4-12. 夜の片隅で
かつての師。
先程までとは少々変わった赴きか。
あるいは、これが弟子を前にする者の素顔だったのか。
元々この人は、愛想のある人では無い。
身体こそ女性そのもので多くの人が魅力に感じていたし、その身体を利用された時もあった。
が、今の彼との間柄にそのようなものは関係なかった。
かつての師は彼を見るなり、少しだけの笑顔といつもと変わらない口調で、彼を呼び止めた。
「………」
人通りの極端に少なくなった町の小さな道の上。
道の両脇には規則正しく、だがしかし距離を離して松明が今も明かりを灯している。
この明かりは夜の0時頃には、兵士たちの手によって消される。
毎晩、交代制で24時間警戒態勢を敷いている兵士の役割の一つだ。
今は北から流れてきた残存部隊の兵士たちがその任を預かっているが、その前はこの町の駐留部隊の兵士たちがその役目を担っていた。
明かりはまだついているが、それもあと1時間程度で消えることだろう。
「………なんだ。私の顔に何かついているのか?」
弱いが心地良く涼しい風が吹く。
空の雲は流れていき、風の流れに火が揺らぐ。
されどその道は確かに明かりを灯し、その空間に光は差す。
決して明るいとは言い切れない道とはいえ、その顔はハッキリと見える。
半身で振り返った彼に対し、片方の手を腰にあてて、傍から見れば偉そうな態度を取る師の姿。
だが、今はそんな師が懐かしくも思えてしまう。
思えばそれだけの期間、全く顔も見ずに生活したというのは、初めてでは無かっただろうか。
変わることのない姿を見せていた師と、生死の境目から復活して変化を遂げた弟子との再会。
先程までは、お互いにあるべき姿を取り、それを乱すものではなかった。
お互いの役割をしっかりと認識し、その役割に相応しい対応をする。
だが、ひとたびそれが離れれば、今もこの二人は師弟関係にある。
一ヶ月以上も無事が分からなかったお互いの顔は、どことなく気恥ずかしい。
しかしそれも悪いものでもない。
彼女の存在により少しばかり複雑になったこの関係ではあるが、それでも彼にとって師であることに変わりはない。
「………いや。変わらないな、と」
「おかしなことを言うものだな、お前は。まぁ、今なら理解してやるさ」
と、剣の師は、本当にいつもと変わらぬ口ぶりで、ようやく彼の帰還を出迎えた。
先程までとは異なる空気。
師も彼の帰還に安心し、表面上は殆ど窺い知ることが出来ないが喜ぶ姿がある。
誰もがあの男は死んだのだろう、とある種絶望にも似た感覚を感じていたとき。
そうしてこの男は帰ってきた。
帰って来ても、すぐに戦争に参加しなければならないこの状況。
帰還を祝ってやれるようなものは何一つない。
ただ、彼が戻ったという事実は、明日より町中に広まって来るのだが。
少し付き合わないか、ということで寄ってきたのは、小さな広場だった。
道外れにどのような意図で設けられたかも分からない、殆ど何もない殺風景な広場。
明かりは充分に灯されているが、この虚無感を拭い去ることは出来ないだろう。
辺りは静寂という度合いを越した沈黙が包み込んでいる。
その中で、長椅子に座り静かな時を過ごす二人。
「クロエも元気そうで良かった」
「あいにく、この身は色々としぶとい身なんでね。そう簡単にくたばったりはしないんだ」
「はは、そうか。確かに前からそういう人だったな」
先程は新しくやってきた彼女からしか話を聞くことが出来なかったし、
アトリも詳しい国の状況を充分に知るには至らなかった。
その分の穴埋めがこの場で行われていく。
とても一晩では語り切れないほどのものなのだが、それでも情報として押さえておくべきものだった。
王国正規軍は、その多くの戦力を失った。
今日の状況を作り出すに至った、大きな戦い。
うち一つが、グラハムも話していたバンヘッケンでの戦い。
