にわか軍師、決断する
魔王が一軍を引き連れて帰還したのは、それから五時間ほど過ぎた頃だった。
既に夕闇に染まった砦の各所で篝火が灯され、勝利の凱歌があちこちで上がっていた。
そんな賑やかな砦内では、現場指揮のために敵城に残った悪魔隊長グレスドッドゥス、人狼隊長ラッテを除き、広場の一角でドワーフ隊長ダラリウスと主立った面々が集まって簡単な戦勝報告会が執り行われていた。
幸雄の策が功を奏し、敵本拠地を襲うふりをしていた人狼部隊、ハーピー部隊が緋色の霧の範囲外で取って返し、急行してきた敵騎兵隊を取り囲んで殲滅、また、戦力の激減した城の西側を突き破ったレッサーデーモン部隊が城内に突入し、間もなく東門もドワーフ隊長らが叩き壊して大勢が決したということだった。
東西両方の城門を突破されたことで、さすがに動揺した敵軍は緋色の霧の中でも逃げる者が続出して、抵抗らしい抵抗もなく陽巫女をはじめとした指揮官クラスの者たちを捕らえることに成功した。
神権政治の下では、神の代理ともいうべき者がその力を失ったり、より強大な力を持つ者が現れたりすると、急速に求心力を失って内側から瓦解する可能性が高いようだ。
山で敗れ、砦も守れず、城も陥とされては、さすがに従っていた兵士たちも陽巫女の力をもはや信用できなくなったのだろう。
最後は必死で舞を捧げて力を行使する陽巫女を命がけで護ろうとする者もいなかったらしい。
乗り込んだドワーフ隊長が気の毒に思うほど陽巫女は心身ともに衰弱し、敗北を悟ってその場に崩れ落ちて意識を失ったということだった。
後は砦を襲撃してきた残党の処理などを除けば大きな戦闘行為は終了したことになるだろうとのことだ。
そんな戦勝報告さえ幸雄は上の空で聞き流していた。
ルティアネスのことが気にかかってどうにも落ち着かないのだ。
一刻も早く彼女のそばに行きたい。
少しでも長く彼女のそばにいたい。
彼女が目を覚ました時にそばにいたい。
そんなことばかり考えていた。
しかし、幸雄は今回の作戦立案の責任者だ。ただの客人ではなくなってしまった以上、自分の都合だけで重要な会議をさぼるわけにもいかなかった。
「よし、今日はここまでとしよう。皆、ゆっくりと休み、明日に備えよ」
魔王の気遣いがあったのか、戦勝報告会はわりとあっさりと切り上げられた。
ざっと片付けられた砦の門付近に集っていた将兵たちは、それぞれの小屋や天幕へと疲労した足を運んでゆく。
慌てて走り出そうとして躓いた幸雄の元に魔王がゆっくりと近づいてきた。
「ゆっきーよ、ルティアネスの具合はどうだ?」
「わかんねー、傷はふさがったけど、まだ目を覚まさない」
ぶっきらぼうに言って立ち上がった幸雄は、魔王に振り返りもせずに駈け出した。
その後を魔王が無言でついてゆく。
野戦病院内で、現在眠っているのはルティアネスただひとりだった。
今日の戦で傷を負った者は、わざわざ登山させることもないので攻め陥とした城内で体を休めているし、砦で留守番していた者たちで生き残ったのは彼女だけだったからだ。
「ディフィル、ルティアは?」
ルティアネスの看護兼護衛をしていたディフィルに幸雄が速足で近づきながら尋ねる。
振り返って無言で首を横に振るディフィルの表情が暗いのも、疲れのせいだけではなさそうだった。
「どうなってんだよ……ルティア、目を覚ましてくれよ……」
幸雄はディフィルの隣に歩み寄ると、ルティアネスの手を取って祈るように両手で包んだ。
既に両眼からは涙が溢れ出しそうになっている。
「どういう状態かわかるか?」
