3-36. 二人の距離感(Ⅲ)
曰く。
―――――――――人は、こんな風になってしまうのだろうか。
それは、ある王家の一人が、アトリという一人の少年を指して思った、評価の一つだ。
真っ当な人間であれば良き年頃だし、物心に純情な思いが加速する頃といってもおかしくはないだろう。
異性は異性を意識するもの。
それが人間であれば普通なものだし、この世界に暮らす大勢の人間たちは、そのような甘くも苦い経験を沢山積みながら、事を成してきたのだ。
だが、彼にはそれが無かった。
それ以上に強い何かが、彼のそういった思いを完全にせき止めてしまっていたから。
異性に対し意識をする、ということが全くなかった訳では無い。
だがそれを自分の物として認識し、何かを望むようなことは殆ど無かった。
単純に経験が無いから思いに整理が付けられない、という時期もあったことだろう。
しかし、その少年には、それ以上に大事なことが山ほどあった。
人ならざることを優先し、
人らしいものを追いやってきた。
それが行き過ぎると、たとえ子供とは言えこんな姿になり果ててしまうのだろうか。
そう思ったその王家の一人は、少年の往く道の過酷さと不条理さを心の中で嘆いた。
彼は、誰かを好きになるということを、理解できなかった時がある。
誰かの男性と女性が仲良さそうに愛し合っているのを見ても、仲が良いのならそれはいいことだ、と
他人事のまま閉ざし、そこへ介入しようなどとは考えなかった。
まして、それが自分事であるはずもなく、自分でそのようなものを求めることも決してしなかった。
そんなものより、そんなことより、自分には成さなければならないことがある、と。
人間らしい姿から遠のき続け、いつしかそういった意識や感情もどこかへ失われていった。
彼の中では無意識の出来事だったのだろう。
川の流れがいつまでも同じく続き、その変化に気付かないようなもの。
本当はあらゆる物が流れ込み、それを認識するだけの視覚もあるというもの。
自然と彼はそのような、人間的な欲求から遠ざかっていた。
何故なら、彼はそれを必要とはしなかったから。
そのようなものは戦いにおいて邪魔になるだけだし、そのような余裕もない。
常に人を護るためにどのように行動すべきか、言動すべきか、その後をどうするか、と。
死地にある者たちのことばかりを考え、それは城に帰って自分の時間を過ごしている間にも続いた。
彼から、人間らしい一面は、次々と離れて行くばかりだった。
だが、そんな彼にも変化が訪れることがあった。
あの日、あの槍に身体を穿たれて、殺されそうなところで選んだ選択肢。
ここで死ぬわけにはいかない。
死んでは“義務が果たせなくなる”。
ならばせめて、この場を逃れて後に退く、そして再起を図る方法を取らなければ。
そうして手に入れたのが、ここでの生活。
僅かながらの延命であったとしても、生きていることに変わりはない。
助けてもらった。救ってもらった。
そして彼は、今まで見ることの無かった、新しい生活を経験した。
茶葉の手入れも、農作業も、今までの彼の生活からは考えられなかったもの。
少なくとも4年前、あの雪の日に燃え盛った現実以来、手に入れるとも思わなかったもの。
世の中の人々はこうした穏やかな日常を送って、毎日を生活しているのだろうか。
それを自分がずっと護り続けてきたのか、と。
世間的な生活の姿を自らが経験することによって、今までにない価値観を見出すことが出来た。
そうして、彼は彼女と出会ったのだ。
驚くことも、悲痛に感じることもあった、この時間。
彼女の過去を知り、それがどうしようもなく辛く苦しいものであると分かって。
より一層、彼女も自分の理想の名において、護るべき人ではないか。
その想いが一層強くなった。
彼女に対する魅力というものは、今まで出会って来た女性には無いもの。
というよりは、彼がその内なるものに気付いて、その方向が彼女に向けられていると知ったからだ。
いつの間にか、彼女を意識してしまっている、その感覚を確かに持っている。
彼女の経緯を知って、彼女の姿を知って、そう思うようになっていた。
そのことに、変わりはないのだが。
何かこう、言葉が出て来ない。
「恋、か。んー………」
と、彼は真剣に考える姿を彼女の前でする。
確かな足取りで歩いていたものの、彼の歩行速度が彼女のものと合わなくなり、思考が考えに集中し始めているのがよく分かる。
