魔王
完璧なカウンターだった。
一瞬で悪魔隊長の懐に潜り込んでいた。身体能力が格段に跳ね上がっている。
至近距離での陽巫女の魔法は完全にチートだ。
今なら陸上競技でも重量挙げでも世界新記録で金メダルが取れるだろう。
「喰らいやがれっ!」
左下からフィズテイザーを振り上げる。
手応えは軽かったが、効果は抜群だった。
血飛沫を撒き散らしながら、悪魔隊長の豪腕がくるくる回りながら飛んでいく。
今の腕力とこの魔王の剣があれば、斬れないものなどないと幸雄は確信した。
悲鳴を上げる暇も与えない。
幸雄は振り上げた剣を袈裟切りに振り下ろして悪魔隊長の胸から腹を斬り裂いた。
勢いは止まらない。二メートルを越える巨体を次から次へと斬り刻む。
仇討ちとはいえ悪魔隊長が行ったことは絶対に許せない。
西国の兵士たちがルティアネスを襲ったことも、結局は黒幕であるこの悪魔が裏で彼らを唆したからだろう。無駄に戦争が長引いたのも、魔王を討つ罠をしかけるためにわざと時間を浪費していたに違いない。
これだけの実力があったのだから、それも不可能ではないはずだ。
あるいは魔王に自分の実力を隠して油断させる目的があったのかもしれない。
だが、今となってはどうでもいいことだ。
「これでとどめだっ!」
右脚を斬り飛ばされ、左膝をついて身動きが取れなくなったグレスドッドゥスに、幸雄は居合い斬りのような体勢でフィズテイザーを構えた。
その瞬間、戦意喪失で俯いていたと思われた悪魔隊長が不意に顔を上げた。
悪意を放つ両目はまだ光を失ってはいなかった。
笑みすら浮かべた口許に溢れ出す青い光が見える。
「砲撃かっ!?」
間に合えと念じて幸雄は懸命にフィズテイザーを振り抜こうとした。
だが、グレスドッドゥスの方が一瞬速い。
口から青い光が放たれる瞬間、だが、グレスドッドゥスは驚愕の表情を浮かべて天井を仰いだ。
コンマ数秒遅れてその顎下をフィズティザーが斬り裂き、青い光は放たれることなくぶすんと鈍い音を立てながら消え、グレスドッドゥスの巨体が仰向けに床に倒れた。
そのせいで、二メートル以上の巨体で隠れていた向こう側が視界に入った。
「ゆっきー、遅いよん?」
そこには剣を手にした小さなヴァンパイアの姿があった。
いたずらがばれたかのような、いつも通りの緩い笑顔を浮かべ、倒れてきたグレスドッドゥスの身体を軽いバックステップで避けたようだ。
おそらく幸雄よりも速くグレスドッドゥスに致命的な一撃を叩き込んでいたのだろう。そうでなければ、今頃幸雄が消し炭になっていたかもしれない。
大きく目を見開いた幸雄が覗き込むと、壊滅的な様相を呈していた胸部の傷は見当たらず、千切れかけていた左腕も自由に動かせるまでに回復しているようだった。
「ディ、ディフィル、お前……」
「ゆっきー、泣くのは後ろを見てからだよん?」
そう言われて素直に幸雄は後ろを振り向いた。
そして硬直した。
声は聞こえたし、癒しの魔法も受けた。
それに、あれほど瀕死の重傷を負っていたディフィルの回復具合を考えれば、それ以外に考えられないのに思考が追いつかなかったのだ。
最愛の人が――ルティアネスがそこに立っていた。
もう二度と話すこともできないかもしれないと覚悟していた少女が、この最終決戦の場に駆けつけ、自分を助けてくれたのだ。
あまりのご都合主義、お約束っぷりだが、いざ自分がその恩恵にあずかると悪くない。
いや、むしろ感謝してもし足りない。
現金なヤツだと思われるだろうし自分でもそう思うが、いっこうに構わない。
「ル、ルティア……目を覚まして?」
「はいっ、魔王さまと妖精さんのおかげです」
「魔王……と妖精さん?」
