3-21. 二人の距離感(Ⅰ)
長い夢から覚めると、彼がこの世界に目を覚ましてから7日目を迎える。
前はあのような光景を見ると、決まって翌朝は体調を悪くしていたのだが、それも回数を重ねるごとに薄れていく気がする。
体調も悪くなく、起きた頃に比べれば良くなっているのが分かる。
昨晩は何時間も一人で魔術の鍛錬をしていたから、朝は寝起きが悪いのではないかと彼自身は思っていたのだが、そう心配する必要もなかった。
身体は復調しつつある。後は、剣の感覚や身のこなしを意識して取り戻し、そして魔術鍛錬を積み重ねれば、王国の兵士として復帰できる時がより一層近づくだろう。
………そうなれば、この家からは離れなければならない。
この場所に住むあの二人とは別れなければならない。
はじめはそれを望んでいた……というよりは、そうすることであの二人にいつまでも迷惑をかけずに済む、と思っていた。
今も申し訳ないという気持ちはある。
この生活に慣れ親しんで本来居るべきところの感覚を失うのは、良くない。
その気持ちに変わりはないが。
「………」
妙に意識するものも、確かにあるようだった。
起き上がり、すぐに彼はいつものように朝ごはんの準備をする。
そこで朝から元気なパトリックと出会い、会話をしながら朝食の準備を進める。
いつもはフォルテの方が彼よりも早く食卓の準備をするのだが、今日に関しては彼の方が早かった。
彼女はいつものように無表情で居間に入って来て、準備を手伝う。
特にこれといった理由は無いのだろう。
その後、すぐに朝食を取る。
相変わらずぎこちなさを感じる食卓ではあるのだが、それも慣れつつある。
食事の中の会話で、パトリックは明日サウザンという町に出発することを二人に伝える。
ここより順調に進めば3日ほどの時間をかけて到達することのできる町。
今まではポーラタウンという近場があったのだが、もうそれも利用することが出来ない。
買い物の頻度も、今までは週2回程度だったが、これからは月3回程度になるだろうと、パトリックは話す。
もっとも、高速で移動できる、それこそ馬のような生き物を飼い慣らすことが出来るのなら、状況は少し変わってくるだろう。
往復に一週間程度を有するサウザンまでの道のり。
即ち、その期間はアトリとフォルテ二人だけで、この家と農地を維持していく必要がある。
「あ、農地のことは安心だ。毎日手入れは必要だが、そんな大掛かりな作業は必要なくするからよ」
と、えらく上機嫌にパトリックは二人に話した。
パトリックとしては、二人には魔術の鍛錬に集中して欲しいという思いがあった。
農地を放っておくと、後々手入れの面倒事が増えるのだが、毎日雑草などを処理しておけば、後々大変になることも少ないだろう。
彼は二人に気を遣わせないよう気配りをしているようだった。
「では、後程。お待ちしております」
食事が済み片付けが終わると、フォルテはアトリにそう言って、家から離れて行く。
考えてみれば、パトリックが居ない間、約一週間ほどの時間を、彼女と二人だけで過ごすことになる。
それは少し新鮮味があるのかもしれない。
彼がこの場所で目覚めてから、一週間が経過する今日。
彼女もある程度彼との生活には慣れてきている頃だろう。
次に慣れるとしたら、鍛錬だろうか。
昨日はマホトラスとの戦闘があったから、ある意味それも鍛錬になったといえばそうなるのだが、実戦は鍛錬とは感覚が大きく異なる。
何度も経験していることとはいえ、慣れていることとはいえ、そこに彼女が一緒にいたという事実一つを持ってしても、いつもとは違うものを感じていたアトリ。
朝食後、少しだけ休憩したアトリは、フォルテの家に隣接する道場へと足を踏み入れる。
「っ………」
失礼します、と中へ入ると、既にフォルテが待っていた。
彼女は姿勢よく道場の中央に正座をし、彼を待っていたようだ。
傍には竹刀が置かれており、これから何をするのかがすぐに分かる。
道場の壁には幾つかの窓が設置されており、そこから陽の光を浴びることが出来るのだが、
彼女が正座する位置にも太陽の光が行き届き、正座する彼女が光を当たられていた。