いかが彼女とはいえ、恋という言葉やその中身、その意味が分からない訳では無いようだ。
あんなことを教えるパトリックから、それについても色々と聞いたのだろう。
それを聞いて彼女がどう思ったのかが、大事なところなのだが。
今は彼に向けられた質問。
だが彼女はこの時既に確信している。考えるということは、その経験が彼には無いのだと。
「誰かと一緒に居たいという気持ちはある。ただ、それは恋か?」
「………?」
そのような風に言われると、どう返していいか困る。
彼女の正直なところの感想だった。
何かこう、根本から違うような、それとも自分の教えられたことが間違っていたのだろうか。
そう思わずにはいられない。
誰かと一緒にいたいと思う気持ちはある、それを聞いて安心する一方、それがすべて恋になる訳が無い。
心の中で彼女はそのように否定する。
だが、よく考えてみれば、時と場合によってはそのような考え方も有効なのだろうか。
質問をした本人がイマイチ状況を掴めなくなりつつある。
正しくはないが、正しくないとも言えない。
要は………。
「と、特定の人物に対してそう思うのなら、それも一種恋になるというか、なんというべきか……。ただ、誰にでも抱くような気持ちではなく、その人一人に強くそう想うのであれば、それも形としては恋になるのではないでしょうか。相手と一緒に居たい、共に時間を過ごしたい、その気持ちが強ければ強いほど、相手のことをもっと知りたいとも思うでしょうし、“好き”にもなるでしょうから………」
「………、なるほど」
好き、という言葉に彼は注目した。
そういえば以前、エレーナにもそのようなことを言われたことがある、と。
確かに、言われてみればその通りだ、と彼は自分の中では納得する。
誰かと一緒に居たい、という望みは、特定の人物を指すかと言われれば微妙なところで、
しかも誰かと明言していない以上、それは今この瞬間では無く、もっと先の未来でも該当し得るものだ。
そういった先の未来のことではなく、ある一人に対して思いを抱くことを、彼女は恋と言ったのだろう。
思えば、あの時エレーナもそのように話していたのだろうか。
その時。
僅かな時間だったが、彼と彼女の視線が合う。
「………」
同じ方向を歩き、歩幅が揃わないアトリに彼女が合わせて少し遅くしようとしたのだが、
彼はその時彼女の後姿を見る。
すると、ほぼ同時のタイミングで、彼女はアトリの顔を見るために顔を返したのだ。
本当に僅かな時間だったが、これは何というか、気まずいような、そんな雰囲気が二人の間に流れる。
妙な距離感、何とも言えない空気。
「……、きっとアトリにもそれが分かる時が来るでしょう……!何も、ずっと戦っているからそういう気持ちを棄てなければならないことはない。そうです、はい」
と、彼女は少し早口と声のトーンを高くしながらそう話し、
また前を向いて歩き始める。
自然の鳴る音、朝方よりは弱まった風の心地よさと夕陽の輝きを浴びながら、
二人はその違和感のようなものを消しきれず、本家に戻る。
男が気付いたのは、この時だ。
自分がいかに一般人から見て遠い生活を送っているかなど、自覚があった。
だからこそ、ここでの生活や彼女に対しての意識は、より新鮮味を増すものだったのだろう。
これまで、そうした意識を誰かに向けることは一切無かった。
誰かを心配することはあったし、人を護り続けて行く以上、相手に気遣うことはし続けてきた。
だが、今この違和感にも似たこれは、今までに感じられたものとは全くの別物。
しかも、この瞬間に得たものではなく、この新鮮な生活が始まってすぐに、僅かながらにそれは
感じ始めていた。
なるほどそうか。
中身は複雑で何とも言えないところだが、要約すると言葉は充分に簡略化できる。
ただその想いの欠片が、それもまた新鮮で、今までにないものだったから、理解に苦しんでいただけ。
簡単そうに見えて実は複雑。
だがその逆も確かに言えること。
そうか。
言われてみれば、そういうことなのかもしれない。
全く知らない訳では無かったんだ。
彼は一人、彼の中で納得をする。
その後本家に戻ると、昨日とは逆で今度はアトリが夕食を用意することにして、彼女はいつもより早い
入浴時間を過ごすことになった。
彼女が戻ってくるまでに、大方の準備を終わらせておこう。
彼女は遠慮がちながらも、アトリの厚意を受け取って別の部屋へ行く。
「せっかくだし、美味いもの作らないとな」
