3-29. 起源と根源(Ⅱ)
自分の過去を話す彼女の顔は、いつにも増して悲しそうに見えた。
それも無理のないことだ。
彼も初めて知った、彼女の過去の物語。
過ぎてしまったこととはいえ、彼女の口から語られるものは、彼女だけが知る事実そのもの。
その事実は、あまりにも普通とはかけ離れているものだった。
自分は幾度も助けられた。だから、助けられた人の為に自分は尽くす。
それがたとえ奴隷のような意志を持たない生活であったとしても、そうすることでその人たちの為になるのなら。
自らの意志を封じ込め、自らに高い壁を作り、そして根源となる自分そのものを追いやる。
それが、望まれずして産まれ育った彼女の、始まりだった。
「ある………男性………」
「その屋敷の一家も、小さな町とは言え他家と関わりが無い訳ではありませんでした。内では面倒な関わり合いと思っていたとしても、表向きには交友関係を示さなくてはならなかった。なので、私という存在が外に知られた時、そんな形式のために私は外に出る機会を得たのです」
彼女は昨日、夕暮れ時に小さな町で育ったと言っていた。
アトリにも経験が無い訳では無いが、小さな町というのは町の殆どの人がお互いを知るような関係だ。
その関係が身近であればあるほど、お互いの情報は行き来する。
フォルテが身売りされた屋敷も、それに近いような状態があったという。
彼女の存在を表舞台に出すことを主は薦めなかったようだが、周りとのお付き合いもある。
そのため、彼女は偽装された姿で他家の前に出ることがあった。
裏では奴隷のように酷使された生活を送っているが、表向きには勉学と体術に励む子供として、世間にその存在を知られることとなった。
家の管理者たちも、彼女がよく運動の出来る子供だということを知っていた。
だがそれは、彼女自身が夜な夜な自らを鍛錬させていた証であり、その事実を管理者たちは知らない。
「私の身体が今のように動かせるのは、その男性と出会ってからの影響が大きいです。魔術のことは誰にも話しませんでしたが………その男性と出会って、剣術を共に学ぶ機会を得ました」
――――――――――その男性とは同じ年齢で、道を挟んで向かいに引っ越してきた一家の息子でした。
彼女が出会った、とある男性。
屋敷の奴隷のような扱いを受けていながらも、表向きには屋敷で勉学を励む少女として存在していた頃。
道を挟んで向かいにやってきた一家との関係があり、一家であいさつしに行くことがあった。
お互いの家の関係がこれから出来上がるとなると、フォルテという存在を隠し続けるのには難がある。
そこで表舞台に登場した時に出会ったのが、彼女が言う「その男性」。
歳は同じで、関係があるとすれば、はじめはただの向かい側の隣人というもの。
「私が外に出る機会が多くなったのは、その隣人である彼が、よく家の傍で遊んでいたからです」
「………その人が、フォルテを呼んだということか?」
「はい。なので、家の仕事が片付いたら遊びに行く、と彼には伝えて、よく待たせたものです。はじめは他愛のない話ばかり、それからしばらくして、彼もまた剣術を学ぶ人だということに気付いて………」
………。
―――――――――なら、一緒に勉強しよう!!
―――――――――え………でも、私は………。
―――――――――いいじゃない、一緒にお互いを高め合おう!!
