避けられるタリー
パン屋からはパンを焼くにおいがかすかに通りに広がり、鶏が鳴こうか、鳴くまいかと迷う頃。
もうすぐ太陽が昇る、という時間。
タリーはいつも通りその時間に起きた。
眠気のないさっぱりとした起床。
「あー、よくねたっ・・・・・す?」
声を上げている間に疑問が浮かんでくる。
「あれ?」
タリーはおもむろに上の服をすべて脱ぎ、部屋にある姿見で自分の姿を確認する。
そこには決して大きくはないが形は整っていると自画自賛している胸と、シミ一つない肌が映っている。
「えーっと・・・・・」
昨日、時間的にはすでに今日だったが、夜にお嬢と話していてその時に何かにバッサリと
胸の所をバッサリと切られたはずだった。しかし、シミ一つない肌が広がっているだけ。
裏の仕事をしているのでそれなりの危険は潜り抜けてきたが、傷どころかシミ一つない肌。
タリーのひそかで、裏と関係するのであまり言えない自慢だ。
しかし、昨日そこに大きな傷が加わったはずだった。
「ゆめ・・・・・っすか?」
部屋の中に荒れたところはないし、お嬢の痕跡もない。
魔術で目や鼻を強化したり、魔術の残滓を感じようとしてもお嬢がいた、と示すものがない。
あまりにもリアルな出来事であったが、あれは夢だったのか?
あのレベルの傷を負えばさすがに傷は残る。たとえ魔術を使ったとしても、それが普通だ。
そもそも普通に致命傷である。あそこまでバッサリといかれてしまえば相当高位の回復魔法しか無理だ。
それに記憶の中にある初撃でぶつかったであろう場所の壁にへこみはない。
自分が流したであろう血の痕跡もない。
昨夜は何もなかったのだろうか?
頭を打ったからか、それとも夢であるからか記憶も曖昧ではっきりとしない。
切られた、と思っている場所を指でなぞりながら必死に記憶を思い起こそうとしていると、
ばんっ、と扉が開いた。
「タリー、朝ごはんのじか・・・・・って、朝っぱらからナニしてんの。
まあ、いいけどさっさと着替えて来なさいよ。」
ばたん、扉が閉じた。
暗い部屋の中、上半身裸で、胸の辺りを触っているタリー。
暗くてあまり見えないからこそ確度によっては先輩のように受け取られるかもしれない。
「わー、待つっすーー!」
慌てて弁明したのは言うまでもない。
ちなみに違うという事はきちんと理解したが、その日は先輩はその件でからかいまくったらしい。。
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「リー様とフォンのお気に入りっすから不確かな情報を上げるわけにはいかないっすね。」
証拠は全くなく夢とも現実とも知れない情報だけ。
もしこれがお嬢ではなく、他の案件ならこの程度の情報であっても直接の報告こそしないものの、
紙や何らかの形で報告は上げていただろう。
しかし、お嬢の案件となるとその限りではない。
一般の従業員でさえ、リーやフォンのお嬢に対するかわいがりようは知っている。
それがタリーとなると、リーがお嬢を特に溺愛していることも知っている。
娼婦仲間達も一種の清涼剤として、癒しとしてかなりかわいがっている。
そんなお嬢を夢かもしれない程度の根拠でお嬢の不利になるような情報を上げたらどうなるか分からない。
何とか探りを入れないといけない。・・・・・・いけないのだが。
「ちょっとタリー、あんたなにしたの?」
現在タリーは娼婦仲間達にめっさにらまれている。
非難囂々であり、ギルティである。この休憩時間、その一瞬でタリーの信用は地に落ちた。
その理由はお嬢にある。
「い、いや、なにもしてないっすよ?」
むしろタリーが何をしたのか聞きたいぐらいだ。
お嬢の態度を見るにやはり何かあったようだが、お嬢に対して何をしたのかはっきりしない。
記憶力はいい方なのだが、どうも記憶がきちんと蘇らない。
「嘘!なにもないならなんでこの子はこんなにもおびえてるのよ。」
周りもその声に同調する中、タリーを非難している女はあれだけ頑張っていた少女を撫でる事に
成功しているのだが、本人は役得、等と考えずにただただ少女を安心させようとだけ考えている。
それもそのはず。
タリーが現れて取りあえずいつも通りスキンシップを取ってからさりげなく探ろう、としたら、
