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にわか軍師、絶望する

「ええーい、まだかっ! まだ捕まえられないのかっ!?」

 西国の神官スクディートは焦っていた。

 いくら陽巫女がこちらにいるとはいえ、本拠地が陥落するのは非常によろしくない。

 自分もそうだが、兵士たちの家族も本来安全なはずの本国にいるのだ。

 兵士たちは既に人狼部隊やハーピー部隊と戦い、その恐ろしさを充分に思い知らされている。

 そのモンスターが無防備な自分の家族に襲いかかったら……と思うとさすがに気が気ではないだろう。

 スクディートは敵の攻撃が激しくなったように感じていた。

 実際はそうでもなかったが、ドワーフ隊長が城門を叩き続ける音が余計スクディートに焦燥を募らせる。

 簡易的ながら対空防御用に傾斜した屋根を設置し、陽巫女を迎え入れた鉄壁の城砦は、魔王軍が相手でも難攻不落のはずだった。

 それなのに、戦術の常識を無視した魔王軍の策略により、圧倒的優位なはずの情勢が一転して最大の危機に直面してしまったのだ。

 あの獣と鳥人間の部隊を騎兵で追えばまだ間に合うだろうが、こちらもそれなりの部隊を出撃させなければ返り討ちにあうだけだ。

 さらに、城の守りが薄くなれば、たとえ陽巫女の加護があったとしても魔王軍の猛攻をしのげるかわからない。

 だが、迷っている暇などなかった。

 このままではこちらの策が功を奏する前にすべてが終わってしまいかねない。

「あの男め、よもや失敗したのではないだろうな。このままでは……くそっ!」

 スクディートは決断した。

 とにかくこちらでできることは限られているのだ。

 まずは本国を狙う不届き者どもを叩き潰すしかない。

 これは陽巫女の加護の効果範囲内でやらねばならない。

 いや、範囲内でなければできないのだ。

 ゆえに、手遅れになる前に動かねばならない。

「騎兵部隊を全騎出撃させろ! 何が何でも陽巫女の加護の範囲内で片付けるんだ!」


 城内の動きが急激に慌ただしさを増した。

 それも当然だろう。

 魔王軍の一部――それも空飛ぶ怪物と凶暴な獣の部隊がこの城を無視して西へ、つまり西国の都へと進撃を開始したのだ。

 人間を遥かに超えたモンスター軍団に対処するため、ほとんどの兵を前線へと集めたために都の守りはかなり手薄になっている。

 そこにほぼ無敵を誇った空飛ぶ怪物とあの獣どもを通せば、守備兵など薄皮同然に引き裂かれて都は壊滅状態となるのが容易に想像できる。

 家族が都に住んでいる兵士たちも多く、早くも城内は騒然としていた。

 さらには東側の攻撃も激しさを増し、勢いに乗った魔王軍に完全に押され気味になっていた。

 戦況を見守っていた幸雄は、西門から敵軍が出て行くのを確認してガッツポーズを作った。

「よっしゃー! このまま引きつけて効果範囲外か威力が弱い辺りまで行ければこっちのもんだ。城の守備も薄れた今がチャーンス。レッサーデーモン部隊に伝令だ、西門を衝けーっ!」

