2-6. 王女と青年(Ⅱ)
誰からも好かれることなど無い。
たとえそう望んでそう振る舞ったとしても、結局は良き結果を招くことなど無い。
分かっていたことだ。
人とは常に誰かの陰口をたたき、誰かの存在を否定するもの。
自分たちにとって都合の悪い人間は、排除してしまう。
だから、先代の国王が築き上げたこの国を悪く思う人だって、内外に幾らでもいた。
それでも、この時代が訪れるのを避けることは出来たのではないだろうか。
彼女は王家の一人として、常に民たちの代表として存在し続けている。
たとえそれが子どもであったとしても、何の政治的効力の無い人間であったとしても、王族である以上国としての代表者の一角なのだ。
そのように生まれたからには、そのように暮らしていくしかない。
王家も、それを充たす為の教育を十数年間施してきた。
エレーナは、王家の一人。
普通の女性であることを、忘れさせられた一人である。
それを気にしていては、前に進めない。
彼女を生み育てた者たちを恨むのではなく、その状況さえ自分たちの為に還元できるよう、努力をし続ける。
王家の教育は厳しいものであったが、得るものも多かった。
厳しいからこそ、自由な時間が彼女にとっては格別であった。
彼女自身が悩み苦悩しても、その時間が訪れると、彼女は彼女自身の世界に入り込むことが出来る。
まるでそれは小説の中に出てくる、主人公という器を手に入れた自分のようだった。
その時間の中だけは、自由にしていられる。
思えば、それこそが普通の女性としての在り方だったのかもしれない。
「さて。今日はこの辺にしよう。あまり貴方を拘束し過ぎるのも申し訳ない」
彼、アトリはそう言葉を口に乗せると、今まで読んでいた本を積み上げては、その場に立ち上がる。
長い間地面に座りながら本を読んでいたためか、血の行き届き辛い部分に向けて血が行き届く感覚が良く分かる。気持ち悪いくらいに。
立ち上がる姿を見上げた彼女は、次に思わずこうつぶやく。
「え、もういいの?」
でも、彼女はその言葉の後に改めてこの状態を見直す。
確かに自分はお父様に言われてこの現場にいる。
けれど、それだけがここにいる理由じゃない、というのは自分もよく分かっている。魔術を知りたかったから、というのもあるし、それに……。
彼女は、それ以上は考えることをしなかった。
ともあれ、彼が今日のところは大丈夫だ、と少しだけの笑顔を彼女に見せながら、そう話したのだ。
自分が彼を留める理由も無い。ただ、何となくその時の自分の心は、どこか一部に穴が開いたような気がしていた。あくまでも、気が。
彼も彼なりに彼女を気にかけていた。
エレーナの言うところを参考にすれば、彼が彼女と対する時には、対王族の人間ではなく、一人の女性、一人の人間として見て欲しいというのが、彼女の希望でもある。
それを実行しているつもりだとは言え、長時間彼女の本来ある自由な時間を奪うのはもったいないし申し訳が無い、と彼は思っていたのだ。
さらに言うと、小腹も空いたところである。
遠征から戻ってきたばかりで大したものも口にせず、今に至るまでずっと勉強などをしていた。
既に時間は遅く食堂の間が営まれているとは思えない。
が、それでも何も食べるものが無いのなら、別に構わない、とまで思っていた。
エレーナが彼に「まずは自分を大切に。」と言うその言葉に従っているとは思えない考え方であったが、無いものを無理に求めるのは難しい話だと言うのは、彼も分かっている。
無いと分かるまでは努力もするが。
「アトリ君は、この後部屋に?」
「そうしようとは思うが…少し腹が減ったので、何か食事でも」
「そっか!…え、でもこの時間から?」
あぁ。
彼女もそこで気付いた。
今の時間は既に夜の9時を越えている。
この時間から食事をする兵士や召使は流石に居ない。
本来、この時間は既に多くの人が就寝していても不思議ではないのだ。
ずっと宝物庫の中にいたために、外の様子を伺うことを忘れていた。
「城下町もこの時間では閉まっているだろうし、それに…」
「そうね。兵士が城下町で食事をすると、何かと目を付けられるかもね」
と、彼が言おうとしていることが、彼女にも理解できていたし、言われていた。
兵士が町に堂々と姿を現す、というのは必ずしもいい効果を与えるものではない。
民とて兵士が戦うために存在しているものだと知っているから、その存在を危険視する者もいることだろう。
彼の人となりはそのようには見えないから、問題ないとも言いたいところだが、兵士という殻がある以上そうもいかない。
自由な行動を許されているとはいっても、その判断は難しいところでもある。
結局アトリは部屋に戻ろう、と結論を出してそのように動こうとした、その時。
「じゃ、私の部屋に軽食があるから、持って行って!」
……と、言われここまで来たもの。
確かにありがたいと言えばありがたいが、王家の者たちが使う空間にこんな時間に入るとは…無礼もいいところだな、俺は。