遠くから見ても、その佇まいは綺麗に見える。
もし彼女がいつものダークスーツを着ない格好でいたのなら、また感じ方も少し変わっていたのかもしれない。
「改めて……昨日は、お疲れ様でした」
と、開口一番彼女はそのように彼に言う。
やはり彼女としては昨日の出来事を気にしているのだろうと、彼は心中を察する。
無理もない。あの町の為に戦うと決めたからには、あのような状態になるのを決意してのことだったのだから。
彼はどのように言葉を返すべきかを少し悩んだが、結局は同じようにお疲れ様でした、と言う。
ああ、そうだ。
それもそうだが、聞いておきたいことがあったんだ。
彼はふと思い出すように、昨晩自分の中だけで考えていたことを、彼女に打ち明ける。
「それで、フォルテさん。昨日は状況が状況で聞けませんでしたが……あの、剣や弓は一体……」
「そういえば、貴方にはまだ教えていませんでしたね。昨日見ての通り、私には魔力で剣や弓を生み出す能力があります」
さも当たり前のように言葉を発する彼女だが、それが他の人に理解されないものだというのは、目の前のアトリのことも含めて、彼女は自覚していることだろう。
魔力によって剣や弓をこの世界に精製し投影する。
はじめから形の無いものに形を加えてあげる、というのが彼女の説明であった。
「魔術行使には、行使するために必要なイメージを頭の中で想像すると言いますよね。本来であれば剣や弓もその手のものなのですが、現実に存在する物を魔力によって精製する行為は、現実世界との干渉を受けることになります」
「現実世界との干渉?というのは」
「これは、私にも分からないことです。ただ言えるのは、現実にある実際の物を魔術で何でも作れるようになれば、この世界のありきたりの物も魔術があれば作れる、とまかり通ってしまう。人ならざる力を手に取った魔術師でさえ、そういった物を投影するという行為は、何らかの干渉を受けて分不相応になってしまう恐れがある、ということだと私は考えています」
彼女自身も知らないことなのだから、説明要素としては不十分なところなのだが、それでも彼は理解できないというものでもない。
この魔力を形成するマナとルーンは、この世界より生まれしもの。
たとえ魔術師がこの幻想的な力を有する者であったとしても、人の手が加えられた現実の物を創造するのは容易ではない、ということだろうか。
あるいは、それが可能となれば見境なく魔術行使が行えるようになってしまうのかもしれない。
極端な話、魔術のイメージから生み出すものが剣や弓という武器だけに留まらないとすれば、魔術師が欲しいものを何でもイメージして、現実世界に投影してしまえば良い。
そうなれば、家や金などの財産さえ魔術で実現が可能、という具合になってしまう。
彼女の言う「現実世界が干渉する」というのは、そういった人間の行為を世界が規制するという趣旨なのだろう。
確かに、言われてみれば分からない話でも無い。
もっとも、現実の物を投影する、その物というのが戦う道具というのも、魔術師がその存在を秘匿しながら戦う手段を揃えた人外であると示しているようにみえ、結局人類も魔術師も戦い合うのかと、皮肉が込められているようにも感じられるが。
「誰にでもあることとは言い難いですが、魔術師の中にはその型とは関係なしに、付加価値を所有する者がいると聞きます」
「付加価値?」
「はい。使うも使わないも本人次第ですが、本来の型に限らず余分とも言える魔術を行使することが出来る、ということです。私の魔術は支援魔術ですから、本来剣や弓を生み出す必要はありません。こういった付加価値は誰にでも出来る訳ではないのですが、もしかしたら貴方にもそういったものがあるのかもしれませんね」
フォルテの支援魔術は相当な効力を持つものだと、既に彼自身が経験している。
それは昨日のこと。
ポーラタウンでの戦いで、あの髭面の男の攻撃から彼女を護るために、彼はあまりにも早くその剣戟に反応し、そして腕に刺し傷をもらった。
それをすぐに彼女が魔術行使によって手当てしてくれたのだが、その日の夕方には傷があったことを忘れるほど違和感は無くなっていた。
