3-38. 決心
――――――――――私も、同行させてほしい。あなたの、理想に。
冷たく雨が降りしきる。
風が吹き髪は靡く。
地面に打ち付けられる雨粒の奏でる音。
どのような音さえ、その言葉の前には霞んでしまうほど。
それらを全く意識させなくするほどの、言葉。
その声は凛々しく、ハッキリとしていて聞き取りやすい。
これ以上ないくらいに、聞き返す必要さえ思いつかないほどに。
他の音を掻き消すほどの衝撃を持ったその言葉は、一言一句疑いようもなく、彼の脳を刺激する。
望みという言葉から最も離れていた生活を送っていた、彼女が持つ新たな望み。
その意味を考える前に、その言葉を発する彼女の姿に、まるでこちらが打ち拉がられたようだ。
空はこんなにも曇天しているのに、その光景に幾つかの光景を思い浮かべながら、
決して暗さなど感じさせないその心を、彼は見せつけられた。
それが彼女の望みであるなどと、もう一度確認する必要も無い。
その顔を見れば、もう彼女の中で決心がついたものと明らかに分かってしまうのだ。
彼女は、彼の存在を知っている。
彼の本当の姿を知っている。
そして、その行く末に想像がついてしまっている。
だというのに。
それを見届けるどころか、共に歩もうと言うのだ。
どれほど物好きでお人好しなのか、分からなくなるほど。
彼は彼女に言った。自分の道が信じられるように、それが間違いでないと信じ続けられるように、と。
あの言葉を受けた彼女が、そう望んだこと。
それが、彼に向けたその言葉の想い。
思わず彼はその言葉を前に動きを止めてしまった。
言葉の意味を考える前に、その言葉の重みを知っている彼は静止した。
この道から逃れられず、逃れることもしなかった彼に、一つ加わろうとしている。
彼女自身の望みという形で、彼の理想についていこうと考える者。
彼の表情は、少しばかり強張った。
そう言うことがどのような意味を持つかなど、考えるまでもないだろう。
彼の経緯を聞いておきながら、なおその道から外れることをしない彼についていく。
それが、今後どのような生活観となるのかは、容易に想像できるはずだ。
にも関わらず、彼女は全身を持ってその言葉を伝える。
それが、考え抜いた末の、私のしたいこと、望みだと。
「………フォルテ。自分が何を言っているか、分かっているのか」
「はい。言葉ではとても表しきれない。けれど、私の想いはその望みに詰まっています」
流石の彼も驚くよりも表情を堅くして、彼女を疑うようだった。
無理も無いことだ。
彼の行く先は、間違いなく殺し殺されの蔓延る世界。
どうしようもないこの世界をどうにかしようとする、飽くことの無い修羅の道。
命など幾つあっても足りないし、代わりを求めることなど不可能。
彼と同行するということは、限りなくその道の近くにいて、その手段を行使するということ。
もう何人も人を殺めてきた彼には、思い出すことも難しい感覚。
だが彼女の手がまだそれに染まっていなければ、この感覚を一生覚えずに済む。
彼の心は、他の誰かを巻き込みたくない。
つまり、同じように死地の護り人として必要なことを迫りたくない、求めたくないということ。
それに触れたら最期、本当に普通の人間ではなくなってしまう。
だが。
ある時彼女は言った。
貴方を死なせたくはない、もう何も失いたくない、と。
「私であれば、魔術で剣を創り出すことが出来る。それに、もし怪我をした時でも、治癒をかけられる。アトリの傍にいて不都合になることは少ないでしょう」
「だが、それだけではない……俺と行動を共にするということは―――――」
「はい、分かっています。貴方の信条に、私も肩入れするということ。アトリが言うように、自らの手を染めることにもなるでしょう。ですがそれでも、私はやるべきことを見つけました」
………。
貴方を、死なせたくはない。
その夢が、たとえいつか醒めて消えるものだとしても。
アトリも、私も、多くのものを失ってきた。
これからも失うかもしれないし、私たち自身が失われる可能性もある。
決して楽な道ではない。
だけどアトリはそれから逃げなかった。
これからも逃げないものと信じているし、間違った理想でないと信じ続けるだろう。
だから私も、自分の思うことを信じてみようと、思ったんだ。
もちろん、アトリに反論されることは分かっていた。
誰にそれを語ったところで理解されない、彼の抱く理想。
私でさえ目を疑うほどの険しく儚い理想を、本当に彼は実現させようとしている。
この望みは、見方によっては彼の理想に加担することにもなるだろう。