戦力の分散方針を取りやめ、どちらにせよ彼らが南下してくるのだから、集団でそれを迎撃するという作戦。
あえて町の外まで敵を引き寄せて、一気に殲滅する。
だが、その作戦も実らなかった。
バンヘッケンの町は壮絶な殺し合い、殺戮の町と変化し、もうかつての町の光景を見届けることは出来ないだろう。
そして、クロエも戦闘に参加した、王城戦。
王国一番の人気と規模を誇る城下町を巻き込んだその戦い。
王都を警備する兵士がすべて戦力となり、王城内部からも多くの衛兵が戦場に駆り出された。
戦闘は死闘となり、火の手まで上がるほどに戦火は膨れ上がった。
その中で、クロエがどのような行動をしていたのかを、知ることになった。
王城が激しい戦場になったことは、既に知っている。
多くの人間が死に、そして絶望を抱いたあの戦いを。
「他の連中が敵を留めている間に、出来るだけ多くの民は逃げたんだ。けどね、民たちが南に逃亡を始めた時点で、もう敵は城内までやってきていた」
「強襲………いや、敵は複数から攻めて来たのか」
「そうだな。後々あの戦いを反省する機会があったが、そう見て間違いはないだろうさ。そもそも、私たちと奴らは元々同じ土地で生まれ育ったんだ。城の仕組みに変わりが無ければ、色々と盲点も見出せたのだろうよ」
城の出入り口は限られている。
城下町の十字路や大きな街道のように沢山ある訳でも無く、防衛という意味でもその数は少ない。
だが、どの家にも大体表と裏というものがある。
城とてその形式に漏れは無かったのだ。
城下町で始まった激しい戦闘。
民たちを逃がすのと、民たちが巻き込まれるのを防ぐために、率先して敵を討ち合わなければならない。
そうしている間に、王城もすぐに危機が訪れる。
恐らくは城のある入口すべてが制圧され、一斉に城内に兵士がなだれ込んでくる。
侵入を赦せば、城の中など盲点だらけだ。
美しい城内回廊も、綺麗な広間も、威厳を示す玉座の間も、そのすべてが広い。
兵士が城内に入り戦闘を始めた時点で、もうこの城は護れるものではない。
あまりにも広すぎる城内は、手薄になった衛兵たちだけでは押さえきれるものではない。
その時点で勝敗は明らかだったのだ。
それでも、ウェールズの兵士たちは必死にこの町を護らんと善戦した。
マホトラスに勝てないと分かってしまった後でも、相手の懐深く傷をつけられるように戦い続けた。
果ての無い暗闇に身を赦しても、相手を赦すことだけは絶対にしない。
それが死闘の表れであった。
アトリはこの話から、
自らの漠然とした確たる不安、という矛盾を解消する多少の要素を見出した。
相手は城下町で戦闘を起こしつつ、王城を包囲するための算段を整えていた。
城下町は王国を発展させ繁栄させる第一の都市。
そこで戦闘が発生すれば、間違いなく兵士たちはその対応に追われる。
隙を突いて王城を狙い、そして占領する。
マホトラスにとってウェールズの抵抗は予想外の領域に達していたことだろうが、それでも目下の目的を果たすことは出来た。
状況は違うが、似たようなことは出来るのではないか、と。
「私は国王にも逃げるよう言ったんだがね………でも、あのお方は最期まで戦うって聞かなくてさ」
「国王、を………?」
つまり、あの戦闘時彼女は城内にいて、城内で戦闘をしていたと考えられる。
確かにクロエの普段の役割は、城内や城下町の警備。
既に城下町で激しい戦闘が繰り広げられていた一方で、城内にも敵が押し寄せたことで、
どちらつかずの状況になってしまったのだろう。
――――――――――――――行け。ここは私が食い止めよう。どうか、妻たちを頼む。
衛兵も倒され、いよいよこれまでか。
しかし、民たちの退避を優先させるばかりで、真っ先に逃がすべき王家の者たちを逃がせずにいた。
そのような状況になってしまったこと、しかし無理もない話だったのだ。
元々敵の侵入を許した時点で、城内各所に敵は分散して制圧しにかかる。
