3-5. 疑念
いまだ身体の疲れは取れることがない。
怠いというか、目眩に似たような症状と言うべきか。
とにかく目覚めは良くても身体の調子はそう良くはないみたいだ。
それも仕方の無いことか。
目覚めて、まだ二日目なのだから。
……それにしても。
二度目だというのに、あの光景は中々に焼き付いているな。
ただの夢なんだろうけど、ただの夢にも思えない、何か。
……、何か妙な前触れでなければ良いが……。
人間は毎日夢を見ていると言われている。
睡眠状態の作用によって、その夢が覚えているものか、見ているはずなのに忘れてしまっているか、どちらかに分類される。
そしてそれらの夢の中には、長年同じような光景を見続けることもあるという。
幾多の睡眠で連続するものではないのかもしれないが、いつも全く違う光景を見ているとも限らない。
彼の中に現れた、劫火の世界は二度目。
一度目は夢の終わりに強烈な体調の悪化に見舞われた。
だが、今回は元の体調があまり良くないためか、あまり気にするほどのことでもなかった。
脳裏に焼き付いている、燃え盛る大地の光景。
それが何かの暗示ではないか。
そう思い始めたのは、この時が最初であった。
ただの夢であるのなら、気にすることも無いだろう。
夢とは醒めて消え去るもの。
しかし、今の彼にはその光景がただの夢には思えなかった。
何の確証もないし、人に伝えて何かが分かるようなものでも無い。
ただ。
嫌な予感がする。
その一点だけは、一切の曇りなく感じられる、危機感にも似たようなものであった。
「あっ」
二日目の朝。
早朝に目が覚め、これから朝食だろうと言う時間、彼は朝食の手伝いをしようと起き上がり、そして居間の方へやってきた。
王城にいる時は、城の食堂で食事を済ませる。
自室にも調理が出来るような器具は一切ないため、彼が兵士である時に調理をする機会はそうあるものではない。
ただ、幼い頃からの経験で、人並みには料理をすることが出来る。
尊敬していたが困りものの父親のおかげで、自分で作らなければならなかったから。
「っ……、おはようございます」
「あ……おはよう、ございます」
居間に入ると、既に調理の準備を行っている人がいた。
名前も聞いたばかり、昨日会ったばかり。
実際には彼が寝ている間に顔を見られていたのだろうが、彼女はフォルテと言う。
背は160cmを越えて少しくらいだろうか、そう低い背の女性ではない。
昨日は出先から帰ってきたところだからあまり気にしなかったのだが、今は違和感を感じる。
彼女は、朝であっても、ダーク色のスーツを身に着けているのだ。
そもそも彼は昨日、彼女が家から離れた後に少しだけ彼女の話を聞いた時、はじめてスーツという服装の存在を知った。
似たような服装を身に纏う人を今まで見たことあった、そんな気もするが、まさか朝から着ているものとは思わなかった。
「……手伝いましょう」
と、彼は一声かけると、彼女は無言で頷いた後、頼み事をしてくれた。
それから少しの間、二人だけで調理をするという時間が出来た。
朝食から豪勢なものを作る訳ではないが、それなりに数は揃えるようだ。
普段からどのような朝食を取っているのかは分からなかったため、彼女の頼み事をこなしていく、というのが基本的となった。
十数分が経過した頃、もう一人、この家の主パトリックが居間の中へと入って来る。
「「おはようございます」」
あっ。
居間に入ってきたパトリックを見て挨拶をしたのだが、その声が二人同時出会った。
声が重なってしまった事実を前に、思わずあっと呟く二人。
そして、直後に視線を落として目の前の作業に集中する。
パトリックもそれをハッキリと見ていたのだが、挨拶を返すと同時に、少々の笑顔と呆れ顔で頭をかきながら、彼もまた朝食の準備を始めた。