少女は本気でおびえ、今まで触らせることはおろか、自分から触る事さえなかった他の
娼婦にぎゅっと抱き着いて、タリーの視線から精一杯逃れようとしたのだ。
これでタリーとの間に何かあったと考えない者はなく、それに付け込んで撫でよう、と考える者もいない。
少女の目には涙がこれでもか、とたまっているが、泣きたいのはタリーの方である。
なんだかよくわからないけどお嬢からおびえられ、こうして責められている。
そも、タリーの記憶が確かならタリーは殺されかけているわけで、どっちかというと
タリーがおびえる側のはずなのだが、現実としてはお嬢がおびえている。
「あ、あの、お嬢?」
どうにかこの状況の収拾を図ろうとできるだけ優しい声でお嬢に声をかけてみるも震えが大きくなる。
周りの目線が一層厳しくなる。
たらり、と汗がたれ、もうこの場は撤退するしかないか、とタリーが考え始めたころ、お嬢に動きが。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
虫のささやきのように小さな声。
やや発音が拙いもののこちらの世界の公用語。
それは自分をかばってタリーを責めている娼婦たちにあてたものであった。
しかし、それと同時に自分に対して言い聞かせているようにも聞こえた。
少女はまだ理解が完璧ではないこちらの世界の言葉で語り出す。
「わたし、記憶、そうしつ?です。
タリー、トラウマに触れた、だけ。悪くない。」
タリーの方は相変わらず見ない様にしているが、それは娼婦たちだけでなく、タリーへもあてたもの。
「今は、見るもむり。」
その震えながらの少女の言に娼婦たちにも一定の理解が生まれる。
言われてみれば少女の様子はトラウマと対面した者の様子に似ている部分もある。
娼婦たちは顔を見合わせ、目線で相談する。
少しして結論が下されたのかお嬢を抱いているタリーの先輩が判決を言い渡す。
「タリー、ギルティ。」
結果、有罪。
しかし、トラウマに不用意に触れてしまったのだから少しはタリーも悪いのだが、
そもそもお嬢にトラウマがあると他の者達も知らなかったので、知らない物を避けろ、とは言えない。
だから
「タリーはこの子にお菓子とかこれからいろいろ貢ぐこと。取りあえずそれが贖罪ね。」
「あー、了解っす。
ここにいたらお嬢の状態も好転しないし、とりあえず今日は部屋に戻るっすよ?」
「そうしなさいな。」
「じゃあ、失礼するっす。」
という風にタリーの株は急落から持ち直した。少しは下がったものの、問題があるほどではない。
休憩室の扉を開け、去っていこうとするタリー。
そのタリーを止める声。
「タリー、その、嫌いではないです。」
「私も嫌いじゃないっすよー。」
タリーは今度こそ去っていった。
ちなみに、タリーが去った後、少女はすっと先輩娼婦から離れ、もっと撫でておくんだった、
と後悔の念が発生したりしたが、あまり関係ない話だ。
さらに、タリーはリーとフォンを除けば初めて名前を呼ばれた者として他の娼婦たちに嫉妬を受け、
その後いろいろとおごらされる羽目になり財布がすごく軽くなったが、それはもっと関係ない話だろう。
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「さて、書きはしたっすけど、どうすればいいっすかねえ?」
タリーの前には一枚の報告書がある。
【報告書】
「確定」
・お嬢に嫌われてないですけど避けられてつらいっす。
・トラウマがあると自覚してるそうっす。ちなみに性的方向の問題っぽいっす。
「不確定」
・お嬢はプレイヤー
・お嬢の片手間は01を殺せる
・プレイヤーは楽観的で平和ボケした人物が突然力を手に入れた存在
という八行だけの報告書、というより走り書きのようなもの。
しかし、これだけの情報を上げるのにさえ細心の注意が必要な存在。それがお嬢。
ツートップのリーとフォンが溺愛しているのだ。
裏という不安定な存在であると自覚しているタリーとしては注意せざるを得ない。
お嬢の態度から夢ではない、と理解したが、それでも記憶が不鮮明なのは事実。
そんな根拠で挙げられた報告書にどれだけの信用があるのか、
そんな報告書を上げたタリーがどう思われるのか・・・・・・・。
ぼしゅっ