この道を歩き始めたら、私もこの手を使わなければならない。
彼がそうしてきたように、私もそうすることになるだろう。
それでも、私が貫きたいと、思ったこと。
――――――――誰かが笑って過ごせるようになるのなら、それを見ることが出来るのなら。
その姿は、常に孤高なる男の歩んだ軌跡。
誰にも理解されず、誰にも止められず。
愚直なまでに信じ続けたその歩みは、留まることすら知らない。
男は常に立ち向かい、まだ見ぬ未来に向かって進む。
その手に理想を掲げ、その背中に想いを抱き、その心に信条を誓う。
身体が崩れようと、剣が折れ砕けようと、心は決して折れない。
信じ続ける理想を抱いて、この身を剣に賭して、
この身体が存在し続ける限り、見果てぬ理想を追いかけよう。
その背中は、厚く重い。
死地の護り人というだけで、どれほどの重圧を背負わされたことだろうか。
普通の人であれば、既に身体ごと心も崩れていただろう。
彼は諦めることもしなければ、その理想を前に斃れることも無かった。
だけど、その姿は脆い。
一人で存在し続けてきたにも関わらず、一人であることで擦り切れた想いすら抱き続けてきた。
何度も絶望を味わった。
他の人が見れば、その心はとうに折れ砕けたと言っても良いくらい。
だけど、彼の強靭な心は、たとえその想いが一本の糸でしか繋がっていなかったとしても、
誰にもその想いを消させないところ。
本当は弱い。どうしようもないと分かりながら、どうしようもないことをし続けてきた。
だから。
私のするべきことは、そんな彼を成り立たせること。
弱いから強くするんじゃない。
弱くてもいい。
だけど、彼がその想いを信じ続けられるように、私は背中を押すだけだ。
………。
「アトリに信じ続けるものがあるように、私にも信じてみたいものが出来ました。アトリに変わることのない理想があるように、私にも進んでみたい望みが生まれました。だから、決めたのです。私が自分の望みに進んで信じ続けられるようになるためには、私の持つこの望みを貫こう、と」
「………それが、死地に往くこと………」
「死地に往き、多くの人々を護るアトリを、支えることです。アトリが剣となり敵を討つ、その先々で人々を護るというのなら、私は貴方がその姿をし続けられるように、傍にいましょう。これまで、貴方はずっと一人で戦い続けてきた。一人で大勢の人々を救ってきた。にもかかわらず、貴方自身が報われることは一切なかった。マホトラスとの戦いが始まって、ようやく気付くものもあったのではないでしょうか。周りの人たちがいなければ、自分も成り立つことが出来ないのだと」
読まれている。
鋭い洞察力が働いている。
マホトラスとの戦いで、ハッキリと思い知らされたことだ。
自分ひとりだけでは、戦争に勝つことは出来ない。
それは死地とて同じことだった。
死地の警備員たちは、兵士のように専門的な戦闘教育を受けた者たちではない。
アトリの力量に比べれば遥かに劣るし、自らの命を第一にする。
それが当たり前ではあるが、彼は自分の命を二の次にしてきた。
マホトラスとの戦いが始まり、それが積もりに積もった結果、彼は瀕死になった。
「これだけのことをしておきながら、アトリは一人で何もかもし過ぎだったのです。貴方は頼られる一方で、頼る者を中々持てなかった。支えとなる人が中々現れなかった。そばに味方の誰かがいたとしても、自分がやらなければどうしようもなくなる状況を、沢山経験してきた。これからもそのようになる可能性は充分にある。だから……、貴方が折れ砕けないように、傍に居たいのです」
「っ………」
「私に出来ることは、きっと限られている。役に立たないかもしれない、邪魔だと思うかもしれない。でも、私に出来ることは協力します。一人の荷が重いのなら、私にも背負う覚悟がある」
この望みを、この気持ちを大切にすると、私は決心したのです。
………。
本当に、変わった人だ。
いや正確には、変わってしまったと言うべきだろう。
よもや数日でこのような姿を見せてくれるとは、思いもしなかった。
驚くというのもあるが、それ以上に嬉しいものがある。
フォルテは、自分の気持ちや望みを、素直に受け入れ目指そうとしている。
自分が信じるものを大切に、それが間違いでなかったと思えるように。
それが、まさか俺についていくことだなんて。
………、その手を取れば、もう後戻りはできない。
俺だけではない、フォルテにとってもそうだ。
何も彼女に死地の護り人になれ、という訳では無い。
その道は決して楽なものではないし、続けることも大変なんだ。