更には傷口までもが閉合してしまうのだから、驚きを隠せない。
だが、そんな彼女も戦う術の一つとして、剣や弓など武器を現実世界に投影することが出来た。
それは彼女の本来の魔術の型には当てはまらないが、彼女が行使できる付加価値の魔術として機能しているものだという。
魔術師にはその人特有の付加価値が備わっている可能性があり、そういったものは他の型の魔術を行使する時のような、ペナルティを受けずに行使することが出来るという。
彼には想像もしづらい話だ。
魔力と自分との身体が適合していることは分かったのだが、魔力の適性が未だに判別できない彼からすると、そのような付加価値が何であるか、確かめる術もないしイメージも出来ない。
「もちろん、現実に物を投影するというのは、現実よりその物が優れているという訳ではありません。中にはそういう物もあるでしょうが、一概にそうだとは言い切れません」
「つまり、人の手で作られたものの方が、人ならざる手で生み出されるものに比べ、効力を持つ、と……」
「はい。だからこそ、人の手で作り出すことのできない魔術を魔術師が行使すると、それがあまりに強力だと感じるのでしょうね」
彼から言わせれば、現実の物に劣る投影だとしても、
それを現実に生み出して、なおかつそれを扱う本人との技量が恐ろしいほどに適応している主も、充分に強力だと彼自身は思っている。
特に、ポーラタウンで屋根の上にあがり、屋上から騎馬の相手を狙撃した瞬間は、恐ろしいほどにその強さを感じたほどであった。
剣の強さは鍛錬でよく分かっているし、恐らく今日もその強さを見せつけられるのだろう。
だが、それ以外にも彼女は魔術師としても純粋に強いと言えるのかもしれない。
支援魔術は本来攻撃を専門とする魔術ではない。
しかし、他の型には出来て自分の持ち得る型では出来ないというビハインドを、剣や弓などを投影することにより補うことが出来るのなら、それは他の型にも匹敵するか、あるいは越えてしまうほどの強さを引き出すことも可能だろう。
それが付加価値の存在であり、型に関係なく付加価値にはそれだけの意味を持たせることが出来る、ということにも繋がる。
フォルテのことを強いと感じるのは、やはり鍛錬だけではなく実践のあの姿を見て、もっとそのように感じるくらいであった。
出来るなら、
その付加価値というものを、自分も知りたい。
そう思うアトリが確かにいた。
午前中はいつものように、剣の鍛錬を行う。
持つものは本物の剣ではなく、作り物の道具、竹刀という練習用の剣。
それでもフォルテという強者を相手にするのならば、それだけでも充分に価値がある。
女性の身でありながら、アトリから見れば自分以上に強いと思えるほどの相手だった。
その人と剣戟を交わすことが出来るのだから、逆に上達への道を辿っているのかもしれない。
そんな期待さえ持ってしまう。
今も彼女を相手に一本も取ることが出来ず、彼は数回ほど彼女からの直撃を受ける。
直撃を身体に受ける度に振動と痛みが全身を駆け抜けて行くのだが、それもはじめの頃に比べれば気にしなくなっていた。
一方的な展開になることはなく、お互いが力や技量を高め合っているような、そんな鍛錬。
これほどの相手がもし敵に現れたとしたら、それは新たなる脅威と捉えても良いだろう。
「はぁ……はぁ………」
いまだその力量や技量は彼女に届いていない、と彼は自らに言い聞かせているが、フォルテの方は彼が復調すれば簡単に自分は追いつかなくなる、と彼を高く評価していた。
相変わらず彼女は汗一つかかず、息を切らすことも無いのだが、それでも彼もそんな彼女の剣戟に必死に食らいついていた。
兵士として考えるならば見苦しい光景だ、と彼は思っているが、彼女はそんな彼の気持ちなど気にせずに彼の技量を素直に認めている。
お互いに言えることなのだが、
このような少年少女が戦争に使われる技量や力量が、他者よりも圧倒しているというのが、ある意味でこの世界の異質さ、異常さを示しているのかもしれない。
「そろそろ、お昼にしましょう。とても熱心でしたね」