だが、ウェールズの正規兵や生き残った衛兵たちが出来ることと言えば、せめて一つだけでも突破口を見つけて出入り口を維持し、出来るだけ町から遠ざけること。
城のすべての入口を制圧されればそれも敵わなかっただろうが、敵は確かに城の上層階を制圧するために集結しつつあった。
災いではあるがそれが幸いし、一時的に手薄になった城の出入り口、町の郊外へと通じる方角を確保して、一気に召使や使用人を逃がした。
クロエはエルラッハ国王を連れて逃げようとしたのだが、彼女が出くわした国王の姿は、戦士そのもの。
何度か画集でその姿を見ることはあったが、その男の姿はまさに先代のフィリップのようなもの。
彼とは性格も異なるし身体も異なる。だが、クロエにはそう見えてならなかったのだ。
「いやまさか、あれほどあのお方が戦うことの出来る人間だとは知らなかったが、不思議なものだった。完璧にイメージを崩されるほどの戦いぶりだったからね」
「………クロエ、それはどういう………」
国王がその最期を迎えるまで戦った、という事実は確かに聞いている。
ここより前、まだパトリックの本家に住んでいた時に、彼がもたらした情報だ。
アトリもエルラッハとは何度も面識があるし、共に食事をする時もあった。
王家とただの兵士が食事を交わすなどという珍事も、王家との壁を取り払う一つの要素となり得るものだった。
それが実現したのも、エレーナという王女、娘がいたからなのだが。
クロエの話では、クロエが王妃フリードリヒを連れて城を脱出する前に、既に王家のいるフロアに敵が来て戦闘状態になり、クロエもそれを見たのだという。
エルラッハの身体や見た目がただの中年の男性、などと口が裂けても言えないし不敬ではあるのだが、
確かにアトリとしてもあの人が戦うような姿は想像できない。
あの身体が兵士たちを、それも一人で阻止できるようなものだとは思えなかったのだ。
曰く、王の右手には剣が握られていた。
「恐らく宝物庫から持ってきたものか、あるいは王家に伝わる剣だったのか。んまぁとにかく、あのお方の手に剣が握られていた。白く輝きを放った刃を持つ剣がな」
「………!!」
ただの剣があのように自ら発光するはずがあるまい、と彼女は付け足した。
その瞬間、アトリの身の中で確かに何かが走り抜けていった。
そのような感覚を、彼は確かなものとして感じ取っていたのだ。
まるで、それが事実であると体内の魔力から訴えられているように。
彼女はその剣を確かな事実として見届けたのだろう。
国王が戦うというのだから、それを止めることも出来なかった。
最期、その姿を見たのは誰かは分からないが、その不可解な剣を確かに目にしたのだ。
アトリの記憶には無いが、その言動だけであらゆる状況が想像できる。
彼女も兵士をやっているから、よく分かるだろう。
あのような剣が普通存在するはずがない。
存在するとすれば、それはもはや人間という殻では理解にも及ばない神秘だ、と。
アトリには確信があった。
何故かと言われれば、彼もそのような光景を目にしたことがあるのだ。
立場も状況も異なるが、あの槍兵が意図的に魔力を通して槍を強化した瞬間を見せられた。
それを思い出せば、クロエが見たであろうその剣のことも想像に容易い。
もっとも、それは今の自分が魔術を心得ているからであって、
クロエからすればあまりに可笑しな現象だったに違いない。
国王エルラッハは、自らも戦いに赴き、そして敗れた。
だが、国王が戦ってあげた戦果だとは到底信じられないほど、あの男は夥しいほどの戦果を挙げてしまったのだ。
その剣が最終的にどうなったのかは、もう誰も知るところではない。
もっとも、国王が夥しいほどの屍を作り上げたなどという話すら、あまり広く知れ渡っているものではないし、その剣の正体も全く掴めていなかったのだが。
しかし、クロエにはある一つの事柄が既に思い付いていたのだ。
