3-32. その手に得るものは
その理想は、やがて醒めて消えるだろう。
それが、彼がある日に言われたこと。
戦い続けた男が遭遇した、歩みの一つ。
雲の切れ間から夕陽の日差しが儚い燈火のように降り立つ、穢された大地の上。
もはや彼以外に立つ者はおらず、救うべき者も護るべき者も存在していなかった、死地の跡地。
何故、このようなことになるまで、彼は気付かなかったのだろうか?
戦いは常に世界各地で起こり続けている。
王国だけが平穏という訳でも無いが、逆に王国でさえ平穏でない日常もまた存在している。
彼は己の信条にかけて、その理想を叶えるために戦いを無くそうとしていた。
誰もが幸福だと実感できる世界が訪れるといい。
だが、そのためには戦争というものをこの世から無くさなければならない。
戦争は人々を不幸にする。地位も財産も、家族も心さえも奪っていく、悲惨なものだ。
だから、それを無くすことが出来れば、あるいは平和で自由で平等で、誰もが幸せであるという結果を作り出すことが出来るかもしれない。
だが、
そんなものは赦されなかった。
彼が手にした歩みの一つは、多くの躯が転がり決して起き上がることの無い光景。
自ら護るべき者を殺し、救われるべき者を殺した。
誰かの幸せを護る為に誰かの幸せを奪う、そんな行為の成れの果てがその光景だった。
彼は、その景色を手に入れた。
人が人の為に戦い続けた結果、その人だけが残ってしまった。
はじめは、ただ純粋に自治領地の救援要請に応え、来るべくして訪れるであろう戦いに勝ち、求めていた救いを与えるだけだと考えられていた。
だが、実際は違う。
救援要請を送っていた者たちも、敵として認識していた者たちさえも、もはや存在しなかった。
戦いの末に、彼だけが生き残った。
彼はそこで、ようやく気付いたのだ。
この世はどうしようもないくらいに、廃れてしまっている。
戦いという手段でしか正当化できない者たちが蔓延る世の中になっている。
人間は愚かな生き物だ。
そしてその人間の為に尽くそうとする者は、もっと愚民と言うべきものだろう。
彼は剣を置いた。
もはや戦う武器としての道具にすらなり得ない、刃こぼれの激しいその剣を杖替わりに、
地面に勢いよく突き刺した。
そしてその躯の数々を見て、そう思ったのだ。
自分は愚かだった。この理想は果てしなく遠い。
大人のしたことの不始末に責任を取られるのが、死地の護り人としての役目の一つ。
自治領地のバランスを乱す者と戦い、正常化させるための道具。
彼の理想が、多くの人間たちに利用され、酷使され、そして棄てられていることを、彼女は知る。
彼女は、その経緯を聞いた。
………。
『誰かが笑って過ごせるようになるのなら、それを見ることが出来るのなら、俺自身も嬉しいことですから』
なんで、そんなことに気付かなかったんだろう?
アトリは多くの人間に利用される生活を送っていた。
アトリは自分が求める理想の姿を貫き続け、その過程で護られた人たちの素顔を見て、それが自分の為だと思い続けてきたんだ。
自分が力を出して護るべき命を護り通すことで、彼らが救われる。
それは、同時にアトリの救いでもあった。
自分ことに対しては特に疎いのに、他人のことに対しては人一倍の努力もするし、気遣いもする。
仕舞いには、その理想の名の下に、死地と呼ばれる地で殺戮を繰り返した。
人を殺すことで、人を助ける。
でも、それすら彼にとっては救いの一つとなった。
だって、それが彼の求めていたものだから。
この世の中が、誰かを犠牲にしなければ成り立つことのないものと、理解してしまったから。
なら、まずは戦いを鎮めてしまい、それから新しい手段を模索しよう。
きっとアトリは、そう思い続けて剣を取り続けた。
いつか、そんな日が訪れる。
それを信じ続けて、ただひたすら死地の護り人として、窮地にある人々を救い続けた。
何人、何十人、何百人、あるいはそれ以上の単位となる人々を救い、護ってきた。
それは、文字通り『守護者』としての生き方だった。
だけど。
彼が手にしたものは、もう誰も存在しない死地の姿。
護るべき者も、倒すべき者も、すべてを失わせた、歩みの果て。
誰もが幸福で自由で平等となるような世界など、訪れない。
そんなものは、世界が赦さない。
人々の多くが幸せだったとしても、それに反対となる立場の人間が必ず存在する。
すべての人の幸せを願ったとしても、そんな未来が訪れることは永遠にない。
この世界から戦いを無くしたところで、誰もが幸せになれる権利など、もう存在していないのだと。
どうしてそんなことに気付かなかったんだろう?
