3-27. 今はその剣を置いて
「修行を受ける側の俺が言うことでは無いが……フォルテ、たまには息抜きしないか?」
「息抜き、ですか?」
その日の始まりは、本当にいつもとは違うものだった。
彼が意識あるうちにここにきて9日目を迎えていたのだが、朝は彼女の寝ている顔を見たり、動揺している姿や赤面する顔も見た。
朝食を作りに来ないから、彼女を起こしに行くこともした。
結局彼から起こすことはしなかったが、彼女がいつもより遅く起きた理由は、彼にあった。
彼女は彼の為に魔術鍛錬に使えそうな手段を調べ、知識を得て、それを彼に与えようとしている。
いつも彼女は夜をパトリックの住む本家ではなく、こちらの家で過ごしている。
そのため、本家に部屋を借りているアトリからすると、夜彼女が何をしているか、というのは分かる話ではない。
あまりにもプライベートな話ではあるので、そこまで介入するかどうかは全く分からない。
ただ、彼女はその夜の時間を使って、彼のために勉強している。
彼が魔術を強化させ、術者として行使できるようにする。
この鍛錬は彼に基礎から教え込む為にしているもの。
彼女は少しでも彼の力になろうと勉強もしていたし、教えてもいた。
その心の内に迷いがあることを、彼は知らない。
だが、それでも彼女は彼の為に自分の時間を費やしていた。
彼は、そのことに対しありがたみを感じつつも、申し訳なさも感じる。
アトリにフォルテから魔術を教える、というのはパトリックが言ったことでもあるが、
彼女自身もそれを承諾している。
だが、魔術を教えるために費やしている時間は、本来は別のものの時間であったことに違いはない。
アトリがこの家に訪れてから、少しばかり生活感が変わっているとも言えるだろう。
彼は、自分の為に時間を使ってくれる彼女を、心配していた。
いつもの調子で毎日鍛錬を続けても良いかもしれないが、それでは彼女も疲れることだろう、と。
だからこそ、たまには鍛錬も控え目に、息抜きも必要ではないだろうか。
言葉は足らないが、彼は彼女にそう訴えていたのだ。
「そう。ここまでの鍛錬の調子は、それなりに順調だと思う。まだフォルテに比べれば半端ものだが……それでも、実戦に使えるところまではきていると思う」
「ええ。アトリのそれは、もう一人前のレベルとして見ても良いでしょう」
「ありがとう。だから、ここで一つ休息を取って、また次に備えないか?お互いの為に」
「………」
フォルテは考える。
鍛錬とは毎日欠かさず続けることで、より効果を生み出すことが出来るだろう。
だが一日でも鍛錬しない日があれば、その効果は何日も前に逆戻りするのではないだろうか。
アトリは何も一日全く鍛錬をしないと言っている訳では無い。
彼が楽したいと思うことは無いだろうと思うが、お互いの為にという言葉を彼女はしっかりと聞いていた。
アトリが楽をしたいと思うような人間でないことは分かっている。
あれほど鍛錬に集中して、この短期間でかなりの強化を加えることが出来た、並外れた能力を持つ人。
しかし、今日のアトリにはそのような必死さを感じない。
恐らくこれは彼が意図的に自らを調整しているのであろう。
余裕、というものなのかもしれない。
彼女は気付く。
これは、彼からの提案。
師として鍛錬を主導するフォルテに対し、彼が気を遣って休もうと提案していることを。
「そうですね。貴方が言うのでしたら、そうしましょう。確かに、たまに休息も必要ですね」
表情は説明要らず、いつものよう。
だが、その声色はどことなく落ち着いていた。
アトリの提案を受け、彼女も優し気に回答した。
彼からそのような提案を受けるとは意外だと思ったが、それもたまには悪くない。
鍛錬を重ねることは重要だが、それがいつも厳しいものである必要はないのかもしれない。
そう思いながら、彼女は次の言葉を繰り出す。
「それで、アトリはその時間を何に使いたいのですか?」
「………………」
あ、と言いそうになった自分に何とか制動をかけた。
自分は何を考えているのだろうか。
確かに彼女に少しの休息を提案したはいいが、その時間を何に使うべきなのだろうか。
いや、それより休息と実際に言ったはいいが、何をすれば休まるものか………?
