1-3. アトリ(Ⅰ)
戦場から一人のみ撤退し、半日の走路を駆け抜けて再び自分の拠点へと戻ってきた、彼。閑散とする朝方の城下町は、少しだけ霧が掛かっていた。日が昇り昼が訪れれば、この閑散とした空気も活気に取って代わる。
だが、今の目の前の静けさ、世界を包み込むような霧は、まるで彼の心情を捉え受け止めようとしているようでもあった。
彼自身、その光景に溜息をつきながら、静かに霧の中、王城に向けて戻っていくのであった。
一つの戦いが終わったとしても、この世界には無数の自治領地がある。
戦いはいつどこで起こるか分からない。大陸は広い。
自分の与り知らぬところで、戦火に見舞われている可能性だって十分にある。
今日の結果はあのような残酷な形となってしまった。
最後、剣を持っていたのは己のみ。
ほかにいた仲間たちは、気付けば死んでいた。
彼らも含めて護りたいと思う気持ちは、恐らく誰よりも強かった。しかし、身体がそのようなことを素直に聞くはずがなかった。
自分の戦闘で精一杯だったのだから。
その様子を少しでも察するところがあったのだろうか。
城内に静かに戻ると、朝早いというのに元気に声をかけてくれた女性がいる。
「随分早いな、クロエ。」
戦場から帰還した彼―――――アトリは、城下町と同じくまだ静けさを保ち続けている城内を歩きながら、自分に声をかけてくる女性クロエと会う。
「いやーなに、愛弟子の帰りが待ち遠しくてね?」
「冗談として受け取っておく」
「おいおい酷いじゃないかー半ば冗談ではないんだから」
半分冗談なんだ。
『クロエ』
アトリと同じくこの王国に勤める兵士の一人である。アトリとは少々歳が上になり、まるで姉貴分みたいな存在だ。
そう思っている人はアトリ以外にも何名もおり、事実クロエより年下の男女兵士や召使はよく彼女に世話になっているものである。
彼女は普段この城下町周辺の警備を務めている。城下町は城の周囲にある町という認識が大半ではあるが、それは意外にも広く大きい町である。
もっとも、王の住処たる城の傍にある町が、他にあるような田舎と同じようなものであると示しが付かない。華美ではないにせよ、活気だけは他の町の何倍にもなるし、人の数も何十倍にもなるだろう。
城下町とて人が住み着き、生活を共にする場所。人の住むところには様々な問題が発生する。そこで、王国の兵士として、あるいは城下町の民の一員として、そうした問題を解決することや、周囲の警備を行うことが彼女の第一の任務である。
「女性が兵士とは珍しい」
彼女がこの任務に就き、町の周囲を武装しながら歩いていると、そのように言われることが多かったのだとか。しかし、兵士であれば当然訓練は受けているし、それに皆が思う以上に彼女は強いのである。面倒見のいい年上姉貴分は、年下に技量を教えるだけの経験もある。
彼と同じように、人を斬ったこともある。
だが、今は兵士のしているような鎧の入った服装は着ておらず、また剣も持っていないため、武装もしていない。
城内でも武装して歩く兵士も多くいるが、城内が物騒なことになる機会は数少ない。城で主催する催し物があれば、少しは変わるのだが。
武装を解いた彼女は外見では兵士に見えない。ロングスカートを身に着けているうえに、全体の服装は明るめの色。髪は…所謂ポニーテールと呼ばれるやつなのだろう。だが、腕まくりをしているその腕を見れば、女性とて侮れない筋肉質であることが分かる。
「で、その様子だと、また駄目だったようだね」
『また』駄目だったようだね。
それはアトリの失敗に対して言われたことではない。いや、ある意味アトリの失敗ではないよ、とクロエが伝えていることなのかもしれない。
瞬間的な解釈が正しいものであるかどうかなど、確かめるものではない。
クロエはアトリの様子を見て、それを察していた。
「別にアトリのせいじゃないよ。元々望みが薄かったってもんだ」
「…そうだな。そうかもしれない」
だがクロエは知っている。
そう思いつつも、アトリはその「現実」を受け入れたくない、と思っていることを。
アトリも、王国の兵士の一人。
求められれば兵士として戦う道を歩むことになるだろう。
戦いたくないから戦場から逃げる、などという我儘はあってはならない。
それは城下町周辺の警備をしているクロエとて同じことである。
国のピンチとなれば、どんな兵士であれと駆けつけることになる。そのような状態がいつ到来するかは、別にして。
アトリは城内での任務と、町の外の任務を受け持っている。
先程戦場から帰ってきたそれが、アトリの町外での任務の一つである。
支援を要請された自治領地を防衛すべく派遣される。支援を要求してくるということは、何かしらの悪い事態が発生した可能性がある。
アトリは距離に応じて何日も過ごせるように、準備を万全にし完全武装で戦場へと向かっていた。愛馬と共に。