飽くことの無い世界の戦いに身を投じれば、いずれそのような瞬間が来てもおかしくはない。
あらゆる人々に利用されながら、それでも人々の笑顔がそこで見られるのならいい、と願った。
そうして、凡人にも関わらず一生懸命に努力した果てが、その光景だった。
本来あるべき姿を消し去り、本来貫くべきはずの理想さえもその手で殺した。
敵も味方も、もうそんなところには存在しなかった。
そのような光景をその手に掴んでも、なお使役される運命にある。
彼は、戦い続けなければならない。
それこそが、自分の生き方であり、自分にとっての義務であると、決まってしまっているから。
その景色を手に掴んで、アトリは絶望したはずだ。
こんなに辛く苦しい経験を積み重ねてきたというのに、
誰もアトリを止める人がいなかった。
いや、きっと止められなかったんだろう。
もし誰かが気付いたとしても、もうそれは手遅れなのだと。
人の為に尽くすのに、自分のことは二の次になる。
他人を優先するあまり、自分を疎かにする。
そんな男の末路など、容易に想像できる。
だけど、そんな末路が訪れたとしても、それさえも受け入れてしまいそうで、怖い。
それが自分の運命だからって、認めてしまいそうで、怖い。
彼はまだ、敗れていない。己の理想にかけて。
一度も敗北することなく、その身が存在し続ける限りその理想も生き続ける。
手にしてしまったその理想、願ってしまったその希望。
だけど。
この話は、アトリのほんの一部でしかないだろう。
もしかしたら、これよりもっと過酷な運命を経験したこともあるかもしれない。
しかも、一人でその多くを背負いながら。
人は一人では生きていけない。
誰かの支えなしでは成り立つことのできない、弱い存在だ。
アトリは、そのように話してくれた。
だけど、それを一番伝えたいのは、貴方自身だ。
兵士になり死地を護る者として行動し始めた後のアトリは、殆ど一人身だ。
寧ろ彼が人々を支える立場の人だった。
戦いという手段で敵に立ち向かい、勝利という結果で人々に安息をもたらす。
だが、そんな戦いがいつまで続くかなど、分からなくて当たり前だった。
終わるはずもない、キリが無い。
そうして、アトリは一人摩耗し続けてきた。
すると、今度はかつての歴史が彼を攻め上げてくる。
マホトラスという、もとは一つの国であった同胞たちが敵となり、束になりかかってくる。
だけど、アトリに迷いは無かっただろう。
何故なら、敵となる者はすべて排除しなければ戦いが終わらないということを、アトリは知っていた。
必然的に、アトリはマホトラスとの戦いに備えなければならなかった。
彼らにはアトリの力を遥かに凌駕する者たち、魔術師がいる。
魔術師を相手にするには、魔術で対抗するしかない。
だから彼は、その力を手に入れ、縋ろうとした。
そうしなければ、自分が殺されるということ以外に、大勢の人々が殺されてしまうのだから。
彼らから人々を護るためには、彼らを消さなければならない、殺さなければならない。
だから彼も、彼らと同じように魔術師になろうとしている。いや、もう既になってしまっている。
そうすることで、より多くの人々を護ることが出来るのだから。
………。
「何人殺したかも分からない。だが、殺した数の何十倍もの人々を救ったことだけは分かる」