「ですね。お互いにいったん、休みましょう」
鍛錬に集中していると、数時間などあっという間に経過してしまう。
死地の護り人として各地へ派遣されるようになってから、これほどまでに時間をかけて剣の鍛錬を積み重ねたことはないだろう。
城に戻った時、たまにクロエと手合わせすることはあっても、それは既に兵士という存在として成り立っているお互いがお互いの技量を確かめ合うものであって、鍛錬と呼べるものであったかどうかは別だ。
だが今は復調するまでの間、素性が分からないとはいえ強者である相手と鍛錬を積み重ねている。
これがいつか必ず役立つ時が来ることを、彼は期待している。
今まで以上に力をつけることで、かつて敵うことの無かった相手に対しても、戦わないという選択肢を選ばずに済む。
「お昼はこちらで食べましょう。パトリックは今も明日の準備をしているはず。忙しいでしょうから、そのままにしておいても平気です」
何気にパトリックに対しての考え方が粗末なようにも聞こえるのだが、
彼は何も心配する必要が無い、と彼女が絶対的な信頼を持って話していることが分かる。
明日出発するとパトリックは話していたから、今頃は遠征のための準備をしていることだろう。
一週間も遠出しなければならないというのに、帰りは買い物の荷物も運ばなければならない。
とても安易に考えるべき道中ではない。
フォルテは竹刀を床の上に置き、居間の方へ向かおうとする。
「私も手伝います。フォルテさんばかりに任せるのも申し訳ないですから」
「ありがとうございます。……あと、言おうと思っていたことがあるのですが」
「?」
その声色は、普通の会話とは少し違う位置づけをしたかった、という表れであったのかもしれない。
居間に戻る前に、戸の前で彼の方を向き、少し間を置く。
言おうと思っていたこと、前から思っていた何らかのことだろうか。
アトリも若干の空気感の違いを感じ、フォルテの方を向き真剣な眼差しを向ける。
そして、彼女が彼に向けて放った言葉。
「私には……敬語を使わなくて結構です。それに、“フォルテさん”と呼ぶのもかえって恐縮ですから、“フォルテ”とお呼び下さい」
―――――――そちらの方が、貴方との会話ではしっくり来ると、思いますから。
………。
たった一瞬のことだが、何が起こったのか、何を言われたのか、
それを把握する間に彼女は戸から居間の方へと先に行ってしまっていた。
頭の中の整理が遅く、思考が追い付くまでに時間を要した。
だが、言われたことが事実である以上、思い返せば返すほど彼女からそうして欲しいと自分に願ったことなのだろうと、振り返ることが出来る。
彼は、顔が熱くなるのを自分でも感じていた。
あまりに突然すぎる彼女の言葉に、我を忘れ動揺さえ覚えていた。
返事をしようと頭の中で言葉を連想させるのだが、当の本人は既に目の前からはいなくなっている。
………そう言われると、緊張するじゃないか。
彼は頭の髪をかきむしりながら、それでも笑みを浮かべて言葉を何度か自分の中で思い出した。
彼女が何をどう考えて、どういう意図を持たせているのかは分からない。
けれど、確かにそう言った、ということだけは明らかだった。
居間に入ると、既に彼女は準備を始めていた。
その言葉の後に彼女を見ると、なんだかいつも以上に慣れない空気に自分が飲み込まれてしまいそうになる。が、せっかく彼女がそのように言ってくれたのだから、そうしよう。
彼はフォルテのもとに近づいて、何となくぎこちなさを感じながらも―――――――。
「じ、じゃぁ俺はその、野菜を………」
………と、文章の最後まで読まないような会話になってしまった。
この現場を見れば誰がどう見てもぎこちなさを感じるものだろうが、一番にそれを訴えたいのは彼であった。もっとも、もう一人の当事者たる彼女は何も気にせずに、いつものように無表情と冷静さを兼ね備えた表情で過ごすことだろう。
分かっている。ちょっとこのことは意外だったのだが、彼女が色々と気を遣ってくれて―――――――。
「っ………」
???
もしかして……今、少しだけ笑った?