この城の高層階には、他の自治領地からやってきた領主をもてなすための客間や、王の間、あるいは宝物庫などといった、国の中でも貴重な空間が揃いも揃っている。
その中には、王家の者が使う空間も含まれている。
王の間というのはまさにそのうちの一つで、エルラッハ王が日常的に常務している空間だとも言われる。
あらゆる書類に直筆するのも、あらゆる者たちから国の報告を受けるのも、王の間で行うことが多い。
高層階部分の一角。やや小さな扉を開けた先に、エレーナの一人部屋がある。
そう普段は見ることのない空間だ。まして、夜にここを訪れることなどあろうはずがない。
やや特別な時間を過ごしている二人。
アトリは扉の前で待つ、と言ったのだが―――――。
「ううん、いいの。入って!」
と、エレーナは笑顔で彼を中に招き入れた。
本来、この一人の空間を誰か人たるものの存在が侵食することは無い。
掃除を担当する召使や王家の者以外は、ここを訪れることすら珍しいのだから。
だが、エレーナはそれでもアトリを部屋の中に招き入れた。
招かれざる客、というような立場ではなかった。
彼女が許可してくれているのだから入っても良い、ということでもない。
しかしアトリには拒否する理由も無く、拒否できるような空気でも無かった。
部屋は二つ。扉を開けた先に出迎えてくれるのは、アトリの自室の二倍はあるだろう客間。
一人での生活空間にも関わらず、やや華美な机に高級な見た目の椅子が三つ、うち長椅子が一つ置かれている。
机の数は見える限りで6つ。その多くは壁に向かっていた。
壁にかけられた鏡。外への空間へ出るためのガラス戸。そして今も落ち続けている砂の入った時計。
そのどれもがお洒落な造りをしていただろう。
彼女は自室から食料となるものを取ってきた。彼女の部屋に幾つも貯蔵している訳ではないし、それが時間の経った古い食料という訳でも無い。
「申し訳ない。本当は貴方にここまでしてもらう必要は無かったのだが…」
「相変わらず遠慮がちな性格ね、アトリ君。とくに、こういうことに関しては」
もし。
エレーナが戦場で戦う道具としてのアトリを見た時、どのような反応を示すか。
実は彼女自身も戦っている兵士の姿は気になるところではあったが、見る機会は後にも先にも訪れないだろう。
想像の中で現実の人間が戦っている。決して良好とは言えない歴史を辿りながら、その歴史に積み重ねられた現実を受け入れながら戦う兵士の姿を見られないのも、もどかしい。彼女はそう思っていた。
「それに…そうね、これはアトリ君の言う、困っている人がいるなら助けてあげたい、という気持ちと似たようなものだと思う!…んだけども、合ってる?」
「…どうかな。だが、ありがとう」
結局彼は少しの時間、王女エレーナの自室で食事をとることにした。
食事と言っても軽食。サンドイッチと呼ばれる食べ物で、二枚のパンに具材を挟んで食べるのが通説の食料である。
今の彼にはそれでもありがたいほどだったが、気を利かせた彼女は彼に紅茶を淹れる。
自分の部屋で食事を済ませてくれるのなら、おもてなしもある程度出来るというもの。
その厚意に彼は礼を言いながら、静かに食事をする。
綺麗な部屋に流れる空気は穏やかで、紅茶の香りが一層引き立てている。
まるで優雅とも言うべき時間。だが、考えることは山ほどある。
しかし彼女が彼にここまでのサービスを提供するのには、理由がある。
彼がいつも戦争のことを考えているのは分かっている。
自分が戦わなければならない立場にあること、そして時には自分を大事に出来ないことがあるということ。
張り詰めた空気や緊迫した状況は、少なからず人体への影響を与える。
戦場に出たことのない、そういう意味では普通の人間である彼女が偉そうな物言いは出来ない。
最前線で戦うアトリをはじめとする兵士たちに申し訳が無いからだ。
だとするのなら、せめて自分の中では親しい存在だと思っているアトリに、今は剣を置いてもらい、ゆっくりと過ごせる時間を提供したい。
そう思ったからこそ、半ば強引ではあったが彼を部屋まで連れてくることが出来たのだ。
「美味しいな」
「そう?ありがとう。少しは落ち着くでしょう」
「…俺は出来るだけいつも落ち着いてるようにしているつもりだが…」
「つもり、ね」
紅茶を口に運ぶまではずっと立ちながらその様子を見ていたエレーナであったが、その表情が穏やかなものになったことが分かり、彼女もまた自分のカップに紅茶を淹れる。
繊細なデザインが施されたカップに、銀色の小さなスプーン。
その二つを乗せる白色の皿。そのどれもが綺麗なものであった。
流石王族、というところなのだろうが、質は違っても似たような綺麗な食器類は城下町でも手に入る。
何も王族だけが貴重なものを使っている訳ではない。
それに該当するものもあるのだが。
「ねぇ、アトリ君」
紅茶を美味しく頂いている時に、その声は再び届く。
それまでとは少し味が違うような言葉の乗せ方…彼女の表情を見てもそれがすぐに分かるような気がした。
「アトリ君。今の自分の姿で…後悔とか、してない?」
正直、そのような話を突然振ってくるとは思わなかった。
後悔?