それからの二人はほぼ無言で準備を進め、食卓でも静かに食事をするばかりであった。
普段のこの二人の食事はどのような様子なのだろうか。
今、この場に自分がいることで、普段とは違い静かにしているのではないだろうか。
そう思わなくは無かった。
だが一方で、パトリックはとにかく、彼女の見た目からの判断では、普段から大人しそうという印象も持つ。冷静、というよりは冷淡と言うべきなのだろうか。
「今日はどういったことを?」
と、アトリが一言、パトリックに声をかけて確認をしてみる。
それがこの朝の食卓で、初めてのまともな会話となる。
パトリックもそれなりの勢いで朝食を食べていたのだが、アトリのそれを聞いていったん手を止める。
だだっ広い農地というほどでもないが、パトリックが所有する農地は一人、いや二人が持つにはかなり大きいものであった。
「そうだな。俺は野菜の方をやっておくから、アトリくんとフォルテで茶葉の方を頼むよ」
昨日から何度か飲んでいる茶の湯は、パトリックが自前で栽培しているものなのだという。
だから美味しい訳だ。
一般的に茶摘みが出来るようになるのは、苗を植えて育て始めてから数年間は必要になると言われている。
無論、品種によってそれらの時期に変化はあるのだろう。
彼は茶葉には一切詳しくなかったので、フォルテと協働することになった。
朝食が終わり、少しばかり休憩して外へ出ることになった。
パトリックは農作物の管理へ、二人は茶葉の管理へ。
外へ出て見ると、今日はそれなりに風が吹いており、服や髪が風に靡くほどには強く感じられる。
それでも穏やかな大地であることに変わりはなく、寧ろこの風を大地が快く受け入れているようにも感じられる。
優雅な自然を引き立てるように風が流れていき、自然界の音を更に深みを増して鳴らしていく。
外へ出て、深呼吸をしてみる。
実に空気が美味しい。廃墟と化した町、血塗られた大地、躯の転がる丘で感じられる空気とは、全く違う。
普段、ごく普通の人間たちはこのような環境で生活しているのだろう、そう考えると、ウェールズが国をかけてこのような生活を護りたい、というような気持ちや理由も分かるような気がする。
「………」
相変わらず無口で相変わらずスーツなのだが、フォルテから指示を受けその通りに作業を進めるアトリ。
流石の彼女も全身スーツを身に纏うのは動きづらいのか、上着に着ていたロングコートと黒いジャケットは脱いだようだ。
ダークグレーのシャツに締められた、黒いネクタイ、そして黒のパンツスーツ。
明らかに今まで見てきた女性とは異質な空気を漂わせる、その少女。
顔立ちはとても整っていて、凛々しくも美しくも感じられる。
だが、それとは相反する冷淡さ、無口な性格。
正直、会話が無いというのも考え物であった。
彼が今までそのような人を相手にしてきたことが無かった訳ではない。
だが、この少女に対しては、他の人には感じられない気持ちがあるのだろうか。
自分でも訳が分からないのだが、何故か他の人とは別の考え方をしてしまっているようにも思える。
「っ………」
彼女が立ち上がり、手で風に靡くその髪を整えて行く。
その姿を座りながら見ていたアトリ。
黒髪が揺れ、ネクタイも風に靡いている。
後頭部で結ばれた髪が首元まで下りている。
左手で左耳の辺り、伸びた髪を触る仕草を、彼は少しの時間眺めてしまった。
こうして横顔を見ると、顔も小顔なようだった。
身長と比例するものなのか、あるいはただ単に発育が良かっただけなのか。
彼女の全身を見れば、上半身のある部位の大きさにも気付く。
意識して見るようにすると、色々と女性の姿が見てとれるようになるのだろうか。
………意識?
