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沈む世界で

 焼き払われた草原をまっぷたつに切り裂くように一筋の道が刻まれている。

 既に鎮火してからある程度の時間が経っているのだろう、煙が立ち上っているような箇所は見当たらず、微かに焦げ臭い空気が辺りを漂っているのみだ。

 そんな荒んだ光景の中、薄汚れた石畳の道をゆっくりと西へ向かう一団があった。

 先頭を行くは、勝者の威厳を見せつけるかのように轟然と振る舞う八〇騎の騎兵。

 続いて騎兵と同じ紅色の鎧を纏った二〇〇人ほどの兵士、そして、その後ろに罪人を捕らえた檻を乗せた台車が二頭の馬に引かれ、最後尾をまた三〇〇人ほどの兵士が固めていた。

 五人くらいは座れる広さの檻に囚われているのはただひとり、みすぼらしい襤褸を纏いながらも艶のある長い黒髪を無造作に垂らした華奢な少女だった。

 力なく座り込み、俯いた少女の焦点の合わない黒い瞳は、がたごとと揺れる台車の黒ずんだ床板を映しながら、その映像を脳まで伝達できていないのではないか、と思えるほどにわずかな力も光も見られない。

 まさに生きた屍といった少女は、つい昨日までは東国と呼ばれるこの辺り一帯を治める為政者であり、祭政一致の政治形態を特徴とするこの世界において『陽巫女』と呼ばれる人々の精神的支柱でもあった。

 だが、西国による軍事行動に巻き込まれ、圧倒的兵力の前に善戦空しく敗れた結果、こうして無様な姿を晒されて西国へと送還されていくところだった。

 既に東国の都をはるか後方に置き去りにし、西国に剣を向けた者たちへの見せしめとしてのパレードはとっくに終了していたが、兵士たちは敵国の陽巫女を生け捕りにした高揚感からか、談笑しながら悪趣味としか言いようのないこの行為に酔うように歩いていた。

 その傲慢な行列を近くの小高い丘から見下ろす人影があった。

 三メートルを軽く超える長身は相応の太さを持つ腕を組み、白皙の無貌の仮面から覗く眼光は、雷光を纏うかのように鋭く危険な光を宿している。

 あまり手入れをしていないのか、ぼさぼさの茶髪はいたるところで気ままに撥ねてまとまりがなく、全身を覆う漆黒の鎧と赤いマントがなければ二本足の魔獣とでも言ったところだ。