「………」
「けど、今も幸せの行先というものは分からないまま。何も形は見えていない」
アトリは、誰かの幸せの為に戦っていると言うが、確かにそのために素直に努力し続けている。
だけど、一つ言えることは、幸せの為と謳う本人が、“幸せというものを知らない”のだ。
無理もない。何年間も死地の護り人として、人を殺し続けながら人々を護り続けてきた。
既にその気持ちも心も、あるいは理想さえも摩耗してしまっている。
こんなにも人々の為に戦い、人々の為になろうとしている人がいるのに、アトリは何も報われていない。
素直に人々の自由や幸せが護られている結果が欲しいと願うアトリ本人が、何一つ幸せではない。
………そうだ。
アトリは、幸せにならなきゃいけない。そうなるべきなんだ。
大勢の人々を護り続けてきた人は、これからもその道を辿り続けるに違いない。
それを止めることなど、もう誰にもできないだろう。
だけど、その過程で自分を幸せにするというものを、否定する必要は無いんだ。
フォルテは、自分の考えが長い長い洞窟の中から抜け出した、光に照らされたような気分を感じた。
この考えはある意味自分にも言えること、それを教えてくれたのはアトリだった。
なら、自分もアトリにそれを教える必要がある、そうするべきだろう。
そのように考えたのだ。
大勢の人々を救っておきながら、救った当人はいつまで経っても報われない。
そんな理不尽なことを貫かなくても良い。
そんな不幸を背負わなくても良い。
たとえこれからどれだけ多くの人を殺し、その何倍もの人々を救うのだとしても…………。
「………無理もないことです。何故なら、貴方自身がまだ、幸せというものを知らないから………」
「………?」
フォルテに言えるようなことでもないが、それでも充分に分かることがある。
彼は銀色の月を見上げながら話していたが、ようやくフォルテがその一言を話すと、
顔を彼女の方に向けた。
その時の彼の顔は、何かとても疑問を思い浮かべるに想像しやすい顔をしていた。
そう。
この人は自分に対する幸せというものを知らない。
誰かが幸せであって、笑い合える生活が自分の手で護られること、それを見られることが、自分にとっての幸せだと考えている。
それは、他人にとっての幸せではあるが、自分にとっての幸せにはならない。
自分事のように思えるが、何も自分に対して返って来るものも生み出されるものもない。
そういう景色をその目でみて、彼は次なる窮地の場へと旅立っていくのだ。
また次も、救いを求めている者たちを、助けられるだろうか、と。
「前にも言いました。人助けをするのは良い、それは決して間違っていない、と。ですが、その先に貴方自身はどうするのか、と」
「………」
「それだけ多くの人々を救い、護ってきたのです。誇って良いこととは言えませんが、それでもアトリは人々の為になり続けている。顔も名前も分からない、どういう存在なのかも分からない者たちを護り続けてきた。なのに、貴方自身は何も救われていないし、報われていない」
「俺が、報われていない………?しかし、そんなことは無いはずだ。俺が人々の為に戦うことで、確実に救われる人々がいる。その結果が成し得るものならば、俺は………っ」
………!!