 影属性モンスターが命令を記録して瞬時に影の中を疾走する。

 まちがいなく馬よりも速い。それに影さえあれば道を選ばない。鬱蒼と茂った森さえ彼らの移動を阻害するものではない。

 ハーピー部隊と人狼部隊が目立つように移動していた最中、グレスドッドゥスが指揮するレッサーデーモン部隊が人狼部隊のやや後方をひっそりと進んでいた。

 大軍での移動には向かないため、少数ずつだが気付かれないよう時間をかけて移動していたのだ。

 敵がこの城に籠ったのはそもそも東門にこちらの戦力を集中させるためだ。

 西門の守備は最初から薄い上に、騎兵隊をほとんど人狼部隊への追撃に当てているはずだから、こちらが少数だからといって蹴散らしに出てくる余裕もないだろう。

 うまくいけば西門から城内に侵入も可能だし、守備兵が西門に分散すればオーガ部隊が本気で東門を突破しにかかる。

 幸雄としてはもうほとんど勝ったも同然だ。

 後は昼寝をしていてもどうにでもなるだろう。

「ふむ、こういう戦い方もなかなか面白いものだな。これまで力任せな戦い方ばかりしてきたが、今の戦力を考えるとむしろこの方が合っているようだ。感謝するぞ、ゆっきー」

 隣で戦況を眺めていた魔王が言った。

「なーに、この俺様にかかればこの程度の敵なんかひとひねりってもんよ」

 幸雄は今季最高のドヤ顔で魔王を見上げた。

 勇者ではなくラスボスとして召喚され、しかも人違いだったと知らされた時には、怒りと共に絶望感を味わったものだが、ディフィルやルティアネスといった美少女と出会い、さらに戦争において重要な役割を果たしたことで、幸雄はすっかりそんなことなど忘れて満足感に浸っていた。

 むしろ、勇者志望という中二設定こそどうでもよくなっていた。

 純粋に日々が充実しているのだ。

 それは元の世界では味わうことができないものだった。

 幸雄の祖父は地元では最大規模を誇る病院の理事長であり、父は院長だ。

 当然のように幸雄も後を継ぐことを期待され、流されるままに人生を送ってきた。

 それだけに、高校時代は、自分に取り入ろうと多くのクラスメイトが自分をラスボスとして持ちあげながらも、そんな恵まれた環境への嫉妬や憎悪が透けて見えた。

 表面的な友人関係ばかりで、本当に心の底から友と呼べる相手がいなかった。

 それゆえ、大学受験に失敗し、人生のレースで一歩後退すると、病院の後継者争いも三歳年下の優秀な弟に持っていかれるのではと考えたのか、友人面していた面々も急速に離れていき、幸雄は予備校生活で一種の孤独感を味わっていたのだ。

 しかし、こちらの世界では、まだ出会った人々は少ないが、少なくとも幸雄に利用価値を見出したが故に近づいてきた者はいない。

 無論、魔王は利用する気満々で幸雄を召喚したわけだが、人違いだと気づくとむしろ丁重に扱ってくれている。

 それに、見ているだけで退屈になったのか、隣でうとうとしているヴァンパイアは幸雄のおいしい血を欲しがるのが玉に瑕だが、無性に保護欲をそそって一緒にいるのが何気に嬉しく感じている。

 無論そちらの趣味に目覚めてしまったわけではないのは、ルティアネスに対しての想いを自覚しているだけに確実だ。

 少なくとも幸雄はそう思っている。

 それだけに、ルティアネスとの出会いは、幸雄にとって人生を左右させかねないと思えるものだった。

 なにしろほんの数日前は、さっさとこの世界とおさらばしたいと思っていたのに、今ではむしろずっとこちらの世界に留まりたいと、彼女のそばにいたいと思うようになっていたのだから。