だが、それでも彼女は自分を貫くために、その手を差し出してきた。
これは、一緒に進む俺の為というもの以上に、自分の信じるもののため、というのも多く含んでいる。
寧ろその方が大きかっただろうし、それで正解なんだと思う。
第一に俺を考えるのでは、昔の彼女に戻らないまでも、自分を次へ次へと追いやることだって考えられる。
俺がそんなことを言っても、説得力が無かったんだろう……。
だからこそフォルテは、そのことに気付いて、こうすることが自分の望みであり、自分をまず大切にするという意思を尊重するものだと理解した。
きっと、そのはずだ。
だから、素直にそう考えてくれることが、嬉しかった。
………。
自分に持ち得る望み。
信じよう、歩き続けるために目指そうとする、その姿。
彼に望みを打ち明けた彼女の瞳が、物語っている。
間違いなくこの少女は、本気でそうしようとしている。
後先のことを思うよりも先に、その強い心で身が貫かれそうになる。
彼女の決心はとても固い。
それが間違った望みであるかもしれないのに、彼女はそれを信じようとしている。
自分のそれが、間違ったものでなかったと証明するためにも。
否定したかった。
何よりも先に否定すべきだったのかもしれない。
だけど、仕方が無い。
否定よりも先に、もっともっと嬉しい感情が確かに内なるものを刺激していたのだから。
分かっていたことだ。
自分に対して素直に考えてみれば、確かにそうなのだと理解できる。
ただその想いというものが、今までにない新鮮に満ちたものであったから、彼が自らそれを疑問視し続けていただけのこと。
共に来てくれるのなら、これ以上のことはない。
彼はこの期間中、彼女を信頼して頼り続けてきた。
魔術や剣術の鍛錬のみならず、彼女は自分がいずれ戻るその時の為に、
様々なことを教えてくれた。
彼女とはじめて出会った時から、今日この距離感を得て、気付いたことがある。
長い間戦争から離れていたから、かえってそのような思いが生まれたのかもしれない。
内心で意識することもあったし、期待することもあった。
ただの可能性の話だが、もしそれが現実になるのであれば、この上なく嬉しいことなのだと。
フォルテが共に来てくれるのなら、今までとは状況が異なる。
その手を掴むのを躊躇いながらも、その手が必要だと言うことを、彼は素直に実感していた。
彼女に支えられながらここの生活を過ごしてきたものは、計り知れないほど大きい。
だが、彼がこの道に戻ることになれば、彼女とは別れなければならない。
喪失感のようなものを味わった。
自分からここを離れると言ったにも関わらず、このまま彼女の今を、これからを過ごすその姿が
見られなくなることを考えると、寂しいとも思った。
それほどに彼が彼女を信頼し、支えられていると感じていたのだ。
人の気持ちが分かるにも関わらず、自分のことに対しては疎い。
そんな彼が彼女に対して思ったことは、「共に来てほしい」ということ。
二人なら理想を体現できるとか、戦争を終わらせられるとか、そういうことではない。
無論、共に来るとなればそれに関わることになる。
彼女がそれを肯定するかどうかは、分からなかった。
だから、彼からは伝えられなかったというのもある。
だが、彼女が近くに居てくれれば、彼女にもっと広い世界を見せることが出来る。
穢れてしまったこの世も、そうでない広いこの世も、見て感じてもらうことが出来る。
共に何かをすることで、彼女も、また自分も安心できるのなら。
それは確かに、自分にとっての望みと言うことも出来る。
その機会が巡ってきた。
彼女から自分の望みと言って、彼に同行することを願った。
それに対して、彼は。
「フォルテ、君の言葉は素直に嬉しい。まさか君からそう言われるとは思っていなかった。少々、驚いたよ」
「………」
「って、何日か前もそう言ったんだったな、俺は」
少し笑みを浮かべながら、彼は言葉を並べる。
それに対して彼女は真剣そのもの。
明らかに彼からの返答をこの場で待っている。
だが焦っている訳でも急がせている訳でもない。
心から、彼の本心が聞きたいのだと願っているようだった。
「フォルテは、俺の過去を知った。これから向かう死地がどうなっていくのか、想像がつくはずだ。だから、たぶん……ここでの生活で知った俺と、その土地で見る俺とは大きく異なるものがあると思う。フォルテを失望させることだろう」
それは彼女も想像の範囲内だった。
彼にとってここでの生活と死地での時間、あるいは王城にいる時の過ごし方というものは、