確かに、俺自身のためと言ってもいいだろう。
それそのものが間違っているとも、言えなかったはずだ。
だが俺は、何か決定的なものを失っているようだった。
「それは他人の幸せであって、貴方の物ではない。他人が幸せであることに喜びや嬉しさを感じるのは全然良いでしょう。ですが、その幸せの所有権の何一つも、貴方は持ち合わせていないのです」
自分がこの手で救えた者、護ることのできた者、その人たちの幸せという席を見て、俺も嬉しく思った。
これで、この人たちが救われるのなら、この先長生きして幸せに生活が出来るのなら、それは俺にとっても幸せなことだ、と。
「………私が言っているのは、貴方自身が持つ貴方の幸せとは何か、ということです。誰かの幸せを護る、築くことで自分も幸せになるというのは、貴方自身が持ち得る幸せとは違う。形の上ではそれで成り立っているとしても、貴方個人が掴んだ幸せではない。自分の為に、もっと言うなら自分の為だけに思う幸せが、貴方には一つも見えないのです」
フォルテが言っているのは、俺自身で幸せを掴むということ。
他人のそれを見て俺がそう感じるというものではなく、俺自身がそうだと感じ取れること。
誰の物でもなく、自分自身の幸せを所有するということだ。
「貴方は、誰かの支えなしでは、人は生きてはいけないと言いました。私は………貴方に、それを一番言いたい。それを知っていながら、常に一人で戦い続けてきた、貴方に。分かっているはずなのに、一人で一人を成り立たせてこれまでを生き続けてきた、貴方にそれを分かって欲しい」
「………」
この時、まだ彼女は彼の身の上話で、根幹となるものを聞いていなかった。
だがこの時に聞いていれば、より一層その想いは強くなったことだろう。
彼も彼女も、立場は異なるが、似たような経験を積み重ねてきた。
彼の父親だった人は、中々家には帰って来ない困りもの。
それ故に、子供の頃、小さなころから一人でも暮らしていけるように、教育させられた。
まだ少年だという頃に、既に自立できるほどの生活観を身に着けていた。
彼は、一人で成り立たせることが可能だった。それが出来る人だった。
それが長いこと続いていき、兵士として死地の護り人になってからは、一層その手段が加速した。
死地に赴く王国の兵士はおらず、彼ばかりが死地で戦闘を繰り返す。
時に相手を完膚なきまでに潰し、時に多くの味方を失う。
あの日に手にした光景は、敵も味方も両方とも失わせてしまったもの。
それでも、彼一人だけは生き残った。
どれほど人の幸福を願って戦ったとしても、その果てに手に入れたそれは、すべてを失った光景だった。
彼だけが生き残り、その果ての光景に絶望を感じながらも、再び彼は一人立ち上がる。
ここで救えなかった人の為にも、今度こそは、と。
アトリは、孤高なる存在だった。
それが成り立ってしまうほど、彼の生活は誰からも理解されなかった。
彼もそうと分かっていて、話すことをしなかったこともあるだろう。
「………そうだね。自分で言っておきながら、本人はそれから遠い存在だったのかもしれない。今まで何を支えにしてきたのか、と言われれば、正直答えるのが難しい」
彼が考えていたのは、強いて言うなら、それは「剣」だ。
戦うための道具であり、それ以外の役目を見出すことのないもの。
それを手にしたが最後、血塗られずして収められるものではない。
彼の理想を体現させるために必要不可欠な物であり、まるでそれは彼の半身とも言える。
その物なしには何も成就することが出来ない。
彼は心の中でそう思っていたが、これは彼女にも想像がついていた。
もし支えというものがあるのだとしたら、それは人では無く物だ、と。
「………巻き込みたくない、そう思っているんでしょう………?」
「………ああ、否定はしない。こんなやり方、誰に肯定されるはずもない。理解を求めたところで、フォルテの言うようにそれは異質だ、異常だ、と返されるだけだろう」
「………」
―――――――アトリ、聞いて下さい。
その瞬間、これまで以上に彼女の目が真剣になったような、そんな気がした。
彼はまるで彼女にそう訴えられたかのように、自然と彼女の方を見た。
少しだけ、彼女の唇が震えている。
お互いの間隔は、人一人分。その真ん中に、湯飲みの置かれたお盆がある。
「………前にも話したように、私にも貴方の生き方は理解できない。貴方がその理想を掲げて努力するのは良い。けれど、この世界は私や貴方が思う以上に広い。私のような人間もいれば、まだ見ぬ人々もこの先出会うことでしょう」
「………」
声も少しだけ震えているように、彼からは聞こえる。
恐らく彼女がそれなりの気持ちを入れて話している内容なのだと、彼にも分かる。
彼女とて多くの経験を積んできた女性。
ほんの少し前までは、自分のことを話すことも、自分の気持ちを表すことも殆どしなかった女性が、
目の前にいるフォルテだ。
………だというのに。
「私はその生き方を止めることは出来ない。恐らく他の誰にも、貴方の理想を封じることは出来ないでしょう。その理想はやがて醒めて消える………それは、恐らく貴方がその理想を前に敗北した時」
「それはつまり………この俺が、死ぬとき」
はじめから分かってたことだ。
この身が理想の為に尽くされると決まった時から、それが醒める時は死ぬ時だ、と。
フォルテも的確にそれを伝えている。
簡単に死ぬわけにはいかないし、今ここに生があることを次に活かさなければ。
戦いは今もどこかで続けて行われている。
一つひとつ解決するためには、やはり戦う以外に道は無い。
だとしても、この身がある限り――――――――。
―――――――――私は、貴方を死なせたくはない。
……………。
何もかもが、一瞬固まったかのようだった。
空も大地も自然を流れる空気さえも、止まってしまったように感じた。
その言葉が、あまりにも衝撃的だったから。
「………フォルテ………?」
何故、そこでそのような言葉が出てくるのか。
それこそ理解に苦しむものであった。
あまりに突然すぎたために思考が追い付かない、というのもあった。
だが、彼女の目を見れば、それがいかに本気で伝えようとしているのかが、分かる。
理由は定かではないのに、どれほど勇気を出しているかが、窺える。
それは何故?