いや、しかし、それはまた別の話だ。
彼は瞬時に自分の中でそう決めつけ、彼女から目線を離し目の前の作業に集中することにした。
今まで会ってきた女性たちと同じであるとは思わない。
だが、この時は彼は彼女、フォルテに対して意識することはしなかった。
確かに気になるところはある。知りたいこともある。
だが、それを聞くのは些か失礼であろうと考えたのだ。
彼女の身に纏うダークスーツ、彼女がそれを選ぶ理由があるのか、あるいは単なる好みか。
だが。
彼には思えるのだ。
まるでそれが、彼女の心象を表したものなのではないだろうか、と。
「取り敢えずこんなところか」
数時間ほどの作業をして、パトリックが所有する茶葉の管理はその日の分を終える。
アトリは立ちあがり、額の汗を拭うと、彼女の方を向く。
すると。
「っ………」
「………?」
彼は彼女に次なる作業のことを聞こうとし、彼女の方を振り向いたのだが、
そこで二人は視線が合った。
彼が向いた瞬間には彼女との目が合ったのだから、それよりも前から彼女が彼を見ていたことになる。
フォルテは一瞬それに反応したが、すぐに横顔を向けて――――――。
「………一度、家に戻りましょう」
……と言い、彼に背を向けパトリックの家の方まで戻っていく。
農地の側道に置いてあった大きな石、人が座っても何ら困らないほどの石にかけられたジャケットとロングコートを手に取り、それを着るフォルテ。
そして家の方まで歩いて行く。
彼はその後ろ5mほどの距離を保ちながらついていく。
昼間を迎え、農作業をしていたパトリックも一度家に戻り、三人で昼食を取ることにした。
今日の作業ペースは早く進んでおり、午後からはパトリックが作業を行うので二人は休息を取るように言われた。
所謂自由時間というものである。
と言われたところで、彼は何をしていいか分からず、それでも昼食が終われば午後を迎えた。
「私は一度家に戻ります。何かあればご連絡を」
一方、彼女は昼食の片付けが終わると、
二人に言葉をかけて家を後にした。家を離れて行った後、それを見たパトリックが呆れたような表情をしつつ、笑みを浮かべながら頭をかいていた。
パトリックも午後の作業に入り、家の中には彼一人となった。
いつも、こういう時間はどのようなことをしていただろうか。
考えてみれば、このような些細なことに疑問を持つほどの生活をしていたのだろう。
城であれば宝物庫の警備も、城内の警備も、城下町の警備もあり、兵士としての仕事は多くある。
陽が昇っている時間帯は、とにかく兵士としての身分で仕事をする機会が多かった。
そうでなかったとしても、その時間帯に己の身体を鍛える、鍛錬を積み重ねていた。
そうすることで、いずれ誰かの為になると、信じ続けていたから。
時折、その光景を思い出す。
「馬鹿な大人のせいで幸せを奪われた、感じられない悲劇の者たち。それを引き起こしたのは人間。それを正せるのも人間。だから、私はそんな人たちを護りたい。彼らがいつの日か幸せになれるように」
自分がその馬鹿な大人の一人であると言うことを自覚しながら、あれはそのことに対する罪滅ぼしも兼ねていたのだろうか。
父親はそのようなことを言い、それを理想とし、最後は理想の前に斃れた。
多くの人の幸せを護ることが出来るのなら。
そんなものは綺麗ごとだ、と言われるのは分かっている。
それでも、その理想が間違いでないと信じ続け、成し続けたことがある。
そんな男の、父親の光景を、時折思い出す。
「剣は無いが、鍛錬は出来るだろう」
すると、彼は与えられた自室のそば、縁側と外を見るように、光を浴びる中で、身体をほぐし始める。
何日間も眠り続け、必要である筋肉も使われなかった時間が多い。
今までがそういったことが無く、常に動き続けていたこともあり、身体が鈍るようなことはあまり無かった。
そのため、彼は復帰に向けてまずは身体を柔らかくする必要があるだろう、と考えたのだ。
ストレッチ。
運動をする前に身体の筋肉をほぐし、柔らかくすることで、身体の硬直を避け怪我を防ぐ。
それは兵士であろうと関係なく、等しい動作とも言える。
身体が思うように動かないと、剣を握る手も、それを振る腕も、強いて言えば万全と判断されない脳もよく働いてくれない。
兵士にとって、戦場での相手は一瞬の出来事でもある。
油断すれば斬り殺される。その場面に、自分の身体の調子が悪いという余計な付加価値は付けたくない。
「流石に反応が鈍いか」
身体に確かな手応えを感じる。
しかし、以前の身体でないことは確かだ。
もっとも、以前の状態に戻すためにはそれなりの苦労が必要だろうとは思っている。
簡単に前線に戻れるほど戦場というのも甘いものではない。
彼の戦場における能力は、あらゆる兵士やその存在を知った敵ですら噂するレベルとなっている。