入口付近から響いた重低音に、幸雄はびくっとして振り返ると、巨人用ではないために中へ入れない魔王が、首だけを扉から突き出して覗き込んでいるのが見えた。
傍から見れば結構シュールな光景に違いないが、余計な想像をする心理的余裕が幸雄にはなかった。
「魔王さん……」
ディフィルが幸雄の方をちらりと見て、口を開きつつも何も言えずに閉じ、だが何かを振り切るように魔王に向き直って今度こそ言葉を発した。
「ルティアはたぶん……脳、ううん、植物状態になってるのん」
「ふざけるなっ!!」
その言葉を聞いた瞬間、幸雄は激昂した。
そのあまりの激しさにディフィルがびくっと首を竦めた。
植物状態――遷延性意識障害とも呼ばれるその症状は、脳への外傷や酸素の欠乏などによって引き起こされ、かろうじて生命維持に必要な脳幹部分が生きているだけで、他の生物と異なる人間としての活動を司る大脳などの機能が失われている状態のことだ。
むしろディフィルは最初『脳死』と言おうとしたようだが、幸雄はどちらにしても認めたくなかった。
一度も使えなかった回復魔法が初めて発動して、ルティアネスの命を救うことができたのだ。
そんな奇蹟が起きたのだから、それは最後まで奇蹟たり続けなければ嘘だと思った。
戦争に勝ったことなど今の幸雄にとって何の意味もなかった。
ただルティアネスの役に立ちたくて、少しでも彼女の負担を減らしたくて作戦を考えたのだ。
それが完全に裏目に出てしまった。
戦には勝ったが、肝心のルティアネスがこのような状況では、意味がないどころか逆効果だ。
これでは何ひとつ喜べない。
誇るべき功績などどこにもない。
あるのはただ絶望と後悔だけだ。
「嘘だろ? なあ、ディフィル、嘘だと言ってくれよ」
ディフィルの肩をがっちりと掴んだ幸雄は、だが、ありきたりな言葉しか出てこなかった。
灰色の中二脳も中途半端以下の医学知識も、この肝心な場面ではまったく役に立たないのだ。
ディフィルは応えるべき言葉が見つからないのか、俯いて目をそらした。
「ちくしょー、俺はいったい何で、何のために、何なんだよっ、クソ野郎っ……!」
幸雄はもうわけがわからなくなり、急に立ち上がると魔王を押し退けてどこへともなく走り出していった。
「ゆっきー!」
「ディフィル、追いなさい」
魔王の落ち着いた声にディフィルはひとつ頷いて走り出した。
幸雄は泣いていた。
号泣と呼ぶにふさわしいほど人目もはばからず泣いていた。
もっとも、そこは砦から飛び出してしばらく走った辺りにある小川のほとりだ。
わざわざこんな夜更けに水浴びにやってくる者もいない。
明かりを何も持たない幸雄は、石や木の根に躓いては擦り傷や切り傷を体中に刻みつつ、それをまったく気にもかけずに、いつのまにかこんな所までやってきていた。
もう何もかもがどうでもよくなりかけて、自分が壊れてしまいそうで全て投げ出してしまいたくなったのだ。
「ルティア、ルティア! なんで、こんな……くっううぅぅ、もう嫌だ! 何もかも知ったことかっ! 帰りたい! 誰か元の世界に帰してくれっ! うおおあああぁ!」
幸雄は絶叫した。
近くで様子を窺っていたらしき動物たちが一斉に逃げて行く。
一気に酸素を放出したためか、頭がくらくらして近くの木にぶつかった。
一瞬、何も考えられなくなったが、おもむろに木に向き直ると、キツツキもびっくりするような勢いで幸雄は額を木に叩きつけた。
頭が痛かった。
割れてしまいそうなくらい痛かった。
――じゃあ、いっそ割れちまえ!