自分が他の者たちの脱出を援護するためにその場を離れる時。
あの時に見たあの剣というものは、不可解な現象であっても“はじめて見たものではない”。
根本的には、彼はあのような現象をもう随分と前から知っている。
「そ、そんなものがあったとはな………」
国王が戦うということが意外過ぎたが、その剣の正体が想像の斜め上を行き過ぎている。
今日は本当に驚かされることばかりだった。
王が躊躇いなくその剣を抜き、輝ける光の剣で相手を倒し続けた。
そんな事実はごく一部の人間にしか知られていないことだとは思うが、直接その眼でみたというクロエの話なら信頼も出来る。
しかし、それを何故この場で彼に打ち明けたのかは、分からない。
思考を巡らせ考えても、想像もつかなかった。
「あれが人の手に及ばない奇蹟だって言うならそう信じることにするが、どうもそれだけが理由ではなさそうなんでな。まぁ、それはさておき、何とか無事に王妃だけでも連れ出すことに成功したのさ。しかし……エレーナを連れだすことが出来なかった」
「………」
己の不甲斐なさを後悔する、というものを一身に表した言葉と表情。
せめて国王以外の王族たちを連れ出そうと努力したものの、その手が届くことは無かった。
既に城内のほぼ全域に入り込んだ兵士たちは、瞬く間に戦場を拡げて行った。
すべてのフロアで対応するほどの余裕はウェールズにはどこにもない。
だが、それでも何とか脱出するだけの機会は整えた。
ただそれだけだったのに、クロエは彼女を連れ出すことが出来なかったのだ。
彼女は言う。
自分が王妃を連れる時には、既に王室にも兵士がやってきていた。
そして助け出せる状況にあったのは、フリードリヒだけだったのだ、と。
「………」
「戻ってきて早々辛い話にはなるが、これは避けられないものと思ってな………お前に伝えようと思ったんだ」
「………ありがとう。その、彼女のために努力してくれて」
王家の人間をそう簡単に殺すとも思えないが、
エレーナという王の娘は何の政治的な権力も持っていないし、彼らほど政治に詳しいものでもない。
あれを人質にして交渉をするというのなら価値を見出すこともあるだろうが、それ以外は彼らにとって単なるお荷物でしかないだろう。
アトリはそれでも、クロエがエレーナのために力を尽くしてくれたことを、彼女に代わって感謝した。
クロエとしては、どうしてもそのことだけは初めに話しておかなければならなかったのだ。
もし、仮にアトリがここに戻って来なかったとしても。
後に彼は自らその結末を知ることになるだろう。
その前に、何とか伝えたいことだった。
彼が死地において人々を護るという、その計りにもちろんエレーナも含まれている。
だから、この城の攻防戦は人々を救うため、彼女を助け出すための戦いともなる。
これを彼に伝えていなければ、この町で彼は彼女を探したかもしれない。
クロエにとって、アトリとエレーナがどれほど親密な関係にあったかは、彼女の口から直接聞いている。
アトリほど直接的な関わりは無かったが、アトリの居ないところで話し相手になったことくらいはあるのだ。
クロエも後悔を滲ませるように、アトリの顔も浮かばれない。
きっと、自分がいればもっと異なる状況を作り出せたのかもしれない、と思っていることだろう。
そう思うのは構わない。
アトリが今までしてきたように、人助けのための手段を取り続ける善行そのものに、間違いはないだろう。
だが、それが報われないものと分かった時、果たしてその心は繋ぎ止めていられるだろうか。
一人の人間として、それが心配することだった。
「だが、この目で確認するまではまだ分からない。生きている、そう信じて進んでみることにするよ」
「………相変わらず、お前は強いな」
愚直にも信じ続けるその姿。
それが今のクロエには少々辛いものだった。
彼は今まで何度も苦難を乗り越えてきたとはいえ、どうしようもならない現実を見てきたことだろう。
