第六話 エレノア教会防衛戦1 不思議の異世界のアリス
■エレノア教会司祭、レコアの見る世界
その日はいつもと変わらない日常から始まりました。
「司祭様おはようございます」
「司祭様、おはよう」
「はい、おはようございます」
愛らしい少年少女達が元気よくわたくしに挨拶をしてきます。その姿を見るだけでわたくしは幸せであると感じていました。
わたくしがこのエレノア教会で、司祭を勤め始めてからもう30年。毎日は穏やかに過ぎ去っていきます。
「レコア司祭様、お疲れ様です」
「はい、お疲れ様です」
恭しく礼をしながらわたくしに声をかけてきたのはこの教会を守る騎士の一人です。
この教会には男女各四名の騎士が駐在しており、この教会を守って下さっています。ただ、私がここで働き始めてから大規模な魔物の襲撃も無く、騎士の方々は若干暇を持て余しているようです。
「ほらアリスちゃん、その調子よ!」
「はい!」
教会の窓から見える広場では、訓練中の騎士が一人の少女と剣を交えています。
彼女の名はアリス。この教会で養っている孤児の一人です。
この教会では孤児の育成と教育も行っており、この教会で育った孤児達は将来王都で騎士や学者になる事も多く、教育機関としてもかなり評価されています。
そして、ここで働く騎士達は、将来有望なアリスに暇を見つけては訓練を施して下さっています。
しかし、見た目も愛らしく、幼い少女が剣を持って騎士達と泥に塗れているのを見ると、少し心配でもあります。
アリスは女であるわたくしから見ても魅力的な容姿でありますし、頭もとても良く、このような荒事をしなくても王都に行けばいくらでも仕事に就けると思います。ですが、どうやら彼女は女性の騎士に強い憧れがあるらしく、毎日欠かさず訓練を続けています。
そんなアリスには相当な才能があるらしく、稀にではありますが、現役の騎士に攻撃を当てている姿も目にします。
アリスは騎士達からも可愛がられているようですし、本人もとても幸せそうなので、心配ではありますがわたくしには止める事は出来ません。
せめて彼女が危険な任務で命を散らす事無く、健やかに暮らしていける事を神に祈りながら、わたくしは今日も子供達に生きるために必要な知識を授けます。
「本日は魔物の生態系について学びましょう」
「「「はーい」」」
教会の一室では、日によって様々な知識を教えています。
薬になる植物の知識、魔物の生態系について、読み書きを含む一般教養、専門的な知識等々、生きる上で知っていて損は無い知識を日々子供達に教えるのです。
中にはそんな知識は役に立たないという子供達もいますが、様々な事を知っていて損をするなどという事はありません。
だから、わたくしは子供達がやる気になるよう、しっかりと知識を身につけた子供には、お菓子を与えるなどのご褒美を用意しています。
わたくしのように知識を授ける者の中にはご褒美ではなく、未熟な者に罰を与えるという手段を取る者もいるそうです。しかし、わたくしには可愛い子供達に罰を与えるなどという事は考えられないためこのような方法を取っております。
この事を他の方に話すと、子供達は力でしっかり躾けないとすぐに暴れだすだろうと言われますが、幸い我が教会の子供達は素直な子ばかりで、今まで子供同士で喧嘩をしているところすら見た事がありません。
わたくしは他の方の話を聞く度に、自分はなんと恵まれているのだろうと神に感謝をしておりました。
そう、あの瞬間を迎えるまでは……。
「おい! なんだあれは!」
「嘘だろ! すぐ司祭様にお伝えしろ!」
「迎撃準備! 全員武器を取れ!」
「えっ……?」
子供達と勉学に励んでいたわたくしの耳に、外で騒ぐ騎士達の声が聞こえてきます。わたくしは生まれてからこれまで、あれほど大きな声で叫ぶ騎士達に覚えがありません。
「司祭様……」
「なにかあったの……?」
「大丈夫ですよ皆さん。落ち着いてください」
脅える子供達にそう言いながらも、わたくし自身不安で押しつぶされそうでした。
何かとてもよくない事が起こっている。それは間違いありません。しかし、今まで何事も無く生きてきたわたくしには、何が起こっているのかは想像も出来ませんでした。
ですから――。
「レコア司祭様! 百を超えるオークの大群がこちらに向かっています! 早く避難を!」
「え……?」
騎士から伝えられたその内容を、わたくしが現実として受け止めるには、しばらくの時間を必要としました。
◆◆◆
「怖いよ……司祭様……」
「えっぐ……えっぐ……」
「大丈夫ですよ……。騎士様達が護ってくださいますから……」
わたくしは子供達と共に、教会の礼拝堂にある倉庫に身を寄せ合っていました。
騎士の方々は全員で挑んでも勝てるかわからないと呟きながら、オークの大群に向かっていきました。そして、ここに残っているのは、戦いも満足に出来ない大人と子供達だけです。
