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悪夢ならまだましだった

 各所に篝火が焚かれた陣地に魔王直属部隊とハーピー部隊を率いた幸雄たちが戻ってきたのは、だいぶ夜が更けた頃だった。

既に戦勝の知らせは出してあったので、陣地の守備兵たちもやや緊張感に欠けた者やどこか浮かれた者が多かった。

 それでも見張りだけはしっかり行っていたのは、やはり最低限の規律は守られているということだろう。

「良い夢見ろよ」

 幸雄はきざったらしくそんな言葉をベッドで横になったディフィルに放った。

「ゆっきーもねん」

 ヴァンパイアにとってはこれからが本来の活動時間だが、幸雄に合わせるためになるべく昼に起きて夜眠るように生活習慣を調整している。

あまりうまくいっているとは思えなかったが、それでも自分に合わせようとしてくれているのは嬉しいところだ。

だが、それ以上にルティアネスとの時間は初恋を自覚した中学生のように他をどうでもよく感じさせる。

 幸雄はディフィルを魔王の天幕内のベッドに寝かせると、邪魔者は始末したとばかりに邪悪な笑みを浮かべて野戦病院へと向かった。

「さあて、なんかすごく久しぶりな気がするけど、一日しか経ってないんだよな」

 今日は朝から戦場へ出たため、ルティアネスと顔を合わせるのは昨日別れて以来だ。

さすがに今日は戦況が気になって彼女のことを考えている余裕はなかったが、無事に作戦が成功して陣地まで戻って安心したせいか、ルティアネスのことで頭がいっぱいになって明日まで待てずにせめて一言だけでも交わしたいと思って出てきたのだ。

「やばいやばい、本当に中坊だな」

 苦笑しながら幸雄は病院の天幕へと忍び寄った。

 厚めの布で作られているためあまり光を通しにくいが、それでも入口付近の篝火以外に天幕内からも薄ぼんやりとした灯りが漏れ出ているのがわかった。

「よかった、まだ起きてるみたいだ」

 幸雄はほっとしながら出入り口の幕をそっと開けて中を窺った。

「師匠、まだ起き――えっ?」

 幸雄は右手で幕を押し退けて一歩踏み出したところで、まるで石化魔法でも食らったかのように動きを止めた。

 ――なんだ、これ?

