1-7. 死地
―――――魔術という言葉なら、聞いたことがある。
この国、と限定することでもないが、恐らくは世界のどこかに作家と呼ばれる、人々に文学や教養を示す人もいることだろう。現に、彼も書物に触れたことが何度もあり、それを読み進めたことも数え切れないほどある。
その中に、確かに彼もその言葉を見た。
魔術。
人の理解の及ばぬ力が作用する神秘的な現象。
ある時は神秘的に、またある時には邪悪なものとして現世に君臨する。
魔力を使用して普通の人とかかけ離れたことを起こせるのが魔術であり、それをコントロールするのが魔術師と呼ばれる人だ。
もし、そんなものが現実にあるとすれば、それはまさしく奇跡と呼べるものだろう。少なくとも、何も知らない民からすれば。
たとえどのような優れた力を持っていたとしても、物語上ですらその力は人の欲望を満たすものとして利用された。
結局どれほど都合の良い設定があったとしても、根底にあるのは人々から利用され汲み取られるということである。
「人目に付けたくない、だと…?」
「宝物庫に置かれている書物は、人々が目にすると混乱を呼ぶようなものもあります。それは宝の類でなくても国が管理すべきものとして、ここに入れられるのです」
あぁ、なるほど。
だからこの部屋はいつも汚いのか。
などとアトリは頭の中でそう呟きながら、魔術と題字が書かれた書物を手に取る。
そう大きくない本にページ数の少ない中身。
中を開けてみようとした訳ではないが、この中に何の要素があって、人々の混乱を招く恐れがあるのだろうか。
その時のアトリには想像し難かった。
ただの物語であるのなら、態々管理する必要も無いだろう。
それに、魔術というテーマを取り扱うものであれば、この城の内部にある図書館でも似たようなものを探すことは出来る。
よりにもよって、この書物が何故ここにあるのか。
人々の影響を与える内容が描かれていると言われる、この書物の正体は何か。
気になるところではある。本を読む者にとっては。
しかし今は仕事中。そしてこの場所は仕事でしか出入りは出来ない。
とは言え、彼は仕事に集中するために、書物を増設された本棚へと次々入れていく。
新たに書物が追加されていくのであれば、いずれこの本棚も一杯になるだろう。そうなれば、別の誰かがこの部屋に即時組み立て可能な本棚を持参することだろう。
そうすれば、この部屋の広さならある程度増えても対応できる。
―――――おっと。
「ん?大丈夫ですか、アトリさん」
「あ、あぁ。不眠のツケが回ってきたようだ…」
―――――ん…?
整理していたところ、うっかり本棚に軽く衝突したアトリ。
思い返せば、自治領地の防衛から戻って一睡もせずにこの時間まで起き、仕事をしていたのだ。疲れていないはずがない。
朝はクロエと一戦交え、昼には城下町中を警備し、そして夕刻以降は今に至る。
使用人もアトリの顔色を窺いそれに気付いたのか、心配そうに声をかけてくれた。彼の目元には、今ハッキリと分かる黒いライン、目にクマが出来ていた。
態勢を立て直し書物を再び整頓しようとした時、自分の頭に奇妙な感触を得た。一瞬何かと疑問を立てたが、その刹那地面に転げ落ちるものを見て、状況がつかめた。
単純に頭の上から書物が降ってきただけだ。
これだけ整理されていない書物置き場であるのなら、棚の上に本があってそれが落ちてきたとしても、何ら不思議ではないだろう。
どうやら棚の上に若干積み上げられている書物の一番上が落ちてきたようだが、他の棚に入れることはしなかった。
そこで元の積み上げられたところへ戻す。
その書物には、また小さく表紙の隅に「時間の起源」と書かれており、それをアトリは一瞬だけ見た。
そうして、再び山に戻しては、地面に置きっ放しの書物に視線を戻し、それらを整理していく。
そのような作業が、一時間半程度続いた。
整頓したのは書物だけではなかったが、この短時間だけでも多くの宝物に触れた。書物や財宝だけではない。この国の資金源となる金貨や銀貨も大量にある。
今日は整理がメインであったが、宝物庫の警備を命じられた時は、表向きには城内警備という風に彼は答えている。
同じ兵士たちや召使であっても、宝物庫の在りかは言わないようにしているのだ。万が一のことを考えて。
別に彼らを信じていない訳ではない。ただ、教える必要も無いということだ。
「これで整理は良いでしょう。また次の機会にします」
使用人はそういうと、アトリに深々と一礼し、近くにあった階段を降りて去っていく。恐らくはあの人も今日の仕事を終えたのだろう。
