1-15. 月下の槍兵
『いらっしゃい…って、そういう雰囲気でも無さそうだな』
それを一番分かっているのはお前自身だろう。
そう言いたくなるのを堪えて、アトリはそのシルエットの姿を凝視する。
徐々にその姿にも慣れてきて、その全貌が明らかになっていく。
月の光を背後に家の屋根に立ち、どこか自信ありげに彼らを見下ろすその姿。
黒い闇夜に同化するような色のブーツと、上下の服装は濃い紺色のもの。
上着に黒いマントを肩から下げており、その丈は長身の姿の太腿辺りまで届いているだろうか。
両膝と両肘に部位アーマーを装着しており、両手の甲にも同様に防具を身に着けている。だが防具と呼べるものはそれだけで、後は風に靡くマントがひと際目立つようにも見える。
だが最も特筆すべき点は、相手の正体が一目で分かる物。
こちらを見下ろす長身の男は、右手に自分の背よりも長い「槍」を携えている。
明らかに戦闘をしている者の姿。
必然的に彼らは警戒を強める。彼の後ろの兵士に至っては、その姿に気付いた瞬間に剣を鞘から抜いた。
見る目は皆同じなのか。その自信ありげな立ち振る舞いと槍を持つ威圧満天の姿は、その場にいる全員が瞬時に「強敵」だと認識した。
「この町のこと、お前は知っているのか」
「ああん?知らねえんならここで待ってるなんて馬鹿な真似はしねぇよ」
「…確かにそうだ」
この一言交わすだけで溢れ出る脅威の感覚。
アトリと彼らが顔を合わせたその相手は、この町の「現状」を知る鍵となる者。
いや、あるいは当事者であるかもしれない。
これまでそうした事例は何度かアトリも経験している。
自治領地を護った後に襲撃されることなど、ある程度想像は出来る。
いつでも自分の身が危険であることを認識していた。
だが。
今目の前にいるあの男は、その度合いをはるかに超えている。
この男を相手にすれば、どのような結末を迎えることになるか。
意味も分からず心臓の鼓動を早くさせ、その結末をまるで心の中は知っているかのように、アトリという人間の器に危険な酒を注いでいる。
命共々零れ落ちる前に、役目を果たせ。
そう訴えられているような気がする。
「だがまぁ、俺は単なる見張りにすぎねぇ。事の当事者ってやつを知りたいんなら、他所をあたりな」
そのように言葉を放つ時点で当事者も同然だが、今の言葉を冷静に聞けば、
あの槍男がこの状況に追いやった訳ではないのかもしれない、とアトリはその場で考えていた。
であったとしても、今は優先すべきことが先に一つある。
アトリは身体を槍男に向けたまま、後ろで剣を抜いている兵士二人に告げる。
「今すぐこの場から逃げて下さい。そしてこの状況を伝えてほしい」
「あ、アトリさん…いくらなんでもそれは!」
―――――早く!!一切の余裕はない。
偵察のため、人との遭遇は極力避ける。
だが人の様子が無ければ町を隅々まで確認できる。
その状況下で発生した、この脅威。
この対峙は間違いなく戦闘へと発展する。
それをする目的で連れて来てはいない若い兵士たちを戦いに駆り出すのは、
彼にとって彼らを巻き込むことと意味が等しい。
そのようなことを指示する訳にもいかないし、そうする立場にもない。
だからアトリは強い口調で自分の目的を果たせ、という意思を彼らに示した。
アトリの目的は、今この瞬間に変わる。
あの男が自分たちを逃がさないのであれば、彼らを護りながら逃げる。
そうでないとしたら、彼らを逃がす時間を稼ぐ。
アトリの全神経が目の前の男の一つひとつの行動に集中していく。
当然彼の指示はあの男にも聞こえている。
「ほう…?味方を逃がす余裕があるとは、大したもんじゃねえか。気に入ったぜ」
再び自信ありげな表情さえ浮かべそのように笑みをこぼしながら言葉を残す男。
そして急いで走り出してその場を後にする二人の兵士を、その男は追うこともせず、その場から動くこともしなかった。
月夜の中、誰もいない町の中で、二人だけが顔を合わせている。
アトリの目的は彼らが逃げる時間稼ぎに切り替わった。
馬に乗りある程度逃げてくれなければ、この状況を持ち帰ることが困難になる。
自分がどれほどあの男を押さえられるか、という点にかかっていた。
「ってこたぁ、その腕には期待していいんだな…?」
「生憎だが無理な話だ。お前がどれほどの手練れかは知らないが、俺に誰かと殺り合うほどの実力はない」
「ハッ、ぬかせ」
アトリは出来るだけ言葉を選ぶようにはしていたが、結局出た言葉はとんでもなく嘘のものになってしまった。
当然槍男もそれを見抜いていた。
あの男が見下ろすその姿、兵士としての気質に威圧感を上乗せしていたとしても、アトリは動じぬふりをして立ち続けていた。
呼吸は落ち着き、冷静に見上げるのみ。
だがそれが幾多の戦場を経て培われた経験上によるものだと、槍男は既に見抜いていた。
「んまぁいい。てめえらがこの町の状況を知って報告しようとしても、結局は無駄な足掻きってところだぜ」
「…何故」
「そんなもん、端っから決まってやがる」
―――――強い奴が勝てばいいだけの話だろう?
