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優しい魔女と、迷える小狼  作者: 美悠嶺二
第一幕:第一章「自由落下の来訪者」
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第一章「自由落下の来訪者」第七話

第一章

「自由落下の来訪者」

  第七話


 ふと気がつけば、既に現実に引き戻されていた。

 否、莫大な情報に現実を忘れていたのだろう。目の前には閉じられた瞳と、額から伝わる温もりがある。お互いの息遣いすらも分かる距離。あと僅かに顔を近づければ、きっと鼻や唇を触れ合わせていただろう。しかし、彼女も瞳を開けて静かに離れてしまう。

しかし、俺が体験した事象は、そんな事をどうでも良いと感じてしまうものであった。

 経験に勝る信仰は無いと、誰かが言っていたのを思い出す。そしてまさしく、その通りなのだと思う。真っ先に、自分たちが普段使っている言葉というものに対して劣等感というか、不便さを感じてしまった。言語や思考というものよりも、もっと偉大で、崇高で、そして単純。人の意識と混ざり合うという表現が適切なのかは分からない。が、それに似たものであったことは間違いない。

 まるで、脳が直接接続されて、瞬時に情報が伝達されたかのように。今までのお喋りがまるで遊戯だったのだといわんばかりの、圧倒的な情報の奔流。人生の中でこれほど衝撃的な体験は記憶に無い。

 理解をして、理解を与える。或いは情報を咀嚼して――つまり噛み砕いて――相手へと与える。全体像としては単純だが、実際はそうではない。タイムラグのほとんど無い、瞬間的な情報の交差によって「まるで事実を共有するように」情報の共有化が出来てしまった。

 ……そう、これが出来るならば、声に出して稚拙な情報を生み出すことを、非生産的、とさえ思ってしまう程に。

「納得して頂けましたか?」

 呆然とする俺に、彼女は優しげな表情で問い掛けてきた。

 ふぅ、と息を一吐きして、ゆっくりと気を落ち着ける。

「……実によく。ただ、納得できるかどうかというより、“納得されるカタチ”での話だったような気がしないでもない。だけど、必要な部分は理解したよ。悪くないね」

 彼女はにっこりと笑い、よかった、と言った。そして手をテーブルの上に置き、すっと上げると……ペンスタンドと高そうな羽ペン、インク、そして朱肉が、掌から次々と生えるように現れた。これは魔法というよりマジックに近い気がする。


 手に持っている「能力行使契約書」を、もう一度、丹念に見る。これは契約書なのだ、悪意がないとは分かっていても、用心に越したことはない。光に透かしても何も写らないし、裏面には何も書いていない。書いてある内容を再び読むが、これといった不都合なことは書かれていない。

「用心深いですね。でも、悪いことではありませんよ」

「このオンボ……アパートを借りる時、親父に色々と仕込まれたからね。悪意がないと分かっていても、どうしても思い出してしまうんだ」

 良いお父様ですね、と彼女は微笑んだ。

 ……よし、決めた。いつまでも考えていても仕方が無い。自分の経験した事実と、この書面の内容、彼女の言葉を信じてみよう。

 緊張して、手が少し震えていた。こういった書面を書く機会というのもほとんど無いことだし、そもそも、何が起こるかわからないのだ。少しの期待と興奮、そして未だ残る不安を抱えつつ、ペンを取り、紙面の甲欄、氏名のところに自分の名前を書き入れようとする。

 間……と書こうと一画目をなぞったところで、何も文字が書けないことに気がついた。あれ、どういうことなの?

 顔を上げると、沙耶香さんが声を押し殺して、顔を真っ赤にして笑っている。

「こ……これにペン先を……つけてください……」

 示す先には、テーブルの上のインク。

 めちゃくちゃ恥ずかしかった。だけど、これでひとつ新しいことを学習した。

「ごめん。羽ペンって初めて触るものだから分からなかった。そうか、ペン先にインクをつけて使うものなのか。万年筆も確かインクを吸って使うものがあったよね」

「ご……ごめんなさい……そうですよね、高校生が万年筆や羽ペンなんて、普通は使わないですよね……」

 耳まで真っ赤にして笑っているが、やっぱり普通は使わないよ。万年筆のことは何となく知っている、だが、羽ペンは初めて。万年筆のように中にインクが入っているものだとばかり思い込んでいた。あ、でも、そうなるとインクのボトルの意味が分からなくなるな。

