2-13. 嵐の前
「そっか。次、決まったんだ?」
「あぁ。時間は無駄には出来ない。もう奴らは近くまで来ている」
時刻は既に夜の0時を過ぎている。
そこは、王城内の図書館の一角。
椅子に腰かけ本を読んでいるアトリと、傍でその姿を見ながら話をしているのは、
王女エレーナ。
彼が静かに読書をしていたところに、彼女が現れたというのが今日の様子だ。
昨日、アトリはグラストンの町から帰還した後、アルゴスに呼び出され、出征の時期を言い渡された。
領地北西部にある町にまずは向かい、マホトラスの襲撃に備える。
戦いが起これば、相手を残らず殲滅する必要がある。
共存など到底望めない相手だというのは、マホトラスという存在が出来上がったその歴史を見直せば
充分に分かる話だった。
彼が読んでいた本は、「太古の歴史図鑑」というもの。
それを見たエレーナは、またかという気持ちを優しく口で言いながら、それもまた彼らしいと納得していた。
何が書いてあるのか、と彼女が聞くと、彼は簡単に答える。
実在する歴史だそうで、この大陸の古き歴史も書かれている、と。
この王国が誕生する大昔から、この大陸には人が存在している。
当然と言えば当然の話だが、各領地で様々な出来事があったことをこの書は伝えている。
気になったのは、自治領地同士の戦いがかなり古くから行われていて、戦う兵士の中でも中心人物となる者、部隊の長や領主レベルの存在が扱っていた剣が、遺跡から発掘できるかもしれないという可能性が示されていたことであった。
そこまで話したところで、彼女は顔を難しくしてそれ以上の解説を求めなかった。
彼女とて歴史に触れる機会は多くあるだろうが、やはりこの時間に読むものとしては気難しい歴史書の一つだったのだろう。
「あと三日ね。それまでは、出来るだけお手伝いするよ」
「あ、ありがとう。とは言うものの、何をしてもらった方が良いかというのが…」
「魔術本漁りでも良いし、アトリくんの鍛錬を私が見ても良いよ?」
「貴方が俺の鍛錬を?…それはそれで、面白いかもね」
兵士の経験もなく、また鍛錬の経験もない王女エレーナが彼のその姿を見ても、何もアドバイスできることは無いだろう。
だが彼女は大事なのは経験者が物を言うことばかりではなく、素人の目でその姿がどのように映るか、というのも材料の一つだ、と言う。
言われてみれば確かにそうだ。
熟練者のアドバイスはいつも頼りがいのあるものだろうが、素人の経験がほとんどない人が見たものが、意外な盲点を捉えてくれる場合も考えられる。
彼女はそのように話すのだが、実際のところは全く自信がない。
ただ、彼女は彼の力になりたいと心から思っている。
せっかく客人が隣に来ているのにずっと本を読むのも失礼だと思ったアトリは、本を戻してエレーナとの時間を過ごすことにする。
すると、彼女が自室のある階層の外フロアまで案内してくれた。
この場所も普段は普通の人が立ち入ることのない場所。
石造りのベランダに両手を乗せ、月明かりが時折降ってくる空を眺める。
「今度は今までとは全く違って、すぐには戻って来られなくなるな…暫く城の姿を見なくなる」
「そうね。ひとたび戦いが起これば、ずっとそれに対応しなければならないものね」
エレーナにも分かっている。
自治領地のように数が限られている集団とは言い切れない。
マホトラスも自治領地のようなものなのだが、その規模はそれを凌駕する。
同じ集団が王国領地の各地に現れては、占領しようと侵攻を続けている。
王国史上にかつてないであろう敵の存在が、今動きを見せているのだ。
奴らを止めるためには、幾度となく戦闘を繰り返すことになるだろう。
そうなれば、暫くはこの城に戻ってくることはない。
彼女はそれに気付いていた、そして当事者が目の前にいるという事実に、少し寂しさを感じる。
「そうだよね」と、静かに自答した彼女に、彼は言う。
「すまない、このところ何度も手を借りてしまって。おかげで助かっているよ」
「ううんいいの。私がしたいってだけだから」
「そうか。何の利益も無いだろうに」
……アトリくんが善意を基に話しているのは分かる。
だけどね、そうじゃないんだよ。
利益とか利害とか、そういう話じゃない。
私が貴方という人に手助けをするのは……。
そう、心の中で何も言い出せない自分に呟く。