刹那、目を疑いたくなる光景を彼は目にする。
いや、もしかするとこのような状況はどこかで見たことがあるかもしれない。
それこそ、彼の知る歴史か、あるいは文学の中などで。
その言葉が放たれた瞬間、あの男の持っていた槍全体が白く線を引くような光景を突如として生み出した。
普通武器があのような光景を映し出すことなど無い。
たとえアトリが剣を霧の中で大振りしたところで、霧や雲を斬るようなことは出来ないし、ましてそこで剣に効果を生み出すことも出来ない。
だが、彼が目の当たりにしたそれは、紛れもなくあの男本人の意思によって生み出されたもの。
白く鋭い線の束が一瞬槍全体を覆い、それに呼応してあの男も不敵な笑みを浮かべる。
まるで今の光景が「狩りの開始だ」とでも言っているかのように。
何か不可解な現象と共に更なる命の危険を感じるアトリだが、それを心配している余裕すら与えてくれないようだ。
ここであの男の威圧感が更に前面に押し出され、それだけで身体が硬直しそうになる。
昔、兵士の見習いとして教えられたことがある。
自分より遥かに優れた兵士が持つ「剣気」というものに触れた時、それを前に怯む者も中にはいるのだと。
「てめえが強ければ俺は嬉しいが…そうでなかった時は、てめえの命、この槍が貰い受ける」
「………」
止めはしないが、やられたくも無い。
自分の命を護れないと他人さえも護れない、と忠告してくれたあの女性の言葉を思い出しながらも、逃げることなど不可能だと頭の中で考えが連鎖していく。
ならば止めることなどしない。
立ち向かって打開策を見出すほか、この状況を打破できない。
恐ろしくはあるが、あの槍を懐に入れなければいい。
…だが、槍を相手にしたことは今までほとんどない。
重くリーチの長い。しかも大部分が柄で硬く作られているが、刃などごく一部にしかついていない。
戦い方の限られる槍を使う者は今までほとんどいなかった。
槍の基本動作は突き。とどめを刺すのも突き。
だがあの刃の長さと大きさを見る限り、斬り倒すことも可能なのだろう。
…それでも、戦う以外に道は無い。
直後。
気迫のこもった短い雄たけびを一度上げると、その男は屋根から飛び降り、空中から一気に間合いを詰めてきた。
槍の刃先をアトリに向けながら対空から降りてきたその男の攻撃を、アトリはよく見ながら一撃目を回避する。
地面への着地音がハッキリと周りに響き渡る。自分でもその揺れを感じ取ることが出来るほど。
そもそも、建物の屋上から飛び降りて、平気で着地してしまうその身体に既に違和感を強く募らせていた。
だがそんな余裕を与える隙も見せず、男の槍が第二撃目を打ち放つ。
一撃目の突きを左方向に身体前進で回避したアトリ。男の槍は自身の右方向に向けた斬撃の第二撃目。
彼はそれにも反応し、あくまで剣を振ることなく構えてその攻撃を回避する。
だが次の瞬間。
その防御姿勢が一気に崩れる。
「っ…!!」
「ハッ…!!」
振り切った二撃目の斬撃の直後、槍の刃先とは正反対にある柄の先が第三撃目として飛び込んできた。
二撃目が剣によって流されたことで、男は切っ先とは反対側についている小さな刃の方を突きだすようにして繰り出してきた。
あまりに早い第三撃目にアトリの反応は遅れ、咄嗟に身体の部位が反応してしまった。
剣を構える前に腕が出て、槍の突きによる直撃を受ける。
思わず後方に急いで退いたアトリ。幸いにも直撃を受けたのは手の甲に装着してあった防具で、一撃で破壊され粉々になった程度である。
右手の甲を護る防具は存在しない。とはいえ、胴体に防具を身に着けていない彼にとっては、最早防具などどこにもないものであったが。
「よくかわしたな。まだまだこれからってところだが」
「くっ…」
そして再び高速でリーチの長い斬撃が繰り出されていく。
右に、左に、左下から、右下から、左上から、右上からと、あらゆる方向から刃の先を使った攻撃を繰り出してくる男。
