第9話 裏口から逃げ出す男――恋の終わり
カフラーピラミッドの最深部にあるドーム状の天井には、地球の衛星、月が太陽の光に照らされて浮かび上がっていた。
南半球の白っちゃけた部分には、ティコと呼ばれるクレーターがはっきりと見え、赤道付近の暗灰色の染みの中には、やはり、クレーターであるコペルニクスと、アリスタルコスが見えていた。暗灰色の染みの部分は海と呼ばれ、目立つものとしては、晴れの海、豊穣の海、静かの海、神酒の海、危機の海が右側に、雨の海、嵐の海、湿りの海、雲の海が左側に見えていた。
孤独を抱え込んだミマースにとって、宇宙を眺めることは一つの癒しになっていた。
ドームを訪れることは、友人であるアグリオスに会うこともその理由のひとつではあったが、腕を失ってからの彼は、人の言葉が耳に届かなくなっていたのだった。
「ミマース、地球から月の裏が見えないことは知っているよね?」
「ああ、それぐらいはね……」
「私はね、それが悔しかったんだ。幾つの時のことかは忘れたがね、子供ながらに思ったんだよ。地球にいたら一生涯月の裏側は見れないのかってね……。それが私を科学者にした原点さ……」
「裏側か……」
「考えてもみたまえ、我々人間というものはだ、自分の背中すら見れない。それも一生だ。確かに鏡という便利なものはあるが、あんなものはまやかしさ。自分の眼で見てこそ真実を知れるってものだ」
「君のいう二面性だね……」
「今の君は、自分の裏側を見ようとしていない。表ばかりを見て、悩み苦しんでいる。違うかね?」
「…………」
アグリオスはミマースが垂らしていた袖を手に取って話しだした。
「不幸なことだ……。だが、科学が解決するよ」
「でも……軍の義手はあてにならんのだよ。俺は……元通りの自分を取り戻したいんだ……」
「ミマース、良く聞いてくれ……。私は近々火星を離れるんだ……」
「アグリオス……君までか……」
ミマースの顔がとたんに憂色に包まれた。
白衣の男は、しばらく黙ってから巨漢の男の顔を見入り、まるで演説家になったかのように語り出した。
「まあ、聞いてくれ。私のここでの使命は終わったのだよ。もうここで出来る研究は残されていないのだよ。……私はPETUに移籍しようと思っているんだ……」
ミマースは一瞬わが耳を疑った。
「PETU!?……。君はPETUがどんな連中か知ってるだろうに……なら、何故そんなところに!?」
「ああ、勿論知っている。今私のいるDOXAに敵対している勢力だ……」
PETU(People for the Ethical Treatment of Univers)とは、DOXAの科学偏重主義に反対して地球で勃興した『宇宙の倫理的扱いを求める人々の会』と呼ばれるものだった。
設立時は動物愛護や環境問題に積極的に取り組んで有意義な実績をあげて、世界的に人々の耳目を集めた。しかし、時とともにPETUは前衛化しはじめ、今では地球規模で環境テロリスト団体に指定されている危険で暴力的な団体、というよりは軍事組織と化していたのだ。地球軍が月に建設した月面基地はPETUの攻撃を受けて占拠され、今ではPETUの中心拠点となっていたのだ。
「アグリオス、君は地球を捨てるつもりか? PETUなんかに入ったら、地球の大地さえ踏めなくなるんだぞ……」
「そうした準備はしてきたのだよ。私は科学者だ。だがね、それ以上に私は自分というものを知っているつもりなのだよ。私はDOXAの研究局に所属している。だがね、研究者というだけでは、真実を解明することなど出来ないのだよ……」
「…………」
アグリオスの瞳には自分に心酔しているかのような爛々とした輝きがあった。
「だからね……私の眼は常にDOXA全体を見ていたのだよ。司法局は問題ないんだ。だが、情報局は違うんだ。彼らを味方に付けない限り、私の夢は実現しないのだよ。だから、実際にそうしてきたんだ。それを証明することも出来る。しかし、この話を聞いたなら君は傷つくだろうね……」
「どういうことだ?……」
「私は情報局の連中に研究局のやっているとこを教えてやっていたんだよ。その見返りとして、研究がやり易い環境を得ていた。しかしそれももう限界なのだよ……」
「それでPETUにってわけか……だが、危険すぎる!」
「危険! 何が危険だっていうんだね!」
アグリオスは激昂したように声を荒げて白衣をはためかせてミマースの方に向き直った。
「危険などこれまでもあったのだよ。情報局にデータを渡すのだって楽なことじゃなかった。そのために奴らにこの基地を襲撃させてデータを渡さなければならなかったんだからな!」
「アグリオス……今なんて言った!」
ミマースはアグリオスの言葉に衝撃を受けはしたが、それ以上に怒りを感じて、白衣の男の襟首を片腕で締め上げた。
「ミ……ミマース……。待ってくれ……はな、話を……聞いてくれ……」
「言え! いってみろ!……」
ようやく床に足を下ろせるようになったアグリオスは先を続けた。
「つまり、君らを襲った連中は情報局の特殊部隊だったということだ。だが、私はまさか君がそのことで腕を無くすなどとは思ってもいなかったんだ。その埋め合わせをしたい。私はそう思ってPETUの話をしたんだ。軍にいたところで、まともな義手さえ手に入らない。DOXAは医療関係に関しては立ち遅れている。今それが出来るのはPETUだけなのだよ……。わかってくれたまえ……。PETUへの移籍は私自身にとっても、君にとっても有意義なことなのだよ……」
ミマースは掴んでいた襟元を離すと、大きく嘆息した。
「なるほどな……」
「…………」
「なあミマース、悪いようにはせん。君の腕を元通りにするためにも、私とPETUに行こうじゃないか……。君の腕のことは、この私が保証するよ」
「…………」
アグリオスは巨漢の男が全身から発してしいる殺気を感じ取ってはいた。
しかし、それでも必死にミマースを説得し続けた。
「裏か……」
ミマースはドームに浮かんだ月を眺めながら、おもむろに口を開いた。
「確かに俺は今まで裏を見ようとしてこなかったかもしれない……。ならば見てやろうじゃないか。どのみち、軍には絶望してたんだ……。ここに俺の居場所などない……。アグリオス。俺は君を信じることにするよ。詳しいことはまた後で聞かせてくれ……」
ミマースはそこまで言うと、踵を返してドームを出てエレベーターへと向かって歩みはじめたのだった。
自室に戻ったミマースは、片手だけを使ってルテラーナにメールを書いた。五か月振りの手紙だった。
ルテラーナ、俺は演習で右腕を失った。
君を支えていく自信もない。
こんな俺では却って君を不幸にするだけだ。
賢い君のことだ、これだけで俺の気持ちは解ってくれると思う。
すなまい、ルテラーナ。
出来れば逢って話がしたかった。
でも、君にこんな姿を見せたくはないんだ。
さようなら、ルテラーナ。
いままで愛をありがとう。
ミマース
巨漢の男ミマースは、木星軌道上の小惑星探査から地球への帰還の途次、ギザ基地に立ち寄ったDOXA所属準光速宇宙船<ケイローン>号に乗って火星のギザ基地をあとにした。
それは、ミマースが地球を離れてから、ちょうど一年後のことだった。