第一章「自由落下の来訪者」第八話
第一章
「自由落下の来訪者」
第八話
突然の眩しさに思わず閉じた目を開けると、そこは純白の世界だった。見慣れた自分の部屋ではない。すべてが白、という表現がまさしく適切。そして、俺たちはそこに「漂っていた」。沙耶香さんが両手を掴んでいるので、彼女から離れることはない。
ほら、あれだ。よくテレビなんかでスカイダイビングをしている映像。二人組で両手を掴んで落下しているような、ああいった感じ。スカイダイビングの経験は無いけれど。
だが、上下の感覚というものが全く感じられなかった。勿論、風の流れも無い。
「お、おい、なんだよこれ、重力が……ないのか? ……上下もよく分からないし」
「大丈夫ですよ、すぐに慣れますから。ようこそ、魔女の世界へ」
彼女が言い終えると、世界は黒く反転し、星々に包まれた。
それは息を呑む素晴らしい景色だった。
地球上にいる以上、自分が見える範囲、つまり目にすることができる範囲というのは地平線から天頂を通り、反対側の地平線までの百八十度、それに視界をぐるりと回した、およそ半球分。だが、ここは違う。上下左右すべての範囲に星が見え、遠くには地球と月も見え、太陽も見える。彗星も見えた。ただ、太陽は地球上で見るその明るさより、ずっと暗いものだが。いや、暗いというのは少々違うかもしれない。ドキュメンタリーか何かで見たことがある。宇宙での太陽光の振る舞いって、確かそんな感じだったよね。
「さぁ、足がつきますよ」
まずは沙耶香さんが着地した。着地といっても、そこに地面があるわけではない。見た目では、そこに足を固定した、という状態だ。何もない空間に靴の裏を縫いつけたように立っている。
同じことをしようともがくものの、どうやってもうまくいかない。足ばかりがふわふわと空を蹴る感じだ。
「イメージが大切です、私の足のところに、大きな透明なガラスの板がある、そこに着地する、という風に想像してみてください」
言われたようにイメージする。
――彼女は厚いガラスの板の上に立っている、自分もそこにゆっくりと足をつけるのだ。僅かな重力があれば尚良い。さあ、降り立つのだ。降り立て。
バランスをとりながら、ゆっくりと足が下降し、地面のような感触を得て、着地した。強いイメージがあるとそれが反映されるのかな、この場所は。
改めて周囲を見回す。見渡す限り、星の海だ。上下左右すべての角度が星空に彩られていて、まるで透明化してしまった地球の上にいるかのようだ。
何度でも述べてしまうが、しかしだからこそ、そんなにも美しいこの空間は、なんとも不安定だ。重力が極端に弱い、といえばそれまでかもしれないが、それ故に様々なものが希薄、というべきなのか。
例えば目の前の光景。服の裾は地球上では表現できないようなゆっくりとした速度ではためき、彼女――竹下沙耶香と名乗る女性――の長い黒髪も、同じようにゆるやかに広がる。吹く風に髪が広がるさまを映像で記録し、ゆっくりと再生しているかのようだ。美しくて、現実感が希薄だ。これは、まるで静かな水の中にいるような雰囲気。
何もかも幻想的だ。
すべてが神秘的だ。
だから、現実感が希薄してゆく。
「……それで……何をすればいいのかな?」
現実感の薄い光景を楽しむのもまた良いのだろうけれど、連れて来られたからには相応の理由があるはずだ。
「指輪授与式です」
さらっと言われたことは、割ととんでもないことだった。
指輪授与って、結婚式のような? と聞くと、彼女は頷く。
右手を前に、と促される。言われるがままに、掌を上に向けて右手を差し出す。
柔らかな輝きとともに、手に指輪が現れた。純銀の指輪だろうか、とてもよく磨かれていて、近くで見ると自分の目が反射して見える。細身なうえに至ってシンプルなリングで、表面には何か小さな刻印が入っている。ただし、刻印の内容は分からない。
「形式的なものですし、観客はいません。緊張しなくても大丈夫ですよ?」
「あー、そうは言っても、なんか……ね」
なんとなく、気恥ずかしい。
彼女は少し微笑んで、掌の上にあった指輪を右手で持ち、高く掲げた。
世界魔女協会所属、竹下・Libra・沙耶香。
今この時を以って、間宮覚様と契約を行い、契約者を魔女使いとして認めます。
相互に助け合い、戦い、守ることを誓い、その契約のしるしを互いに刻みます。
凛とした声。神々しささえある立ち居振る舞い。
どんどん、現実感が消失してゆく。希薄どころではない、消失だ。
ふと気がつけば、指輪がうっすらと青白い光を放っていた。それは冷たくて、優しくて、透明感のある光。美しいという表現が、やはりここでも適切なのだろう。
ここでは……この場所では、この世界では、全てが美しさを得ている。全てが神聖さを得ている。そして全てが……現実離れしている。
もしかして、自分が知らないだけで……これが『世界の本来の姿』なのだろうか?