何故、それをエレーナが気にする必要があるんだろうか。
と、彼は瞬時に頭の中で考えだす。
そう。自分の人生なのだから、自分の良きように…とはいかないが、彼女は今彼が兵士であり人を殺すという立場を後悔していないのか、と聞いてきたのだろう。
思考が巡り追いついていく。
「後悔か…そうだな…」
後悔。
そう、無いと言えばウソになる。
それだけはハッキリとして言えるだろう。
何に対し、誰に対し、何の事に対し、何度後悔を抱いただろうか。
それは自分自身が兵士という道具であるから、という意味ではない。
あの時こうしていれば、あの時こう立ち振る舞っていれば、というような、結果の後からやってくる後悔ばかりだ。
その過程に何度も雲行きは悪くなった。
結果的に悲惨な結末を生み出してしまったこともある。
「後悔、よりも自分の手で誰かを護れた時のことを、考えるかな。もちろん、後悔が無い訳ではない。あの時こうしていれば、と思うこともあるよ。けれど…俺がこの道に進んだことが間違っていた、とは思っていないし、これからも思いたくはないな」
と、彼は返答した。
ほお…っとでも言いたそうな口の形と表情をしていたエレーナだったが、直後には笑みを浮かべた。その言葉が彼らしい、と彼女は一瞬でも思ったのだ。
だが同時に自分の中で深く考え込むこともある。人の生を気にするほど自分には余裕が無いはず。けれど、彼には少しだけでも気にしていなければ、という時間が自然とできてしまっている。
アトリとエレーナは、半ば古くからの付き合い。
王であるエルラッハもその交友関係を認める、いわばお友達という存在だ。
その関係性に居心地の良さも感じている彼女。
何より、王家の一人として王家の習わしを受け継いでいる自分にとって、それ以外の一般人と話す機会は貴重だから。
時折、彼女は思うのだ。
「私はね、後悔の日々。本当は王家の娘になんて生まれていなかったらって、思う時さえあるんだ」
「エレーナ……」
それを他の誰かが聞いていたら、かなりの爆弾発言だっただろう。
幸いにして夜遅く、しかも部屋には二人だけ。城内の高層階は他の城内の階層と比べても遠くへ離れているので、誰にも聞かれてはいないだろう。
だがその言葉を聞いたアトリの心中は複雑だ。
そして何が言いたいのか、何を思っているのかも、分かってしまっている。
「ウェールズっていう名前は好きだよ。こう、何というか、誇り高いものを感じる。先代の影響もあるし、そういう教育を受けてきたから、というのもあるんだと思う」
だが、そのように言葉を連ねるということは、あくまでその誇り高さの影響は他人からの受け売り、他人から摂取した刺激物に過ぎない。
他の人がそれを初めて聞けば、そう思ってしまうだろう、とアトリには感じた。
自分は、心の底から王を尊敬し、信頼し、忠誠を尽くすものである。
というのは、エレーナの立場ではない。
彼女もいずれは王家の一人として、この国の土台を支えて行くことになる。
それが明日になるか、それとも数年後の未来になるかは、いまだに分からない。
だが、よっぽどの事が無ければ未来は確約されているようなものだ。
動かし続けている歯車に己の一生を回転させていくだけの人生。
普通の民たちとは明らかに違う生活を十数年間も送り続けてきた彼女。
だからこそ、時々周りの人たちが眩しく見えてしまうのかもしれない。
「私はどうあっても、他の民たちとは一緒になれない。王族という殻から抜け出すことが出来ないもの。時々それが悔しくなる。このままでいいのかなって。少しだけ他の人たちが羨ましく思えてしまう」
「……」
「こう、自分のしたいことって、何だろうなーって」
コツン、と。
ティーカップが皿に触れる音が室内に響く。
優しくも虚しい音。彼女が言葉と共に奏でた僅かな音色。
少しの笑みを浮かべながらも、その目はどこか悲壮感に満ちていたような、そんな表情。
それでも彼女は知っていた。
これからの人生が、王家の一人として王族のみならず、国をも支えて行くことになるのだと言うことを。
それでも彼女は思っていた。
自分の人生、何一つ自分から見つけ出し、導き出し得た答えが無かったのではないか、と。
それでも彼女は分かっていた。