悩むのは、彼らしい。
言葉に詰まり何を話そうか迷っている彼の姿を見て、彼女はそう思う。
休息と言っても何をしたら良いのか、何をすべきなのかが分からなくなる。
彼の人となりや今までの経緯を多少なりとも考えれば、それも不思議とは思えなくなる。
死地に出向き戦いをし、日常的に鍛錬や移動を繰り返していれば、普通の人が味わうような休みというものは中々彼には無いものだろう。
彼女自身も、自分は普通の生活を送ってきたなどとは思っていないが、それでも彼とは比べることは出来ない。
彼の生き様には、こういう「ごく当たり前の生活」が含まれていない。
「全く。何も考えずに言葉だけ口に乗せていたのですね」
「あ、あぁいやしかし、いざこういう時にはどうするべきか、と………」
「ですがそれも、何となく貴方らしい。分かりました、茶を淹れましょう」
今度は彼女が彼に提案をした。
パトリックは農作物以外にも茶葉の栽培を行っている。
気候や土地の条件などもあり、栽培方法はそれなりに難しいのだが、
彼は比較的早期に収穫が可能なものを多めに育てている。
茶葉なら使い切らないほど在庫があると言い、彼女はそれを使ってお茶でも飲もうと彼に話す。
彼としてはそれ以外の何かが思い付く訳でも無く、
あっさりと彼女の提案を受け入れてしまった。
自分から提案したことなのに、彼女にすることを決められてしまい少し情けなく感じる。
だが、そんな時があっても良いのだろう。
フォルテは、アトリに道場の入口付近で待っているように伝えると、暫く準備をして彼女はやってきた。
盆に湯飲みを二つと急須を乗せて、彼のもとへとやってきた。
それを彼のすぐそばに置くと、彼女は扉のすぐ隣の壁に手をやる。
何をするかと思えば、壁に不自然に取り付けられていた取っ手を掴み、壁をスライドさせた。
実はこの道場の外からの入口は、簡易的な縁側にもなるような仕組みを持っていたのだ。
本家の方にも立派な縁側があるのだが、もしかするとこれはパトリックの趣味なのだろうか。
入口周囲の空間が広くなり、外からの光も差し込んでくる。
二人は、少しだけ距離を置いて座った。
「飲んでみて下さい」
「あぁ。頂きます」
フォルテの淹れるお茶が初めてだったという訳では無いが、
心から美味しいと思える淹れ方だった。
茶の独特な風味を感じさせながらも、喉の奥まで深い苦みとコクで潤していく。
思わず笑みを浮かべるほどの美味であった。
彼の飲む姿を見ていたフォルテも、自分の湯飲みを取って一口入れる。
そして、「ホッ」と一息ついた。
「うん、実に美味しい」
「そうでしたか。お口に合って良かったです」
「美味しいお茶を頂く機会など中々無いものだから、本当にいいね」
実に落ち着いた時間を過ごしている。
いつもの、あのような光景では考えられなかったような、そんな時間だ。
心地良くあたる風が、あの戦争の悲惨さを少しだけ忘れさせてくれる。
決して逃れられない枷に囚われ続けている。
今もかの地にあり続ける残滓、それを味わい続け、浴び続けてきた少年。
今のこの時間は、あのような残酷な景色とはかけ離れた、自然に溢れ一人の少女と共に茶を飲むひと時。
まるで別世界の同じ時間軸にいるかのような。
何度だって思い返すし、思うこともある。
これが普通の人の生活であるのだとしたら、自分は相当外れた生活をしてきたことだろう、と。
それを羨ましく思うことは無い。
彼はそういったごく普通に幸せを送ることのできる生活を、誰かの為に実現させる立場の人間なのだから。
即席だが壁をスライドさせ作った縁側で、二人は静かに茶を飲みながらゆったりとした時間を過ごす。
アトリは両手を後ろにつき、身体を支えながら景色を見続ける。
フォルテは正座をしながら、時頼彼の分のお茶も急須で入れ、自分もまた飲んでいる。
今日の鍛錬は程々に、二人が提案し合ったこの時間を大切に過ごしていた。
その大切な時間を、無駄にするわけにはいかない。
またとない機会となることだろう。
これは、お互いにとって辛いものとなるかもしれない。
この休息がただの休みという意味だけを持つものではない。
ただ。
この機会は、必ずお互いの為に必要となるものだ。
