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待て、慌てるな、これは――

 翌日、魔王軍は陣を引き払い、全軍で山頂付近にある砦へと入った。

 幸雄はルティアネスの全裸を見てしまったこともあり、気まずい思いを抱えながら野戦病院として割り当てられた小屋に向かっていた。

「どうしよう……昨日のこと、師匠覚えてるのかな……お約束からしたら、こういう都合の悪いことだけは覚えてるってパターンだよなあ」

 今でもはっきりと思い出せる。

うっすらとした紫の靄に包まれていたとはいえ、間近でルティアネスの全裸姿を見てしまったのだ。

多大な苦労を強いられてきたせいかあまり肉付きは良くなかったが、形よく整った双丘もなだらかな曲線を描く下腹部も、元の世界で見たどんなグラビアアイドルよりも美しいと思った。

自分が二次元キャラなら鼻血を噴き出して幸せそうに気絶でもしていただろう。

忘れようにも忘れられるわけがない。

 なにしろ一瞬で中二脳の機密地区にあるという俺的ベストショット殿堂入りを果たしてしまったのだ。

 上書きも削除も不可能だ。

 彼女に会えば、まちがいなくあの映像がフラッシュバックすると確信できる。

こんな状態で師匠に会って平静でいられるだろうか――いや、いられまい、と幸雄は無駄に反語を使って考えてしまう。

赤面するだけなら、まだいいだろう。

だが、もし無意識のうちににやけ面にでもなってしまったら目も当てられない。

ルティアネスにどんなふうに思われるだろうかと、幸雄はうじうじとネガティブなことばかり考えて歩いて行く。

 まさかルティアネスに会いに行くことがこんなにも気の重い作業になるとは思わなかった。

 幸雄は小屋の前に立つと一度深呼吸をしてからノックした。

「し、師匠、いらっしゃいますでしょうか?」

「コバヤシユキオさんですか? どうぞ」

 尻すぼみに小さくなる幸雄の声に対し、ドア越しでくぐもっていたが、聞こえてきたルティアネスの声はいつも通りのものだった。

少しだけ安心して幸雄はドアを開けて中を覗いてみた。

「失礼しまーす」

 さすがに石造りの建物だけに、陣地の天幕内のように土汚れなどはあまり見られない。

元は警備兵の詰め所だったもので広くはないが、一番奥に机と椅子、その手前に運んできたベッドが一列に八台ほど設置されていて、簡素な医療施設の体をなしていた。

 見たところ昨日までいた入院患者は姿が見えず、陣を引き払ったのを機に退院したのか、それとも昨日あの後何かあったのだろうかと、幸雄は不安になって立ち尽くしてしまう。と同時に、ルティアネスの姿が視界に入った瞬間、恐れていた事態が発生した。

「どうかされたのですか?」

 ドアを開けたところで硬直している幸雄を不審に思ったのか、ルティアネスが小首を傾げて幸雄に歩み寄ってくる。

「あ、えっ、いや、なんでもないですなんでも。いやあ相変わらず師匠がお美しいので思わず見惚れていただけです。決してやましいことなんか考えてないです、はい」

「ふふ、いつも通り冗談がお上手ですね」

 まさか美しい裸身がフラッシュバックして今の師匠と重ねて見てしまい、中二脳がスパークして体が動きませんでしたとは口が裂けても言えない。

 幸雄はさりげなく鼻の下をさすり、念のためどろっとした液体が垂れていないことを確認しつつ、ルティアネスの反応からどうやら昨日のことは覚えてなさそうだなと胸を撫で下ろした。

やはり二次元のお約束は二次元固有のものなのだろう。

「それよりもラッテさんから聞きましたよ。昨日は大活躍だったそうですね」

 まるで自分のことのように嬉しそうにルティアネスが笑みを向けてくれた。

 ――やべえ、めっちゃかわいい。嫁にしてー。

 妖艶な雰囲気のルティアネスも悪くなかったが、やはりこっちの方が何倍も魅力的だと幸雄は思った。

昨日サッキュバスからこの娘を落とせと言われたせいか、この娘も自分のことを憎からず思っていると聞いたせいか、より一層彼女を自分のものにしたいという想いが募ってくる。

「いやあ、まあ俺が本気を出せばこんなものって感じですかねー。もちろん、お姉さまたちががんばってくれたおかげでもあるんですがね」

「ラッテさんもとてもコバヤシユキオさんを褒めていましたよ。異界のラスボスではないと聞かされた時は正直がっかりしたけど、さすが魔王さまが召喚されたお方だけに只者ではなかったと。まるでご自分のことのように嬉しそうに語ってくれました」

「へえ、お姉さま、そんなに俺のこと買ってくれてたんだ」

 これはあの狼耳をわさわさと触らせてくれる日も近いかなと、幸雄は邪悪な妄想を一瞬よぎらせた。

「ええ、ラッテさんはとても恥ずかしがり屋さんですからね。なかなかコバヤシユキオさんと面と向かっては言えないようですから、私が代弁してさしあげます。もちろん私も期待しております。なにしろ私のはじめてのお弟子さんですからね」

「わ、私のはじめて――」

 昨日のサッキュバスのせいで、普通の発言にもいちいち中二脳が過剰反応してしまう。

その娘を落とせ落とせと囁く言葉が聞こえてくるようだ。

 ――そ、そうだ、俺は師匠を、師匠も俺を、だから――

「し、師匠……し、いや、ル、ルティア――」

 幸雄はまるで催眠術でもかけられたかのように、無性にルティアネスのことを今すぐこの場でどうにかしてしまいたいという強烈な欲求にかられた。

沸騰中の中二脳が雄叫びをあげるようにぐるぐると回転し、その度になぜかルティアネスの裸身がフラッシュバックし、幸雄は眼前の清楚なルティアネスの姿とのサブリミナルもどきでめまいを起こして倒れそうになった。