 体が動かなかった。

室内は各所に配された燭台のおかげであまり暗くはない。

しかし、室内を覆い尽くす薄紫色の靄のせいで視界がはっきりとしない。

 ――いや、見えるんだ。でも状況がさっぱり理解できない。ベッドが並んでて人が寝てて、師匠がそこに……。

「あらぁ、誰かと思えばコバヤシユキオさん……どうしたのぉ、こんな時間に?」

 ルティアネスの声が聞こえた。

たしかにそれは彼女の声であり、ベッドから降りてこちらに向かって歩いてくる姿もまぎれもないルティアネスだ。

しかしそれは違和感の塊だった。

少なくとも自分の知っているルティアネスではない。

雰囲気も話し方もどこか潤んだ瞳もそのねっとりとした言葉遣いも、そのすべてが自分を中坊へと叩き落とした彼女とは異なる何者かだった。

そして何よりも、こんな衣服をひとつも身につけず、身動きひとつしない患者に淫らに添い寝をしているなんてありえない。

自分の知るルティアネスは、誰よりも気高く美しく、それでいて誰にでも親身で一生懸命にがんばっている、身近にいそうでなかなかいないそんな女の子だ。

 それなのに、これはいったいどんな悪夢だろうか。

いや、悪夢ならまだいい。所詮は夢なのだから。

しかし、自分はたしかに今起きていると自覚し、金縛りにも似た状況で固まっている。

 ――なんだよ、わけがわかんねーよ、どうしてこんな――

「コバヤシユキオさん、どうしちゃったのぉ? そんな所に突っ立っていないで、いつもみたいに入っていらっしゃいな?」

 幸雄はさらに混乱した。

 中二脳が空回りしてそれっぽいセリフのひとつも出てこない。

もうすぐそこに、ほんの数歩先には愛しい人が慎ましやかだが妙になまめかしい肢体をよじってこちらを手招きしているのだ。

 ただの中坊なら頭の中を真っ白にして無我夢中で飛び込もうとしただろう。

だが、体は動かない。

こんな生殺し状態で誘惑され続けたら、どんどん脳が沸騰してオーバーヒートを起こしていたかもしれない。

しかし、幸雄は違った。

受験に失敗していなければ大学一年生だ。

 こちらも失敗したが、それなりの恋愛経験も積んでいる。

 その上で見つけた本当に尊敬し、心から好意を抱ける相手がこのルティアネスだったのだ。

それなのに、彼女のこの突然の態度の変化は、エロ妄想よりもむしろ怒りへと感情を突き飛ばした。

 ――違うだろ。そうじゃないだろ。こんなのがあのルティアネスのわけがない!

「ふざけるなっ!」

 幸雄はバチンという音が聞こえた気がした。

脳内の血管が弾け飛んだ音かと思えるほどのものだったが、特に頭痛もなく気を失うこともなかった。

むしろ金縛りが嘘だったかのように体が自由に動き出した。

幸雄は一瞬でルティアネスに詰め寄り、そのほっそりとした両肩に指を食いこませるほどに強く掴んで体を固定した。

「う、うそ……」

 ルティアネスの両の黒瞳が驚愕に見開かれた。

今の彼女の顔に先程までの淫猥な気配など微塵もない。

そのことが逆に彼女が偽物ではなく本物のルティアネス自身であると証明しているようで、幸雄は余計にいらだった。

「うそじゃねーよ、どうしたんだよ、わけがわからねーよ! あんたいったい何がしたいんだよ!? みんなをたすけたいって願いは嘘か? 怪我した兵士囲ってこんな不埒なまねしやがって、どこのビッチだよ、あんた、本当にあのルティアネスかっ!?」

 涙さえ浮かべて幸雄はルティアネスに溢れ出る怒りを叩きつけた。

止まらなかった。

裏切られたという想いで勝手に言葉が口をついて出ていった。

あの尊敬すべき陽巫女に対して、こんな醜い言葉を吐き出す日が来るなんてまったく思っていなかった。

大学の合格発表の掲示板に、自分の受験番号がどこにも見当たらなかった時以上のショックだった。

 そんな幸雄の様子に、かえって冷静さを取り戻したらしいルティアネスがふいに笑みを見せた。

 先程までの淫靡なものではなく、どこか計算高い大人の女の笑みだ。

 幸雄はそれを見てやや怯んだ。と同時に、嫌悪感を抱いた。

なぜならその笑みは、今まで金や権力目当てに幸雄にすり寄ってきた女たちと同質のものだったからだ。

「すごいのね、コバヤシユキオさん。まさか私の『誘惑』までレジストしちゃうなんて思わなかったわ。さすがあの魔王が認めただけのことはあるわね」

「『誘惑』……だと? まさかあんたは――」

「あらっ、私のことも知ってるの? 魔法もないような辺鄙な世界出身の割にやけに博識なのね。そう、私はサッキュバスと呼ばれる種族に属する妖精さんよ、あらためてよろしくね」

