2-10. 王妃の懸念
………、俺も口数が多くなったものだ。
アトリが大剣と通常よりも重い剣を持って工房を離れた後。
炉の前に浮き出た岩の椅子に腰を下ろそうとしたのだが、途中でそれをやめた。
一人心の中で呟いている最中に、再び不意の来訪者が彼、レイモンのもとを訪れたからだ。
アトリはその存在に気付かなかった。
その者も遠くから、アトリとレイモンが互いに剣で打ち合う姿を見ていたのだ。
レイモンは、沈黙を持ってその男を出迎える。
「見させてもらった。次から次へと邪魔してすまない」
「………」
現れたのは、エルラッハ国王であった。
「………、はぁ」
まさか、レイモンさんに負けるとは思わなかった。
いやいや…勝ち負けとかそういう話ではないはず。
だがあれが敵であるのなら、間違いなく俺は殺られていた。
しかし。
少しばかり対策が出来るというもの……。
夢から覚めたその日の体調は、他の日と比べれば決して良くは無かったのだが、朝から続いていた身体の怠さは、お昼近くなるごとに抜けて行った。
レイモンと一戦交える時には、その疲れなど吹き飛んでいた。
というよりは、目の前の打ち合いに集中していて忘れていただけでもある。
だが、少しばかりヒントを得ることが出来た。
アトリは早速、この城の中層階外縁部に位置する、ある部屋に向かう。
彼の目の前には大きな扉。
木製で出来たその壁を押し出すように開けていく。
やや古びた音を鳴らしながら、それでも逞しいその扉は開いていく。
目の前に広がる空間は、窓ガラスから外の光が入り込みつつも、広く殺風景な空間であった。
窓ガラスの無い方の壁には大きな鏡が取り付けてある。
「………」
そう。
ここは「道場」と呼ばれるところ。
兵士の見習いや兵士になるための訓練をする者たちが、通っていたところ。
今となってはその扉が開くことも数少ない。
彼はよくこの場所で鍛錬を重ねていたのだが、今は殆ど使われていない。
別のフロアに整った空間が新たに設置された為に、ここは旧道場などという呼び方をされている。
クロエがたまに子どもたちに教育として剣を教え込んでいるのは、ここよりも更に上の階層。
そして子どもたちは特定の部屋を使うことよりも、階層の中にあるフロアという空間を最大限に活用して修行をしているのだ。
それに比べ、アトリがやってきたこの空間は殺風景で、しかも閉じ込められている。まるで城の中でも外界に位置するところ。
殆どの人が知らない宝物庫の入口とその空間、それと少し似ている。
ここなら、集中して鍛錬することが出来るだろう。
昼からの警備にはまだ少し時間がある。
彼は、少しだけその空間内で一人、剣を振る。
意識するのはその手に持たれた大剣。
ただ黙々と彼は努力し続ける。
一日二日で剣の扱いに慣れるようなものではない。今まで使っていた剣ではなく、急に重さを加えたものとなったからだ。
「………、ふぅ」
懐かしい気持ちと共に短い時間ではあるが鍛錬を積み重ねる。
その後のこと。
彼は城内で昼食を軽く取り、アルゴスより受けていた城下町の警備任務に入る。
この時、彼の持つ剣は大剣のほうではなく、もう一方の剣。
兵士には支給されていないものだとレイモンは話していた。
重さは支給品のそれよりも重く、大剣よりは軽い。
もらったばかりの剣、すぐに慣れることは無いが、今は他に武装出来るものを持っておらず、それを持ち歩くことにした。
「さぁ買った買った!!今がお得の鯛魚の刺身だー!!」
「東の大陸から輸入された高級茶葉、この時間のみ特価で販売しております~」
「どうだい、南国から仕入れた果物、今日は沢山並んでるし安いぜ!」
あぁ、実に平和な風景……?