既に何度となく行った任務である。
その中には、確かに報われる結果と言うべきものもあったであろう。しかし、それに関わらず戦闘がいまだにどこでも続いている、というのが現状である。
王国の直轄地では確かに戦闘が発生し辛くなった。一部分だけの平穏は訪れたのだろう。だが、今もこうして戦闘によって苦しめられている人々も確かに存在するのだ。
「確かに望みは薄かった。それでも力不足だった」
「そうだったかもしれないけど、アトリだってまだ何人もカバーしながら戦えるような腕じゃないだろ?その命がここに戻って来られただけでも、よしと思うことだよ」
アトリが防衛を行おうとしていた自治領地は、随分前から王国に対し難癖に近い形で要望を送り続けていた。領主が横暴な男で、王国であるのなら民を豊かにするべきだ。そもそもそういう目的で王は国を興したのではないか、と度々言っていたという。
半日と行ける距離にある地域なら、直轄地として認定できなくもない。
ただ、領主はそれを頑なに断り続けてきた。
あくまでこの領地は俺が統括するものであり、国に干渉される筋合いはない、と。
だが、自分たちがいざ外敵から狙われるようになれば、救いを求めてくる。
何と虫が良い話ではないか。
要求ばかりし、対価ばかりを求め、自分たちからは進んで行動しない。
その状況を派遣されるアトリも、クロエを含めた他の兵士たちも知っていたから、そのような情勢下で防衛をしようと望みは薄いと判断されたのだ。
元々自治領地の規模も極端に小さく、自警団がいることも確認されていたが戦闘経験は皆無であることも知らされており、アトリが行けば間違いなく非難を浴びるとまで予測できていた。
無論、その予測は的中。
アトリは散々言われながらも、領地だけは守った。5分も歩けば端から端まで歩いていけそうな、小さな領地を。
だがクロエの言うことはもっともである。
アトリには確かに護れないものもある。だが自分の身は自分で護り続けた。それだけでも、若い兵士としては立派と言うべきなのだろう。
自分の力に自惚れることはない、と。
「…そうか」
「そうだよ。気にすんな。それより疲れてるんだろ?まだ一時間は皆起きて来ないだろうし、部屋に戻るか湯でも沸かして浴びてくるがいいさ。それとも、私が体ほぐしてあげようか?」
「え?」
あぁ。想像できる。
きっとクロエに身を任せたら最後、身体をバキバキにされる。
直感が働きそう警告していた。
「遠慮。部屋で休むことにする」
「ちぇっ、人の厚意は素直に受け取っておくが吉ってもんだよ」
「展開が読めるから遠慮するんだ。でも、感謝するよ」
振り返り手を挙げ合図を送ると、アトリはそのまま城内の奥まで静かに歩いて去っていく。立ち話にしては少しばかり重たい話になっちまったか、と頭を掻いて息を吐くクロエであった。
クロエが冗談交じりの話をよく展開することは、何もアトリ相手のみではない。
それは彼女なりの気遣いの一つだったのだが、それに察することが出来ていなければ、まだまだアトリも成長期なのだ、と一人クロエは落胆しつつも笑みを浮かべるのである。
そのほうがありがたい。
こんな役回りを進んで引き受けてしまう、彼にとっては。
アトリは、この城内を自分の居場所としている。
王城の内部で務める者に与えられる質素な部屋があり、アトリもまたそのうちの一つを借りて生活をしている。
正規の兵士や召使などがこれらを利用でき、一般の民や王城に仕えていない者には利用できないものである。
特段待遇が良いというものでもなかったが、自分だけの空間を得るには十分だとアトリは考えていた。
食事は出るし、寝床もある。最近は部屋にいないことの方が多いが、生活する分には特に気にすることも無かった。
幾つか階段を下がっていき、半地下のような場所に辿り着くと、部屋の扉に鍵を使って開け、中に入る。
部屋の中は本当に質素。
机、椅子、寝床には古びたシルク仕立ての掛布団、石の壁には二つ蝋燭が吊るしてあり、照明の役割を担う。暖炉も設置してあるが薪は無い。
部屋全体はそう大きくは無い。アトリの部屋には二つ部屋があり、もう一つには自身の服や装備品などが整理されている。
それ以外には、特に無かった。外の明かりは地上とほぼ同じ高さにある小さな枠から入ってくる程度。所謂窓枠というもの。人が通れるような大きさではない。そして、太陽の光が直接この部屋に入ってくることはない。
―――――1時間、くらいなら。
そう心の中で許してほしいと呟き、窓枠のすぐそばに腰を下ろし、壁を背に武器を立てかけ目を閉じる。
鎧も外さぬまま。
少しだけ眠れば、身体は回復してくれる。
少なくとも一時的に疲れを飛ばすことは出来る。
アトリの中ではそう思っていた。
この眠りから覚めれば、また今日も兵士としての一日が始まる。
1-3. アトリ(Ⅰ)