わたくしは子供達に騎士の方々が護ってくれると言い聞かせていますが、正直に言えば自分でもそんな事は無理だと思っています。
オークというのは、一対一であれば騎士達が負ける要素の無いような相手です。
しかし、その数が十倍以上であるとなると、騎士達に勝ち目はありません。
オークは元々連携に優れた魔物であり、集団戦闘では人間には聞き取れない声でお互いの状況を確認し、心が通じ合っているかのような動きで人間を翻弄します。
その為、オークと戦う場合は、一匹ずつ誘い出して倒すのが基本です。
しかし、教会を護らなければならない騎士達は、オークを誘い出す事も満足に出来ません。
せめてここに高位の魔法使いがいれば、まとめてオークをなぎ払う事も出来たかも知れませんが、普段は特に脅威に晒されていないこの教会にそんな希少な存在がいるはずもありません。
「いやぁああ!」
「アークがやられた!」
「やめて! こないで!」
「足が! 足がっ――!」
「死にたくない! 死にたくない! 死にたっ――げがっ――!」
外から聞こえてくる騎士達の声は、わたくし達を更に恐怖へと誘います。
子供達の中にはただ死にたくないと漏らす子達もいますが、わたくしや大人の女性達は死ぬよりも恐ろしい事が待ち受けているのを知っています。
魔物という生き物は基本的に雄であり、正確な理由はわかっていませんが、人間の女性に対して非常に有効な生殖能力を備えているのです。
その為、魔物は男性の事は容赦無く殺しても、女性に対してはよほどの事が無い限り致命傷を避け、死ぬまで自らの子を生ませ続けるという行動を取ります。
自らの体内から魔物が生まれる。そんな事を味わうくらいなら死んだ方が幸せだとは思いつつも、殆どの女性は自分で命を絶つことが出来ず、されるがままになります。
その理由は、魔物が人間の女性に対して、恐ろしいまでの快楽を与えるからです。
一度その快楽を味わえば、もう人間と交わる事など出来ず、魔物の子を孕みながら救出された女性のほとんどは、その快楽が忘れられず、自ら魔物の元へ向かう事になるのです。
わたくしはこの身を神に捧げていますので、そういった行為がどういったものであるかも本当の意味では理解していません。それでも、初めての相手が魔物である事への恐怖は命を絶ちたくなるほど大きいものです。
しかし、自分を慕う子供達の前でそのような行動に出る勇気もわたくしには無く、ただその瞬間を待つだけしか出来ませんでした。
「私、戦います」
「えっ……?」
ただ脅えるだけの愚かなわたくしの目の前で立ち上がったのは、アリスでした。
彼女はその幼い体からは想像できない様な決意に満ちた目で、前を見つめています。そして、その手には騎士達が彼女に送った使い古された剣が握られていました。
「何を言っているのですかアリス! いくらあなたが騎士様達と訓練をしていると言っても、騎士様が敵わない相手に勝てるはずがありません!」
わたくしの発言を聞いた子供達が絶望に満ちた顔でわたくしを見つめてきます。わたくしの今の発言は騎士達の敗北が決定していると言っているのも同然だったのです。
しかし、わたくしにはその事に気が付く余裕もありませんでした。
「だからと言ってここで最後まで震えて過ごす事は私には出来ません。私はそうならない為に頑張ってきたんですから」
「アリス……!」
わたくしは今までアリスは大人しく素直な少女だと思っていましたが、今目の前にいる彼女はわたくしの知っているアリスとは別人のようでした。
その瞳は脅える少女のものではなく、戦う者特有の力強さを秘めたもので、わたくしはその目に見つめられ、何も言えなくなってしまいました。
そしてその時、礼拝堂の方から大きな音が響いてきました。おそらく礼拝堂の扉が破壊されたのでしょう。
「いやああああ!」
子供達は恐怖に耐え切れなくなり叫び声を上げます。
そんな中、アリスだけは力強く走り出し、倉庫の扉を開け放ち、礼拝堂に跳び出しました。
「アリスちゃん!」
「駄目! 駄目よ!」
「待ちなさい!!!」
わたくし達が止めるのも無視して跳びだしたアリスを追って、わたくしも震えながら倉庫から顔を覗かせます。
「ひっ!」
そこでわたくしが見たものは、剣を抜き放ち、三匹のオークの前に立ち塞がるアリスの姿でした。
知識では知っていても、実際に目にするオークは醜悪で吐き気すら覚えます。しかも、その体はとても大きく、身長だけでもアリスの二倍以上はあるでしょう。
そして、オークの下半身には、わたくしの腕よりも太いものがぶら下がり、アリスを見つめながらよだれを垂らしているのです。
その光景はわたくしにとって、地獄のようでした。しかし、アリスは脅える事無くしっかりと前を見つめています。
「さあ、今までの訓練の成果を試させてもらいましょうか」
わたくしには、アリスがそう言いながら笑っているように見えましたが、それはきっと気のせいでしょう。
アリスは心優しく素直で愛らしい少女ですから、そんな戦いを楽しむ人間のような態度を取るはずがありません。