と、彼は思いたかったのだ。
だが目の前の光景がそれに疑問符を並べてしまう。
売り出し祭り、というのは正式な名前ではないが、時々城下町の商店街で開催される大売出し。通常商品価格がこの日のこの時間は下落し、民たちの財布から次々とお金が出て行く日である。
売り出し物は全般が食品、他は生活雑貨や輸入品などが販売されている。
人間の心理というものは実に簡単に見抜けるものもあり、特にこうしていつもの値段よりも低く設定された商品に対しては、その価値が等しくなかったとしても、物欲を前に購入してしまうのだ。
それが積み重ねられれば、出費は激しくなるしお店側の景気は潤うばかり。
だがこのサイクルが続いていけば、お金の流れが大きくなり需要と供給の拡大を狙うことが出来る。
城下町が好景気かどうかは、アトリの判断するところではない。
だがこうして、目の前の安売り品に民たちが殺到する姿を見て、平和というよりはある意味平和の中で戦争をしているのだろう、と妙な感想を抱いてしまう。
死地で戦っているよりは、遥かにこちらの方が平和的である。
「お、兵隊さん!今日もご苦労さん!」
「…、ありがとうございます」
そして、なぜだろう。
彼は兵士の立場として幾度かこの売り出し祭りに来ているのだが、
この日に限っては民たちの機嫌も良いのか、兵士はよく声をかけられる。
普段兵士とは国を護るための存在。だが民たちからすれば、たとえ自分たちを護ってくれる存在だとしても、武装する者たちに良い気は起こさない。
感謝する者もいれば、その姿に畏怖の念を抱く者もいる。
だからアトリも含め、兵士たちは兵士と言う立場で城下町を堂々とすることを避ける傾向がある。
今日のように大勢の民たちが一ヵ所に集中する時には、どうしても警備をそこに強化させなければならない。
対応できる人数が多ければ多いほど捗るし、兵士たちも安心する。
………、大陸のどこかには、このように活気づく町も多くあるのだろう。
何も、王国だけが豊かで平和的だとは限らない。
誰も彼も皆、こうして毎日を笑顔で楽しく過ごしたいと思っているはず。
この大陸は広い。
地図で見渡せば、とても人が歩いて端から端まで渡り歩くことなど不可能だろうと思えるくらい、この世界は広い。
大陸の全体から見れば、ウェールズ王国とその周囲は西側の大陸に位置する。
特に距離の長い東側の大陸には、一体何があるのか。
自分たちの生活がこのような状況である一方、東側や極北地域、南東部に広がる南側の大陸は、どのような暮らしがあるのだろうか。
確認しようのない欲を自分自身で見て、少し笑みを浮かべる。
意外と好奇心があるのかもしれない、と。
警備中、民の数名が怪我をして兵士たちが力を貸すということ以外、特別込み入った事情が発生することも無く、彼は日が暮れた後に任務を終える。
今日は夕暮れがとても綺麗で、空は真っ赤に染めあげられていた。
城に戻り夕食を済ませると、自由行動となったアトリは、昨日のように宝物庫を訪れ、魔術の調査をしようとする。
そのフロアまで辿り着いた時―――――。
「あら、今日はエレーナを呼ばなくていいのかしら?」
「っ…」
背後から、声がした。
これから宝物庫に通じるあの空間まで行こうとしていた時、彼は呼び止められた。その声の主、背後にいるであろう女性に、彼は振り返った。
振り返った先にいたのは、やや背の高い女性。
後ろ髪が長く首からは繊細なネックレスを下げ、青色や白色で綺麗に合わせた服装をしている人。
手を後ろで組み、足を上下にクロスさせたその女性の容貌は、若い。
その綺麗な女性は、アトリが頭を下げなければならない相手。
「王妃殿下……!」
「ははは、相変わらず堅苦しいのね。私たちの前では」
『フリードリヒ・フォン・ウェールズ』
それが彼女の名前。
王妃と言われるからには当然、エルラッハ国王の妻にあたる者である。
その容姿を初見で見た者は、果たしてフリードリヒを何歳に見るだろうか。
アトリは正確な歳を知っているために、今では驚くことはしないが、それでも彼は久々に王妃の姿を見た。
