプで入ってくれて助かってるんだけどね? でもそんなんじゃあ困るよ」
弁当を両手にダサいジェスチャーでこちらを見る。
「あ、店長レジ行ってきますねー」ドリンクを雑に棚に置いてやってレジへと向かう。
「あ、あきちゃん、それ、あ」
バチバチと数字を打ち込んでお釣りを返してあっしたー、と返す。もう何回も繰り返している動作だ。サルでもこんなにこなせば出来ると思う。女だからダメと言われたが夜のシフトに入れてもらっている。夜のバイトはいい。何より客が少ない。神様もきっと夜には余り出歩かないと言う事なのだろう。今日は最悪だ。いっちゃんが風邪で寝込んだそうだ。いっちゃんダメじゃないか。いや、分かるよ、風邪はダメさ、でもさ風邪引いちゃうとさ、朝の神様たちに会えないじゃない。まぁ、いっちゃん誰だか知らないけどさ。ああ、神様いっぱいだ。何かが抜けていく。何とか出ていかない様に堪える。それでも細胞の隙間から染み出す様に零れていく。ああ、これって死ぬって奴だ。
パッ……ス。子気味良い音がする。めくりやすい様にしてある紙の擦れるいい音だ。いい感じだ。意識が本の中にない、途中から読む時の儀式みたいなものだ。昨日の夜に読んでいた部分を少しだけ読み返す。話を知っている分、現実に意識が残っている感じ。ここから二ページ目、きっともう僕はこの世界にはいない。
最後のページ。柔らかな白が目立つ。ゆっくりとこちらに戻ってきた。ああ、いい余韻だ。いい話だった。もう読むべきページのない本を眺める。まるでもうおしまい? もうないの? そう訴える犬の様。素晴らしい言葉のつながりを反芻しながら、目線を外して時計を見る。もう午後の一時だ。始めよう。
パソコンを取り出して書き途中の物に手を付ける。こいつは手ごわい。いくらプロット組み直しても、しっくりこない。いっそのことプロットは捨てて、自分の感性に従って書いて行こう、そう思って数万字。ついに手が止まってしまった。そこから一文字もつづる事が出来ない。それが目の前にある。数週間ぶりに出合ったそれは変わらず手ごわい。自分にとってこいつが何かを開くきっかけになればと始めたものの、対峙すると吐き気がするようになっていた。しかし今日は体調はいい、どうだ。
ダメだ。気持ちが悪くなってくる。先ほどの作品の良さにあてられて、息が浅くなる。深呼吸をしてもダメだ。この部屋の酸素がもうなくなってしまったかのようだ。僕にはもう、こいつを見る事も考える事も許されてはいないのかもしれない。
気づけばパソコンを閉じて布団にうずくまっていた。ああ、温かい。でも、分かっている。これが本当に僕が欲しいものではない事は。でも、それでも分からない。こいつを完成させることが出来たとして、なんてことも考える事は許されていない。それほどまでに、僕は擦れしまった。
寒くなってきたな。ああ、そうだな、今年の冬は去年よりも冷えるみたいだ。マジか、それはきついな。
うるさい音楽を耳元で流していた私は、サラリーマンの会話にアテレコしてぼーっとしていた。神様、いや、ここはもうコンビニじゃない。私は抜けきっていない感覚を元に戻そうと音量を上げる。目をつむり、このバカっぽい音で今の私を壊す。組み立てていけ、自分という形をもう一度組み直すのだ。レゴのブロックの様に自由に、東京タワーの様に高く。でもスカイツリーじゃない。あんな細くて気持ちの悪いのはいやだ。東京タワーを富士山だとすれば、スカイツリーはつま楊枝だ。気づけば最寄りの駅から三駅もおり過ごしてしまった。どこだここは。まだ五時だと言うのに真っ暗だ。でも、急いではいない。どうせ明日は夜勤だから昼間までに家に帰れればいい。寒さに急かされる人は足早に駅を出ていく。改札を最後に抜けて知らない景色を見渡す。どこに行こうか、左に行くか、右に行くか、電車に揺られるか。いつものさいころに任せよう。ポケットの中から六つで百円の一つを取り出して地面に放った。コロコロと中々止まらない。小石で軌道が変わって右の方へ流れていく。さいころが止まるころ、その先に一人がうずくまっているのを目にした。数字は一だ。
結局ダメだ。今日はダメな日だった。最後の煙草も先ほど地面に叩きつけて捨てた。捨てなければよかった。天井を見た。壁が一面に広がっている。まるでこれからの僕の未来を示している様で棘立った気持ちが和らぐ。未来が分かると少しは安心する。きっとこれからお前は死ぬ、そう言われてもそこまで動揺する事なく受け入れる事が出来ると思う。手足の感覚はない。冷たいのか、温かいのか、息は濛々としている。何か、何か書かなくては、この感情でもいい。天井からいつもの紙へ意識を集中しろ。がりがりと頭の悪そうな文字を書いていく。足音が近づいてくる。気づかないでくれ、僕はただ、いるだけだから。
「こんばんは」
「……」きっと違う人に声を掛けている。
「こんばんは」
「……こんばんは」一応返しておく、たぶん僕は夢の中にいるのだ。
「何しているの」優しそうな声が降ってくる。
「友達を待っているんだ」嘘だ。でも、何か言わないと寂しい人だと思われたくない。
「今日家開いてる?」
何を言ってるんだ? 僕は完全に離れた意識を彼女に向ける。電灯でシルエットになっている彼女は地獄へ連れて行ってくれる死神の様で美しかった。
「開いてるよ。閉じ忘れちゃった」
「はは、いいじゃん行こう」
眩しい笑顔でそう言った。
朝。とくに間違いは起きなかった。ただ、僕の部屋の本の量を見て驚いたくらいだ。彼女は誰なのだろう。特段会話が弾むこともなかったが、ただ冷たいだけの部屋はいつもと違っていた事だけは分かった。
彼女は読んでいた本を閉じてこちらを見る事なく、
「行きたい所あるんだけど」
「車持ってないよ」
「自転車は?」
「あるよ」
「じゃあ行こうか」
彼女の興味は外の世界にあるらしい。その話ぶりに彼女はきっと明確な目的地はないのだろう。でも、その感じは大事な事だと分かる。きっと言葉にしてしまうと小さくまとまってしまうのだろう。僕は何も言わずに布団をどかした。
キコキコと子気味良い音、背中に感じる気配と温もりを携えて走っていた。久しぶりの二人乗りだと言うのに安定する。きっと昨日セックスをしていても相性は良かったんじゃないだろうか。
「そこはさ、いい所なの?」
「んー知らない」
「じゃあさ、どんな所がいいの」
「そうだなぁ、きっと暖かいんじゃないかな」
「暖かい?」
「寒くないって事」
それは分かるけど、そうつぶやいて漕ぐことに集中する。久しぶりの昼間の外出。他人のための外出だからそこまで辛くない。自分のための外出は下卑ている様で嫌いだ。誰かのため、という大義名分があるから気分も悪くない。コンビニまでの道。夜が昼間になるだけで景色はずいぶんと違って見える。いつものコンビニを通り過ぎる。ああ、ここからは僕の世界から離れるんだ。そんな覚悟もなかったのに、どうしてこうもすんなり行けるのか。理由は明白で、少しワクワクした。これが物語だとしたら、ここから始まって、終わった時にはもっとないの? もうおしまい? きっとそう感じるんだ。