「そこまでしてくれるとは、この俺には勿体無いくらいだ。でもありがたい」
「そ、そうね!ありがたく感謝してよねっ」
「ははは、そうするよ」
今の私たちのこの関係。
あの時、はじめに会ったあの時から築いてきたもの。
思えばあの時私が話しかけなかったら、きっと今も赤の他人だったのかもしれない。
あれ以来、色々あったなー…。
これは、彼女が心の奥底で自分に話しかけていたこと。
決して彼の耳には届かない、奥深くの話し声だ。
もうすぐ、彼は再び戦地へ赴くことになる。
今までとは違う形で、今度は大きな勢力同士が争う「戦争」になる。
戦争になれば、しばらくは戻って来られないだろう。
それでも彼は前に進もうとしている、その姿を見て、彼女は昔を思い出すのだ。
「アトリくんだけだよ。同年代で私と親しくしてくれるのは」
「…そう言われると、何だかな。あなたは王家の人間だから、周りが委縮してしまうんだろう」
「うん。分かってる。ホントはもっとこう、仲良くなりたいなーって思うけども…」
つい最近の話とは言い難いが、彼女の記憶の中にある光景が彼女の中で再生される。
月下の夜に二人で図書館にいた時だ。
アトリが夜の時間を潰すためによく利用する、図書館。
彼女は彼女自身の自由を満喫するためによく訪れる、図書館。
二人の他愛ない目的が重なる日は、こうして図書館の奥の部屋、窓ガラスの広がる部屋の中、
椅子に座って読書をしたり、会話をしたりするのだ。
雲の切れ間から降りてくる月の光が、何かと幻想的な光景である。
時より明るく、また暗く。
月の明かりが要らなくとも、室内に燈っている明かりを頼りに本を読むことも出来るし、
お話をすることも出来る。
ただ、その景色が美しいと感じたから。
初めて彼らが顔を合わせた時も、そしてその時も、こうして月が彼らを見つめていた。
光が彼らを照らしていた。
彼の言うことは尤もであった。
やはり彼女自身が他の同年代の人たちと仲良くなりたいと思っても、中々そうはならないのが現状だ。
エレーナが外部に出る機会は少なく、アトリともこうして図書館を通じてコミュニケーションを取る仲だ。
既にそんな関係が続いてから数年。
図書館以外のところで会う機会も増え、また国王や王妃と共に、エレーナを交えてお茶をする機会もあった。
そういう意味で、彼女の中では彼の存在は他の人とは断然違う、特別な存在だった。
彼女は時に、自分が王家の人間でなければ、と思う。
後悔はある。
自分がこの道を進んでいくことが確定されているがために、本来得られるはずの生活を知らないのだから。
彼女にとって、同年代の異性交流は彼くらいなもの。
執事や召使と話をする機会はあっても、同年代ではないことがほとんど。
新鮮でありながらも特別な関係を築いてきたこの二人。
そんな自分を、彼はどう見ているんだろう?不意にそう思ったのだ。
「アトリくんって、誰かを好きになったこと、ある?」
「…『好き』?」
「……???」
と、彼女は突然聞いてみたのだが、何か反応が妙だ。
彼はその言葉をまるで呟くように、何回か繰り返す。
その表情や姿をよく見れば分かる。
この人は確かに鈍感なのかもしれない。それも彼らしいと言えるのかもしれない。
だがそれ以上に、この人は誰かを好きになるということを知らないのだ、と気付いた。
「たとえば、この人と一緒にいたいって思う、とか…」
「…いや、そういうのは。いつも会っている人たちが今後も会えるのなら、それでいいと思っている」
「あー。アトリくんの年頃なら、そういう感情があって良いと思ったのにっ」
「どうかな。エレーナに俺は淡々としているように見えるか?」
「んー、ちょっとだけ!」
アトリがそういう性格だ、と考える人も中にはいるだろう。
しかし、彼を幾度も傍から見てきたエレーナにすれば、性格がそのようにあっさりしている訳ではない。
誰かを護る、助けるためならば、その手を出来る限り尽くす。
そのように思う人が淡々とした性格を持っている訳がない。
彼の思うこと、感情として抱くものは、一方通行。
そこに「自分のために」と思うことや感じることは少ない。
誰かのために役立てたこと、その事実が自分にとって良きことだと思っているのだ。
「そう言うエレーナは…えーと、恋することはある?」