報告書は燃やされた。
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今日も一緒のふかふかのベッドに入って寝る前のお話を楽しむ二人。
リーとソニアはこうしてどちらかが眠るまで話していることがたまにある。
まあ、どちらか、というか必ずと言っていいほどソニアが先に寝るし、このお話がたまにしか
行われていないのもリーと一緒にベッドに入ってすぐにソニアが寝てしまう事が多いのが原因なのだが。
今日はソニアがちゃんと(?)こうしてベッドに入る前に仮眠をとっていたのと、
めずらしくリーの仕事が早く片付いたからソニアの意識もはっきりしていた。
リーにとっても、ソニアにとっても楽しい時間。しかし今日は少しソニアが緊張している。
「・・・・・・・何か、話したいことがあるんでしょ。言ってごらん。」
当然それを把握しているリー。
ソニアが自分から話すのを待ってもいいのだが、この子の場合話すのを先送りにしてしまうかもしれない。
それに、とある事情からリーには、この娼館にはそれほど時間が残されていないかもしれない。
「そう、ですね。話してみないと何も始まらないですよね。」
「ああ、大丈夫だ。何を話そうとも大丈夫。私は君を見捨てたりはしない。」
リーは優しく、ソニアの心を解きほぐしていく。
そんなリーに対して話す決心がついたのかソニアは話しだす。
「あのですね。私は今まで記憶喪失だったんです。」
最初の発言からリーは驚かされる。
確かに少女は自分の出自について何も語ってこなかったが、それは話しにくいことや、
それこそトラウマに触れる事になるから話したくはないのだと思っていた。
それが実は記憶喪失のせいだったとは思いもしなかった。
「そうか、ちなみにいつ思い出したんだい?」
「昨日の夜の事です。トラウマ関連にちょっとした刺激を受けまして。
それである程度は記憶が戻ってきたんです。
・・・・・・だから、私は昨日まで見たいにそんなに無垢じゃないんです。
そんな私でもリーさんは見捨てないでくれますか?」
ソニアにとって、それは一大告白だった。
ソニアの見立てではリーが自分に対して愛着を持ったのも、フォンが構ってくれるのも、
娼婦のお姉さんたちから好かれているのも、自分が無垢できれいだったからだ。
記憶が戻ってしまった今、自分は前ほどきれいではない。
いや、ソニアの自己評価でいえば自分は全くもってきれいではない。
そんな自分のどこに好かれる点があるのか。
「馬鹿だな。」
そんな不安でいっぱいのソニアに対してかけたリーの言葉がこれだ。
返ってきた罵倒での返事にソニアは思わずうつむく。
「ほんとに馬鹿だ。まったくもって馬鹿だ。
私がその程度の事で君を嫌いになるとでも?」
「えっ?」
「えっ、と驚かれることの方が驚きなんだが。」
お互いの予想外の返答に二人とも驚き、それぞれの顔を見つめる。
そのまましばらくお互いをまじまじと見つめていた二人だったが、
やっと理解が及んだのかソニアが動き出す。
「その、という事はここを出ていかなくてもいいんですか?」
「むしろ出ていかないでほしいのだけど。」
「私、いろいろ、秘密抱えてますよ」
「人なら秘密ぐらいいくらでもある。」
「ある程度記憶戻りましたけど、内容話しませんよ。」
「ちゃんと戻ったら話してくれる気なんだろう?話せるようになるまで待つさ。」
リーのどこまでも自分を受け入れてくれそうな態度にソニアは感極まって勢いよく抱き着く。
「リーさん」
「なんだい?」
名前を呼ばれて返事をしたリーにソニアはにっこりと笑顔を返す。
「ふふ、呼んでみただけです。」
それはもう、楽しそうに、何も心配事がないといった様子で。
甘えるようにリーの体に自分の体を密着させる。
「まったく、しょうがない子だな。」
それを見るリーもこの一時は心配事や困り事も忘れてソニアを撫でている。
そうやってしばらくして安堵した事もあってかソニアはうつらうつらとし始める。
そんな中つぶやかれた言葉は声量が小さくリーには届かなかった。
「・・・・リーさんは私のです。」
ただ、何やら寝言で何かをつぶやいたとだけ認識したリーは残り少ないかもしれない平穏の時を
精一杯楽しもうと思いながら眠りに落ちていった。




