胎動
さらに二週間が過ぎた。
あと数日もすれば魔王が大魔王直轄地から戻ってくる。
そんな時期になって世界全体を不穏な空気が分厚い靄のように包んでいた。
思えば、魔王がいなくなった辺りからその兆候はあった。
魔王軍に従った東国の兵士たちが治安維持のために夜間の見回りを行っていたのだが、翌日の朝に死体で発見されるという事件が幾度か起こっていたのだ。
おそらくは最後まで抵抗した西国兵士たちによる犯行であろうと各地で掃討戦が行われ、その効果か事件もめっきり数を減らした。
しかし、最近になってふたたび兵士の詰所などへの襲撃が増えてきたのだ。
幸雄は夜間外出禁止令を出し、ディフィルに王都上空からの警備を依頼するなど策を講じた。
するとやはり襲撃のような直接的な犯行は皆無に近くなったが、単に表立った行動が地下に潜っての活動に移行しただけで、むしろ住民の間に相互不信やよそ者である魔王軍に対する敵意がより顕著になってきているようだった。
目の前にある炎より足元に流れるマグマの方がより自己主張を激しくしているようで、誰もがなんとも言えない不安な空気の中で、息が詰まるような生活を強いられるようになっていた。
「なあ、あんたの鶴の一声でどうにかなんないのか?」
城の一室、幸雄の執務室にはいつもの三人が集っていた。
本日の修行を終え、ぐったりとテーブルに突っ伏している幸雄が陽巫女に声をかける。
神権政治という政治体制において、そのトップに立つ陽巫女の言葉は絶対だ。
現在の実質的な支配者である幸雄がいかなる策を講じるより、陽巫女がただ一言命令を発した方がよほど効果があるのではないかと幸雄は思う。
しかし――
「無意味です」
応じる言葉は無碍もなかった。
だが、それは普段のような快活さも、幸雄をからかうような響きも帯びていない。
むしろ自嘲めいた空気をまとわりつかせて発された言葉だった。
「既にご存知のように、もう私の言葉は世界中の誰にも届きはしません。なにしろ我が西国軍の兵士にすら伝わっていなかったのですから」
「それは……」
思わず顔を上げた幸雄だったが、テーブルの対面で顔を伏せている陽巫女の表情を窺い知ることはできなかった。
終戦後、すぐに幸雄は真相を聞かされた。
陽巫女はルティアネスを殺すどころか傷つけることも許可していなかった。
交渉がこじれ、たとえ東国を攻めるようなことになってもルティアネスだけは丁重に扱い、自分の下に連れて来るよう命じていたのだ。
それもそのはず、陽巫女はルティアネスを共同統治者として迎え入れ、淀んでしまった世界全体を平和的に立て直そうとしていたのだ。
にもかかわらず、むしろ西国軍は積極的に攻勢に出て東国を軍事力で制圧してしまった。
さらにはルティアネスの扱いも陽巫女の望んだ状況とはほど遠いものになっていた。
陽巫女はそれを知らされもせず、ただ神官の求めに応じて異形の魔王軍からルティアネスを救い出すために戦場へと身を運んでいたのだ。
幸雄は思った。
神権政治はその頂点に立つ者の言葉が直接万民に伝わらなくなったら終わりなのではないかと。
ひとりの人間を頂点としたコミュニティは、ある程度の規模を超えると著しくその機能を失う。
何らかの特殊な能力ゆえに人々を従えるなら、その能力をすべての人々に見せつける必要があるのだ。
いかに奇蹟的な事象であれ、他人から聞いたら信用しなくても、直接見たらたやすく信じ込んでしまう人間も多い。
幸雄の出身世界のように、手品師のような職業が存在する世界でさえそうなのだから、そういった技術としての『奇蹟』を知らない人々にはより効果的だろう。
しかし、人口が増えればその分全員で集まる機会も場所も少なくなる。
どんなにありがたい『奇蹟』であろうと、実際目にしてみなければ信用される可能性は低い。