 幸雄はがっくりとうなだれた。

言動や仕草から中二脳が予想はしていたのだ。

だが認めたくなかった。

それなのに、本人の口からもたらされた言葉に微かな希望もすり潰されてしまった。

 サッキュバスといえば淫乱の象徴のような悪魔だ。

夢魔とも淫魔とも呼ばれ、特に女性型の夢魔をサッキュバスと呼び、男性の夢に理想の女性像として現れて性交を迫ってくるという。

 これは夢ではないが、現実の段階で既にルティアネスは幸雄の理想像だった。

もし夢に彼女が現れ性交を迫ってきたら、喜んで力尽きるまでお相手させていただいただろう。

しかし、現実にそんなことをされたらドン引きだ。

なぜならもはや三次元では都市伝説級の属性とされる彼女の清楚さというものに、幸雄は大きな魅力を感じていたからだ。

それなのに、その属性はただの飾り、幸雄が己の理想像として見せられていた仮面のようなものに過ぎなかった。

「まじかよ……」

 幸雄は全身の力が抜けてその場に腰を落としてしまった。

初めて尊敬できる相手が、本当に好きになれる相手が現れたと思ったのに、こんな形で失恋するとは思わなかった。

 これならまだ嫌いだと面と向かって言われた方がどんなにましだっただろう。

 放心する幸雄を見てルティアネスはくすりと笑った。

幸雄はうなだれていたために見ていなかったが、それは普段のルティアネスが見せる笑みと同質のものだった。

「コバヤシユキオさん、ひとつ残念なお話を聞かせてさしあげます」

 普段のルティアネスの口調でサッキュバスが言った。

「私、処女です」

「――はっ!?」

 幸雄はがばっと顔を上げた。

あまりの驚愕に目を限界まで開いたまま閉じることができない。

「い、今なんて言った?」

「もう教えなーい」

 お気楽な調子でルティアネスが告げる。

 いたずらっぽく笑う彼女には、妖艶さも清楚さも見当たらなかった。

 ただ普通に友達のような気安い雰囲気をまとって、ベッドの上に脱ぎ捨ててあった衣服を着始めた。

 慌てて眼をそらした幸雄はありえないと思った。

 サッキュバスといえば性交のイメージが強すぎるせいか、それ以外に思考が及ばない。

「ゆっきーの知ってるサッキュバスがどういう特徴か知らないけど、私はどんな種族でもいいからメスに取り憑いてオスの精を啜るタイプなの。そんで魔力を精製して充分に溜まったら自由に外に飛び出せるわけ。逆に魔力が尽きたら誰かに憑いてないと消滅しちゃうのよねえ、困ったことに」

 やや自虐的にそう言ったルティアネスは口調もフランクなものになり、幸雄の呼び名もディフィルたちと同じものになっていた。

「そんでまあ、ぶっちゃけ魔王城に迷いこんだら、いつの間にかこっちの世界に連れてこられちゃってね。仕方ないからこっちで寄生主捜してたら、ちょうどうまい具合にこの娘が見つかったの」

 巫女服を着終えたルティアネスは、改めて幸雄に向き直り、意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。

「最初はね、なんか人当たりの良さそうなことばっか言って、どうせ内心じゃみんな見下して笑ってるんでしょって思って、取り憑いたらおもいっきり淫乱にして二度とまともに人前に出られないようにしてやろうって思ってたの」

「なっ!?」

「でもね、いざ取り憑いてみたらこの娘、本気でそんなこと言ってるってわかったの。なんか子供の頃からの境遇っていうか、自分じゃどうにもできない所で大人たちに勝手に話進められて、抗うこともできずにただ従うしかなかったみたいね。人々に対して責任ある立場なのにずっとそんな人生やってきて、それで戦争に負けちゃって国もボロボロ、民衆もボロボロ。で、そんなことやらかした連中はさっさと逃げちゃって自分ひとりでその責任を負うことになっちゃったのね」

 ルティアネスの姿でルティアネスの声でルティアネスが話すが、それはまさに他人事として語られている。

幸雄は中二脳が空転して言葉を挟むことすらできない。

無論、理解はできている。

それは今まで自分が読んできた漫画やラノベで何十人、いや何百人もの悲劇のヒロインたちが背負わされた苦難と同等のものだ。

 感情移入して悲しみ、怒り、そして克服しようと立ち向かってゆく姿に心打たれたものだ。

「それでもこの娘は、それすらやっぱり自分が至らなかったからだと思って自分に責め苦を負わせてるのよ。だからね、あの魔王に救われた時、やっと自分の罪を償うことができるんだって、自分の意思で自分の力で人々の役に立てるんだって、もう呆れるくらい純粋に周りの人たちのことばかり考えてたの」