自棄になった幸雄はもう一度振りかぶって盛大に頭を叩きつけた。
――もうどうでも……いや、そうだ、俺も植物状態になっちまえばいいじゃないか。ルティアとお揃いだ。ははは、なぁんだ、そうだよ、そうすればいいじゃないか。
幸雄はいいことを思いつたとでもいうように、自虐的な笑みを浮かべて血が滴る額を軽く触ると、また頭をふりかぶった。
「ゆっきー!」
そこへディフィルがラガーマンよろしく強烈なタックルを幸雄の背中にぶちかました。
「ぐふぇっ!」
まな板の上のような、衝撃をそらしようのない状態で喰らったその一撃に、幸雄は内臓破裂と肋骨、背骨の粉砕骨折を想像したが、どうやら思っていた以上に自分の身体は頑丈だったようだ。
酷い痛みとしびれが背中を中心に腹部一帯を大音響でパレードしていたが、なんとか腕も脚も動かせる。骨も神経もしっかり機能しているようだ。
「……な、なにふぉひやがる?」
想定外の衝撃で狂気が吹き飛び、幸雄は血と涙と鼻水とで豪快に汚れた顔で振り向いたが、吸盤のように背中に張り付いているディフィルの姿はほとんど見えなかった。
「こ、このぉ――」
少しでもこの痛みへの反撃を、と思ってふらつく足でディフィルを振り払おうとした幸雄の耳に、ディフィルの微かな声が先程のタックル以上の衝撃を伴って飛び込んできた。
「ゆっきー、帰っちゃうのん? ルティアを置いて帰っちゃうのん?」
「――っ!!」
どくんと、ひときわ大きく鼓動が弾んだ。
「ルティアが護ろうとしたこの世界を捨てて帰っちゃうのん?」
ざくりっと胸に鋭利な刃物が突き刺さる音がしたような気がした。
「必死で生きようとがんばってるルティアを見捨てて帰っちゃうのん?」
幸雄は即座に否定しようとした。
しかし、できなかった。
つい先程、もう嫌だと、元の世界に帰りたいと、大声で叫んだ自分の声が脳裏を駆け廻って否定の言葉をことごとく粉砕する。
「ゆっきー、もうルティアは必要ないのん? 今のルティアじゃいらないのん?」
その言葉に灰色の中二脳が弾けた。
ぱぁん! という発砲音が脳内で響いて、幸雄は硬直していた思考と身体が一瞬で解き放たれたかのように、一気にまくしたてた。
「ち、違うっ! 違う違う違うっ! そうじゃない! そうじゃないんだっ! ただ、俺は、俺は……」
だが続く言葉がまた出てこなくなる。
本当に否定できるのか?
否定していいような行動を取ったのか?
ふいにそんなことを考えてしまい、幸雄は先程の自分の言動に自信が持てなかった。
しかし、それでも最後の言葉だけは否定しなくてはならない。
ルティアを必要ないなど、ありえない。
たとえどんな姿になってしまっても。
本当にルティアネスのことが大好きなのだ。
彼女さえ傍にいてくれれば、元の世界に帰れなくてもいいと思えるほどに強い想いを抱いている。
出会ってほんのわずかな時間しか共有していないのに、こんなふうに思える相手など元の世界にはいなかった。
おそらくこれから先も出会うことはないだろう。
だからこそ彼女のために何かしようとがんばったのだ。
ただ結果がついてこなかった。
否、あってはならない結果を招いてしまった。
かつて味わったことのないその現実、その責任、その後悔を前に、立ち向かうことができず、衝動的に顔をそむけて逃げ出すことしかできなかったのだ。
今までの、最後には敗れ去るラスボスとしての数々の経験すら、この人生最悪の現実の前にはあまりにも生ぬるいものだったと思い知った。
「ゆっきー、ルティアは生きてるよん? 生きてさえいれば、いつか目を覚ますかもしれないんだよん? もしかしたら、すぐにでも快復させる手段が見つかるかもしれない。でも、ゆっきーが諦めちゃったら、きっとルティアも生きるのを諦めちゃうと思うのん。だから、ね?」
「ディフィル……」
普段ののほほんとした雰囲気が嘘のような、ディフィルの切実な言葉に、幸雄は胸が苦しくなった。
その幼い見た目と甘ったるいしゃべり方から、幸雄はこのヴァンパイアをやや軽く見ていたが、実際は自分などよりよほど大人でしっかりしているのではないか、と思えてくる。
そして何よりもその言葉の内容だ。
たしかにその通りだった。
ルティアネスはまだ生きている。
きっと懸命に戦っているのだ。
人々をより良い方向へ導こうと、おそらくそんな使命感を拠り所に生きることを諦めていないのだ。
それが今までの不甲斐ない自分を支えてくれた人々への感謝と謝罪の意思からくるものなのか、生来の生真面目さゆえのものなのか、それとも別の何かなのか、幸雄には想像すらつかない。