だとすれば、自分の今までの人生とは、知っている世界とは、何だったのだろうか。
「……そういえば、紗耶香さんの右手にも指輪があるね。先入観というか、指輪っていうと左手の薬指に着ける印象が強いけれど」
今、気が付いた。淡く青く光る指輪、それは高く掲げたそれだけでなく、彼女が着用している指輪も同じように輝いている。
「左手の薬指は、未来、あなたの伴侶となるべき人のために残しておくのです。それに、魔女は独身の人としか契約できない、なんて制約はありませんから」
……ああ、そうか。だから指輪も拇印も、右手の薬指を使ったのか。彼女は妻になるわけではないからだ。
彼女に右手を差し出した。彼女の左手が、俺の右手を掴む。
ゆっくりと指の外をリングが通ってゆく。ちょっとサイズが大きかった。これでは抜けてしまう。
「大きいね」
「調整しますから、大丈夫ですよ」
指輪がすっと小さくなり、ぴったりの大きさになった。これなら、簡単には抜けないだろう。
「では、こうやって、右手の甲をこちらに向けてください」
どう表現すれば良いのか分からないけれど、互いに手の甲を向けるように指示。
これは……あれだ。有名人が「入籍しました」と言って指輪を報道陣に見せる仕草。
……他に良い表現を知らない。
指輪が触れ合うと、きん、と一瞬甲高い音が聞こえた。
「はい、これで大丈夫です。あなたと私は“繋がり”ました。さぁ、やることも終わりましたし、部屋に戻りましょう」
「……これだけ?」
俺がここに来てやったことは、空を飛んで、着地して、指輪を嵌めてもらっただけだ。もうちょっと色々あっても良いと思う。寧ろこの場所は妙に居心地が良い。のんびりと過ごすというのも、なかなかお洒落だとは思うけれど。
「これだけです。昔はもっと色々なことがあったようですが、現在はかなり簡略化されています」
じゃあ、部屋に戻しますね、と彼女は履いていたヒールで足元をコツコツとノックする。
空から落ちて……いや、星空が昇ってゆき、かわりに足元から昇ってきた部屋に……なんだかややこしいな。とにかく、あっという間に自分の部屋に戻ってきていた。
「ぐえっ!」
途端に俺は、膝をついてしまった。力が抜けたのではない。突然襲ってきた重力に、脳がまるっきり対応できなかったのだ。先の空間というか場所は重力が殆ど無かった。短時間でもそれなりに適応してしまっていたのか。まさしく正座でもするかのように、がくんと畳に押し付けられる。うわあなんだこの感覚、気持ち悪い。重力ってこんなに重かったっけ? とか、変なことを考えてしまった。
「いってぇ……何なんだ、あの宇宙みたいな空間……」
流石に悪態のひとつもつきたくなる。
紗耶香さんは平然と突っ立っている。
「魔女にはそれぞれの固有の空間があります。あれは現実の拡張、あるいは複製のようなものです。説明は……難しいです。世界の裏側に近い何か、としか表現できません」
「そうなのか……」
ややこしそうなので、機会があれば今度ゆっくり話を聞いてみようと思う。
立ち上がって見回す。それにしても時間が伸びているんだか、ゆっくりなんだかとかいう自室。相変わらず食事の途中のままのテーブルが目に入る。写真でも見ているのではないかと錯覚してしまう。だって湯気が「固定されている」なんて、常識では考えられない。いや、実際にはゆっくり動いているようだが……何が正しい現実なのか、正直なところよく分からなくなってしまった。
「とりあえず着替えて、食事の続きにしませんか。細かい話は、明日にでも」
「うん、そうだね。わかった」
せっかくのスーツを汚しても嫌だし、靴は汚れていないとはいえ、ここは室内だ。
靴を脱いで玄関へ置き、スーツを脱いで、ベルトを緩めて。
後ろから黄色い悲鳴が聞こえた。