 その分、自分のことをおろそかにしてね、とサッキュバスが続けた。

 そう、ルティアネスもまた悲劇のヒロインのひとりだ。

そして物語を、否、自分とその国民たちの人生を悲劇で終わらせぬように、苦難を乗り越えて歩み出したのだ。

 幸雄はそんな強い女性――元の世界で周囲にいた、ただ気が強いだけの女性たちとは異なる――を二次元でしか知らなかった。

 現実の女性とは異なる、二次元にしか存在しない架空の生物だと思っていた。

しかし、実在したのだ。

世界を越えた先にそんな人物がたしかに存在していたのだ。

 ――そりゃあ惚れるわけだ。

 幸雄は妙に納得してしまった。

理不尽な仕打ちにも耐え、抗い、同時に自分の利益や快楽よりも他者への思いやりを重視する。

まさに幸雄の中二脳にとって理想のヒロイン像だったのだ。

ゆえに、それを汚すような先程のサッキュバスのセリフと態度に、エロ妄想が吹っ飛ぶほどの抑えきれない怒りを抱いたのだろう。

「なんて言うかなー……親心? ってことでもないんだろうけど、なんかこの娘ほっとけなくなっちゃってさ、大事にしたいというか傷つけたくないというか……だからこの娘、まだ心も体も清いままよ、安心した?」

「あ、安心って、その、いや、俺は別にその……」

 はたから見ると、明らかに安堵した表情になった幸雄は頬を染め、今度はツンデレでもないのにしどろもどろになって視線をあちこちにさまよわせた。

「でもね、あたしの本能的には、やっぱりガンガンそっち系したいのよ。でも、できないじゃん? だから仕方なく、効率悪いけどこうやって皮膚から精力を吸収してるの」

 どうやらこのサッキュバスは人が常に発散している気のようなものを吸収できるらしい。

だが本人が言うようにその方法では効率が悪いうえに、性行為ができないことでストレスが溜まっているようだ。

「だからゆっきー、さっさとこの娘落としてよろしくやっちゃってよ」

「――なっ!? さっきまでのいい話が台無しじゃねーか!」

「あんた、あのちびっこの『魅了』やあたしの『誘惑』を打ち破ったのよ。はっきり言って、こんなの相当な魔力がなきゃできないわ。これほどの逸材、滅多にいないの。魔力の強い人の精ってとってもおいしいのよ。だから、ゆっきーはおいしくこの娘をいただいちゃって、あたしはおいしくゆっきーの精をいただくってこと。この娘だってあんたのこと憎からず思ってるみたいだから、ちょっとは甲斐性示しなさいよ、そうすればみんなハッピーでしょ?」

「そそそ、それは、その、そう……なのか?」

 正直なところ嬉しかった。

中二脳的には魔力が強いと言われた辺り、精神的にはルティアネスが自分を憎からず思っていると一応本人から言われた辺りだ。

幸雄も思春期の男子だ。

 当然、エロ行為にも興味津々だし、ルティアネスとそういう仲になりたいとも思っている。

しかし、サッキュバスの話を聞いた今となっては、それが同時に理想のヒロインを自分自身の手で汚してしまうことになりそうで、逆に怖くなってしまっていた。

もっとも、その背徳感こそ性行為に絶妙な味わいを添える極上のソースだという、嗜虐心に満ちたドSな気持ちが心の片隅で微かに自己主張しているのも自覚している。

「ほらほらゆっきー、男見せなさいよねー?」

 いたずらっぽい笑みを見せてサッキュバスが幸雄の左頬を指でつんつんした。

「あ、あう、ま、うん、がんば……ろうかな」

 ぎこちなく笑って幸雄は頷くしかなかった。

「うん、楽しみにしてる。でもなるべく早くね、あたし、あんまり気が長い方じゃないから」

「お、おおう」

 しっかりプレッシャーをかけられて、幸雄は逃げ道を封じられた居心地悪さを感じながら野戦病院を逃げるように後にした。

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