 こんな比べるべくもないわずかな期間なのに、元の世界の人間関係よりこちらの世界の人間関係の方が、幸雄にとっては魅力的で大切なものになっていた。

 これから先、色々な出会いがあり、中には好ましくない相手もいるだろう。既に魔王軍の中にも自分に良い印象を抱いていない者がいるのもわかっている。

 それでも、ルティアネスのことを考えると、幸雄としては天秤が大きくこちらに傾くのが実感できるのだ。

 出会ってたった数日だというのに、それだけ彼女の存在が自分の中で大きくなっていることに幸雄自身驚きつつも、ある意味納得していた。

 だからこそ、今聞こえるはずのない声が聞こえたことに幸雄は一瞬何の反応もできなかった。

「――たすけて!」

 微かな声だ。まるで今にも擦り切れて消えてしまいそうな声だった。

 しかし、それが幻聴でないことは魔王と眠っていたはずのディフィルすら目を覚ましたことから幸雄も確信した。

 振り返った幸雄の目の前には、ここにいてはいけない存在が浮遊していた。

「――なんで、お前がここにいる?」

 すぐそこに、幸雄の手の平にでも乗れそうな小さな妖精が苦悶の表情を浮かべて羽ばたいていた。

「おねがい、たすけて、ゆっきー――」

 初めて見たはずなのに、初めて彼女自身の声を聞いたはずなのにわかった。

 自分の知るその種族の外見とはかなり異なっているのに、ただの直感だけでわかってしまった。

 ルティアネスに取り憑いていたはずのサッキュバス――それがこの小さな妖精だ。

 一度誰かに取り憑いたら、一定以上の力を吸収するまで出ることはできないと、無理に離れようとすればみずからの命にかかわると、そもそも自力で魔力を調達できないから誰かに取り憑く必要があるのだと、つい先日聞いていた。

 それも、ルティアネスを大事に思うあまり性交ができず、なかなか力を蓄えられないと嘆いていた。

 それなのに――

「お前、ルティアから離れられないんじゃなかったのかっ!?」

「そうよ、でもしようがないじゃない! どこからともなく敵が砦内にやってきたの! いきなりのことで誰も対処できなかった! このままじゃあの娘が殺されちゃうの! だから無理やり引きはがした! あんたのたすけが必要なの! 早く、早く来てっ! あの子が、あの子が殺されちゃう!」

「――っ!!」

 幸雄は頭が真っ白になって思わず駆け出そうとした。

 しかし、次の瞬間には気付いていた。


 ――マニアワナイ――


「くっ!」

 いつも一歩引いて自分を第三者的に見ている自分が脳内で勝手に語りかけてくる。

 山頂にほど近いあの砦からここまでどれだけの時間がかかった?

 サッキュバスがここまで来るのにどれほどの時間を要した?

 しかもここからは上りだ。いったい何時間かかる?

 それに、なんの力もない自分が行って、いったい何ができるというのだ?

 とめどなくそんなネガティブで、しかし現実的な思考ばかりが中二脳を黒く絶望で汚染してゆく。

「ふざけるなよっ――」

 静かに、だが力強く幸雄は叫んでいた。

 そんな冷静で、冷酷な現実など今は考える必要はなかった。

 そう、こんなところでヒロインが死ぬはずがないのだ。

 灰色の中二脳細胞を総動員して無限の楽観論で絶望をさらに上書きしてゆく。

 間に合う。

 なんとかなる。

 中二系主人公はどれほどのピンチに陥ろうと、必ずヒロインを救うものだ。

 それが常識だ!

 お約束だ!

 だから幸雄はそう思い込む。

 冷静な思考で諦めるより、熱い気持ちで立ち向かい、なんとかしてしまうのが主人公というものだ。

 冷静であるべきは、その手段を考える時だけでいい。

 だから幸雄は考える。

 最速で、ルティアネスが待っているはずの、あの砦へ辿り着く手段は何だ?