アトリとしても、残り数時間で多くの人が寝ることを考えれば、そう長いこと仕事は続かないだろう、と思い込んで、フロアの中を回りながら警備を続ける。
城は上層階へ行けば行くほど各フロアが狭くなっていく。そのため、狭くなる階層の中を歩きながら警備するのはそう難しいことでは無かった。
もっとも、この仕事をしていても、フロアで異常が発生した経験が一度も無い。いつの日か宝物庫を狙う賊が現れるかもしれないが、
ある意味でそれもまた妄想の類というものだろう。
来るべき時のために備える、というのは重要なことだが、このフロアの中ではいささか現実味を持たない。
これが、戦場であったのなら、話は変わっただろう。
「おう、アトリ!お疲れ様!」
「ん、そっちもお疲れ様、グラハム。今戻ったところか?」
アトリが歩きながら宝物庫の入口に通じる道の周辺を警備していたところ、階段近くで男が一人、彼に向けて声をかけてきた。
それに対しアトリは、グラハムと名前を入れて返答をする。
男は全身にある程度の武装を施しており、防具を身に着けていた。腰からは鞘に隠れた、通常よりも長身の剣を下げている。
やや汚いその格好を見るだけで、その男が何をしてきたのかが分かる。
『グラハム』
アトリと同じ兵士団の所属であり、歳もアトリと同じ。
更には彼とほぼ同時期に兵士団に配属となった経緯があり、そのおかげか二人は仲が良い。
仲良いことは好ましいことなのだが、同じ仕事をする機会があまりない。
というのも、アトリとグラハムでは管轄する上士が異なる。そのため、仕事の配置などが異なるのだ。
暗く赤みがかった短髪で背が高いのが特徴的。
彼は自ら好んで一般の兵士が持つ剣とは違う、全長の長いものを愛用している。
単純に物も大きくなっているので、重量が増え剣捌きも変わってくるのだが、それでもグラハムは兵士になってから今に至るまで、その剣の長さを変えてはいない。
「あぁ。いったん帰還した。見ての通りこの様よ」
グラハムが身に着けている防具には、ハッキリと見えるほど赤い塗装が所々に施されてあった。それは彼自身が意図的につけたものではない。
彼がここまで戻ってくる間についたもの、つまり血痕である。
そう、グラハムは戦場となっていた場所から一度帰還した矢先のことであった。
アトリと同じようにして、また他の兵士たちと同じようにして、各地で戦う者。
しかも今の言い分では、まだ戦闘は続いているものと受け取ることが出来る。
完全に制圧した後での撤退ではなく、まだ兵と兵が入れ替わっただけのことであった。
「苦労が多いな」
「まぁそれはお互い様だからな。気にするほどでもあるまい。それより気になるのは最近の情勢についてだ」
それについては、アトリも同意見であった。
今日、久し振りに城下町を歩いて民たちから話を聞いた。
特にアトリは貿易を担当し各地を歩き回りながら商売をする行商人からの言葉を重点的に聞いた。
行商人はこのように各地を歩きながら商売をしているので、行く先々の地域の状況を掴んでいる場合が多い。
兵士たちが自分たちで調査しに行くのも当然あるが、こうして行商人の行先ルートを辿りながら、それに沿った情報を聞き出すというのも、重要なポイントの一つであった。
彼らがいつも有用な情報を持っているとは限らないが、その声を聞くだけでも状況がつかめる時はある。
戦場に出て戦う者として、戦場となるその周囲の地域の情報を知ることはプラスとなる。
「『死地』で戦闘が起きているのは変わらないが、やはり最近になってどこも敏感になっている、という気はするな。奴らのこともあるし」
「やはりか。俺もつい今日の朝まで別のところに行っていたけど…事を急く状況が多いような」
「アトリの奴は前から散々文句言ってたところの主だろう?そうだとしても、それだけの事情があったということだろうが」
「助けられるものなら助ける。その気持ちで戦ったまでだよ」
アトリがつい数日前自治領地の要請を受け出撃する時、一部の兵士たちの間では彼の役回りについて噂が出た。
確かに彼は助けられるものなら助けるし、それでその人たちが平和になれるのなら、と考えているだろう。
しかし、相手は兵士たちの間ではよく噂される横暴な自治領主。
誰が好き好んでそのような者のために戦場へ行くだろうか。
少なくとも、他の兵士たちが彼と同じように進んで行っただろうか。
兵士たちは命じられれば戦いを行わなければならない。
敵前逃亡も許されない。
だが、兵士とて人間。
そこに服従と言う関係があったとしても、人を選ぶことはする。