自分が料理する食べ物を食べる人は、自分以外にもう一人。
だからその気持ちは当然ながら、彼女に対して向けられたもの。
美味しいと言ってもらえるように作ろう、と彼は意気込んで一人で黙々と調理をする。
彼女が湯舟から居間へ戻ってくるころには、既に机の上に食事を並べていた。
出来の早さもそうだが、見た目もとても美味しそうに見えるところを、彼女は素直に褒めた。
その腕は女性にも負けないくらいだ、と。
「美味しいです、アトリ。実に美味だ」
「そうか。それは良かった」
半ば目的がずれているようにも感じられるが、それでもいい。
彼女が心から嬉しいと思って、それを表現してくれるのであれば、それでいい。
それが見られるなら、自分も嬉しいことだと、彼は思う。
かつては考えられなかったほど、彼女との会話も行えるようになったし、お互いに色々と気付かされる
ところもある。
彼は彼女のことを、同じように彼女は彼のことを、もはや他人事とは思っていなかった。
自分のことのように思い、相手を思いやることを決して忘れない。
だからこそ、二人の中で共有されないながらも、似たような性質の悩みを持っていた。
彼女の為にしてあげられることを前に、彼はここを去らなくてはならない。
彼の為にしてあげられることを前に、彼女はもうすぐ彼と別れなくてはならない。
そのまま進むことが、お互いにとって良きものであるかどうか、判断が付き辛い。
ここでの時間がこれからもずっと長く続くことを、望んではいけない。
けれど、ここでの生活がこれからまた戻っていくことを、寂しく思うその気持ち。
その気持ちは、二人とも共通である。
夕食の後は、アトリが風呂へ行き、彼女は居間の片付けをした。
それも昨日とは逆のこと。
自然とそのような流れで二人で意思疎通することが出来ており、アトリも納得して彼女にそれを
任せた。
彼が風呂からあがると、またいつものように庭で鍛錬の復習を行うのだが、これも自然の流れというべきか、それとも彼女のほんの少しの望みと言うべきか、昨日と同じく彼に付き合うと言いだした。
今までは自分ひとりで黙々としていたものだから、復習らしいといえばそうだったのだろう。
だが彼女が入ることで、より復習の内容も濃くなる。
まるで夜に鍛錬をしているようなものだった。
しかし決して無理はせず、おさらい程度に済ませるので、実際の復習時間は30分程度しかない。
それでも、頭の中であらゆる行使を連想させ、またそれを学びなおすのは実戦の時に困らず発動させられるだろう、と信じて行い続けていた。
もっとも、行使できる対象など現時点で限られているのだが。
彼女から言わせれば、もう夜更けの鍛錬など必要ないくらいだ。
だが、それを言ったところで彼は止められない。
彼には覆すことのできない正しさがあるし、純粋にそれを貫くことを諦めないだろう。
ならばせめて、そばでその姿を見て、私に言えることがあればそれを教える。
それが、この違和感だらけの一ヶ月近くで見出した、彼女が彼に出来ることの一つなのだから。
彼が冷静になりつつも、必死に復習を続ける。
その背中は逞しいほどに筋肉がついていて、広い。
少年というよりは、もう男性のそれと言っても何ら不思議ではない。
その背中を見て、強く思うことがあるのだ。
この生活の中で見出したこと、今までしてきたこと。
彼の為になると思いながら、それが本当に彼の未来にとって良きことかどうかと悩み続けながら。
この人のように、それでも貫きたいものがあると思い続けて。
やがて、その時は消え去っていく。
この生活は、彼が目の前から消失することで、その時間を終える。
戻って来るかも分からないこの時間に対し、彼女はどうしようもないくらいのもどかしさを覚える。
そして思うのだ。
出来ることなら。
もっと、その行く先を見続けることは出来ないのか、と。
「では、私はそろそろ戻ります」
「あぁ、フォルテ。今日はそちらまで送るよ」
「え?ですが」
と、彼女にとって思いもよらぬ言葉をかけられ、思わず動揺した声を出す。
本家と彼女が住む家などほんの数分という距離なのに、彼は家まで送ると言ったのだ。
特段断る理由もないし、かといってそれが必要かと言われればそうでない方が強いのだが、
彼は少しの笑みを浮かべながら、穏やかそうな目をして彼女の方を向いていた。
「まだ眠気が来ないんだ。いつも残ってもらって、じゃあここでっていうのも、なんだか申し訳ないしさ」