「私の、その………我儘だ。そう思ってもらっても構いません。ですが……私はもう、誰も失いたくない」
「………」
もう、誰も失いたくない。
その言葉の意味は、彼女の過去の経験からきているものに違いない。
彼は彼女の過去を聞き、その経緯を知った。
ある時、彼女は使役され続けてきた屋敷を自らの手で抜け出したという。
彼女がかつて関わりを持っていた、ある男性。
もうその男性と会うことは無いだろうと、彼女は彼に伝えている。
アトリはその全容を把握している訳では無いが、想像することは出来ていた。
彼女自らがその手で起こしたことなのだから。
「覚えておいて下さい。アトリ、貴方は確かにいつも一人で考え、行動し、思考し続けてきたかもしれない。けれど、それが自分一人だけのことではない、ということを。貴方が大勢の人々を気にするように、貴方を気にする人も確かにいるのです。だから私は、貴方を失わせるようなことを、させたくはない」
私は、アトリに感謝しているのです。
貴方が来てから、私も私自身のことに気付くことが出来た。
先日貴方が私に言うよりも前に、私は自分のこれまでの異質さに気が付いた。
それは、貴方という存在を間近で見て、それがどのようなもので成り立っているのかを知ったからです。
我儘だとは分かりますし、自分勝手なのも承知です。
それでも、貴方が来てから私は少しずつ、見えていなかったものが、見えるようになった。
「っ………」
「これは、私個人の望みです。ですがそれでも……貴方に、心のどこかにでも覚えてもらいたい」
彼女は、真っ直ぐな眼差しを彼に向けていた。
彼は驚きながらも、その表情をしっかりと見ていた。
整った美しい顔を持つ女性の、本気の込められたその視線。
胸の奥底、心に突き刺さるほどのものにも感じられるそれは、確かにフォルテの望みと言えるだろう。
彼女自身がそう言うように、これは彼女の個人的な望みで、我儘とも言えるし身勝手だった。
彼の生き方に彼女の存在がどのように関わるかなど、今の時点で分かるものではない。
アトリは必ず、死地に還る。
その瞬間は近々訪れる。
もしここを離れ、どこか遠くへ行ってしまったとしても、彼に忘れて欲しくはない。
多くの人々を救う一方で、多くの人々に利用され、失い続けてきた人生。
だけど、中には彼のことを思ってくれた人だって、いたはずだ。
その気持ちを、簡単に消してしまってはいけない。
それを彼女は言葉で伝えたかったのだ。
自分も、アトリを気にするまさにそのうちの一人なのだと。
………。
素直に、その手を握れば良かったのかもしれない。
たとえどのような生活をしていようと、誰にでもその幸せを得る権利はある。
そう思って、真っ直ぐにその問いに頷けば良かったのかもしれない。
だが。
それで、本当にいいのか?
そう思う気持ちも分かるし、そう訴えていることも分かる。
分かっている。
分かっているはずなのに、しかし………
………。
3-32. その手に得るものは