 近くで休息を取っている馬を見る。

 ――いや、ダメだ。登山には適さないし、そもそもひとりじゃ乗馬すらできない。

 小さな妖精を目の前にして大きな目をぱちくりしているヴァンパイアなら空を飛べるはずだ。

 しかし、自分を背負っての高速飛行は怪しい。

 それよりも、その隣だ。

 仮面の巨人はまだ状況が理解できていないらしく、どこか戸惑っているようだが構わない。

 もしかしたらできるかもしれない。

 召喚魔法という空間どころか世界すら飛び越える高位魔法を使いこなす魔王だ(人違いだったけど)。

 絶望的な状況を打開する正解が必ず存在し、その選択肢をつかみ取るのが主人公というものだ。

 だからこそある。

 魔王なら持っている。

 ――『瞬間移動』という卑怯千番、ご都合主義の産物を。

「魔王、砦が襲われてる。時間がないんだ。俺を砦に瞬間移動させてくれっ! 今すぐにだっ!!」

「どういうことだ?」

「こいつはルティアに取り憑いていたサッキュバスだ。本当なら彼女から出てくるほどの力も溜まってないのに無理して知らせに来てくれたんだ。頼む、俺を砦に送ってくれ!」

 幸雄は今にも消えそうなほど衰弱している妖精を右の掌に乗せて、魔王に頭を下げた。

「そうか、ゆっきーがそこまで言うなら信じよう。我もあの娘を死なせるのは惜しい」

「本当かっ!? じゃあ早速頼む!」

「ゆっきーが行くならあたしも」

 当然であるかのごとく、ディフィルが同行を申し出てきた。

 さっきまで眠っていたのに、血色の瞳は理性的な光を宿し、背筋を伸ばして魔王を見上げる姿に寝ぼけている様子はない。

 正直、幸雄としては非常にありがたい申し出だった。

 ロリとはいえヴァンパイアだ。

 あまり認めたくはないが、その戦闘力は遥かに自分より上だ。

 いざという時には頼りになるだろう。

「では、ゆっきーを護ってくれ、ディフィルよ」

「うん!」

「ちなみに、今の我は故あって少々魔力のコントロールが不安定になっている。狙った場所にきっちり送れるかわからんから、覚悟だけはしておいてくれ」

「ちょ、おまっ、なに嫌なフラグ立てちゃってんだよ……って聞けよ、おいっ!」

 しかし、幸雄の抗議もむなしく、既に魔王は空間を歪曲する魔法を発動していた。

 無詠唱でしかも速い。

 その巨体以外あまり魔王らしい力強さを感じなかったが、この魔法の技術に関してはとんでもないレベルだと思った。

 歪みゆく景色に、幸雄は意識を狩り取られかねない不快感に襲われ、きつく目を瞑って口元を左手で押さえて前のめりになった。

「ゆっきー」

 ディフィルの甘ったるい声が近くで囁かれたのを感じ、リバースをこらえていた幸雄が慌てて顔をあげて辺りを見回すと、そこは見覚えのある場所だった。

「成功……か」

 魔王の言葉はただの脅しだったのか、地面に埋まってしまうことも空中に放り出されることもなく、無事にあるべき場所に着地していた。

 そこは砦の門をくぐった先にある広場だった。

 つい半日前にここから出発したのだから、そうそう忘れるものでもない。

 しかし、その時とは印象がまったく異なっていた。

 モンスターや馬のざわめきが満たしていた空間は、今では残っていた兵士たちの死体が転がるだけの無人の荒野となり果てていた。

 体臭や武具に染み込んだ汗の匂いの代わりに、死体から溢れ出た血液と汚物の臭気が漂い、完全に戦場の様相を呈していた。

「こっち」

 苦しげな声が先導する。

 小さな妖精はもうほとんど姿が消えかけていた。

「――わかった、行くぞ、ディフィル!」

 もはや一刻の猶予もない。

 ルティアネスもこのサッキュバスにしてもだ。

 一瞬、奥歯を噛みしめた幸雄は、ディフィルを促して駆け出した。

 ――まだだっ! やっぱりまだ終わってなんかいない! 俺は正解を引き当てたんだ!