ルティアネスが頷く。
「ま、まさかあいつ生きてたのか!?」
意外すぎる情報に、思わずルティアネスに掴み掛りそうになった幸雄だったが、次の言葉にその勢いがごっそりと削り取られてしまった。
「肉体のくびきから解き放たれた今だからこそできたことだと、妖精さんも最後の力で……」
おそらく魔王の死をその言葉で悟ったのだろう、そこまで言ってルティアネスが涙ぐむ。
そんな彼女を見て、幸雄は改めて思った。
物理的な手段が功を奏さない状態だった彼女に対し、魂とでも言うべき状態になった魔王とサッキュバスがなんらかの手を使ってくれたということだろう。
本当に最後の最後まで、死してまでその力を注いでくれたのだ。
「そうして私を起こして、コバヤシユキオさんが窮地に陥っているから助けてあげてほしいとおっしゃって……」
「まったくびっくりしたわ。急にあのカラクリの扉が開いてこの娘が起きるんだから。しかも『コバヤシユキオさんを助けに行くので一緒に来てください』って、いきなり言い始めて。こちらは何が何だかわからないし、とにかく落ち着いてまずは身体を拭いて服を着なさいって」
そう言って、陽巫女がニヤッとした笑みをルティアネスに送った。
その時の状況を思い出したのか、ルティアネスが頬を染めて目を泳がせる。
これは非常に新鮮な光景だ、と幸雄は思った。
陽巫女が言うには、その後、魔王の声が自分にも聞こえて状況を知ったということだった。
死してなお力を行使するあたり、さすが魔王といったところかもしれない。
しかもご丁寧に魔王城にふたりを瞬間移動させてくれたという。
もっとも、まともな移動手段を用いたら決戦に間に合うことはなかったから、魔王としてもそこまでが一連の最後の大仕事だったのだろう。
――ああ、もうなんて言ったらいいか、ほんとに……
「魔王……ありがとう、い、今さらだけど本当に、礼を言うよ。あんたに何も返せなくて、望んでるかどうかもわからない仇討ちしかできなくて、ほんとすまない。でもありがとう、良かった……本当に、良かった」
幸雄はあまりのことに全身から力が抜け、その場に膝をついて声を押し殺して泣き出した。
「コ、コバヤシユキオさん!?」
慌てたルティアネスに、陽巫女が大丈夫だからと声をかけて笑みを向けた。
ルティアネスも笑みを浮かべて頷き、涙を滲ませながら幸雄の元へ向かい膝をついて血のこびりついた幸雄の頭を胸に抱いた。
「コバヤシユキオさん、ディフィルさん。あなたがたのおかげで私は救われました」
「ルティア……」
声を出すと一緒に嗚咽が漏れてしまった。
幸雄はなんとか泣き止もうとしたが、ルティアネスの声を聞いただけで、さらにその温もりに包まれて、胸がいっぱいになってしまい、どうにも堪えきれなかった。
「お、俺、男なのに……、ごめん、ルティア、ちょっと……」
「かまいません。気の済むまで泣いてください。私は嬉しいです。これほど私のことを心配してくれている人がいて……」
そうして幸雄が泣き止むまで、ルティアネスは子供をあやすように幸雄の頭を撫でてくれた。
「ルティア、その、ありがと、もう大丈夫だから……」
しばらくすると、気まずげに頬を染めた幸雄が顔をそらして涙と鼻水を拭った。
「いいえ、お役に立てて何よりです」
どこか誇らしげな笑みを浮かべたルティアネスがそこにいた。
そのことに幸雄は改めて安堵の息を吐いた。
その隣には陽巫女が強気な笑みを浮かべ、さらにその隣では全身血まみれのヴァンパイアがのほほんとしている。ひとりだけシャレにならないスプラッターな見た目で思わず引いたが、幸雄も何とか笑みを浮かべることに成功した。