彼は確かに彼女の肩が少しだけ、本当に一瞬だけピクッと揺れ動いたのが見えた。
それは調理をしている動作のものではなく、彼には純粋に両肩が一瞬だけ何かに反応して動いたように見えたのだ。
反応するとしたら、自分自身がどことなくぎこちなさを醸し出した、その言葉。
そんな、僅か一瞬のこと、しかも表情も見えない背中を見たその一瞬が、もしクスッと笑ったものだとしたら。
確認する術もないが、もしそうだとしたら、という期待が浮かんでくる。
そう思うだけで、何となく嬉しさがこみあげてくる。
アトリとフォルテは簡単に昼食の準備を行い、その後フォルテの家の居間で昼食を取る。
かつての二人の関係からすれば、考えられ無いようなひと時とも言える。
特にアトリからすると、早めに復調させてこの家を出て行こうと考えていた為に、まさか一人で暮らすフォルテの住まいにこうしてお邪魔することさえ考えてもいなかった。
今はこうして鍛錬を共にする間柄。
その過程で必要と思われる行為を、ただこの家で行っていると言うことも出来る。
彼からすると、不思議でありながら新鮮でもあったが。
食事を済ませると、彼女は「午後からは外に出る」と言った。
いつもであれば午後からは魔術の鍛錬をするのだが、果たして何をするのだろうか。
………ところで。
「ところで……その、フォルテ」
「はい。なんでしょう」
「君は良いかも、しれないけれど……その、俺に対してもあまり気を遣わなくて良い。うん、そうだ。その方が、きっとお互いに楽だろう」
何ともピシャリとしない言葉の繋げ方。
悪意はないがハッキリとした物言いでもなく、彼女を混乱させたに違いない。
彼は恐る恐る彼女の表情を見るが、無表情とはいえ何かこう、疑問符を思い浮かべたかのような顔にどうしても見えてしまう。
それは言葉を発した本人でさえ、その真意を捉えていないからであろう。
彼女は少しの間を置いて答える。
「貴方に対して敬語を使わないでほしい、ということですね?」
「あ………」
かなり遠回しに彼は言葉を連ねている、と自覚をしていたのだが、
彼女はまるで剣戟を交わしズバッと斬り捨てるかのように、彼の真意を正確に貫いてきた。
そう、フォルテが自分には敬語を使わないで欲しい、とお願いしたように、彼にもそのような気持ちはあった。お互いにそうした方が、楽に話が出来るかもしれない。
普段は話をするような仲でも無いし、彼女は無表情で冷静沈着。
日常会話と呼べるような他愛のない話で盛り上がれるような人にも思えない。
もっとも、彼もパトリックも、そんな彼女が「本当の姿」だとは思っていない。
彼の真意は、お互いに話しやすい立場を取ることで、彼女の内なるものを少し呼び起こせないものかと考えた末に生み出されたものである。
ただ単純に彼女と親しく会話をしたい、という望みだけで相手に打ち明けたものではない。
が、彼女はそれを一刀両断した。
これでは先手を取られてばかり、次にどうすれば良いのかも迷ってしまう。
だから彼は次なる手、返答をすることが出来ずにいた。
その時間、僅か10秒未満ではあったが、彼女が再び口を開ける。
「私は敬語が慣れ親しんでいます。それに、貴方や他の人たちに気軽に話しかけられるような人間には出来上がっていない」
「………」
自分からその真意を彼女に持ちかけたことを、少しだけ後悔した。
何か彼女との接点を今までとは変えられるキッカケになり得ると考えたのだが、彼女から発せられた言葉はあまりに冷たいものであった。
冷静というよりも、冷酷。
それもアトリに向けられたものではなく、自分自身の人となりに対して向けられたもの。
自分の牙で自分を噛み砕くように、まるで自分の今までの育ち方、出来上がり方を否定するような物言いだった。
それを聞いた彼は、ついに返す言葉を失くす。
だからこそ、次にやってきた気持ちは、それを聞いてしまったという事実に対しての後悔だった。
だが。
そうと分かっていながらも、やはり何かいつもとは違う彼女がいるように、彼には見える。
その可能性が少しでもあるのではないか、と思ってしまう。
全くの勘のようなものだが、そう思える理由も次の言葉に含まれていた。
「ですが、貴方がそう望むのであれば……そうですね」
――――――これからは私も、貴方のことを「アトリ」と呼びましょう。
ぎこちなさは、はじめの一日から今に至るまで、解消されてはいない。
あるいは、まだしばらくはこのような感覚を背負っていくことになるのかもしれない。
彼も不器用で、彼女は従順な人となり。
その姿が本当のその人でないと、お互いが思っていることをお互いが気付かないまま、それでも彼も彼女も鍛錬を積み重ねる相手として、また共に生活をする相手として、ぎこちなさを残しながらも少しずつ変化をし始めていた。
それが二人にとって良き方向に進んでいくかどうかは分からない。
お互いにあまり口数を重ねられない、そんな生活を送っている。
けれど。
それはそれで新鮮味があって。
彼女も、今までとは違う何かを感じ、意識し始めていて。
徐々に、少しずつ変化し始めている、
二人の関係が二人の運命に作用し始めていることを、当事者たる二人は知る由もない。
3-21. 二人の距離感(Ⅰ)