「えっ?」
その問いがあまりに唐突だったから、思わず彼女は素の表情と声でそう言った。
彼もそれを見て少しだけ笑った。予想外の質問だったのだろう。
それに、彼は彼女の生活の実態を知っている。
彼女に全く異性の友人がいないとは言い切れないかもしれないが、少なくとも日常的に接している一般人は少ないということは、彼も知っている。
だというのに、彼は問いを投げかける。
その笑みは少し意地悪にも似た表情であったが、彼女はこう答えた。
「どうだろうね?でも一緒に居たいなーって、思う人はいるよっ」
………。
私はずっと、自分の気持ちを押さえつけていた。
王家の人間だから。
普通の人にはどうしてもなれないから。
皆と同じような気持ちを、願いを、感情を、持つことを躊躇った。
でもそれは、人そのものの否定。
たとえそれが王家の一人であったとしても、そんなこと許されるものじゃない。
だから、アトリくんはよく私に話してくれた。
見抜かれていたんだ、きっと。
普通の人にはなれない私を、気遣ってくれた。
出来るだけ同じ歳の立場で物が言えるようにって………。
誰でも無い自分自身への問いかけ。自分が持ち続けてきた回答の一つ。
彼は疑問に思いながらも、その厚意を受け取ってくれている。
それは、彼が持つ信条を彼女が真似ただけのものではない。
彼女自身が、一人の女性として持ち得た答えの数々が、彼の手助けに繋がっている。
そのキッカケをくれたのは、紛れもなく彼であった。
彼が戦地へ赴く度に、その存在を思った。
時に心配し、時に元気よく送り出す。
そして、馬に乗り外を駆けて行くその後ろ姿を、見えなくなるまで見続けたこともある。
今回も、そうであって欲しい。
でも、何か違う。
いつもとは違う何かを感じてしまう。
いつも通りだと言い聞かせる自分自身が「それは嘘だ」と言っているような。
死地へ行き民たちを、兵士たちを護り助ける。
その任務に変わりはないはずなのに。
戦争という二文字が、その反応を一気に変えてしまう。
………まるで、彼がどこかへ消えてしまうかもしれない、という不安。
言葉に表せない漠然とした圧迫感。
それを紛らわしたい。だから、出来るだけ彼の傍にいて彼の手助けがしたい。
今の彼女が彼に動かす原動力が、そうした類のもので重なっている。
…少しだけでも、一緒に居たい、と。
それからのこと。
彼は間もなく訪れるその日の為に、準備をし続けた。
遠出となるために必要な資金を引き出し、予備の武装と防寒具を揃えた。
大剣が一人前に触れるようになるまでには、まだまだ時間が掛かる。
しかしこれ以上時間をかける訳にはいかない。
レイモンのところへそれを相談しに行くと……。
「これを持っていけ。特注だ」
「…あ、ありがとう、ございます…」
今まで持っていた大剣ともう一つの剣は、レイモンにより回収された。
だがその代わりに、レイモンは新たな剣をその腕で打っていたのだ。
彼に鞘のついた一つの剣が渡される。
兵士が支給されるものとは明らかに違う。
剣のグリップ部分が長く、何重にもテーピングされている。
グリップエンド、柄頭はグリップの幅よりも大きく、また円形で中央部に穴が開いている。
剣身は根元がかなり厚く太いが、剣先に向かっていくごとに厚さを保ったまま、だがその刃先が徐々に鋭利になっていく。同じく剣の幅が根元から剣先にかけて小さくなっていく。
彼が手に持った重量は、鍛錬の為に使っていた大剣よりも少し軽いと感じるほどの重さ。
これが、レイモンがアトリと打ち合った時のことを参考にして作った、剣である。
両刃の長さも支給されているそれと比べれば長い。
今までより長いリーチを持つ剣であった。
「同じものは作っていない。折れにくいようにはしているが、用心することだ」
「…はい…!」
そしてアトリは、その剣を受け取り再びあまり使われていない道場へ行く。
上士であるアルゴスも、レイモンが彼に剣を特注したことは知っている。
その剣に慣れる必要があることも知っていたアルゴスは、彼に与える日常的な任務を減らし、
特に夜間の宝物庫やその周囲の警備にあてる。
そのため、彼は日中鍛錬する時間を与えられた形となった。
決して軽くはない剣。自分の持つオリジナルの剣、ということにはなったが、まだその重さには慣れていない。