彼女からすると、あまりに突然すぎたことだろう。
剣を学ぶ者同士、引かれ合うものがあったということだろうか。
彼女は自ら一人で剣を学んでいたのだが、その男性をキッカケに、共に学び始めるようになった。
その姿を、屋敷の管理者も確認していたことだろう。
フォルテが剣術を隣人の男から習っている。
ただの奴隷として扱っていた女性に、無用な知識が蓄積されていく。
しかもそれは、時に己を護るものにもなり得る力強いもの。
それを、管理者たちが良く思うはずがない。
そんなことくらい、全く当事者でも無い彼でさえ想像できることだ。
しかし、この時のフォルテには何も拒否することが出来なかったのではないだろうか。
目の前で起こるあらゆることが、いずれは当然のごとく受容できてしまう、この時の彼女には。
だから、その男の誘いにも断ることが出来なかった。
決して悪いものを持ち込んだ訳では無いであろう、その男に対しても。
彼女が、小さな町で見た夕陽を懐かしむのも、この経緯があってのことだろうか。
情熱的で勉強熱心で、何もかも真剣に取り組んでいた彼の存在は、
ただ利用されるだけの毎日で、埃さえ被りながら生活をしていた彼女から見れば、
とても輝かしいものであった。
自分とは異なる生き方をしていて、それ故に充実した生活をしていたことだろう。
そんな彼を見ていると、自分も少し気が楽になる。
傍に楽しそうにしている人がいる、真剣に物事に取り組む人がいる。
それを見ていると、自分も嬉しくなれるような気がして。
壁の中に閉じ込められたり、理不尽なことで蹴り飛ばされたりしても、
外に出て彼と共に鍛錬をすることが出来る時間。
彼女にとって、それは生きるうえで何より大切な時間だった。
………しかし。
「ですが、私は私自身の手で、そんな日々から抜け出しました」
「………!?」
「何を告げる訳でも無く、何を伝える訳でも無く……そんな意味すら持たずに」
私は、すべてを棄てました。
私自身が、そう願ったのです。
彼女ははじめに言った。
その男性とは、もう会うことはないだろう、と。
そして、自分の意思でその屋敷から抜け出したことを、彼女は打ち明ける。
普通の人であれば、それはあまりに苦しい生活の連続だったことだろう。
日中はある時間しか光を浴びることも赦されず、夜は暗く寒い壁の中で一夜を過ごす。
彼女に人間らしい姿が残されているとすれば、夜な夜な自分の為に鍛錬を続け、決して休まずに
力を蓄え続けていたことかもしれない。
それも、彼女がいつの日かそんな時を迎えるために、準備をしていたものだと考えると、皮肉なものだ。
彼女は不純な魔力を与え続けられたが、それを何の参考も無しに、自らの力だけで矯正させた。
魔術師となる者は、基本的には魔術を知る者からその教えを受けることで、行使をすることが出来る。
一人で迷走し続ける魔術師の末路を、彼女は知っている。
何より傍で一番よく見続けていたからだ。
だが、そんな危険を冒してでも、彼女は自らの体内を調整させた。
そうしなければ、自分の命が無くなってしまうことを知っていたから。
どのような状況に至ったのか、想像が出来ない彼ではない。
あらゆる死地で様々な出来事を目撃し続けてきた彼であれば、そんな生活の末路は想像できる。
かつて、自分が経験した、敵も味方も皆失われてしまった、あの時のことを思い出せば、
彼女の選択肢とその行動がどのような経緯を生み、結果を作り出したかは、イメージできる。
その彼とは、もう会うことが出来ない。
自分の意思で、自分の力で、屋敷を逃げ出したとするのなら、方法はある程度限られる。
彼は彼女が自ら決断を下し、その道に奔る姿を一度、ポーラタウンで見ている。
たとえ奴隷のような、意志さえ持つことのない人形がいたとしても、その決定権は最後まで自分の手中にあったことだろう。
―――――――――逃げ出したい。この苦しみから、解放されたい。
彼女は、屋敷に引き取られてからその屋敷を離れるまでの過程を、そう詳しくは話さなかった。
だが、一つ確実に言えることがある。
彼女はそこでの生活を、その当時は間違いなく苦に思っていた。
そう思っていながらも、誰にも打ち明けることが出来ない日々が続いた。
あまりに孤独な日々の連続だっただろう。
本来、人間というものは一人では生きることは出来ない、難しくも単純な生き物だ。
彼女もまた、同じように一人では生きられないはずの人間だった。