ともかくその攻撃の速度が尋常なものでなく、次から次へ打ち出される攻撃に対処することさえ困難であった。
アトリは足を動かして自身は後退しながら、出来るだけ槍のリーチと距離を取るようにして交戦をしていた。
それに合わせるようにして、槍男は間合いを詰めてくる。
既にこの男には分かっていた。
アトリが攻撃に転じられるほどの余裕が無いことを。
ならば防御に徹するだろう。しかし防御する側だからといって、間合いが存在しない訳ではない。
詰めてしまえば押し出すことが出来る。
いずれその行動が限界点に達すると見ていたのだ。
―――――桁外れだ。この強さ…今まで以上に…
一撃を受けてからのアトリは冷静さを欠いていただろう。
自分でもそう思えるほどに焦りと脅威を強く感じていた。
槍のリーチは長く、仮にアトリが攻撃に転じようとしても、相手の懐まで届くとは限らない。
だがそれよりも、あの男の長槍が力強く、そして何より素早いことが一方的な状況を作り出していた。
あれだけの長さを持つ武器であれば、それなりの重量があっても良いはず。
だがそれを全く感じさせない辺りは、流石に強者と言うべき存在なのだろう。
他の誰もが同じように槍を持っても、あのように立ち回ることは出来ないのではないだろうか。
…それに。
はじめに見せた、あの槍の姿、どうにも気になる。
戦闘へのスイッチを入れるかのように、槍に白き線が風と共に描かれた。
その正体は槍を一時覆うようにして音を立てる。
あの光景が、彼には現実離れしているように感じられる。
この男の強さが現実離れしているのなら、あの槍もまた現実という法則を逸脱した何かか。
そう思えるほどの光景であった。
そして限界点はすぐに訪れ、男の槍の突きがアトリの腕を捉える。
何とか必死に反応したが直撃は免れず、手の甲から肘まで細く鋭い切り傷が生まれる。
猛烈な痛みが腕を通り越し上半身に伝わる。
やはり斬撃を受けるというものは良いものではない。
腕に強引に刻まれた傷のせいで出血もし始め、感覚も今度は鈍り始める。
痛みが別のものに和らいでくれるのはありがたいことだが、代わりに
腕そのものが使えなくなり始めている。
感覚を失っているため、最早それは身体に繋げられただけの棒きれに過ぎない。
回復するまでには暫く掛かるだろう。
しかし。回復を待つ余裕はない。
左腕が使えなくとも、まだ戦うことは出来る。右腕がある限り。
だがこれ以上の攻撃を受ければ、防戦すらできなくなる。
「ぐっ…」
痛みに襲われるのは今日に限ったものではない。
死地に居れば死と隣り合わせ。
血を流すことも、流させることもお互いにある。
だが今日のそれはいつもとは違う。
目の前で確かに自信ありげに槍を構えるその男は、紛れもなく長槍使い。
誰も居なくなった町にただ一人で待ち続けていた変わり者。
だがその眼は獲物を捕らえ狩りを楽しむかのような、鋭い眼光を放っていた。
さらに、この町の現状を知る者。
当事者であるか、あるいは頼まれてこの町にいるのかは分からない。
どちらにせよ、要請を受けた自治領地の「敵」であることに変わりはない。
あまりに強大過ぎる脅威に、彼はこれまでにない危機感を感じていた。
「へっ、結局は気が強いだけの臆病もんか。そら、剣を振ってみろよ」
それがあの男の挑発であることは明白。
だがアトリはそれに応じるようにして、剣を構える。
恐らくこの男は戦いを欲している。一方的な虐殺ではなく、お互いが殺り合うというレベルでの戦いを。
だが彼の技量ではその段階に辿り着かないことも、事実。
しかしこのまま一方的に傷をつけられているのでは、遠くない未来に死ぬことは目に見えている。
そのようなビジョンを現実に起こさせる訳にはいかない。
「っ…!!」
従うつもりは無かった。
だがそれを拒むこともしなかった。