ただの子供の剣士でありながら、誰よりも幾多の戦場を乗り越えてきた。
その死地を経験し、子供とは思えないほどのずば抜けた戦闘能力。
もはやそれは大人と子供を分け隔てる必要のないものになっていた。
彼が「勝てない」と思える人たちは、彼しか知らない魔術師を相手とする時。
その者たちと再び戦う時、この身体はどこまでその者たちに肉薄することが出来るだろうか。
アトリはストレッチを終えた後は、
筋力トレーニングを軽めに行い、身体つきを再確認する。
柔軟性が以前よりも削がれたことは否めないが、まだ捨てたようなものではない。
さらに筋力も一時的に使われていなかったとはいえ、著しく減少している訳でも無い。
身体の調子が戻れば、以前に近い形で戦うことも出来るかもしれない。
だが、それでは足りない。
槍兵オーディルとの戦いでは、以前よりも相手に対し攻撃を繰り出せるようになっていた。
それでも彼が魔術を行使すれば、アトリはその突きをただ受けるだけしか出来なかった。
もしもう一度対峙することがあれば、同じ結果を生み出す訳にはいかない。
「………ふう」
だが、魔術師になるということ意外に解決策が見当たらないのも、また悩ましいところではある。
幾ら戦える身体を作ったとしても、柔軟な筋肉を持ったとしても、相手はそもそも人間らしからぬ力を持つ者たち。
彼らを相手にするのなら、彼らと同じような立場にならなくてはならない。
魔術には魔術で対抗する。
それがかつて共に戦ったヒラーや、魔術本などから得た回答なのだから。
彼は既に自分の中で気付いていることがある。
今の自分は、彼らを倒すだけの力を欲している。
すべての敵に対応し得るだけの能力を得ようと志している。
誰にも負けず、敗れることも無ければ。
そうすることで、彼の信条がより現実的に実行できる距離感となるのなら。
ストレッチやトレーニングなどを終え、
暫くの間室内で時間を過ごしていた。
ここにいる時は、本当に時間の流れが遅く感じる。
これが普通の生活というものなのだろうか。
「……ちょっと、外に出るか」
その時間にして、既に夕刻。
太陽は沈みかかっており、空は赤く染め上げられている。
東の空より暗闇が近づいて来て、やがて夜が訪れる。
彼は縁側から外に出て、少しばかり広い庭を抜けて敷地の外へと抜ける。
農地の広がる反対側の方。
西に向かってほんの小さな丘を上がっていく。
丘というほど高低差がある訳でも無く、ただ周囲を見渡せるくらいの小さなものではあったが、それでも沈みゆく太陽を見るには充分であった。
「………」
緩やかな風が吹き抜ける中で、彼は沈みゆく太陽を見続ける。
こうして太陽を眺め、景色の中で生活するのはいつ以来のことだろうか。
思えば今までずっと、このような生活からはかけ離れた、兵士としての生活を送っていたのだ。
これが普通と普通でない人の生活、分け隔てるものなのかもしれない。
彼は決して普通の人になりたいなどとは思っていない。
力の無い自分を無力に感じ、自分一人でも多くの人間を護れるように力を得たいと思うような人が、普通の人であり続けられるはずがない。
否、既にこの時点で彼は特質であった。
ただ今は目の前の生活が、妙と感じるほど穏やかで緩やかなものだったから。
これが当たり前と思っている人もいるだろうし、彼のようにそのような当たり前からかけ離れている人も中にはいることだろう。
二日間、暮らして思うことがある。
勝手はよく分からない。
あの二人がどのような人間なのかも、そう分かったものではない。
それよりも、思い考えることがある。
やはり、この場所は自分の居場所ではない。
別にあの二人に嫌悪感を抱いている訳でも無く、寧ろ厄介になっているということで申し訳なさも感じる。
居場所でなくとも、それでも戦いを欲しているという訳でも無い。
そのような好戦的な性格では無い。それは自分自身が否定したいことだ。
だが、それでも自分の居場所が今は戦場にあり、戦わなければ救われないということも分かっている。
そうでなければ、自身を証明することが出来ない。
『自身の証明』――――――彼が兵士となり、人を護るために死地へ往くようになった、理由。
それを背くことは出来ないし、譲ることも出来ない。
信条を前に、この場所は安らかでありすぎる。
悪い気はしない。
だが、求められているのは此処ではない。
夕日を背に、彼は家まで戻っていく。
今も自分が戦場に囚われ続けていることを自覚する彼。
だがそれを否定するのではなく、そうしなければならないと自分自身で背負い込んでいた。
穏やかであることを感じながらも認められず、自分のいるべき場所へ復帰するために模索し続ける。
少しばかり、時間が経過する。
3-5. 疑念