「しかし、羨ましいな。家事も出来て料理も上手、そのうえ運動も出来るだなんて」
「……そうでしょう、か?私から見れば、アトリのその身体能力が羨ましいです」
「ははは。これでフォルテに一本も取れないのだから、困った話だよ」
様々な女性を今までに見てきたが、まだ出会って10日ほどしか経っていないフォルテが、一番家庭的な面を難なくこなしているように感じられる。もっとも、この評価は彼が普段そのような場面に出くわすことがないため、今回生活を共にしているという普通とは違う生活をしていることによって生じている評価である。
兵士時代の師とも呼べる存在であったクロエは、そういった生活観を気にしない人だった。
食べ物はジャンクフードと呼ばれるものが多く、家事は必要な時にしか手を触れなかった。
エルラッハ国王の娘であるエレーナは、クロエに比べれば幾分も家庭的な側面を持つ女性だったが、彼女も王家の一員ということで、周りの人たちが「エレーナ様にお手を煩わせまい」と準備をし、彼女の出番が無かったという理由がある。
それも含めて、間近でこのような姿も見られるフォルテには、他の女性よりも高くそのように感じていたのだ。
家庭的な面であれば、少女のような年齢だったとしても、出来る人も少なくは無いだろう。
だが、彼女は他の人とは明らかに違う点が幾つもある。
その大部分が魔術や戦闘といった世界観に長けているということ。
支援魔術という術者が殆ど居ないとされる魔術を行使でき、その手はたとえ瀕死状態にある少年でさえも時間をかけて復活させてしまう。
いざ戦闘となれば、全く戦う手段が無くとも現実世界に物を投影するという離れ業をし、剣も弓も得意なのだという。
兵士であるアトリをも凌駕するその身体能力と、並外れた魔術行使が出来るその身体。
それは普通の人と呼べるようなものではない。
彼が「多くの人の幸せを護る為に」と、自国やその周囲の争いを止めるべく戦うのと同じように、
彼女も魔術や剣術、弓術といったものに触れる経緯が必ず存在する。
アトリは、前からその経緯と、彼女の人となりとが大きく関係していると読んでいた。
全身を黒のスーツ姿で身に纏い、表情を出さず冷静冷淡な性格の持ち主。
その彼女の姿は、本当の彼女の姿ではない。
何らかの要因が何らかの事態を生み、それが彼女をあのような姿にさせているのではないか。
だとしたら、そんな呪縛のような生き方をし続ける彼女のそれを解放するには、やはり彼女の過去を
知る以外に道は無い。
普段からこのような性格や人となりであるとするならば、昨日の夕刻の時のような姿や、
共にポーラタウンで戦った時のような、あの姿にはならないのではないだろうか。
だからこそ、彼には知る必要があった。
彼女が自分自身を閉じ込めているものだとすれば、それを解き放つために。
「それで、フォルテはどういった経緯で、魔術や剣術を?」
「っ………」
この言葉が語られた瞬間、二人の奇妙な距離感は崩壊するかもしれない。
その怖さは拭いきれない。
だが、自分がそのようにしたいと望むのであれば、いつまでも言葉に悩み続けるのでは、先が進まない。
死地にいた自分は、時に考えるよりも先に行動したこともあった。
敵が来るのなら戦う。それが人を護るための最善の手段であるのなら、躊躇う必要はない。
あの時もそのようにしてきたのだ。
もし何かそこに答えがあるのだとしたら、彼女に対してうしろめたさを感じながらも、いつまでも躊躇している場合ではない。
彼女は、十秒ほど沈黙を生み出した。
「………、剣も魔術も、昔からよく習っていたのです。それこそ、貴方のように子供の頃から」
これからの、彼女の言葉にどれほどの事実が乗せられていることだろうか。
「昔から………それは、もちろん目的があってのことで?」
その中には、恐らく彼女の核心に触れるものもあるだろう。
「はい。少なくとも、相手方には目的がありました。私の身体を利用して」
それを知るのは、何となく怖い気もする。が、しかし。
「身体を………利用………」
それでも、俺は彼女に対し、思うことがある。
「ごく単純なことではありましたが。……しかし、私はその目的を達成し得る人ではなかったのです」
――――――――彼女を、放っておくことなど出来ない、と。
