おじさんとミラの風呂嫌い
帰路に就き、俺が向かう先はいつも通りの俺の家。
……ではなく、ギルドにそびえる大図書館。
「ただいま、クロ」
図書館の入口で待っていたかのように飛びついてきたクロを顎の下を撫でながら宥めた。
特別に許可を降ろしてもらって番犬代わりにクロをしばらく図書館の入り口付近に置いてもらえることになった。
野良ではないことを識別するためにクロの首元には赤いスカーフを巻いている。
夜でも居場所がちゃんとわかるようになったし、前よりペットって雰囲気が出るようになった。
というかクロがまた大きくなった。
前は俺の腹ぐらいだったが今は俺とほぼ同じぐらいの大きさになっている。
この調子だと三十日後ぐらいにはもう俺を追い越しているような気がしてならない。
「トモユキおかえりー!」
図書館の五階まで足を運び、扉を開けばミラが元気に出迎えてくれた。
仕事の疲れもこの笑顔を見ればどこかにすっ飛んでいくような気さえする。
図書館の五階は大きな休憩室のようになっていて、ちょっとした生活スペースにもなる。
今は諸事情あってギルドの中に住まわせてもらっているというわけだ。
聞いた話だがレオナルドさんはここで仮眠を取っているようだ、たまには家に帰ったらどうだろうか。
いや、彼にとっては最早この図書館が家なのかもしれない。
「ただいま。寂しくなかったか?」
「大丈夫。ここならいつでもお父さんに会えるから」
「あぁ、そうだったな」
図書館に常在しているレオナルドさんには言葉通りいつでも会いに行ける。
俺としては複雑な気分だがミラにとってはうれしくて仕方がないのだろう。
「ご飯は食べたか?」
「ううん、まだ」
「そうか、じゃあ今から作るから待ってろ」
「お手伝いするー!」
一時的に居場所が変わっているとはいえ、日常風景はほとんど変わらない。
変わったところと言えば前と同じようなワンルームに戻っているところか。
それも前より少し狭いぐらい。
それにしてもここには風呂がない。
シャワーは当然ないし、近くには井戸もない。
ギルド内にある風呂屋まで足を運ばなければならない。
今は夏だ。
冷房や空調のないこの世界は屋内といえども決して涼しい環境ではない。
「ミラ、風呂屋に行くぞ」
「えー、今日も行くのー?」
ミラが嫌そうな声で返事をしてきた。
彼女はどういうわけか風呂が嫌いだ。
「俺は汗でぐっちゃぐちゃになってるから身体洗いてえんだよ」
「じゃあ一人で行ってきて。ミラはここにいるから」
「いいのか?寝汗がべたついて寝られなくなるぞ?」
「べ、別に大丈夫だから……」
強情な奴だ。
それにしてもなぜミラはこんなに風呂を嫌がるんだろうか。
もう一緒に住み始めて一年だ、そろそろ事情を知っておいてもいい頃じゃないだろうか。
だが直接聞くのは気が引ける。
……そうだ。
「そうか、じゃあ一人で行ってくるからな。」
「いってらっしゃーい!」
単純な奴だ。
俺がこのまま素直にまっすぐ風呂屋に行くわけがないだろう。
内心を隠しつつ俺はミラを置いて図書館の五階を一時的に後にした。
というわけでやって来たのは図書館の三階。
レオナルドさんがいるところだ。
彼ならミラの過去を知っているに違いない。
「夜分遅くにすみません」
「やあ。その様子、何かお困りかな?」
相変わらずレオナルドさんはなんでもお見通しだ。
とりあえず今回の件を相談してみよう。
「この頃ミラを風呂屋に連れて行くのに苦戦してまして」
「なるほど。あの子は昔から風呂が嫌いだからね」
「過去に何かあったんですか?」
俺から質問を受けたレオナルドさんは少し苦い表情をした。
「あれは、まだミラがふたつの頃だったかな……」
ということは四、五年前のことか。
「当時のミラが懐いていた世話係がふと目を離した隙にミラが足を滑らせて風呂の中に落ちたことがあるんだ。ミラは溺れて意識を一時的に失った上にその世話係は管理責任を問われて家から追い出された」
そんなことがあったとは。
確かに水場での事故は恐怖として心に残りやすいものだ。
「自分が死にかけたことに対するトラウマと懐いていた世話係が自分のせいでいなくなってしまったことを気にかけてるんだろうね。それ以来あの子は風呂に入るのをすごく嫌がるようになってしまったんだ」
「そうだったんですか……」
「日頃から苦労させているようだね。本当に申し訳ない」
「いいっスよ。俺が勝手にやってることなんで」
重要な話を聞くことができた。
ミラが抱えるトラウマとどう向き合っていくかが問題だ。
とりあえずは彼女の中にある不安を和らげてやるのが先決か。
「ただいま」
「あれ?お風呂屋さんに行ったんじゃなかったの?」
予想外に早い俺の帰りに驚いたのかベッドの上で本を読んでいたミラが目を丸くしている。
そりゃあそうだよな。
俺はそっとミラを抱き寄せた。
「ふぇ?」
事を理解できていないミラはきょとんとした声を上げる。
「ミラ。俺たちがついてるから風呂で溺れることはないし、そうなったとしてもすぐに助けてやる。もしお前が溺れちまったとしても俺たちはどこへも消えない。だから安心しろ」
ミラは何も返事をしてこない。
「だから一緒に風呂屋に行こう。な?」
「……うん」
俺はミラの中の不安を少しは和らげてやれたのだろうか。
これを機に風呂嫌いが改善に向かっていけばいいなぁ。
……そうだ!
「えぇ!?私まで一緒に行くのかい?」
「もちろん」
せっかくだからレオナルドさんも道連れにしよう。
「私はノートをあと一頁まとめてから……」
「ダメです。そんなこと言ってると日を跨ぎますよ」
「いやしかし……」
子が子なら親も親だったか。
レオナルドさん、意外と強情な人だ。
「お父さんはお風呂に入らないの?」
「……」
ミラに問い詰められたレオナルドさんは言葉を詰まらせて明後日の方向に視線を逸らした。
この人は私生活のずぼらぶりを直す必要があるのではなかろうか。
「もしかして研究浸けでまともに風呂に入ってないんじゃないですか?」
「お風呂ー!お父さんもお風呂入るのー!」
「わ、わかった。一緒に行こう」
「よかったなーミラ。レオナルドさんも一緒だぞ」
「やったー!」
こうでもしないとレオナルドさんも自発的に風呂に入らないだろう。
「タカノ君。ミラに何を吹き込んだのかな?」
「さあね」
レオナルドさんを連れ、風呂屋へと向かうミラの足取りはいつもよりも軽いように見えた。