娘のエレーナは城にいればよく見かけるのだが、王妃の姿は中々見ることが出来ない。城内にいるのは確かなことなのだが、あまり人前に出て何かをするような立場でも無ければ、そういう人となりでもないのだ。
少なくとも、アトリにはそう思えた。この時点で、の話だが。
「毎日手伝って頂くのも、失礼な話です。今日は遠慮しています」
「そのことを、エレーナは知っている?」
「あ、いや…直接お伝えはしていません。ですが彼女も、お声がかからないとあれば何事も…はい」
エルラッハだけではない。
彼女、エレーナと彼が仲の良いことを、フリードリヒも知っている。
逆に彼と彼女の関係が無かったとしたら、王妃が彼に声をかけることは無かったのかもしれない。というのは、あくまでアトリの中だけの考えである。
アトリとエルラッハの場合は、王族と兵士という関係に留まらず、接点がある。
同じように王妃も彼との接点を設けていたのかもしれない。
が、それはあくまで仮定の話。
今の二人の会話と関係性は全く関係のない、パラレルワールドのことである。
「アトリさん、本当に不器用な性格をしているのね」
ふふふ、と心からの微笑を彼に向ける。
思わず彼は疑問符を顔に描いたかのような表情を浮かべる。
それを見た王妃もくすっと笑みを浮かべながら、その理由を述べる。
その表情があまりにも自然的であったから、馬鹿にされているとは思わなかった。
「たとえ相手がどのような人であれ、女の子を待たせるのは男の罪ですよ。特に、昨日今日の流れからすると」
「………」
心の中では、既にアトリは気付いている。
そうだ、彼の作業の一つ、魔術本を探るというものは、エルラッハが彼と彼女に依頼したことだ。
それが昨日だけの話ではないかもしれない、という可能性をすぐに見つけ出す。
現に彼は今こうして作業に取り掛かろうとしている。
同じように彼女も、彼から声が掛かるのを待っているのかもしれない、という可能性が頭の中に瞬時に浮かび上がる。
もっとも、その可能性をはじめから見つけていたとしても、今の彼は「今日は自分ひとりでやってみよう」と思っていただろう。
王妃もそんな彼の性格と行動を見抜いていた。
「…以後、気を付けます」
「今は気にすること無いです。大丈夫、エレーナは強い娘ですから!」
何かこう、若干的を外れた見解を示しているような気がするアトリではあったが、あえてそれを口にする必要もなし。
彼女が強い性格であることは知っているし、その内面が意外と脆いことも、彼は知っている。
王妃は頭を上げて、と彼に頼む。あまりに形式的で他人行儀な振る舞いをするアトリに、逆に王妃が申し訳なく思ってしまうところであった。
王族に対しての忠誠心と礼儀は買いたいが、アトリと対王族の関係は、他の人のそれとは異なる。
王妃もそれを十分に承知し、またエレーナとの交友を心から認めているのだから、自分たち「大人、親」に対しても、礼儀作法よりも人としての信頼を置いてほしい、と伝えていたのだ。
「でも、今日は呼ばなくて正解かもしれない」
「それは…何故?」
「ふふ、王族にも色々とあるの。エレーナも疲れていたようだし」
その言葉に、少しだけ寒気を感じる。
王妃の口から王族にも色々とある、と言われれば深読みせずにはいられない。
彼女は前に、自分の人生は後悔の連続だ、と打ち明けてくれた。
その言葉の真意は、王妃の言う色々と関係しているからなのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
だからといって、彼女は王族としての立場を変えることは出来ない。
国を前にして、民を前にして、己を変えることのできない人生。
王妃の表情からは見て取れないが、王妃や国王、エルラッハもそれなりの事情を抱えているのだろう。
たとえ彼女と交友関係にあったとしても、一兵士が王家の中に土足で踏み荒らして良いものではない。
彼はそれ以上聞かなかった。
だが、話はまだ続く。ゆっくりと一ヵ所を歩きながら、また後退しながら、その連続を行いながら、更なる会話をアトリに振る。
――――――アトリさんは、誰かに恋しないの?