それに今回も当てはまると理解しているにも関わらず、彼は信じ続けている。
その道を進めるために剣を教えたのは彼女なのだから、複雑な心境にならないはずがない。
「まぁとにかく、私はな、お前が無事に帰ってきただけでも安心だ」
「なんだ。クロエにしては棘が無い発言だね」
「っ………いつも言うことだがな、人の厚意というものは素直に受け取っておくべきだよ」
「………ははは。クロエがそう思っているように、俺もまた皆と再会出来て良かったと思っている」
それ以降は、世間話に花を咲かせたものだが、あまり長話をし過ぎると家で待っている彼女が心配するだろうとクロエが話してくれたので、この場で解散することになった。
エレーナは、この町にはいない。
アトリは思わぬところでクロエに話しかけられることになったが、一つ情報を得た。
だが、彼女がいないからといって行動が変化するものではない。
彼女が生きていて会えるというのなら、どちらにせよウェールズ王城まで行かなければならないのだ。
そのために必要な情報は先程手に入れたし、クロエからの追加情報で頭の中で思案できる材料も増えた。
「………」
クロエと別れてから、数十分。
沈黙の町はずれの住宅地に戻り、家に辿り着く。
その扉を開ける前に、今日一日を色々と振り返った。
本当に色々と慌ただしい時間だったが、自らが戻ってきたのだと実感する要因にはなった。
自分の力は必要とされている。
一方で、表舞台に出てはならない力というのも確かに存在している。
クロエの話も気になるところではあるが、間接的にとはいえ、クロエも魔術というこの世の奇蹟を目撃してしまったのだ。
それが説明のつきようがないものであると、恐らくクロエは分かっていたからこそ奇蹟という言葉を使ったのだろう。
内心では気付いている、その正体に。
色々と作戦を立てる時に、彼は頭の中でイメージしていた。
派手な魔術の衝突は周りに要らぬ疑念を抱かれる。
しかし、相手をすべて排除できる条件で、しかも身の周りの者たちがその力を知っている、あるいは理解している者だとすれば、不都合が生じる危険性は低くなる。
そうなると………。
「おかえりなさい、アトリ」
「あ、あぁ。ただいま」
と、考え事をしながら彼は家に戻ってきた。
扉の音がして、外の世界からこの家の主が帰ってきたのを知り、中にいた少女は笑顔を見せながらその帰宅を歓迎する。
椅子に座り読書でもしていたのだろう。
フォルテはその場に立ち上がり、玄関先まで来て出迎えてくれた。
何もそこまでしなくても良いのだが、と彼が言おうとしたところ、言葉は出なかった。
事実彼はそのようにされることが、純粋に嬉しいと感じていたのだ。
もうこんな夜更けだというのに、彼女はアトリが帰って来るまでずっと待っていたのだ。
「アトリは、この後どうしますか?」
「そうだな。ちょっと宿題が出来たのでね、それを片付けるかな」
「分かりました。では、お茶を淹れましょう」
アトリが一息ついて居間のテーブルの前にある椅子に座ると、
彼女は立ったその足でお茶を淹れると言ってくれた。
そこまでしてもらうのも申し訳なく思うところなのだが、せっかく淹れてくれるというのだから、今はそれに甘えることにした。
彼は別室に置いてあった荷物の中から、西の大陸の地図を持って再び居間に戻る。
居間の端に設置されている調理台のすぐそばで、フォルテが立ってお茶の準備をしている。
今の格好は上の黒いジャケットを脱いで、白いシャツが露わになっている。
「フォルテは、どうする。もう寝るか?」
「いいえ、まだお付き合いします。軍からの要請なのでしょう?」
「あぁ。明日の夜までだから時間はあるが………」
とはいえ、日中には色々と準備をしなければならない。
まずグラハムとの約束もある。
それ以外にも話す相手もいるし、用意しなければならないものもある。