「あっ、コバヤシユキオさんっ!?」

「――――っ!?」

 慌てて一歩踏み出したルティアネスにもたれかかった幸雄は、両頬が心地良い弾力に包まれたことに気付いた。

決して膨らんだ風船のように押し返してくるわけではないし、額のあたりはむしろ布越しに木製のドアにでも押し当てているような硬さも感じる。

だが得も言われぬこの安心感と同時に襲い来る高揚感とに、一瞬で再起動を果たした中二脳が恐るべき結論を下そうとしている。

 ――ま、待て、慌てるな、これは孔明の罠――いや、違う。これはきっと二次元でよくあるあれだ、あれ、ラッキースケベ的な何かだ。お約束通りならツンデレヒロインがビンタやグーパンチを放ってくるあのパターンに違いないんだ。

 だがこの状況はまずいと幸雄は思う。

なぜならルティアネスにはツンデレ属性が微塵も備わっていない。

つまり行動がまったく予測できないのだ。

しかも、エロ方面にはまったく耐性がなさそうな気配が満ちている。泣き叫んだり、放心してしまったり、最悪の場合は完全に嫌われてしまうかもしれない。

できればこのままでいたいという気持ちと早く何とかしなければという焦りとが、さらに混乱を加速させる。

 ――そうだっ、このまま気絶したフリを……ってダメだ! 師匠はその道のプロだ。気絶したら人の体がどういう状態になるか、確実に俺より詳しく知ってるよ。この状態はごまかしきれない。どうする? どうすればいい?

 動くこともできず声を発することもできない幸雄だったが、ふいに背中にゆったりとした圧力がかかったことに気付いた。

「ふふ、コバヤシユキオさんは甘えんぼさんなんですね」

 頭を撫でられた。

 幸雄も身長は同年代の男性の平均くらいだが、ルティアネスよりは頭ひとつ分くらい高い。

 そのため、現状の膝を折り曲げて前のめりになった姿勢では自分の体を支えにくく、完全にルティアネスの胸に頭を埋めた状態だ。

ルティアネスはそれを嫌がるでもなく幸雄の背中に左腕をまわして安心感を与え、赤子をあやすかのように右手で頭を撫で始めたのだ。

 ――やっべー、お師匠様、まじ天使だった! 天然さんだなんて勝手に思ってごめんなさい。『天』だけ当たってたから誤差ってことで許してください。

 元の世界では実在を確認されていない都市伝説級の聖女に頭を抱かれ、幸雄は感動で両目に涙を浮かべた。と同時に、ルティアネスに対する愛おしさが今までにないほど溢れ出してきた。

 それは圧倒的な破壊力で先程までのエロ妄想を一瞬で洗浄して祓い清めてしまった。

 改めて幸雄はこの目の前の少女を好きなのだと実感した。

 見た目や言動が好きなだけでなく、内面まで含めて本当に尊敬できる相手だと改めてそう思った。

「お師匠様、俺がんばるよ」

 幸雄はルティアネスの両肩に自分の手を置き、名残惜しさを振り切るように顔を上げて彼女に正面から向き合って告げた。

「師匠が、いや、誰もが必要以上に傷つかずに済む世界を勝ち取ってみせるから」

 少し驚いたように両目をぱちくりさせるルティアネスを、幸雄は思い切って抱きしめてみた。

 ただ力はあまり入れない。

 身を添えるだけの柔らかい抱擁だ。

 それは愛情よりも信頼と約束を伝えるためのものだ。

 ――へたれだな。

 幸雄は心の片隅でそう思ってしまうが仕方がない。

きれいごとかもしれないが、愛しいという想いがルティアネスに自分の感情をぶつけることよりも彼女の願いを叶えたいという方向へと向かってしまったのだ。

彼女に自分の欲望を叩きつけるより、自分には想像もつかない悲嘆と後悔とを重ねてきてそれを誰にも感じさせない彼女を護り、支えてあげたいのだと。

 あるいは昨日のサッキュバスの話が、性欲よりもむしろ保護欲を過剰に刺激してしまったのかもしれない。

「――っ!」

 戸惑い気味だったルティアネスが両腕を幸雄の背中にまわして抱擁に応えてくれた。

「ありがとうございます。なんだかコバヤシユキオさんは私のことなど全部お見通しみたいですね。これも異界のラスボスさんの力なのでしょうか?」

「い、いや、全然見通してませんです。なんとなくそんな感じがしただけで……」

 苦しい言い訳だと思いつつも、まさかあなたに取り憑いてるサッキュバスがすべて暴露してくれましたとは言えない。

先程からじわりじわりと滲み続けている冷や汗と脂汗をルティアネスに感じ取られないうちに幸雄は抱擁を解いた。

「お師匠様、俺、あ……戻ってくるから、ま、待っててくれると嬉しいな……なんて」

 あなたに相応しい男になって、と中二脳が勝手に発言しそうになり、あまりの臭さに気付いて思わず省略してしまった。

この辺りが幸雄が中二病患者の完全体になりきれない所以だろう。

「――? ええ、お待ちしております。ご無事で帰ってきてくださいね」

 それゆえか、ルティアネスには真意がまったく伝わらなかったらしい。小首を傾げて微笑しながら幸雄を送り出した。

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