 そんな巨人の背後に二〇〇人ほどの兵が控えていた。

 もっとも、こちらはそのような巨人ではなく、眼下で行列をなす兵士たちとサイズ的には大差ない。

 違いといえば、彼らは金属の鎧を纏っていないこと。

 そして、武器を持っていないことだ。

 それでも、彼らは人々に本能的な恐怖を抱かせる何かを持っていた。

 耳を澄まさなくても、いくつもの唸り声が聞こえてきただろう。

 凶暴な肉食獣が発するような、威嚇と恐怖を振りかざす唸りを。

 だがそれは、乾いた響きを持つ女性の声に呑み込まれて消え去った。

「落ち着きな。陛下に醜態を晒すんじゃない」

 それは巨人の斜め後ろに控えていた、若々しく締まった肢体に白銀色の髪を軽くなびかせて振り返った女性の声だった。

 その声が浸透した瞬間、あちこちで垂れ流しになっていた野性的な唸りと殺気が結界にでも閉ざされたかのようにぷつりと途切れた。

 完全なる統率力だった。

 群れを率いる狼のごとく、絶対の権威を以て彼らを支配していた。

「さすがだな、ラッテ」

「はっ」

 頭上から降り注いだ重低音に、ラッテと呼ばれた銀髪の女性は正面に向き直って軽く頭を垂れた。

 平静を装いつつも瑞々しい頬をやや朱に染め、どこか満足げな表情を隠し切れていないあたり、まだまだ経験が浅く若いといったところか。

 実際、ラッテはまだ二一歳であり、つい先月、魔王軍の隊長に就任したばかりだ。

 尊敬する魔王――身長三メートルを超える巨人と共に出陣するのも今回が初めてであれば、一〇〇人を超える部隊を率いるのも今回が初めてだ。

 緊張もしているが、それ以上に充実感が大きく気力が漲っていて、皮革の短衣を突き破りそうなほど全身が躍動感に溢れている。

「さて、そろそろ頃合いか。ラッテ、あの目障りな集団を蹴散らし、檻の中の者を解放せよ」

「承知っ! 行くぞ、我が同胞よ!」

 ラッテの号令に配下の男たちが応える。

 だが、それはもはや人の声ではなかった。

 人々が本能的に恐れる獣の声、森に住む狩猟者たる狼の遠吠えに似た獣声だ。

 彼らは急激に全身に灰褐色の体毛が生え始め、頭部は鋭利に細長く、骨格は二足歩行から四足歩行に適した形状へと滑らかに変わってゆく。

 そのカルシウムによる骨格を持つ生物にとって明らかに不自然な変化は、しかし、誰も不思議に思わないであろうほど自然に行われた。

 纏っていた皮革の衣服が体毛に押し出されるように滑り落ち、ほんの数秒の内に二〇〇もの兵士を丸呑みにしたかのように、同数の狼の群れが出現していた。

 若干、質量まで増したのか、二メートル近い体格のものがほとんどだ。

 その群れの先頭に立つのは白銀色の体毛に硬質の光を宿した雌の狼だ。

 窮屈な殻を脱ぎ捨てたかのように若々しく力強い肢体を誇らしげに逸らし、薄曇りの空に向かって大きく咆哮した。

 それは絶対的な捕食者による狩りの――否、殺戮の合図だ。

 気付かれぬように獲物に近付き、奇襲によって相手の急所を狙うという狩りの常道を無視した暴挙でありながら、相手に本能的な恐怖をもたらし、行動を委縮させる枷となって縛り付ける効果がデメリットを上回る。

 白銀の狼が同色の風を纏うように丘を駆け下りるのに続き、灰褐色の怒涛が丘そのものが崩れ落ちるかのように麓へと殺到してゆく。

 行く手を遮る敵も障害物もない道を悠々と行進していた一行が、その怖るべき獣声と殺意を纏って迫り来る猛獣の群れに、一瞬にしてパニックに陥った。

 悲鳴を上げて逃げ出す者や剣を抜きながらも構えさえ取れずに後退る者が続出する。

 白銀と灰褐色の奔流は、間延びした大軍の横っ腹をあっさりと喰い破り、勢いのままに左右に分裂してUターン。

 今度は逆方向から強靭な牙と爪で自軍の三倍近い大軍を無数の肉片へと切り裂いていった。

 怯えた馬が騎士を振り落として駆け去り、落馬の衝撃で身動きとれない騎士が既に誰のものとも知れない赤褐色の血に染まった爪に喉を裂かれ、己の血を脈に合わせて盛大に噴き出し、何度かの痙攣の後に動きを止めた。

 魔王軍の戦いと呼ぶにふさわしい虐殺が続く中、ひときわ巨大な身体と圧倒的な威圧感を纏う巨人がゆっくりとその戦場の中心へと歩み寄っていった。

 もはやそれを止める者も、止めようとする者すら存在しない。

 台車を引いていた馬も固定していた縄が切られると慌てて逃げ去り、檻の周囲に人どころか生物と呼べるような何者も存在しなくなっていた。

 赤黒い肉片が飛び散り、立ち込める血臭と汚臭に満たされたそこに巨人が立ち止まり、それでも下を向いて微動だにしないぼろきれ同然の少女を見下ろした。

「我の声は聞こえるか? 意味は通じているはずだ」

 さすがに巨大な威圧感とほぼ真上から圧し掛かってきた重低音に、この狂騒の中でもそれまで微動だにしなかった少女がぴくりと反応する。

 思考や身動きといった最低限の生命活動以外のすべてが停止してしまったかのような少女が、数時間ぶりに見せた生きている証だった。

「まだ生きる意志はあるか? なければ今すぐ楽にしてやろう」

 その生死を選択させる声は、だが少女にとって特に責められているという印象はなかった。

 処刑など開戦を阻止できなかった時点で、少女にとっては既定の未来図だった。

 彼女はこの国で最大の権力を持つ絶対君主でありながら、未熟で気弱で他の権力者たちに意見できず、それゆえにろくに国政を担えず、勝ち目のない戦を回避させることもできずに多くの国民の命を無駄に散らせてしまったのだ。