だがもうひとり、いなくてはならない巨人がいない。
存在感も存在自体も偉大で巨大な魔王がいないのだ。
無貌の仮面で素顔を隠し、何を考えているのかさっぱりわからなかったが、常に自分たちを見守ってくれていた偉大な魔王が。
また湧き上がってきた涙をごまかすように、幸雄は天井を見上げた。
仇は討った。
でも魔王はいない。
わかっていたことだが、失われた命は還ってはこないのだ。
ルティアネスとの再会に想いは満たされたが、それでも心の中で失った者のいるべき席が埋まることはない。
復讐は虚しいものだといくつもの物語で幾人もの登場人物たちが語っていた。
たしかにいざ目的が達成された今、幸雄はいるべき者の不在に虚しさを感じている。
それでも、仇を討たねばそれ以上の後悔と鬱屈した想いを抱えて生きていくことになったのではないかと思う。
こうして残された皆で笑いあうこともできなかったのではないかと。
「なあ魔王、俺はまちがってるとは思わない。この先どうなるかわからないけど、あんたの仇討ちをしたこと自体に後悔はない」
壊れた壁面からうっすらと朝日が城内へと侵略を始めた。
じきに夜が明けるのだろう。
思っていたよりずっと時間が経過していたようだ。
だが長い一日が終わり、新たな一日が、そして魔王のいない日々が訪れる。
まるで卒業式のような終わりと始まりとを分かつこの状況に、幸雄はたった二月程度のことにもかかわらず、今まで味わったことのない郷愁を覚えてしまう。
「でも、俺には一言もないんだな……」
幸雄はそう言って苦笑した。
今さら何を調子のいいことを言ってるのだろうか、と。
それでも嫉妬にも似た感情が勝手に湧き出してくるのだ。
ルティアネスと陽巫女には魔王から最期の言葉が贈られた。
幸雄を救ってほしいという頼みごとだったが、それでも急にいなくなってしまった魔王の最後の言葉だ。
彼女らは、それを縁に偉大な男の存在を自分の中に留めておくことができるような気がしたのだ。
「コバヤシユキオさん、あなたには言葉よりももっと重要な物が遺されています」
幸雄の淋しげな笑みと一言にその気持ちを悟ったのか、ルティアネスが幸雄に向かって厳かに告げた。
その言葉の意味するところを、ふと幸雄は自分の右手に見出した。
そこに握られているのは魔王の剣『フィズテイザー』――その重みを、その意味を、改めて感じ取り、幸雄は溢れそうになった嗚咽を噛み殺した。
今この時は、泣いていてはいけない。
去ってしまった相手に不安を抱かせるようなまねはできない。
毅然と、自信を持って、むしろ見せ付けねばならないのだ。
だからこそ――幸雄はどこか遠くで見守っているであろう魔王に向けて頷いた。
魔王の剣を握り直し、そして告げる。
「俺があんたを継ぐよ。こいつが俺の元にある限り、いや、こいつが俺を認めてくれている限り……俺が次代の魔王だ」
陽巫女が息を呑んだ。
ルティアネスが涙を浮かべながらも笑みを零した。
ディフィルが目を閉じて、ただその宣言を胸に染み込ませた。
不安は大きい。
正直なところ、わからないことだらけだ。
だがそれでも、残された者が先に逝ってしまった者の代わりを務めなければならない。
偉大な男に後を託された自分が、いや、自分たちがそのすべてを担っていくのだ。
幸雄は魔王の巨大な背中を思い浮かべて、自分の小ささに苦笑を浮かべた。
あの巨人と同じにはなれない。
同じこともできない。
だが、その逆だってあるだろう。
あってほしい。
嘘から出た真という言葉もある。
人違いでの召喚が本来の人物の召喚よりも有意義であったと、あの世で魔王が思ってくれる日が来ることを幸雄は願った。