それでも、今のルティアネスは自分の力だけで生き続けることはできない。
水分や栄養の摂取ができなければ、人はほんの数日でその命を終えることになる。
自力でそれがなし得ない以上、誰かが何らかの手段を用いてそれらを与える必要がある。
それに本当の意味で戦争はまだ終わっていない。
敵の主力はたしかに潰えたか捕虜になった。
しかし、先程の報告で聞いたことだが、砦を襲撃させたのは敵の陽巫女ではなかったらしい。
彼女には既にルティアネスに手を回せるほどの余力がなく、部下の命を護りつつ停戦に向けてなんとかできないかと悩んでいたという。
しかも、そもそも敵の陽巫女には、ルティアネスを害する気がまったくなかったというのだ。
ルティアネスもそうだったが、西国の陽巫女もまた相手を敵視していたわけではなく、むしろ魔王軍に奪われたルティアネスを早急に救出するよう厳命していたことが判明している。
それはつまり、西国の陽巫女は最初からルティアネスと戦うことを望んでいなかったということだ。
ただルティアネスに親書を贈り、客人として西国に来訪してくれるように依頼しただけというのが彼女の証言だった。
それがどうしてこんなことになったのか。
――なにか裏があるな。
陽巫女の命に背いてまでルティアネスを襲撃した者がいるのだ。
陽巫女が求心力を失いつつあったとはいえ、命じられてもいないのに敵の本拠地に乗り込むという決死隊じみたことを果たして実行する者がそういるとも思えない。
――ああ、終わってない。それに、やるべきこと、いや、やりたいことを見つけちまった。
幸雄は思った。
元の世界では特に目標もなく親の言いなりで医師を目指したが、とても充実した人生を送っていたとは言い難かった。
それが人違いで召喚されてしまったこの世界でほんの数日を過ごしただけで、今まで得ることのできなかった重要なものを見出してしまったのだ。
ルティアネスを護りたい。
彼女の力になりたい。
彼女と共に生きていきたい。
ただそれだけのことで、幸雄は元の世界に戻らない決心を固めてしまった。
――中二の極みだと笑わば笑え! でもな、男のロマンなんて大概中二なんだよ。言葉を飾ろうと、服やアクセサリで飾ろうと、結局、そんなものはたいてい中二頃に誰でも夢見たことがあるんだ。それを今実行して何が悪い!
「そうだ、俺はこっちの世界で生きてやる」
「ゆっきー?」
幸雄の静かな呟きにディフィルが眉を上げる。
「……悪い、取り乱した。そうだよな、まだルティアはがんばってるんだ。俺が逃げてどうすんだよ、まったく。ディフィル、悪いが明日から修行につきあってくれ。結局、俺自身が戦えなきゃダメなんだ。もう何もできずに最悪の結果だけを見せつけられるなんて嫌なんだよ」
今回、奇蹟的に使えた回復魔法でルティアネスの命だけは救えた。
しかし、ディフィルがいなければ彼女の死を避けることはできなかった。
自分は成す術なく敵が彼女に剣を突き刺すのを見ている他なかった。
もう二度とそんな場面に遭遇したくない。
戦う力がないがゆえに親しい者を救う機会を無にするなど、そんな耐えがたい現実は決して起こしてはならない。
「ゆっきー……いいのん? 戦場に出れば死んじゃうかもしれないんだよん?」
ようやく自分の背中から離れたディフィルの不安げな眼差しを見て、幸雄はぎこちないながらも笑みを浮かべた。
血と涙と鼻水とで彩られた、鏡で見たら卒倒しかねない笑顔だったが、それでも幸雄はただ絶望するだけの現実から抜け出せたことを実感した。
「ああ、だから死なないように強くなるんだ。そしてルティアを救ってみせる。だから、ディフィル、修行をつけてくれ」
幸雄の本気を悟ってくれたらしく、ディフィルはしばらく幸雄の顔を見ていたが、ふうと息を吐き出して軽く頷いてくれた。
「うん、じゃあ厳しくいくよん? スパルタン?」
「Xか、懐かしいな……って『ん』はいらねえ、スパルタだ! って、なんでそんなの知ってんだ?」
「はふぅ? ゆっきー、調子出てきた……」
知ってたのではなく単に言い間違えただけなのか、ディフィルは小首を傾げて不思議そうな顔をした。
「お、おう、まかせとけ、俺の灰色の中二脳がフル回転すれば、すぐにルティアを救う方法だって見つけてやらあ」
ディフィルに元気づけられたことに気恥ずかしさを感じながら、幸雄は決意を新たにした。