 そんな自分に、第一級戦犯として――見せしめに最大限に惨たらしく処刑されるだけの役割しか残されていない自分に、それはみずから望んでの死という、ある意味『救い』を与えてくれているようにも思えたのだ。

 幼い頃から常につきまとってきた不甲斐ない自分への無数の後悔と罪悪感とが、既に罰として己の死を覚悟させていたが、よりましな死に様を選択できるのなら、思わずそれに甘えてしまいたくなっても無理はない。

 まだ少女と呼ばれるような年齢なのだ。

 むしろ死を受け入れていること自体、既に年齢不相応だと言えるだろう。

 古びた扉のようにぎこちなく首を横に向けた少女は、視界が黒く閉ざされたことに気付いた。

 本来なら話し相手の顔がある辺りに目を向けたはずなのに、そこにあったのはただの黒い壁だったのだ。

 不思議に思い、首をもたげて空を仰ぐと、遥か彼方から白い月が自分を見下ろしているのが目に入った。

 ずっと焦点も定まらずに呆けていたせいか、やけに遠く歪に見えるが、それは人の顔に似て、まさに自分を見下ろすような目がふたつあり、だがそれ以外に表情はなく――

「――っ!」

 それは月などではなかった。

 白い無貌の仮面だ。

 細く切り抜かれたふたつの穴から、深淵の暗黒が自分を見下ろしていたのだ。

 遥か彼方のように見えたのはほんの数瞬、焦点が合うと、それは二メートルほど上でしかなった。

 少女は声も出せず、身動きすらできない。

 ただ先程までと異なるのは、その身に恐怖が宿り、白い仮面から視線を逸らせなくなっていることだった。

 ふっと白い仮面が笑ったように感じた。

「我はこの国の、いや、この世界の人々のあり方を変えたいと思っている」

「えっ……」

 ただ一言だったが、数時間ぶりに少女の声帯が震えた。

 意外な言葉だったこともある。

 だが、それ以上にその言葉は、少女が将来成し遂げたい望みでもあったからだ。

「何をするにも『陽巫女の言葉ありき』がこの世界の理、いや、建前だ。だから強い陽巫女は己を御しきれない。弱い陽巫女は簡単に利用される。どちらにしても多くの人々にとっていい迷惑だ。きみはどう思う?」

「わ、私は……」

 少女は思う。

 陽巫女として生まれた以上、ただの飾りとして利用されるのではなく、本当に自分の力で何かを成し遂げたい。いや、成すべきなのだと。

 ――この方の下でなら、私はきっと私の力を多くの人のために役立てることができる!