横暴で助けてもらうのが当たり前、そのために奉仕するのが国である、などと
大言する者のために戦おうと思う人は、そう多くは無いのではないか。
兵士たちにとって他人を護ることで実益が得られるか、と言えばそうではない。
その人のもとへ行けば自分にとって損となる。
そうと分かっていても、彼はそのような考えを持ち合わせてはいなかった。
グラハムの情報によれば、アトリが懸念したように各地で戦闘が発生し、
それによる混乱も各所で発生し続けている。
兵士たちの上士も最近兵士の出兵が増え続けているために、あらゆる場所で人手不足が発生していることを心配していた。
人手が足りなくなれば、次に駆り出されるのは兵士の見習いとなった者。
幸いにしてまだそこまで深刻な不足状態は続いていないというが、その日は遠からず来るものだろう、と言われている。
そのため、子どもはとにかくとしても、兵士の見習いとなった人たちは、いつでも戦場に行く覚悟をしなければならない。
正式な兵士であるアトリやグラハムの立場からしても、それはあまり好ましくない現状だ。
いずれは戦闘経験を積まなければならない者たちだが、それ以前にまだ兵士として未熟であり、教えられることが多々ある。
教育的指導を施行している段階で『死地』に赴くのは、当然危険が生じる。
正規の兵士であるアトリでさえ身の危険は常に感じるほどなのだ。
そして、自治領地同士の戦いや『奴ら』の接近は、確実にその気質を増幅させていた。間違いなく、戦闘は発生する。
近い未来に混乱に陥るのではないか、という懸念。
いつ自分が殺されるかもわからない状態で抱える不安。
敵とも自分とも戦わなければならない。
ところで。
グラハムの言う「死地」とは何か。
その言葉だけ聞くと穏やかそうには思えないだろう。
死地という言葉は、王国の兵士で共通された言い方の一つ。
一般の民はあまりそのような言い方をしないのだろうが、兵士たちにとっては
随分前から使われている言葉である。
もっとも、他に言い表し方は幾らでもある。
が、いつしかこの名前に定着してしまったのだ。
その由来は正確には分かっていないが、恐らくは想像できる。
死地とは、主に自治領地間で発生した戦場のことを示す。
戦場と言ってしまえばひとまとめに出来るのだが、死地とはその比ではない。
本質的には人々の殺し合いであることに変わりはない。
だが、その戦闘は今まで回避されることが無く、ほぼ間違いなく発生したものばかり。そして訪れた結果も、悲惨なものばかりであった。
死地に戦う者は、死地に斃れる者ばかり。
相容れない人々の争いは実に残酷なものであっただろう。
たとえ死地に救援要請が無かったとしても、彼らは戦闘を行う。
自分たちにとって都合の悪い者を消し去るために。
そのためか、死地と呼ばれる地域を通り過ぎることがあれば、そこに広がるのは目を背けたくなるような現実ばかりであった。
―――――。
多くの亡骸が転がっている。
光を失ったその眼が開いたまま閉じることが無い。
身体には無数の引き裂かれたような傷。
突き刺されたような跡。
そして美しかったはずの大地や自然の上にこびりつく血の海。
それは、本来あるべきではないものなのかもしれない。
少なくとも平穏という日常を奪われた人々にとっては、あってはならないものだった。
そんな光景になる前に、何とかしたい。
出来ることなら、戦わない選択肢を取りたい。
しかし、それは今までの経験上、現実的ではなかった。
出向いた自治領地で戦闘の中止を訴えれば、それは相手に降ることだというのが民たちの認識だ。
相手に自分たちのすべてを売り渡すつもりはないし、そうしたとしても、相手はそのようなものなど否定するだろう。
何しろ、敵対するものすべてを否定するのだから。
そこに慈悲など無かった。
こうなってしまった以上、戦うしかない。
ならば。
戦いが避けられないのであれば。
せめてこの目につく依頼された地域は護りたい。
それが、アトリの兵士としての役目であり、他の兵士たちにも同様な任務が与えられる。
それが死地の現状であり、死地に赴く者たちの姿であった。
もっとも、兵士一人ひとりの心の持ちようは異なり、アトリはその中でも類を見ないものであったのだが。
「お前は本当に善人だな」
「分からないけど、出来るならそう信じたいところだし、そうなりたいとも思う。それで、奴らの動きは?」
もう一つ。
死地で戦う者として、この国の兵士として、今ある現状をもっと理解しなくてはならないことがある。
1-7. 死地