 普段の幸雄なら『まだだ、まだ終わらんよ』と有名なセリフを吐いていたことだろう。

 しかし、今の幸雄にセリフを選ぶような余裕はまったくなかった。

 策を練ることもない。

 灰色の中二脳をフル活動させることもない。

 今はただ一刻も早くルティアネスの元に駆けつけることしか頭にない。

 駆けつけて、その上で自分が何をすべきかすら考えることができなかった。


「なん、だよ、これ……」

 血の匂いが濃かった。

 何人もの傷病兵を匿い癒してきた野戦病院用の小屋は、壁も床も赤黒い染みで斑に染められ、木片や切り裂かれた布地が散乱していた。

 薄暗い内部からはもはや負傷者の呻き声もせず、生命力の欠片さえ見い出せない。

「ああ、ごめん、ごめんね……アタシも、もう……」

 片手を差し伸べて何かを掴むようにするサッキュバスが、涙を溢れさせて掠れた声を振り絞る。

 この小屋の様子に、彼女を支えていた使命感にも似た何かがついに音を立てて崩れ落ちたかのようだった。

「お、おいっ、待てよっ! お前――」

「ゆっきー、アタシ駄目だった。あの娘も、アタシ自身も……、だから、もうあなただけでも、逃げ……」

 弱々しく宙を漂ったサッキュバスは、最期に幸雄に振り返り、涙に塗れた顔をわずかに笑みの形へと歪め、跡形もなく消滅した。

「――――!?」

 おそらく、自分の本能のままにルティアネスの身体を使って毎晩精気を吸い取っていれば、彼女だけはたすかっただろう。

 だが、それをせず、否、ルティアネスの心に触れてそれができずに彼女は消滅の道を辿ってしまった。

 それもルティアネスをたすけられなかったという無念を抱いて。

「バカヤロウ……最期に俺の心配なんかしやがって……お前の方が苦しかっただろうに」

 幸雄は彼女の名前さえ知らないことに今さらながら気づいた。

「くそっ、お前のこと、まともに弔うこともできないだろ」

 幸雄は彼女のことが決して嫌いではなかった。

 ある意味、同じ少女に心を打たれた同志とさえ思っていた。

 サッキュバスでありながら、ルティアネスを大事に思ってくれていることに感謝すらしていた。

 それがこんな形でのさよならとなってしまうなんて、到底納得できるわけがない。

 彼女の最期が悔恨の、無念の想いを残したままなど許せるわけがない。

 思い切り歯を食いしばった幸雄は、溢れそうになった涙を上を向いて堪えた。

「まだだ。俺はこんな結末、絶対に認めない!」

 幸雄は叫んだ。

 断言した。

 もしこんな筋書きをこの世界の神が決めたのなら、その神すら否定してやる!

 サッキュバスたる彼女が命を供してまで知らせてくれたのだ。

 それが無駄であったはずがない。

 否、決して無駄にさせてはならない!

 ――お前の死が無駄じゃなかったって、必ず俺が証明してやるっ!!