わたくしが自分にそう言い聞かせている間に、アリスは床を蹴り、オークへと向かっていきます。
その時のアリスの動きは、わたくしの想像を遥かに超えるほど早く、現役の騎士達に匹敵する――いえ、もしかすると身軽さだけなら騎士達を超えるかもしれないと思えるほどのものでした。
「はああああ!」
その驚くほどの速度でアリスはまず、一番近いオークへと向かいます。
それに対し、オークはこん棒で殴るのではなく、何も持っていない左腕でアリスを掴もうとします。
おそらく、こん棒で殴るとどうやってもアリスが死んでしまうと判断したのでしょう。魔物というのはわたくしが思っている以上に繁殖を優先する様です。
「遅い!」
その動きに対し、アリスは身を低くする事で回避します。オークとアリスには身長差がありすぎて、そうされるとしゃがまなければ手が届かないようです。
「はああ!」
「ブヒィヤアッ!」
アリスを掴むためにしゃがもうとしたオークに対し、アリスはオークの股下にぶら下がったモノを切り裂くという行動に出ます。
聞いた話では敏感であるらしいその部分を斬られた事で、オークは股間を押さえながら床に両膝をつき倒れて行きます。
アリスは倒れるオークの横をすり抜けると次の相手に向かいます。
「グギッ!」
「ガアアアアア!」
仲間を傷つけられたオークは怒り狂いながら、アリスに襲い掛かります。しかし、それでもこん棒は使わないようです。私には魔物の考えが理解できません。
「ははっ!」
そんなオークに対し、アリスは見た事も無い笑顔を浮かべながら向かっていきます。
ああ、これはきっと悪い夢なのです。だってあのアリスがあんな顔をするはずがありませんから。
わたくしがそんな現実逃避をしている目の前で、アリスはオークが振り下ろす拳を真上に跳ぶ事で避け、眼前にあるオークの顔に向かって剣を振るいます。
「ブヒッ! ビュヒユィイイ!」
オークはその一振りで左目を斬られてもがき、アリスはそのオークの体を蹴って一旦離れると、次の相手に向かって走ります。
そのアリスに向かって最後の一匹のオークはついにこん棒を振るいました。
先ほどと同じように素手による攻撃が来ると考えていたらしいアリスは、その一撃を避けきる事が出来ずに剣で受け流す事を選択したようです。しかし、こん棒を受け止めた衝撃により剣には罅が入りあっさりと折れてしまいます。
あの剣は元々騎士達の使い古しですから、既に限界寸前だったのでしょう。
「かはっ!」
「アリス!」
その状況でもアリスはうまく身を翻し、見た目で分かるような怪我を負うことはありませんでした。ですが、勢いを完全に消す事は出来ず床に転がります。
そして、悪い事は続きます。
アリスに斬られた二匹のオークが怒りを顕わにしながら立ち上がり、アリスに向かっているのです。
魔物の生命力は人間以上であるとは知っていましたが、たったこれだけの時間で立ち直ってしまうものなのでしょうか。
こんなもの、倒せるはずがありません。わたくしがそう考えていると、礼拝堂の入り口からは更に二匹のオークが入ってきます。
「あ……ああ……」
わたくしはこの教会の司祭として、身を挺してでもアリスを護らなければならないのに、わたくしの体は恐怖によって動きません。
「はぁ……はぁ……」
大人であり、影から見ているだけのわたくしがそんな状態であるのに、子供でありオークの敵意を一身に浴びているアリスはまだ諦めていないようで、身構えて攻撃に備えているようです。
わたくしはなんと愚かで矮小な人間なのでしょう。あの愛らしい少女が必死に生きようとしているのに、わたくしには見ている事しか出来ないのです。
「ああ……神よ……」
わたくしは無駄だと思いながらも、神に救いを求めました。
この世界を創造せし運命の女神よ。愚かな子羊を救いたまえ。わたくしはそう祈りながら目を瞑り、全てが終わるのを待つ事を選びました。
愚かで臆病なこのわたくしの行動を神は許しはしないでしょう。ですがもうわたくしは何も見たくはなかったのです。
「魔力解放・斬!」
「ブシュルアアアッ!」
「ブヒッ!」
その時、聞き覚えの無い少女の声が響き、オークの叫びが聞こえてきました。
わたくしは恐怖に震えながら閉じていた目を開き、何が起こったのかを確認する事にしました。
「なっ……!?」
その声のした方向、礼拝堂の入り口には見た事も無いような、とても美しい黒髪の少女が立っていました。
そして、少女が右腕を突き出した場所には、先ほど礼拝堂に入ってきたばかりのオークが体を半ばまで切り裂かれ、血と内臓を垂れ流し倒れていました。
オークはそのまましばらくはもがいていましたが、すぐに事切れます。
「うーん、流石にゴブリンみたいに両断とはいかないみたいだね。こうなると魔力具現化の方が有効かな? 魔力具現化・剣!」
少女が叫ぶと少女の手に、白く滑らかな剣のようなものが現れます。あれはまさか魔法!?