「………え………?」
それが、あまりにも突拍子な問いであったことから、思わず動揺してそのような声を出してしまった。
失礼しましたと声を出して謝りつつ、だが恋に対しての回答が全く思い当たらない。
まさか王妃が自分の恋路を気にしているのか、と思考力を回転させながら、また焦りながら返事をしようとしていた。が、それよりも先に王妃の方が口を出す。
王妃にはもう見え見えであった。
「アトリさんこういう話に弱いのね。だからこそ聞くのは楽しいけれど!それで、どうですか?誰かに恋してますか?」
「……、あ、いやその……」
………。
男が、自分自身でもそれを感じ取ったのは、この時だ。
それは王妃に対してのことではない。
自分自身に対しての、ある一つの気付きであった。
恋などというものは、別に自分が兵士であるから、国の従属であるから、というような考え方に関係なく、本来人間として生まれ出る欲や気持ち、思いの一つだろう。
誰にだって異なる思いだとしても、恋をすることはある。
そう思っている、そう分かっている。にも関わらず―――――――。
――――――恋とは…なんだ?
人間が生まれ持つ己の欲求だし、誰にでも生まれる基本的感情の一つでもある。
だが、何故自分はそれに疑問を並べてしまうのか。
具体的な定義を見つけては、それに従って気持ちを整理させようとしている。
違う、純粋に相手を思いやり相手を好きになる、それだけでも一つ恋と言える。
そう分かっているはずなのに、彼の頭には問いと不毛な気持ちばかりが浮かんでしまう。
彼が誰かの為を思って行動したことは、幾度となくある。
死地を護り民を救う。
『この手で誰かを護れるのなら』
その願い、祈り、彼の揺るぎない気持ちは、明らかに対象者を相手にしている。
いつどこで何が起きているかは分からない。
だが、自分がこのように行動することで、誰かが救われるだろう。
誰かの為になっているのなら、その誰かが喜んでもらえるのなら。
その気持ちで、相手を思って自分は戦いを続けてきた。純粋に。
だが、それは相手を思いやることだが、恋ではない。
何故なら、赤の他人でも彼は助けるが、その眼で見てきたすべての人に、恋心など芽生えさせてはいなかった。
そう。
簡単な話だが、彼には「誰かを好きになる」ということが分かっていない。
誰かの為になる、誰かの為を思うことは出来ていても、自分自身が誰かに好意的な『感情』を抱くことはしていなかった。
王妃も質問をしながらこのことに気付いていた。
そうだろう。彼ですら、自分の中で自覚し始めたのだから。
まるで遠くに浮かぶ星々の中から、たった一つ。
これだ、と名前がついている6等星もの小さな光を手につかむよう。
たとえ小さな光の答えだとしても、それが彼本来の、いや「人間としての性能」では必要不可欠なものであったはず。
「なんだかアトリさんらしいわね」
「…は、はぁ…」
「恋は良いですよ。自分を綺麗に洗って飾ろうと、頑張れるんですからっ。…さて、あまりお邪魔しちゃいけないと思うので、私はそろそろ行きますね!」
結局、フリードリヒは彼からの回答を得られなかった。
いや、というよりは求めなかった。
何故なら、その回答に匹敵するほどの事実を、そこで知ってしまったから。
彼女は笑顔を浮かべ、彼の前で少しだけ会釈をして、また綺麗に歩いていく。
彼は困った表情から、少しばかり険しく表情を引き締め、その場で深々と頭を下げる。
足音がまた、綺麗に響いていき、やがて消えて行く。
王妃の姿が見えなくなったところで、彼は宝物庫に通じる道へと進む。
頑張り屋さんなのは良い。
鈍感で不器用でどうしようもない可愛い人だ。
そんなことはいい。
悪くもない、むしろその人の性格だと思うべきなんだ。
「その人の好さ」
…けれど、これは違う。
―――――人は、こんな風になってしまうのだろうか。
それが、王妃の行き付いた、答えの一つだった。
2-10. 王妃の懸念