ひたすら、彼は時間を使い尽くす。
時々だが、その様子をエレーナも見ていた。
昼間の時間を自身の鍛錬にあて、夜の時間を宝物庫などの警備にあてる。
そして就寝間際は、自由な時間を図書館で過ごす。
このサイクルは、出撃二日前でも乱れることが無かった。
エレーナもまた、そんな彼の様子を見ていたし、また話すこともあった。
彼女が望んだことでもあるし、彼も手助けに感謝をしていた。
…そうして、出撃前夜となる。
遅い時間。
彼はいつものように図書館に…とはいかず、今日は城の外に出ていた。
相変わらず防具はほぼ身に着けていないが、特注で受け取ったその剣は腰から下げている。
彼が今いるのは、王の丘と呼ばれる場所。
城と城下町を一望できるスポット。
かつての国王が残した言葉を記録する石碑のすぐ近くにいた。
自由と平等を約束するために邁進し、そして実現させた先代の国王。
実現させた中でも、いまだ不穏な世の流れは続いており、そして国と呼ばれる者同士が争い合う、
戦争も本格的に始まろうとしている。
いつまでも世が平和でいることは無いのか、そう思わざるを得ない。
彼自身、分かっていたこと。
そして理解していたことでもある。
暫くこの城に戻れなくなること。
再び戦いが己の身を削ることになるだろう、ということ。
それでも。
誰かが戦わなければ、その誰かが報われなくなる。
助けられるものがあるなら助けたい。
彼の目的に変わりはない。
…あの槍兵や黒剣士と再び戦うことになるだろうか。
いや、あれ以上に強い敵が現れる可能性もある。
あの男たちを前にして、充分に戦えるだろうか。
明日早朝に出発することになっているアトリ。
随伴者は誰もいない。
既に時間を置いて城から何名もの兵士が各地へ派遣されている。
アルゴスの報告では、既に北西部の直轄地でそれらしい兵士の目撃は確認されている。
アトリはこの期間それなりに休息を得ることが出来た。
また自身が受けた傷もこの期間にほぼ完治させることも出来た。
身体の状態は上り調子だが、たとえそうであったとしても実力が相手に勝ることはあるだろうか。
その不安はどこへ行っても消し去ることが出来なさそうだ、と彼は思う。
「ん………?」
「窓から見えたよ。アトリくん」
王の丘に風は吹く。
その日の夜は風がやや強かった。
雲が流れて行く、その姿がとても早く見えた。
既に丘の周辺は暗闇に満ちている。
城下町の家も数えるほど明かりが見えているくらいで、既に就寝時間を迎えている。
どうやら、アトリが一人で時間を過ごしていたところを見ていた彼女エレーナが、ここまで
一人でやってきたようだ。
「…寒いだろうに、態々ここまで」
「気にしないで!…明日、朝早いんでしょう?」
「あぁ」
いよいよ、しばしの別れの時。
流石に彼も彼女が朝早くには起きて来ないだろうと理解して、今この瞬間がその時なのだということを把握した。
現地に着くまでには一週間はかかる。それまではほぼ一人で行動することになるため、周りの状況をよく見ながら行動していかなくてはならない。
危険の伴う任務であることに変わりはない。
「いよいよかぁ。少し寂しくなるなぁ」
「………?」
「私も少しくらいそういうの考えるよ。人間なんだしっ」
少しばかりむっとした表情で彼を見たエレーナ。
もっとも、その表情は常に見える訳ではない。
暗闇の中で雲の切れ間から降ってくる月の光を頼りに、二人はお互いを確認していた。
アトリは彼女のその姿を見て、少し笑みを浮かべる。
そして言う。貴女は素直な人だ、と。
エレーナからすれば、その言葉でさえ何かやり場のない気持ちを覚えるのだが、一方で悪いとは思っていなかった。彼がそう、笑顔で話してくれているのなら。
彼女が寂しいと思ったその気持ちは、純粋に普段図書館などで顔を合わせる機会があった、その時間が暫くの間失われるということに対してである。
それ以外の理由も含んではいたが、彼女の口からそれが明かされることは、無かった。
「とにかく、無事に帰って来てね」
「そのつもりだよ」
「何かあったら私が許さないからね」
―――――――ひとりのお友達として。
それが、今の彼女に出来るせめてもの声掛け。
これ以上この人の迷いとなり得ることをすべきではない。
この人はこれから国の為に戦いをしに行くのだ。