アトリは槍兵の懐に向けて間合いを詰めて行く。
自分の姿を見て不敵な笑みを浮かべる目の前の男の顔など、最早気にしていない。
相手に乗せられている。
そう分かっていながらも、彼はその懐へ飛び込んでいく。
選択肢を誤ったかもしれない。
だがそれも今更。
「はぁっ!!」
「フンッ…!!」
剣戟は正確に相手の胸部に向けて線を描く。
切っ先が相手の正面右上から左下にかけて高速で振り下ろされる。
彼は力を入れ過ぎず、出来るだけ流すようにして剣戟を入れた。
見た目は渾身の一撃。だが中身は空の力。
力んで剣戟を振ることにより発生する、次の剣戟への硬直を軽減させるため。
槍兵の誘いに乗る形で攻撃をしながらも、次の一撃を読んで受け止めるため。
相手の懐に入るか入らないか、その切っ先が触れる瞬間―――――。
「てやぁっ!!!」
力強い雄たけびにも似た声が夜の町に響き、そして同時に剣戟によって生じる物音が交わるそれも広まっていく。
相手に一撃を与えるだけでも厳しく、それについての望みも薄いと感じていながら、槍兵の反応は目を疑うほどであった。
直撃するか否か、その寸前で出された槍兵の槍はアトリの攻撃を高速で弾いた。強い衝撃に素早い剣戟、その一つひとつが彼にとっては驚きと焦りの連鎖。何故この速さで人は武器を携えることが出来るだろうか。
そんな人間がかつて存在しただろうか。
いや、違う。
存在していたか、ではない。
紛れもなく存在している。それは現在進行形で、彼の目の前に。
もはや人知を超えた領域にさえ達する攻撃だと思ってしまうほどに。
間違いではない。
かつてアトリという剣を持った兵士を相手に敗れてきた人間たちの中には、そのように思う人もいただろう。
この者は、人ならざる卓越した力の持ち主なのか、と。
剣が通らない。
攻撃が弾かれる。
その勢い強く、姿勢は一気に後ろへ崩れて行く。
たった一瞬のことだが、それでも死を覚悟するには十分すぎるほどの時間。
あの男の長槍が己が心臓を穿てば、すぐにこの世から魂は消え去る。
残されるのは無常にも中身を失くした器のみ。
そのような光景を、彼は何度も見てきた。
何度も、何度も。
その記憶が焼き切れるほどに、何度も。
ああ、そうか。
今度は自分の番。
今までそう思っていた人がいただろう。
そのように、今度は自分が………。
「何っ…!」
―――――???
そう思うのは、まだ早かったのか。
あるいは既に結末を迎えていたのか。
自分の視線がいつの間にか上を向いている。
視界の中で白銀色に輝く美しき月が見える。
月の光からは遠い視界の空に、満天の星空が見える。
一体何が起こったものかと、彼はすぐに姿勢を確かめる。
仰向けになって倒れている自分。まだハッキリと残る衝撃の痛み。
そして両手でガッチリと握られた剣。
「っ…」
彼はすぐに姿勢を戻し立ち上がろうと、状態を起こす。
すると、何故だろう。
先程ほぼ至近距離で槍兵の攻撃を受けたはずなのに、あの男は自分から
距離を取っているではないか。
訳も分からず、だが次の攻撃に備える必要があると、彼は起き上がる。
両手に感じている衝撃が、どの部位の痛みよりも強く身体に反応していた。
そして、そのことにすぐ気が付く。
距離を開けた槍兵が噛み締め険しい表情を一瞬だけ見せ、起き上がる彼を見て
再び自信ありげな表情に戻る。
「…ほう、まさかこんなところにもいたとはな」
その声は、確かにその表情から発せられている、男の確かな声。
だが先程のそれと比べ、冷静な声色であった。
槍を構えた状態から態勢を解除し、槍の穂を上向きにしてもう一つの武器ともなる石突、短刃を地面につける。
槍の中間部分やや上を自分の肩に密着させると、右手で槍を掴んだ。
「今日のところは締めだ。また遊んでやる。それに…」
―――――お前とは、後々良い戦いが出来そうだしな…?
1-15. 月下の槍兵