「……そ、そうですか。ではその、お言葉に、甘えるというか……」
お願いします、と彼女は言って、それに対し彼は笑顔を向けて答えた。
彼女が思うように、ただ家を行き来するだけに送り迎えなどは必要ないのかもしれない。
ただ、悪い気は一切しない。
それも彼との時間が過ごせるものならば、と彼女は思いその厚意を受けることにした。
今までには無かった形での、夜更けの過ごし方。
これから家に戻れば、彼女はまた少し資料を眺めて、眠りにつく。
日付が変わるまでは起きているだろうが、それでも今この時間は普段とは違うもので、不思議に思えた。
この新鮮さを味わっていたい、という気持ちも確かにある。
いつまでも続く時間ではないと分かっているからこそ、その手から放すことを惜しく考えてしまう。
彼は今何を思って一緒に歩いているのだろうか。
などと彼女は考えていた。
「なんだか、こうしていると本当に新鮮な気がします」
「ん?」
「アトリが来てから、状況は変わった。単に私個人の話とも言えますが、本当に……」
彼女がそう口にしなかったとしても、今の彼女の顔を見れば想像がつく。
月明かりに照らされながら見えるその顔は、どことなく満足気な顔をしている。
しかし、それでも彼は思う。
無論、満足というだけではないのだろう、と。
その顔には表裏が存在し、きっとそれ以外に何かを抱える気持ちがあっても、おかしくはない、と。
彼の想像し得ることではなかったが、それは確かに事実。
彼も同じように、彼女に対しては色々と考えることがあるのだから。
「………アトリ」
「っ、どうした?」
――――――――――本当に、このまま往くつもりですか。貴方のいるべき場所へ。
などと、彼女らしくもないようなことを口にしていた。
それは彼が思ったことではなく、彼女自身が「何を聞いているんだ」と突っ込みを入れたくなるような
ものであった。
こんなことを聞いても、彼の気持ちは変わらない。
彼に選択肢はあったとしても、その先がどのようなものかはもう既に決まっている。
その道に往くまでに分岐があったとしても、彼が理想を追い続けるという根底に全く変化はない。
聞いてもどうしようもないというのに、彼女はそれを彼に聞いた。
何を期待している。
何を意識しているんだ、と。
頭の中で自分に対して叩きたくなるような違和感と不器用さを、感情を含めて押さえつける。
聞いたところで何も変わらない。
だが、彼にこのような話を振ってその先を明らかにされないと、本当に失ってしまいそうな気がして。
自分の望みは決まっている。
彼の理想も定められている。
「………ああ。俺の往く道に変わりはない。もとよりこの身体はその運命にあると、決まっている」
前までは、彼のそのような話を聞いていると、その道がどうしようもないものだとばかり思い続けてきた。
いや、今もそう思うことに変わりはない。
終わることのない、飽くことの無い戦いに身を投じれば、その身がどうなるかなど、分かっている。
何度も何度も戦い、その先にあるのは絶望ばかり。
だとしても、それを聞く彼女の立場として感じることは、そう悲観するものばかりでもなくなった。
人助けをするのは良いが、彼のそれはあまりに広すぎるし、大きすぎるものを背負っている。
終わりが訪れることはない。
もしその瞬間が来るとしたら、それは彼が理想を前にして斃れる時に違いない。
そうなれば、彼はこの世界から失われる。
それでも彼は、自分の征く道に変わりはないと言う。
あまりにも強靭な精神を持ち、あまりにも重厚な理想を掲げる少年。
そんな人の背中を見ているから、思うことがある。
そうして望みが決まったのだ。
「それが自分の選んだ道だ。そして自分で望んだことでもある。それが間違いだと思いたくないから、それから逃げることはしない」
「自分から、逃げない………?」
「そう。自分で決めたその道は、貫きたい。自分では諦めたくない。諦めれば、何よりそれは自分が自分に負けたことになる。そうさせたくはない」
――――――――自分の征く道は、自分で信じ続ける。
彼が終わらぬ理想を掲げるうえでの、心構え。
たとえそれが絶望に満ちた結果だと分かっていても、自分からは折れたくない。
かつて、それに近い経験をした。その話は彼女も聞いている。
多くの躯が転がり、剣が突き刺さる死地の墓標を目の前にして、彼は絶望したことだろう。
それでも、彼はこの道を諦めることはしなかった。