少女が使う魔法は見た事も聞いた事も無いものですが、魔法で間違いありません。
魔法使いというのは希少な存在で、幼少時代からしっかりとした専門の教育を受けていないと魔法を習得する事すら難しく、実践で使える人間は少数であると言うのに、目の前の少女はあの若さで魔法を難なく使いこなしているのです。
あれほどの魔法使いが突然現れるなんて……。ああ、なんと言う事でしょう。神はわたくし達を見捨ててはいなかった。
「さて、楽しいオーク狩りを始めましょうか。肉体活性!」
「グギャッ!」
叫ぶと同時に床を蹴った少女は、アリスを上回る速度でオークに迫り、その横を駆け抜けながら剣を振るいます。
たったそれだけ、たったそれだけでオークの体は上下に両断され、床に転がります。
「ブヒ!」
「ブシャアアアッ!」
「グヒュ!」
新たに礼拝堂に侵入した二匹のオークを殺され、元々いた三匹のオークは目標をアリスから黒髪の少女に変えて襲い掛かります。
危ない。わたくしはそう思いました。
少女がいくら強くても、三匹のオークを同時に相手にするのは無理があります。
わたくしは少女の最後を想像して震えました。
「えっと、取り敢えず相手を怯ませるには……、よし! 魔力解放・衝撃!」
剣を持っていない左手を突き出した黒髪の少女は、そう叫びます。すると、少女の左腕から何かが放たれ、空気が脈を打つような衝撃が響きました。
その衝撃はオーク達を傷つける事はありませんでしたが、オークを怯ませる効果はあり、オーク達は立ち止まります。
「いち! に! さん!」
黒髪の少女が声を上げながら三回剣を振るうと、三匹のオークはそれぞれ致命傷であろう傷を負い動かなくなります。
わたくしは今度こそ夢を見ているのでしょうか。今さっきまで絶望的だと思っていたその光景は一瞬にして希望に満ちた光景に変わったのです。
「あの……」
「ん?」
唖然としているわたくしの前で、アリスが黒髪の少女に話しかけています。本来ならここはわたくしが話すべきなのですが、今は声も出ません。
「助けて頂いてありがとうございます。私はアリスと言います。お姉さまのお名前を聞いてもよろしいですか?」
「お姉さま……。なんて素晴らしい響きなのかしら……。私の名前はサヤだよ。よろしくねアリス」
何故でしょう。先ほどまで命の危険に晒され震えていたはずなのに、今は別な意味で体が震えています。
なんと言いましょうか。目の前にいるサヤと名乗った少女は美しい少女なのですが、その視線はアリスの体を舐め回すように動き、まるでいやらしい男性のようです。
更に、アリスにお姉さまと言われた時の表情は、教会に勤める修道女にデレデレと鼻の下を伸ばす男性の騎士達のようでした。
そう! 騎士達!
「あの! サヤ様でよろしかったでしょうか! わたくしはこのエレノア教会の司祭をしておりますレコアと申します! サヤ様! どうか我々を救ってください!」
わたくしは先ほどの光景を忘れる事にして、サヤと名乗る少女に救いを求めました。わたくし達を救ってくださるならもう、どんな存在だろうと構わない。その時はそう思っていたのです。