この立場として、この身が決して避けて通ることは出来ないループの中に存在しているのだということを。
彼にも分かっていた。どれほど彼女が強く願い望んだとしても、王家であることを捨てることは出来ない。彼女自身が自分の存在そのものに疑問を持ちながらも、自分が王家の人間であり王家の責務を果たす立場であることを理解しているからだ。
だから。どれほど悩みを抱えたとしても、最終的な答えは既に見えている。
しかし。
これは彼女の弱さだ。
今まで誰にも打ち明けられなかった、自身の弱さだ。
答えが見えていて、その答えのために進み続ける彼女の弱さ。
自分を理解し、存在をも理解し、それでもなお疑問を持ち続ける彼女の弱さ。
その弱さは今まで普通に持ち得るものであった。
ただ、それが表に出て来なかっただけ。
何故このタイミングでそのような言葉を走らせてしまったか。
それは彼女にも正確には分からない。
しかし、その要因の一つに、目の前にいる古くからの「友」の存在があることは、言わずとも考えられるだろう。
「無理に突き進むこともない。時には振り返ってみるのも大切だ」
アトリもティーカップを置き、そして彼女に向けて話す。
既に話すことは決まっている。彼女がどうすべきか、どうしていかなくてはならないかも、お互いに理解している。
そのうえで、アトリは言葉を口に乗せ並べて行く。
「…だけど、エレーナのそれはある意味運命のようなものだ。挫けることがあっても、負けてはならない。でもね、たまにはそういう姿を見せても良い。人前では見せられないと思う。そういう時は、俺も力になりたい」
「……そっか、そうだよね。アトリ君」
少しだけ彼女の瞳が潤んでいるのを、彼は少しだけ見た。
彼の胸中は複雑であった。
彼女は少しの笑顔を見せながら、そのように頷いて見せた。
そうか、他人から見ればこの姿はそう捉えられるものなんだ、と彼女は思った。
同時に、心の中での落ち着きを取り戻した。
彼も私がどのようにしていくべきかを理解していた。
それでも、ただ邁進し続けるのではなくて、時々振り返ってみる勇気も大事じゃない、と彼は伝えていたのだ。
しかし。
ここからは彼の胸中だけの話。
彼の心の内は、酷く複雑であった。
まるで折れ砕けた剣を繋ぎ合わせ、一本の刃に仕立てているかのよう。
どれほど彼女が望み描いた理想の姿があったとしても、それは理想であって現実は到底表せないもの。
筋書きの決められた物語の上に、彼女という歯車を乗せて動き続けている。
脱輪することも許されず、後ろに退き返すことも許されない。
出来るのは、途中の停車駅でじっくりと考えること。
だが、乗り換えをすることも出来ない。
彼女の歯車は生まれた瞬間には動きだしていた。
彼は、それを『運命』だと言ってしまった。
ふとその二文字に、あの黒剣士の存在を思い出す。
―――――ならば、その運命に抗ってみるがいい。
不可能では無いのかもしれない。
一度動き出した歯車を止め、別の方向へ進んでいくための舵取りを行うこと。
それを自らの手で実行し、成就すること。
その道は何らかの方法で照らされるのかもしれない。
だが、一度成立した歯車が事を成し消滅するまで変えられないもの、それを「運命」だとするのなら、彼女の生涯はほぼ決定している。
抗うどころか、その道の従者と成り果てている。
ああ、そうか。
自分には分かっていたことだ。
こうなることくらい。
彼が見続けてきた光景。
彼が思い続けてきた理想。
決して揺るがぬものと定めた信条。
しかし、それを目の前に根底をも破壊し得るだけの景色。
多くの躯が転がり落ち、多くの剣が地面に突き刺さり、雲の切れ間から夕陽の燈火が大地に降り注ぐ、あの光景。
誰もいなくなってしまった、無残な光景。
彼しか残されるものがなかった、現実の投影。
あぁ、自分は何と言うことを伝えてしまったのだろうか。
たとえこの真意が彼女に伝わらなかったとしても、その真意に偽りは無い。
もし、それが揺るぎの無い現実だとするのなら。
理想を侵食する現実が、彼女の運命を映し出している。
未来永劫、変わることのない、ただ一つの歯車が往く道を。
2-6. 王女と青年(Ⅱ)