 今まで民衆を惹きつける手段としてしか使用させてもらえなかった自分の力を、実際に自分を慕ってくれる民のために、自分の意思で使用することができるかもしれない。

 それは、生きる意味を見失っていた少女にとって、存在意義だけでなく生きがいをも呼び起こす強い想いとなった。

「私は、癒しの力を持つ陽巫女――ルティアネスです。この世界を変えるため、あなたと共にあることを望みます」

 先ほどまでの恐怖は跡形もなく崩れ去り、代わりに湧き起こったこの巨人に対する敬意の念が彼女を再び立ち上がらせた。

 ルティアネスは改めて頭上を振り仰ぎ、白い仮面の巨人に堂々と向き合う。

 無造作に垂らされた黒髪も華奢な全身を包むみすぼらしい襤褸ですら、少女の内面から発する本来の力を宿した黒瞳と毅然とした態度で、むしろ神々しささえ感じさせた。

 ふたたび白い仮面がふと微笑んだように感じた。

「そうか、己が道を見つける一助にするといい」

 そう言って、仮面の巨人は鉄製の牢を易々とこじ開けた。


 そこはまるで海底のようだった。

 光が届かないために暗く、重く締め付けるかのような圧迫感だけが全身を取り囲んでいる。

 ただ本物と様相が異なるのは、いかなる生物も植物もそこには存在せず、ただ黒い靄のようなものが三六〇度どこまでも底を埋め尽くしているということだった。

 そんな深海生物も寄せ付けないような海の底で、ただ何の抵抗もせず、ひとりの少女が仰向けになった状態でその身を任せていた。

「またここに来てしまったのね……」

 その声に力はなく、ただ己の無力に打ちひしがれて記憶の海の深くで漂い、久方ぶりに目が覚めたようだった。

 ルティアネスは戦っていた。

 そして戦い疲れてしまっていた。

 まだ自分にはやるべきことが残っていると自覚している。

 その使命感ゆえに、ふたたび現実世界で目を覚まそうと何度も何度も己の心を奮い立たそうとした。

 しかし、そのたびに恐怖が襲ってきた。

 お前のやるべきことなど誰も望んでいない、と。

 お前の存在など誰も必要としていない、と。

 自分を利用するだけ利用して敗色濃厚となった途端自分を見捨てて逃げ出していった神官たちが、陽巫女の命令だと信じて絶望的な戦いに身を投じていった兵士たちが、傷を負って血を撒き散らしながら恨みの言葉を吐き出しては消えていく。

 そんな無数の悪意から無意識のうちに自分を守るように閉ざした心の殻は、あまりにも硬く重かった。

 己で閉ざしたにもかかわらず、己で開くことがどうしてもできない。

 あの日、魔王によって解放されたその光景を、自らの存在理由を見つけたその瞬間を何度も心に焼き付けて、何度も覚醒を試みては跳ね返されてきた。

 もう何度目になるかもわからない。

 それでも、負けるわけにはいかなかった。

 ここであきらめてしまえば、その瞬間にでも自分の命は尽きるだろうとルティアネスは思っていたからだ。

 たとえ肉体が生きていようとも、生きる意志を失くしてしまえば、もはや二度と戻ることはできない。

 ゆえに、ルティアネスはふたたび目を開いた。

 自分は生きていていいのだろうか、生きるべきなのだろうか、そんなマイナス方面の迷いをその黒瞳にちらつかせながら、それでも彼女の意識は浮上する。

「今度こそ……」

 やわらかい手が閉ざされた心の殻に触れたその瞬間、今までになかった感触をルティアネスは感じ取った。

「まさか、どなたかそこにいるのですか?」

 それまで何者をも拒むかのようにただ冷たく硬かっただけの殻が、微妙に震えを伝えてきたのだ。

 まるで外側から誰かが扉をノックでもしているかのように。

 ありえないことだと思いながらも、初めて起きた現象にルティアネスは殻の隙間に指を無理やり差し込んで引き開けようと力を込めた。

 だが、今までびくともしなかったその絶対の障壁は、今回もルティアネスの全力を無力だと断じるように1ミリたりとも動かない。

「お願い、開いて……」

 その声が聞こえたのか、ふたたびノックの感触が殻に押しつけた全身にかすかに響いた。

 そしてどこか懐かしさすら感じさせる重低音がわずかな隙間から差し込んできた。

「己が道を見失ったようだな」

「……魔王さま?」

 その言葉に責めるような響きはなかった。

 むしろ重厚なクッションで優しく受け止めてくれるかのように感じられた。

「長く生きていれば、自信を失うことも道に迷うこともあるだろう。己の想いが誰にも受け止めてもらえないことも言葉を聞いてさえもらえないこともあるだろう」

「――――っ!」

 まさにその通りだった。

 それゆえに自分は今迷い、原因は薄々わかっていながらも殻をこじ開けることがどうしてもできずにいるのだ。

 だからこそ、自分にとって絶対的な存在である魔王の声を聞き、思わず弱音が漏れてしまったのも仕方のないことだろう。

「……私は、生きていてもいいのでしょうか? もう誰からも必要とされていないのでは――」

「そんなことない!」

 予想外の少女の叫び声にルティアネスは目を見開いた。

 魔王以外の何者かがそこにいることにも驚いたが、聞き覚えのないはずのその声にどこか懐かしい温もりを感じ取ってさらに困惑する。

「あ、あの、あなたは……」

「あたしは――! あ、あたしは、あんたに取り憑いてた妖精さんよ」

 目が覚めるような、否、むしろ、目を覚まそうとするかのようなその声は、だが自分のことを語る際には弱々しくかすれてしまった。

 まっすぐこちらを向いて叫んでいたであろう少女が、顔を伏せてしまったのが殻越しにもルティアネスには手に取るようにわかった。

「といっても、もう本体は消滅しちゃったし、このでかいのをこっちに引き寄せるのに回復してきた魔力も使い果たしちゃって、今のあたしは完全に残りかすのようなもんだから、そのうち消えるわ」