生まれた時から特殊な能力を身に着けられ、望まれない生活を受容させられ、その過程で自らの意志の多くを失った。
愛情もなく、感情は欠如していき、表情は曇ることさえ無くなった。
常に平静を被り、どのようなことを思ったとしても、それを表に出さなければ何も言われる心配はない。
奴隷なりに考え抜いた、この苦しみから逃げ出す方法の一つが、自らを封じ込めることだった。
そんな彼女の根源は、とうの昔に折れている。
かつての彼女は既に失われており、その彼女は失われてしまった過程を取り戻すことが出来ない。
そうして。
彼女は自らを塞ぎ込む決断が間違いだと気付かずに、ここまで来てしまったのだ。
すべてを棄て、逃げた。
それを話す彼女の拳が、とても強く握り締められているのを、よく見ていたアトリ。
彼も似たようなことを経験したから、分かる。
その手にかけた命の重さは、計り知れない。
それが自分勝手の思いであったとしても、いつしかそんなことさえ間違いだと気付かなくなる。
他人の為に尽くしてきた者が、自分の為に行動した、瞬間だった。
風が流れて行く。
自然の音が鳴る中で、二人の会話にようやく沈黙が生まれた。
その時点で、今の彼女の話せることは話したのだろう。
もちろん、彼としてはこれが彼女のすべてだとは思っていない。
だが、今の彼女を形成する経緯は、充分に聞くことが出来た。
自分の思いを封じ込め続けてきた少女の、今の姿。
フォルテは、その屋敷を抜けた後にパトリックと出会い、そして新たな魔術を会得したと話す。
彼と出会ったのは、一人で途方もなく歩いていた、雨の日のことだったという。
今まで扱っていたものとは別の物だという辺り、彼女は適性の上書きをしたものと考えられる。
当時のフォルテは、恐らく今以上に荒んだ状態だったはず。
今はパトリックの教育もあり、人間らしい姿も充分にみられるようになった。
だが、彼は確信している。
彼女の心は今も、苦しみ続けている。
あの頃のまま、自らを封じ込め続けている。
「………やっと、話してくれたな」
「………?」
「はじめから思っていたことがある。この人はなぜ、自分を表に出さないのだろう、と。それにはきっと深い理由がある。俺からすると、俺はただの居候のような人間。それを聞くのは、貴方に失礼だろうと思い続けてきた」
沈黙を静かに破った声の主は、アトリ。
自然に流れる音がある中で、その声はハッキリと彼女のもとまで聞こえている。
「はじめは、ただ単純に他所から来たこんな男は、嫌われているんじゃないかって、思ったりもしたよ」
「あっ………い、いえそんな―――――――」
「いや、良いんだ。それが事実であろうが無かろうが、第一印象は大切に保管しておくべきだ。それ以上に、俺から言い出したとはいえ、それに応え貴方が自分のことを話した、ということに意味がある」
パトリックは言っていた。
――――――自分を塞ぎ込んだまま進んでしまうと、それが当たり前になって落差など感じなくなってしまう。
彼のその懸念は、もはや懸念ではない。
現実に彼女の身に起こっていることと言えるだろう。
既に彼女は自らを壁の中へと塞ぎ込み、ここまで進んできてしまった。
その裏では、パトリックがどれほど苦労しながら彼女にあらゆる教えを与えたのか、
想像が出来る。
彼女のすること成すことに、明確な善意は無かったのかもしれない。
ただ、自分は助けられたから、助けられた人の為に自分の身体を使う。
それが人の為になるのであれば、それで良い。
そうやって感情を遠くの引き出しへ仕舞い込んだ彼女は、いつしか自分という存在に興味を持たなくなった。
この身体は魔力によって生かされているだけの、意志もない人形のよう。
――――――――私にそのようなものを求める権利はありません。
だから、自分に対しての欲だとか希望だとか、そんなものは払い除けられた。
本来人間として持つべきものを失われた彼女は、それすらも当たり前のことだと思い込んでしまい、
自らの「異質な生き方」に気付かなかった。
嫌だと思うことも、逃げ出したいと思うことも、その感情や思いも遠くへ閉じ込めてしまった。
彼女がそういったものから抗いたいと願ったのは、それを行使したのは、恐らく彼女がその屋敷の生活から抜け出す時。
彼女の言う「その男性」と離別する瞬間だっただろう。
もしかしたら、そう願うことさえ間違っていると自分では思っていたかもしれない。