今のうちに準備をしておくほうが、明日になって困ることも少なくなるだろう。
フォルテは、そんな彼の夜中作業に付き合うと言った。
彼女自身、あとすべきことは今日にはなく、寝るくらいなものであった。
それならば、彼が続ける夜中の作業を多少なりとも手伝おうと思った。
これで少しでも彼の役に立てるのなら。
というよりは、彼と共に進むことが決まれば、彼の考えるこの先に自らも投じることになるのだ。
共に考えれば、その分自分への行動指針に繋がる。
有害では無く無益ではない。
彼女は快く、寧ろ自分から望むように彼の仕事を手伝う。
一方、彼としては手伝ってくれるのはありがたいが、条件付きでと申し訳なく彼女に頼んだ。
彼が明かす情報と取り組む仕事内容は、普通の兵士でも知り得ないものが多く含まれている。
上士たちの間で交わされる現状や、兵士たちの配置図、行動予定など。
外部に知られることを極力避けているために、ただの兵士たちにも明かせないことが多い。
彼女にそれを伝えるということは、情報を一部であっても外部に露出させているのと変わらない。
彼女が協力してくれるというのに、彼女の手伝いを評価できないというのはもどかしい。
それでも、彼女は引き受けてくれた。
自分が手伝ったことは、アトリさえ覚えていればそれでいい。
私は他の人の評価を、今はもらう立場にない。
だとしたら、私はアトリの役に立てれば、今は良いのだと。
それが彼女なりの支え方の一つだったのだろう。
一方的な奉仕というような側面を見せず、彼への支援が自分の為にもなる、と理解を示している。
何か報酬がもらえる訳でも無く、他者からの評価を頂ける訳でも無い。
ただ、純粋にアトリと共に仕事が出来る、その気持ちだけでも自分に返って来るものがあるのだ、と。
「なるほど。作戦としてはごく単純ですが………」
彼は事の概要を彼女に伝える。
今後一週間以内で、ウェールズ王国軍の正規兵は全力を以って敵に挑む。
まずは境界線にすぐ近い町を解放として橋頭保とする。その町から更に北上して幾つかの町を奪還し、城へ近づく。
王城に至る距離は、戦闘を考慮すれば一週間以上は掛かるだろう。
兵士たちに休息も与えなければならないし、必要な物資を常に確保していかなくてはならない。
これは、戦うことを決意した時点で決められた定石だ。
国の兵士たちが勝つためには、一つや二つの町が干上がってしまうことを赦してもらわねばならない。
腹が減っては戦は出来ぬ、と昔の人たちはよく言ったそうだが、実に的を射ている表現だ。
兵士たちに十分な物資が行き渡らなければ、飢えた者が戦闘に駆り出されていくことになる。
それでは、戦いにすらならないだろう。
彼らはこうして、町や村などを解放する過程で、そこにある物資を調達して次の作戦に備えるのだ。
フォルテは実に単純な作戦かつ効率が良い、と彼に評価した。
アトリとしてもその評価に変わりはない。兵士、という立場から見た時には。
彼の本心、彼の信条から発する人となりとしては、許容できるものではなかった。
人々が苦しみから解放されたかと思えば、それ以上の生命に関わる取引をしなければならない。
勝つため、とはいえそれは本末転倒なのではないか、と彼は思うのだ。
だが、一方でこうも考えてしまう。
確かにその町々は、自分たちが解放すれば民たちは助かる。
しかし、助けたい民は他にも大勢いるし、その時を待ち続けている。
なら、そのために協力してもらわなければ、先に進むことが出来ない。
つまり、大を生かすために小には少しの犠牲を受け入れてもらわなければならないだろう、と。
葛藤が生まれる。
かつてのウェールズが出来上がる過程での話だ。
フィリップを筆頭とする勢力は、自分たちの国を建国するために有志を集めた。
この国の中でなら、自由と平等が保障され、平和と安全がもたらされる。
そんな共存の世界を理想みた者たちが、支配を拡大していく。