「消える?」

「もっとも、あたしなんてほとんど残留思念に近い亡霊みたいなもんだから、今さら消えるも何もあったもんじゃないけどね。単にあんたの癒しの力のせいで、本来ならとっくに消滅していたはずのものが勝手に回復させられちゃってたってだけだから」

 まあ、それももう限界みたいだけどね、と強気な言葉使いながら、少女の言葉がルティアネスにはどこか寂しげに聞こえた。

 言葉とは裏腹に、彼女は決して消滅することを望んでいるわけではない。

 それだけは聞かなくても自然と伝わってきた。

 自分の悩みで身動きできずに苦しんでいたはずなのに、ルティアネスはそれよりもこの見知らぬはずの妖精に何かできないかと考えた。

 こんな時でも他者を優先してしまうあたり彼女らしいと言えるかもしれない。

「あの……もう一度、私に取り憑いてはいかがでしょうか?」

「……へっ?」

 よほど意外な発言だったのだろう、妖精は間の抜けた声を漏らしていた。

 それも当然だ。

 何者かに取り憑かれなどしたら、どんな悪影響があるかもわからないのだ。

 命を吸われ続けるのか、体を乗っ取られてしまうのか、それとも理由もわからず徐々に自分がおかしくなっていくのを体感することになるのか。

 普通ならそんなことを考え、あまりの気味の悪さに嫌悪感を抱き、むしろ正体不明の妖精が消滅することを喜ぶことだろう。

 それなのに、ルティアネスときたらそんなことなど微塵も感じさせずに、むしろ妖精を救おうとしているのだ。

「ほんと、あきれるくらいお人好しね」

 その苦笑しながらの言葉は、嬉しさとともにどこか誇らしさを含んでいるように感じた。

「ふむ、それでどうする? その妖精を救うためにも、お主と共に生きるためにこの世界に残ると決断したゆっきーのためにも、お主はそこから出て来なくてはならないのだが?」

「コバヤシユキオさんがっ!?」

「そうだ。ゆっきーはお主を待っている。いや、お主を目覚めさせようと必死に手を尽くしている」

 ルティアネスはふいに熱いものが目頭に駆け上ってくるのを自覚した。と、同時に思う。

 彼は魔王が誤って召喚してしまった、いわば被害者だ。彼には彼の生きるべき世界があり、そこには家族や友人がいたはずなのだ。

 この世界にとどまるべき理由などどこにもない。

 それなのに、出会ってひと月にも満たない自分を目覚めさせるために、元の世界にも帰らずに必死になってくれているという。

「わ、私はまるで周りが見えていなかったのですね。たったひとりでも、私の言葉を聞いてくれる人がすぐ近くにいてくれていたというのに……」

「あ、あいつだけじゃないわ! あたしだっているんだからねっ!」

「あうぅ、ごめんなさい。ふたりもいてくれてたのに」

 涙ぐみながら思わず謝ってしまったルティアネスは、漏れ聞こえてきた妖精のくすくすという笑い声に自分も笑みを浮かべた。

 そして一度大きく深呼吸して、目の前の殻に向き直った。

 雰囲気の違いを感じ取ったのだろう。魔王が厳かに告げてきた。

「己が道は見つかったか?」

「はい」

「ならばわかるはずだ。己が道、みずから切り拓いて見せよ」

「……はいっ!」

 自分はこの殻の開き方を知っている。

 なぜ開けなかったのか――ここから抜け出して厳しい現実世界に戻ろうという確固たる意志を持てずにいたからだ。

 誰からも必要とされないことが怖くて、自分で自分の征くべき道を塞いでいたに過ぎない。

 でも、たったひとりでもふたりでも、自分を必要としてくれる人がいることが嬉しく、また、彼らの声に応えたいという気持ちが際限なく膨らんでいった。

 まるでその内側からの圧力に屈するかのように、一瞬で叩かれたガラス窓のような無数の亀裂がその空間に生じた。

 その隙間から差し込む光の糸が徐々に強く、いくつも重なりあってゆき、ついに世界が反転するかのようにすべての殻が砕け、光の洪水が暗闇のすべて飲み込んで消し去った。

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