元よりこの身は滅んでいる。とうの昔にいなくなった、偽物の自分。
偽物という姿を与えられたにも関わらず、自ら偽物という存在を成り立たせ、加速させてしまった。
自ら贋作者となり、自らを遠くに追いやった彼女。
そうか。
だからパトリックは、キッカケという言葉に強く反応したのか。
パトリックでさえ、変えられないものもある。
変えてしまってはならないものも、当然のように存在することだろう。
それでも、パトリックはフォルテの今の状態が本当の姿だとは、絶対に信じなかった。
彼も同じように、彼女のことを思いながら、彼女の為に一生懸命工夫をしていたはず。
彼女自身、自分を変えることが出来ないというのであれば、彼女を変えるための歯車を動かす存在が必要となる。
それがキッカケ。
自分でも無く、当人でも無く、第三者の目から見た、姿から見た、キッカケが必要なのだと。
「話さなければ、伝わらないことがある。言葉にして伝えなければ、相手に分かってもらえないこともある。正直、自分のことを他人に打ち明けるというのは、あまり気持ちの良いものではないだろう?」
「………」
彼女は無言で答える。
彼女には、自分のことを知って欲しいという望みや願いが、殆ど無かったことだろうから。
少なくとも、この時が来る前までは。
どちらかと言うと、アトリも自分のことは話さないタチの人間だった。
誰かに話すような環境にない、という点においては、フォルテと似たようなもの。
しかし彼女のように、強制的にそのような生活を強いられていた訳では無い。
彼と彼女の違いは、その根源が自分の意志で生み出したものか否か、というところなのかもしれない。
「けれど、人はそうやって誰かに自分の何かを打ち明けるんだ。たとえ相手に話したとして、何も変わらないものだったとしても」
「何故、ですか?話しても何も変わらないというのなら、別に………」
「………そうだな、今のフォルテに鏡を見てもらいたいよ。この場に無いのが残念だ」
「かが、み………?」
今の彼女には、それが自覚できなくても何ら不思議ではないだろう。
何故なら、偽りの自分が常に当然のことだと思い、それが正しい姿だと偽り続けてきたのだから。
その表情は、今の自分のものではない。
本来根源にあった、失われた自分のものだ。
でも、たとえそれが偽りによって生み出された、他人の自分のものだったとしても、
大元は自分のものであることに、変わりはない。
今のフォルテの表情は、辛そうだった。
彼女は、知らず気付かずに、その感情を表に出していた。
「そうだ。何も変わらないものだったとしても、その苦しみや辛さを、誰かと分かち合うことは出来る。共有することが出来るんだ」
「………」
「人は一人では生きていけない。誰かの支えなしには成り立つことの出来ない、弱い存在だ。弱いからこそ、人は自分を存在させ続けるために、誰かを頼ろうとする。他人に迷惑をかける。だがそんなことは当たり前のことだ。そして必要なことでもある」
――――――――――辛い時は辛くて良いし、苦しくても良い。それを隠す必要はない。
「そこから、また立ち直れるよう努力すれば良いのだから」
………。
私は、気付かずにここまで来てしまっていたのだろうか。
そんな、言われれば簡単なことに今まで目も向けずに、こんなところに至ってしまったのだろうか。
自分を助けてくれた人の為に尽くすのは、当然だと思った。
この人も、それは間違ってはいないと言っている。
人助け、善行は大事なことだと。
でも、この人が本当に伝えようとしていることは、私自身のこと。
私という身体のことではなく、私が持つ心のことだった。
他人に何かを打ち明けたところで、状況は変わらない。
何も変わらないし、何も変えることは出来なかった。
だから、そのままでも良いと思った。
どうせ変わらないのだから、何もしなくても時は過ぎていく。
ただ、私自身が“苦しみだとか辛さだとか”、そんなものから逃げるために。
逃げるために、逃げようと思ったその自分さえも、閉じ込めただけ。
でも、これに気付いたのは、今この時ではない。
うっすらと、掴めそうで掴めないようなものを感じたことは、ある。
――――――――――誰かが笑って過ごせるようになるのなら、それを見ることが出来るのなら、俺自身も嬉しいことですから。
誰かの為になろうとする少年の姿を、私は知った。