 ルティアネスは小屋の中にはいなかった。

 ならば、どこかに逃げ延びているはずだ。

 入院患者の中には、西国兵士だけではなく彼女を慕って東国からついて来た者たちだっていたのだし、周囲には警備兵もいたのだ。

 異変があれば、己の命を張ってでもまず彼女を逃がすことを優先するだろう。

「どこだ、ルティア! 返事してくれっ!」

 幸雄はルティアネスの生存を信じながらも、あちこちに転がる死体の顔を覗かずにはいられなかった。

 それは決して彼女の死を確認するためではない。死の可能性を消し去るための作業だと自分に言い聞かせながら。

 ほんの少し前までなら無残に斬り殺された死体など見たら、すぐに酸っぱい液体が重力を無視してのどを逆流してきたことだろう。

 だが、今は違う。

 サッキュバスの最期の顔が忘れられない。

 記憶に刻まれたあの表情を無念の笑みではなく、己の為すべきことを成し遂げた満足の笑みへと塗り替えなくてはならない。

 それが名も聞きそびれた彼女への最大の弔いだと思えば、この程度の作業に何の問題があろうか。

「違う! 違う! 違う!」

 しかし、それでもこの作業自体が今までの幸雄の生活からしたら異常な体験であることに違いはなかった。

 幸雄は突然の死ともっとも縁遠い世界に生まれ、これまでの人生を送ってきた少年だ。

 どれほどの決意と不屈の闘志とを抱いても、いくつもの死をその目に焼き付けていくことに精神は次第に磨耗してゆく。

 幸雄は震えて言うことを利かなくなりそうな両脚を叩いて、周囲を確認しながら走り続ける。

 焦燥と恐怖とに全身を蝕まれながら足を進める幸雄の耳に、裏手の方から微かだが甲高い金属音が飛び込んできた。

「そっちかっ!?」

 幸雄は散乱する死体や壊れた武具をいくつも飛び越え、魔王が使っていた天幕の裏側の方へと走ってゆく。

「ルティア!!」

 一〇メートルは離れていたが、一瞬でわかった。

 いつもの巫女装束が血や泥で染まっていたが、力なく手足を投げ出し、仰向けに横たわったその姿は、幸雄が求めていたただひとりの少女に他ならなかった。

 彼女のすぐそばには、最後まで彼女を護衛していたのであろう兵士がいまだに血の池を広げ続け、ルティアネスにとどめを刺そうと赤い雫を滴らせた長剣を手にした男がゆっくりと彼女に近づき、そして切っ先を下に向けて剣を振り上げた。

「――――っ!!」

 ルティアネスを失う。

 その恐怖が幸雄の全身をこわばらせる。

 今この瞬間、大切な人が目の前で理不尽な死を強制されようとしている現実。

 あとほんの少し近ければ届く距離で、だが、絶対に間に合わないタイミングで、幸雄はその場面に出くわしてしまった。

 ――嘘だろ? 瞬間移動だぜ? 俺は正解を引いたはずだぞ? 間に合ったんだ。ヒロインはこんなところで死んだりしないよな? 俺の手はまだ届いていないんだぞ。だったら何か、何か手が――

 灰色の中二脳が瞬時に状況を解析して結論を出す。

 今までどれほど目にしたかわからないほどの漫画やアニメの似たようなシーンが記憶のデータベースから掘り出され、中二脳がそれらを都合よく解析して出した答えは『覚醒』だ。

 ――そうだよ、自分や大切な人の命の危機に、中二系主人公は異能に目覚めて絶対的な危機的状況を覆すものなんだよ! だからできるっ! 俺には魔力がある。あの魔王が太鼓判を押したこの力が今発揮されなくていつ発揮されるんだっ!?

「だから、目覚めろっ! ルティアをたすけられるのは俺だけなんだっ!!」

 幸雄は両眼をぐわっと開き、握りしめた右の拳に全身の力を込めて忌々しい敵に叩きつけるように拳を放った。

 一〇メートルという距離は、常識で考えれば遥かに幸雄の拳の射程外だ。

 だから飛道具しかこの距離を瞬時には越えられないと思ったのだ。

 ――とにかく何でもいい。炎でも氷でも雷でも衝撃波でも、ルティアネスを護れるのなら、あの敵兵を葬れるのなら、魔力があるというのなら、今ここで炸裂しろっ!

 気合いが通じたのか、敵兵が動きを止めてわずかにこちらに振り返り、そして笑みさえ浮かべて見せつけるようにふたたび剣を振り下ろそうと力を込めた。

「嘘だろっ!?」

 幸雄の拳は何の変化も生み出していなかったのだ。

 自然現象を操ることも、オカルトじみた現象を発生させることも、なにひとつ成し遂げず、ただいたずらに空気を殴っただけだった。

 その結果が、今幸雄の眼前でルティアネスの死という現実をこの世にもたらそうとしていた。

 ――またかよ、二次元のお約束は二次元でしか通用しないのかよっ!

 右拳を突き出した体勢で硬直する幸雄の前で、構えられた剣が横たわるルティアネスに向けて、その鋭利な先端を落とし始める。

 まるで自分が命の危機にあるかのように、幸雄はその光景をスローモーションで感じていた。

 ――こんな時に、こんな大事な場面でさえ俺は何もできないのかっ!?