根底にある想いが、彼には変えられぬものと確信しながら、それでも人の為になると誓ったのだから。
「やはり、アトリは強いですね。私なら諦めてしまいそうな……いや、立場は違えど諦めてしまった身、貴方の方がよっぽど優れている」
「それはどうかな。俺とて半端ものさ」
「いいえ、そんなことはありません。貴方がどこまでその理想を追い続けることが出来るか、見届けたい気持ちにもなります」
その言葉を聞いた時の彼の心境は、複雑だった。
あらゆる思いがその言葉にかけられているように感じられた。
微笑みつつも、言葉そのものはとても真剣そうに語ってくれるフォルテを見て、彼は思う。
もし、この手が現実的にその理想を追い続けられるものに近づいたのなら。
あの槍兵も言っていたことだ。
今のままでは力が足りていない。もし本当に理想を求め続けるのであれば、アトリ自身が変わらなければならない、と。
彼はそれが手に届き得るところまで来ているかもしれない。
それならば、その行く先を、あの槍兵の言う結末に近づく可能性は充分にあるだろう。
彼女はそれを見届けられるのなら、と確かに言葉にした。
「っ………、そうか」
今の彼には、そのように返すしかなかった。
だが、それでも彼は彼女に少しの笑顔を見せて応えた。
この場で何かを求める訳でもなく、ただ彼女に昨晩伝えたこと、自分の望みは大切にしてほしいということを思い出す。
それは、彼女にだけ言えることではなく、自分に対してもそう言えるのだ。
彼は彼の理想を追い求め続けている。
だが、彼の望みはそればかりではない。
今までの考え方からすると、彼が死地で戦いを続けると、他のものに目を向ける余裕はない。
特に自分自身に対しては。
死地で苦しい生活を送り続けている人々こそ、そういったものを吐き出して当然だし、
その状況を経験していない彼は、王国にいるというだけで妬まれただろうから。
だが、彼女は言った。
だからといって、一人だけが幸せとか自由とか、そういった席から外れる必要はない、と。
道具のような使役され続ける人生を送るのではなく、そんな渦中にも新たな価値を見出すべきだ、と。
今日の夕方、確かに感じたものがある。
あれが自分の本心の一つだというのなら、偽りではない。
迷いはある。もしかすると、その結果後悔を生むかもしれない。
だがもし、それが叶うのならば。
「今日は、ありがとうございます。ここまで来てもらって」
「いやいや、礼を言うのは俺の方だ。いつも世話になっているからね」
「私こそ、アトリには感謝しています。明日もまた、そちらへ行きますね」
「ああ。頼む」
あ………っ。
アトリはフォルテを彼女が住む家まで送り届け、今日一日はそれで終わりを迎えるところだった。
同じように、彼女は彼に見送られ、家に入り扉を閉めれば、殆ど一日が終わりを迎えるところだ。
二人とも同じような状況。
すると、彼が一歩後ろに離れて振り返ろうとした時。
「………」
何故だろう、お互いにほぼ同時のタイミングで、目が合ったのだ。
「………」
どうも、女性と目が合うというのは、慣れないものだ。
いや前にそうしたことがなかった訳では無いが、しかしこんなにも……。
「あ、その……今日は、寝ますね!お疲れ様でした、アトリ。アトリもゆっくり休むと良い」
「そうだなっ、そうさせてもらうよ。それじゃ、また」
二人ともあまりに不器用だったことだろう。
特にこの場をパトリックが見ていたとしたら、間違いなくそう思ったはずだ。
フォルテは目線を外しながら笑みを浮かべ、そう口にする。
一方アトリは後頭部をくしゃくしゃと手で弄りながら、その日の別れの言葉を伝えた。
目が合っていたのは、ほんの数秒だけ。
たったそれだけの時間でも、気まずいような時間が流れるのだ。
これもまた不思議なこと。今まで彼女とはそのようなことは無かったのだから。
彼が自分で自覚するほど、距離感が変わったような気がしていた。
たぶん、あの日からだろう。
もうすぐ。
あと数日で、パトリックは帰って来る。
確かあの人は鍛錬の成果を知りたがっていたな。
それが、終われば………。
パトリックもパトリックで、自分のやるべきことを済ませていた。
本家から遠く離れた土地で、必要なものを買い求め、本来の目的以外の目的を見出し、それを託して帰路へ着く。
パトリックが本家まで、二人も驚く方法で戻ることになったのは、その翌日。
彼が目覚めて、13日目のことである。
………。
3-36. 二人の距離感(Ⅲ)