多くの人を護り続けながら、それでも素直に結果を求め続ける少年の気持ちを、私は知った。
でも、同時に思ったことがある。
たとえその身が果てようとも、心は折れない。
ただ純粋に理想に近づくために追い続ける、そのために戦い続けるその姿。
私は、それを異質な生き方だと、思った。
誰かを護るための剣。
その誰かがどのぐらい存在しているかも分からない。
人を護るために、人を斬るその生き方。
外敵を排除しなければ、幸福という席は存在しないこの世界。
立場も違うし、状況も異なる。
だけど、どことなく似ていると思った。
もしかしたら、もしかしたら、と。
つい最近のことだった。
それまで当たり前だと思っていたことが、そうではないのではないだろうか、と思い始めたのは。
私自身、異質な生き方をしていたのかもしれない。
あの人の、アトリのあのような生き方を見て、いつかの自分はその道を歩み続けていたのでは、と。
………。
彼女が、自分自身の生き方について考え直した瞬間は、アトリがここに来てから始まっていた。
彼は兵士として、自分の理想を掲げるための力が欲しいと言った。
その力の使いどころは、人々を苦しめ続ける戦いを鎮めることで、いずれ人々を護ることが出来るというもの。
彼は彼女のように自由意志を持たなかった訳では無い。
自らを遠い淵の底に追いやった訳でも無い。
彼と彼女の違いとしては、彼女はここに来るまで望まれずして、屋敷の人々の為に時間を費やしてきた。
彼は、自らその行先を望んで、多くの人々の為に時間を費やしてきた。
お互いに立場も異なるが、やや似ているものはあった。
彼は望んで人々の為になろうとする、そのために力を得て、もっと多くの、収拾のつかないこの世のあらゆる人々を護ろうとする行為を望んでいる、その姿を見て彼女は思った。
そんな彼に力を授けては、いずれは世界にさえ利用される時が来るだろう、と。
そこで、彼女は気付いたのだ。
自分が今までしてきたことの根深さを。
人助けが善行であったとしても、その計りには限界がある。
自分はその末にこんな姿になったのだろうし、これから彼はその先に行こうとしているのだと。
「………貴方は、本当に優しいのですね」
「え………?」
「貴方の伝えたいことは、分かったような気がします。私にその優しさはもったいないくらいだ」
彼にも分かる。
彼女は、恐らく自分の何かに気付いたことだろう。
今この場で気付いたとしても、それですぐに彼女が変わるかと言えば、恐らくそうではない。
すぐに変われるほど根の浅い話ではない。
彼女は今まで十年近くも、本当の自分という根源から離れていたのだから。
むしろ、彼女はここから改めてスタートしなおすと言っても過言ではない。
失い続けたばかりの人生だったが、失われるばかりではない。
彼と出会い、彼のことに気付き、そして自分のことも気付かされる。
自分さえ異質だったその在り方に気付き、根底にある自分という根源に気付いた。
これで、少しは状況が変化するキッカケが整っただろう。
だがこれが終わりではない。
もっと、彼女が新鮮で幸せに送れる毎日があれば良い。
そのために、出来ることをしていきたい。
それが今の彼の思いだ。
「………けれど、それでも、身に染みたような気はします」
――――――――――ありがとうございます。アトリ。
はじめ出会った時と、今とでは心情は大きく異なるものだろう。
彼自身、まさかこのような彼女に出会うとは思ってもいなかった。
ここでの生活は新鮮味が強い。それゆえに、新しい発見もそれなりにある。
彼女の存在、彼女の過去というのも、そのうちの一つと言っても良い。
決して良い話ではないし、疎かに出来るようなことでもない。
彼女は今まで十年ほど、自分ではない自分を知り尽くして使い尽くしてきた。
その生き方が完全に失われること、根源を知ったからといって、元の生活に戻ることは無いであろう。
だが、そうだとしても、もしこれが新たな運命の始まりなのだとしたら。
道は確かに、示されている。
彼が、彼女の為を思い、その道に彼女の手を繋いで進み始めようとしていた。
その、引き出しから物を取り出し、今までになかった新しい者へと進むための、
道は示された。
そのことに、彼女は彼に面と向かって、「ありがとう」と。
そう一言、少しの微笑みを込めながら話したのだ。
………。
3-29. 起源と根源(Ⅱ)