 いつも最後の最後で敗れ去るラスボス――これまでの幸雄の人生を象徴していたかのようなあだ名が、灰色の中二脳に強烈に割り込んでくる。

 どんなに軍師ぶって戦争を勝利に導こうとも、肝心な人を失ってしまう。

 それも自分が主張した策で砦の守りを最小限にしたが故だ。

 こちらが攻勢にある時こそ、足をすくわれないよう、あらゆる可能性を考慮に入れて防備を固めておかねばならないのだ。

 本当に軍師を称するなら、今までの経緯からそれこそ敵の目的がルティアネスであることを考え、彼女の絶対的な安全を確保しておかなければならなかったのだ。

 これほどの失策は大学受験の失敗など比べ物にならない。

 後悔など先にも役にも立たないと幸雄は思っていたが、これは後悔の海に沈んで二度と浮き上がってこられないに違いない。

 ――お願いだ、殺さないでくれっ! その娘はなにも悪くないんだ!

 幸雄の表情が歪む。

 涙が堰を崩してしまいそうな、一生分の後悔に押し潰されてしまいそうな、そんな情けない顔を晒してしまう。と同時に、振り下ろされる剣を掴もうとするかのように、握りしめていた右拳が開かれてゆく。

 だが届くはずなどない。

 それだけの距離があるから幸雄は秘められた力に頼ったのだ。

 ゆっくりと、だが確実に右手の指先の彼方で、血に染まった凶刃が自分の手をすり抜けるように落とされてゆく。

 結局、魔力などと言う正体不明の力が内在していようと、それを表に現すことができなければただの無力な中二病患者でしかないのだ。

 誰かを動かして勝つことに味をしめ、みずからを磨くことを忘れてしまえば、こうしていざという時に何もできない。

 それが最悪の未来を現実へと導いてしまうのだ。

 ――神でも悪魔でも誰でもいい、俺の命なんかくれてやるから、頼む、ルティアをたすけてくれっ!

 絶望が溢れて幸雄の脳裏を真っ黒に満たそうとする。

 だが、その暗く重い闇を切り裂くように、まさに幸雄が望んだ変化が時間差をおいて発生し、敵兵の胸当てや服、剣まで粉砕し、骨が砕かれる嫌な音が何度も繰り返されて棒きれのように敵兵が吹き飛んだ。

「――なっ!?」

 思考が止まる。

 状況がまったく理解できない。

 だが、数瞬の空白の後に動き始めた中二脳がようやく妙な風圧を脇から感じて幸雄が振り向くと、そこに幸雄と同じように手を突き出した体勢で顔をしかめている小さなヴァンパイアが立っていた。

 ――今のは俺じゃない。それじゃあやっぱり――

「ディフィル、お前か……?」

 幸雄の頼みを聞いてくれたのは、存在しているかどうかわからない神様ではなく、今ここにたしかに存在している幼いヴァンパイアだった。

「ゆっきー、早くルティアを」

「……あ、ああ、そうだ、ルティア!」

 一度も幸雄を見ることなく呟いたディフィルの声に、絶望に染められつつあった中二脳が余計な感情をカットし、幸雄は倒れたまま動かないルティアネスの元へ駆けつけた。

「ルティア! 無事かっ!? 返事をしてくれっ!」

 足がもつれて、幸雄はルティアネスの傍に転がり込んだ。そのままの勢いで這うようにルティアネスに取りすがる。

「ルティア!!」

 医師の息子だけあって多少の応急処置の心得はある。

 倒れている原因が不明なだけに、幸雄は声をかけるが無理に体を起こしたりゆすったりせず、まずは胸部に耳を当てて心音を聞く。

「――っ! 生きてる!」

 幸雄は思わずガッツポーズを取っていた。

 巫女服の上からなのでかすかだったが、それでもたしかに鼓動が感じられた。

 次に頭の各所に手を当てて、頭部からの出血や頭蓋骨の損傷などがないかを確認する。

「よし、頭を鈍器でやられたわけじゃない。なら……」

 希望を見出して、呼吸を楽にさせるために体を横に向けさせようと、ルティアネスの横に腰を下ろして肩と腰に手をかけ、自分の方へ転がした瞬間、幸雄は地面を赤黒く濡らした大きな染みと自分の手にまとわりついた水分に怖気を感じて硬直した。