本当は行って欲しくない。
そう思ったことが、今回のみならず、過去に何度かある。
彼女が子供心に漠然とした不安で満ちてしまった経験があるからだ。
彼女自身が言う、私だって人間なのだから、という言葉の意味。
そこに表面上浮彫にはされない言葉の意味が、隠されていた。
彼の進む道がどのようなものであるかは、大方想像がつく。
その結末が願ったものであればいいと思っている。
だが、その過程にどのようなことを彼が経験するかは、分からない。
もしかしたら、その過程が彼の結末を変えてしまうかもしれない。
だが、その結果を得るためには、どうしても戦う必要があった。
それは国の為、民のため、そして自分自身の信条のために。
彼女エレーナに、それを止める力は無い。
止めることも出来ないし、そうすることもない。
引き留める、手繰り寄せる力も彼女には無いのだ。
何故なら、彼女も彼を認めてしまっているから。
その生き様を、その姿を。
愚直なまでに己の信条とその果てにある理想を追い続ける、その背中を。
剣と心を縫い合わせ一本の刃となったその気持ちが、たとえ折れ砕けようとも止まらない。
少なくともこの時点で、今の彼を止められる者はいない。
認めていると自覚しているのなら、私は彼を送り出すべきだ。
その前に、少しでも一緒に時間を共有出来たら良い。そう強く思ったのが、ここ数日。
今まで多くの時間を彼と過ごしてきた。
彼との出会い、その過程にあった出来事や思い出。
そのすべてではないが、彼女はそれを記憶にとどめている。
数ある情景の中でもハッキリと思い出されるものが、幾つもある。
共に時間を過ごした間柄だからこそ、その時間が遠のくのは寂しい。
しかし。
それでも彼女は信じ続ける。
彼がいずれ戻ってくることを。
たとえどのような結果が彼を待ち受けていようと、いずれ必ず―――――――。
「……ありがとう」
月明かりに照らされるその表情が、男の素顔が示した笑みを浮かべていた。
こうして、翌朝に彼は城を出立する。
朝の気温は低く、城下町によくみられる霧のかかった景色の中。
彼は、アルゴスとレイモン、そして国王エルラッハに見送られた。
今まで死地に赴く時に、何度か見送られた経験はあるが、レイモンがいるのは珍しい。
エルラッハ王が見送ってくれる時は、彼と国王との関係がただの兵士と国王というものではなく、それなりに親しいものであるという理由があった。
アルゴスは上士としてその姿に無事を祈るというものがある。
そう思いながらも、だが目の前の任務に集中しようと深読みはしなかった。
ただ、彼は「行ってきます」と言葉を残し、その背後に三人と王城を残して、馬で駆けて行く。
彼の姿が、背中が、その霧の中に消えて行くまでの時間は、そう必要としなかった。
そして馬が地面を蹴る激しい音が遠ざかっていくまでも、同じようにそう時間を必要とはしなかった。
「……、本当に良かったのか」
彼の姿が霧に消え見えなくなった後。
その場の沈黙を破る一声を出したのは、レイモンであった。
国王の前であると言うのに一切自分の姿や性格を改めようとしないご老体。
だがそのようなこと、エルラッハはとうに知っているし、咎めることなどしない。
レイモンの放ったその一言がまるで後悔を指し示すかのようなものであったが、エルラッハはすぐにそれを否定した。
そして言う。
「いずれは、こうなると思っていた。アトリが兵士になるとここに来た時から、いつかその日は来ると」
あの男は望まないかもしれないが、その時は来てしまった。
戦いを戦いで鎮めるためには、力が必要だ。
誰と対してもその力を発揮し勝ち続けるだけの、力が。
だが、アトリはまだ若い。
あの力を直接的に使用させるのは危険がある。接触させることは出来ないが…その恩恵を受けることは出来る。
「それに、これは彼を彼自身から護るための手段でもある」
国王エルラッハの思惑が黒くも輝きを放つ。
だが決してそれが自分たち、アトリ本人、そして彼の信条にとって有害である訳ではない。
彼がその「細工」に気付いてそれを有用だと思い使うか、気付かず純粋な己の力量で立ち向かうか。
その正体は、彼も後に確認することになる。
「………」
――――――お前が危惧したように、事は始まってしまったよ。アーサー。
2-13. 嵐の前