伝聞では本来の情報に尾ひれがついたり、誰かに都合よく改竄されたりして正確に伝わることもなくなってしまう。
さらに陽巫女が代替わりなどしたり、実際に『奇蹟』を目撃した人々が亡くなっていくと、徐々に権威は失墜していき、むしろ有力者たちにいいように利用されるようになってしまいがちだ。
そうなったらもう陽巫女の言葉は有力者たちの間で改竄されて民衆に伝えられるようになってしまう。
ルティアネスにしても西国の陽巫女にしても似たような状況だったに違いない。
「そっか、なんか悪い、無責任なこと言っちまった」
「いいえ、私が本来の役割を十全に果たせていれば、そもそもこのような事態が生じることもありませんでしたからね」
陽巫女は笑みを浮かべたが、やはりどこか陰をまとっているように見えてしまう。
――やっぱ陽巫女もいい娘なんだよな。ルティアもそうだけど、本当にこういう娘たちをいいように使って利益を独占してた連中がむかつくわ。
幸雄はどこの世界にもある権力者たちの横暴にうんざりしてしまう。
しかし、それもこの世界においてはもう討ち果たしたはずだ。
ルティアネスさえ無事なら魔王はこの世界を去り、彼女や陽巫女を中心に神権政治とは異なる新たな政治体制を築いていくはずだった。
その本来あるべき未来図を壊した責任の大部分は自分にあると幸雄は思っている。
だからこそ、ルティアネスが目を覚ますその時まで責任を持ってこの世界を良い方向へ導かねばならないのだ。
それだけに、せめて陽巫女が必要以上に悩み苦しまずにいさせてあげたいと思う。
「いや、どのみち魔王軍に攻められた世界は無事じゃ済まないさ。むしろこの程度の反乱で済むならまだましな方だ」
肩をすくめて苦笑を陽巫女に向けると、陽巫女もようやく自虐的な雰囲気を払い落した。
「では、せめて魔王さまが戻られる前になんとかしておきたいわね。世界の四分の一すら満足に治められないようでは魔王さまに笑われてしまうわ」
「おっ、たしかにそうだ。あいつに笑われるのはちょっと癪に障るしな。ここはいっちょ修行の成果を見せつけてやるか」
「ゆっきー、魔法の扇子あるよ、扇子」
「『センス』のイントネーションが怪しい……けど、魔法の扇子とやらも面白そうだな。まあともかく、俺の灰色の中二脳にかかれば攻撃魔法もあっという間にお手のものってことさ」
幸雄はつい最近になって、攻撃魔法――正確には攻撃に利用できる魔法の習得に成功していた。
これもふたりの鬼教官によるスパルタ修行の成果だろう。
当初想像していたものとはだいぶ異なっていたが、それでも意外なほど使い勝手がいいので、幸雄としては満足のいく攻撃手段を得て毎日のようにニヤニヤしている。
もっとも修行は欠かさず続けているが。
「ふふ、たしかにアレにはびっくりしたわ。あの魔王さまが期待されるのも充分に頷けますね」
「くはははは、もっと褒めてくれてもよろしくってよ?」
幸雄は不気味なしなを作って笑い始めたが、この手の動作はルティアネスやラッテにドン引きされたことを思い出して強引に咳払いしてごまかした。
だが、陽巫女とヴァンパイアは特にそんなこともなく一緒に笑っていた。
やっぱり世界じゃなく個人の性格とかで受け止め方が違っただけか、と幸雄はひそかに胸を撫で下ろした。と同時に、ルティアネスがこの場にいないことに寂しさを感じてしまう。
きっと陽巫女とルティアネスは実の姉妹のように良い関係を築けただろう。
茶目っけのある姉にやや天然な妹の掛け合いはきっと周りをほんわかとさせたに違いない。
幸雄は城の地下に安置した生命維持装置に横たわるルティアネスに、改めてその快復を祈り、その手段を手に入れてみせると誓った。