 この状況でなら、それが何なのか誰でも直感するだろう。

 それに幸雄ならわかる。

 これは致死量とまではいかないが限りなくそれに近い。

 いつ失血性ショックで命の灯が消えてもおかしくない状態だ。

「待ってくれよ、せっかくここまで来たのに、なんでこんなことになってんだよ……」

 背中を見ると、袈裟がけに斬られていた。

 おそらく逃げている最中に後ろから斬られたのだろう。

 刀傷自体はそれほど深くはないようだが、斬られた肋骨が折れて内臓を傷つけている可能性がある。

「どっちにしても俺じゃ治療できないっ! なんで、なんで俺は、こんなに中途半端なんだっ!」

 大切な人を護るために戦うこともできず、傷ついた彼女を癒すこともできない。

 ゲーム的な表現をすれば、戦闘系の戦士でも魔法使いでもなければ、回復系の僧侶や白魔術師でもない。

 無論、オールマイティの勇者など夢のまた夢だ。

 それでも幸雄は諦めきれない。

 唇を強く噛みしめ、裂けた服の上から患部に両手をあて、祈るような気持ちで幸雄は彼女から教えてもらった回復の魔法を試みる。

 何度も何度も何時間も指導してもらって、それでもまったく発動できなかった魔法だ。

 成功する可能性は低い。またしても無駄に終わるかもしれない。

 だが何もしないで嘆き悲しむだけという選択肢は、この世界のどこにも存在などしていない。

 あのサッキュバスでさえ、命の灯の消える最後の最後までルティアネスをたすけるためにがんばったのだ。

 自分の命すら危険に晒していない自分が何もしないなど、たとえ自殺してもルティアネスにもサッキュバスにも会わせる顔がないではないか。

 ――とにかく集中するんだ。

 攻撃にせよ回復にせよ、魔法には強いイメージが重要だとルティアネスは言っていた。そのためには集中しなければならない。

 明確なイメージで、現実すら塗り替えてしまうくらいでなければ強力な魔法は発動しない。

 ルティアネスから教わった系統の魔法では、呪文の詠唱など多くの場合、イメージの明確化とトリガーの役割を担っているにすぎないものだった。

 だからこそ、魔王が無詠唱で瞬間移動の魔法を発動させたように、呪文は必須ではないし、逆になんでもいいからとイメージを明確化しなかった幸雄が攻撃魔法を発動できなかったのも必然だと言えるかもしれない。

「頼む、死なないでくれ」

 幸雄は目を閉じて祈るように、ルティアネスの傷が癒えていく様子を思い描く。

 強く、ただそれだけをひたすら繰り返す。

 何が何でもこれだけは自分が成し遂げなければならない。

 ルティアネスを最後まで護ってくれていた兵士たちは既に皆息絶え、圧倒的な再生力を誇るヴァンパイアに回復魔法の心得などあるわけがない。あるなら頼むまでもなくやってくれているだろう。

 つい先ほど、とどめの一撃から救ってくれたように。

 ――だから、俺しかいないんだ! 今この気高く優しい最高の命を救えるのは、俺だけなんだ! もう二度と魔法なんて使えなくてもいいから、今ここで発動してくれっ!

 そうしてどのくらいの時間が過ぎたか幸雄にはわからなくなっていた。

 きつく目を閉じていたのでその間何が起きていたのかも、まったくわからない。

 一部始終を冷静に見つめ続けていたのは、幸雄の側で周囲を警戒しながら少しだけ驚いた表情で佇むヴァンパイアだけだった。

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