一、二、三………と、フォルテの口から語られる言葉を聞くと、アトリの表情が険しくなっていくのが、アトリ自身でも分かっていた。
彼女もそれを少し見ていた。
そして思う。他の人に話すのだとしたら、大体の人は同じ表情を浮かべるのではないか、と。
すると、彼女がそこで一度会話を止めようとした。
「アトリ。その、出来るならこの話は聞かない方が良い」
「それは、何故………?」
「知る必要のないことだからです。私の昔話をしたところで、誰かに影響するものではない。これは私がかつて経験した過去のものなのだから、今更どうこうなるものでもない」
“知る必要のないこと”
彼女はそのように、キッパリと言い切った。
他の人には触れられたくない、というものではない。
自分とその当事者以外の人には、『何もすることが出来ない』から。
過去を経験し、今を生きる自分はただ一人。
まるで過去の自分は別の人だったかのような言い方をして、過去という時間を彼女は否定しているようだった。
少しの会話だけでも想像するものはあるが、彼女が話を中止させようとするほどのものだろう。
私の過去は私だけのもの、他の人がそれを聞いたところでもうどうすることも出来ない。
今まで彼女が過ごしてきた過去という時間を認めつつも、彼女はそれを否定しようとしている。
それが間違いだとは言い切れない。
だけど、彼女のその姿勢に対しては、疑問がある。
確かに、過去という時間軸は、もう誰にもどうすることも出来ないものなのかもしれない。
この世界には歴史家という過去の事象を調査する勤勉家がいる。
彼らによって書き連ねられた事実は、過去の事象を調査の結果から正史として反映させるもの。
だが、歴史家たちは調査者であって当事者ではない。
どのような調査が出たとしても、最早後付けでしか語ることが出来ない。
彼女の過去というのも、そういうものなのだろう。
たとえどのような経験をしていたとしても、それらはすべて事実であり不動のもの。
ならば、それを話すことで何かが変わるかと言われれば、それは無いのかもしれない。
そういった考え方のもの。
だけど、彼は思う。
そういった事実を彼女は受け入れているのだろうが、まるでそれが運命だと言わんばかりに従っている彼女。
そして「知る必要のないこと」だと言い切り、他の人に対してではなく、自分の過去という時間軸にさえも壁を作ろうとしている。
それには、理由があるだろう。
彼女が壁を作り避けようとするそれには、必ず理由がある。
彼女からすれば、そのようになった経緯は既に過去の産物。
理由を求めたとしても、事実は変わらない。だから知る必要もないし、語るべきでもない。
だが、それでは彼女はいつまで経っても変わらない。
起きてしまった事実、覆せない真実がそこにあるとしても、それを受け入れ認め、深い闇の中に自分自身を閉じ込めてしまい、更にそこへ大きな壁を立てかけている。
そんなことを続ければ、彼女は彼女でなくなってしまう。
そう、前にパトリックが話していたように。
「それでもいい。少しだけでも、話してくれないか?役に立つかとか、そういった類のものは今は置いて欲しい。フォルテが、フォルテという女性が歩んだものを、自ら人に語るということそのものが、俺には大事のように思うんだ」
ただ、それだけかもしれない。
だが、それだけに大きな意味を持つ可能性だってあるはずだ。
彼女が自らを閉ざしてそれを拒むというのなら、
それを引き出すためには彼女から話してもらうしかない。
大きな壁を作り、その壁の先に過去の時間軸を置いてきた彼女。
原因が、その壁の遥か向こうにあるというのなら、
その壁から引き出してもらう他ない。
「………分かりました。貴方がそういうのでしたら、少し」
ただ、願わくば。
それが自分自身の「意志」で語られるものであることを。
そうして、彼女は少しずつ、語り始める。
彼女自身が語る、彼女の経緯。
今となっては殆どの人が知らない、彼女が生きた過去の時間。
そして、今となっては思い出すこともしない、悲痛な記憶。
根源にして、起源となるもの。
それが、彼女の始まり。
これは、その一部の話である。
3-27. 今はその剣を置いて