大きく異なるものがある。
彼がその地へ戻るのなら、必然的にそういった異なる一面を垣間見ることになる。
常にここでの生活で得たことを意識することなど出来やしない。
それが出来るのなら苦労の幾分かは減るだろう。
彼女はそれも含めて、彼の背負う荷を自分も背負う覚悟を伝えたのだ。
「それに……この先は戦争、人は人と争うことでしか解決を見出せないような、どうしようもない世界だ。だが、そんなどうしようもない世の中を程度変えていかなければ、護られない者も多くある。君がここに介入するということは、少なからず俺の立場を経験することにもなる。そうなれば、もうここには戻って来られないし、パトリックとも会えなくなる。自分の身にも危険が及ぶし、場合によっては俺のように、生死を分けることにもなりかねない。………それでも、君は良いのか」
「はい。その覚悟は出来ています。貴方がその道から逃げなかったように、私も目を背けない。できるかぎり、貴方を支えられるようにします」
もしこれが、献身的で自分というものを出さずにいた頃の彼女の望みであれば、
彼は間違いなく断っていた。
自らの望みから生まれたものではなく、誰かに尽くすことで誰かの為になる、そればかりを考えるのでは、この先長持ちすることはない。
だが今の彼女は違う。
本当の自分はいまだ見つかっていないだろうが、少なくとも過去の彼女の過ちに気付き、新たな一歩を確実に踏み始めている。
それが自らの望みを生み、希望を成すために信じようとするのなら、
その答えに嘘偽りなく、決心に満ちた一つの問いの答えだというのなら。
「………分かった。フォルテの望みは、充分に伝わった」
「………アトリ………?」
―――――――――“君の手を借りる。これからのこと、よろしく頼む。”
その運命は始まりに。
もっと話せることもあっただろうし、伝えるべきこともあったはず。
思い返せば色々と抜けているようだったが、今の彼にはそれ以外のことは思い浮かばなかった。
彼女が自分の望みを打ち明け、それが彼自身に関わることであったこと。
そのように話してくれた彼女に対しての、感謝の気持ちを含んだ願い。
死地の護り人として歩み続けてきた彼が、今まで一度も出来なかったこと。
近しい存在と共に、これからを往くということの意味。
今まで、ここに来るまでの彼が思っていたこととは、全く異なる道筋が出来上がっていた。
彼女とてそう、このような決心を固めるなどとは思っていなかった。
二人が出会い、鍛錬や生活を共にしながら、気付くべきものに気が付いて、その想いを抱くことになった。
そうして二人は、この時二人で先々を共に往くこととした。
偶然が偶然を呼び、偶然の重なりが新たな運命を切り拓く。
彼は、その手を借りると言った。
彼にも、この先のことは想像ばかり、どのようなことが起こるかは分からない。
その時が来てみなければ分からないこともある。
それでも、傍に信頼できる者がいて、その者と共にこれからを往くことが出来るのなら。
それは、願ってもないこと。
今まで手にすることのできなかった、求めることのなかったものを、この手に掴みながら。
今はこの運命とも呼べる時間を不思議に思いながら、でも素直に受け入れよう。
「……俺は、ほら、不器用だから。何かと傍に居てくれた方が、助かる」
と、彼は言った。
彼からの精一杯の言葉だったのだろうが、何とも決まらない言葉だった。
が、またそれが彼らしいというか。
少なくともこの瞬間を知る彼女だけが感じたこと。
本人でさえ「何か締まらないな」と思ってしまうほどのもの。
それでも、彼女はそんな一言二言の中に、色々なものが詰められているのだろうと心の中で感じ、
その言葉に対し。
「………そうですね」
と、手を差し出して笑って見せた。
向けられたその手を、彼もまた笑顔で握る。
彼女の想いの一つは、伝えられた。
彼はそれを受け取り、彼女を受け入れた。
これから先、共にこの道を歩む者の一人として。
二人が出会ったその時から、
二人の生きる時間の中に、運命の歯車が登場した。
偶然が偶然を呼び、やがてその偶然が彼らの運命さえも変えてしまう。
それは今に限った話ではない。
もうこの時点で、もし彼らが出会っていなかったら、などという空想を並び立てても、
何ら意味を持つことはない。
それが彼らの新たな時の始まりであるのなら、
その時を動かす歯車となるのは、当然彼らだ。
自ら始原し、事を立て並べて行くことになる。
彼らという事象を前に。
時は再び新たな記憶を刻み始めて行く。
………。
3-38. 決心