各自治領地に願い出て、味方となり賛同してくれる者たちを探し続けた。
だが、そのような行動は情勢的に受け入れられるものではない。
異民族が異端を集めて勢力を拡大している。それを防がなければ、彼らの良いように事は運ぶだろう。
そうして、フィリップ率いる者たちと対立する集団、自治領地が数多く現れた。
フィリップには当然分かっていたことだろう。
自分たちで国を作るためには領地も必要だし、人も必要だ。
協力してくれる者たちに還元する何かを与えるためには、事を成し得なければならない。
その過程、必ず行く手を阻む者が現れるだろう、と。
それでも彼らは信じ続けたはずだ。
きっと、今より多くの者たちが、この苦しみから解放されるために、国が必要となるだろう、と。
この国にさえ来れば、弱者が虐げられ排除される仕組みから逃れることが出来る。
人として、最低限の生活から解放され、豊かで平穏な日常を得ることが出来るはずだ、と。
そのために、彼らは彼らに反発、対立する者たちを斬り捨ててきたのだ。
自らの理想を叶えるために、より多くの人間たちのことを思って、排除してきた。
まるで、この選択は当時のそれと何ら変わりないのではないか、と。
だが、今更作戦を根本から見直すことは厳しいだろう。
物資を滞りなく運営することが出来れば、解放出来た町にもその恩恵が行き渡るかもしれない。
たとえば、2,3日の食糧がその町からは無くなる。
だが後続する補給物資を引き連れた部隊が、頂いたその町の食糧分を補給することが出来れば、干上がることも回避できるだろう。
彼はそのように考え、何とか民たちを保護しようと作戦に加筆をする。
あくまで彼の中だけで考えられていること、それを彼女と共有しているだけだ。
これが上士たちに受け入れられるかは分からない。
「ただ、この場合だと一点突破の強みはあるとして、周りから包囲される危険性があるのと、本隊との純粋な実力勝負になりそうですね………」
「流石、よく気付いたな」
クロエとの話で手に入れた情報もここで彼女に明かす。
王城戦でのマホトラスが取った戦闘方法。
城下町で激しい戦闘が発生する一方で、手薄となった城内を別の部隊が制圧するというもの。
彼はこれと似たような手段で、どうにか相手を攪乱することが出来ないだろうか、と考えた。
確かに単純かつ効率を優先したこの作戦でもある程度進むことは出来るだろう。
しかし、危惧すべき相手のことが一切考慮されていない。
魔術は外界に触れてはならないものだ、という掟が今は忌々しく思える。
本隊には必ず魔術師がいることだろう。
彼らを回避して戦闘を継続することは困難だ。
「なるほど。ではアトリの考えは………」
実力差で勝負が出来ないことは既に分かっている。
普通の兵士たちにとって、魔術師を相手にするのは無謀に近い。
ただ直進して相手を数でなぎ倒す、という単純な作戦にも裏がある。
そこでクロエから聞いた話を思い出し、自分たちもどうにかして挟撃する作戦を取れないだろうか、と考えたのだ。
アトリは広げていた地図の横で真っ白な紙を用意し、大まかな侵攻ルートを書いて行く。
地図に直接書くことはせず、頭の中でイメージするものを紙に描くのだ。
彼が思い付いた幾つかの作戦のうち、効力のありそうなものを一つ選び、その紙をフォルテにも見せる。
「………そうですね。これなら攪乱できるでしょう。時間はかかりますが、負ける手は減るかと思います」
「そうだな。時間が掛かる、というのが欠点ではあるが………」
しかし、
この作戦を決行するためには、どうしても理解者が必要となる。
普通の人間には触れられることのない世界を知り、かつその効力を認められる存在。
たとえ敵に魔術師が来たとしても対抗し得るものを、彼らとて少数ながら持ち合わせている。
その意味を、理解し把握し、実行するだけの用意をしなくてはならない。
………。
4-12. 夜の片隅で