 使い方を沙耶香さんに教えてもらう。インクのキャップを取り外し、金属のペン先をインクの中に沈める。ゆっくりと持ち上げて、インクが垂れないことを確認。あとは、可能な限り力を抜いて書くこと。なるほど、そうやって使うものなのか。

 甲欄の氏名に、間宮覚と書き入れ、住所を書き入れる。ボールペンとも鉛筆とも違う、独特の書き心地。紙の上をインクとペン先が滑るような、そんな感触だ。

「使い終わったペンは、ペンスタンドの中へ入れてください。、ペン先は時折交換するものですが、ペン先も羽のほうも、とても繊細ですから」

 優しく、ペンスタンドへと入れる。これは“入れる”と“立てる”の中間のようだ。花瓶に花をさす感じに似ている。

 最後に拇印と書いてあるところへ自分の指を押し付ければいいわけだ。

「印鑑じゃだめなの?」

「印鑑は、所持者が変わることがあります。それに比べて、指紋は所持者が変わらないという性質と、あなた自身が押したという証明のふたつの意味を持ちます」

 なるほど。

「拇印を押すときは、右手の薬指でお願いします」

 自分自身の思考が一時停止した。右手? いま右手と言ったよな、そう、右手。の、クスリユビ?

「え? 右手の薬指? 普通、拇印っていうのは拇指か人差し指でするものじゃないの?」

 拇指というのは親指のこと。

「右手の薬指ということに重要な意味があるんです……後で分かりますので」

 ティッシュを一枚とって、右手の薬指を軽く拭き、朱肉をつける。そして、拇印と書かれているところへ、ぺたりと押し付けた。

 綺麗な印影になった。どっちかといえばこれは印影ではなく指紋だけど。右手薬指の朱肉を拭き取り、能力行使契約書を沙耶香さんに手渡す。それを受け取り、紗耶香さんもサインをする。そして書面の一番下に、いくつかの数値を書き込んだ。

「では、協会に送って返事を待ちましょう」

 彼女は丸めた羊皮紙の両端を掌で押さえ、挟み込む。書類は折れず曲がらず、掌が合わさるにつれて消えていった。

「協会本部の承認が得られ次第、契約の儀式があります」

 時計を見る。

「もう夜の十時だよ? こんな時間だと、返事が来るのは翌朝なんじゃないのか?」

「世界魔女協会本部は、スウェーデンにあるんですよ。時差はグリニッジ標準時間プラス一時間、今は向こうの時間なら、だいたい午後二時過ぎ、サマータイム実施なら午後三時過ぎですね……あ、返事が来ました」

 彼女の目の前に、丸められた紙が突然現れて宙に浮いている。赤いリボンが綺麗にかけてあった。彼女はそれを手にとって優しくリボンを外し、俺の右隣に座り直した。

「一緒に見るのが“しきたり”です」

「魔女協会とやらは、ずいぶんと仕事が早いね。俺の印象だと、欧州の人っていうのは、仕事はのんびりやるか、誤魔化してやらないか、のどちらかしかないんだけど」

 彼女は苦笑する。

「逃げ道があると仕事を放置するというのは多分だいたい合っていると思います。ただ、協会の場合はスピーディですよ、のんびりしていると協会員の命に関わることもありますからね」

 では……と沙耶香さんは目の前に、丸められた羊皮紙を出す。ゆっくりと丸められたそれを戻していくと、下部にスタンプが押してあった。「agreement」……承認、という意味だったかな。

 沙耶香さんはこちらを向いて微笑んだ。

「契約が承認されました、ありがとうございます。では早速、契約の儀式を始めます。すぐ済みますから、まずは立ってください」

 彼女は僅かにふらつきながら立ち上がる。本来なら大人しくしているべきなのに。それにしても、周囲のものは相変わらず固まったままの、灰色の世界だ。

 沙耶香さんが俺の肩を両手で二回、軽く叩く。僅かな重みを感じた。

 同じように自分の肩を両手で二回、軽く叩く。一瞬で先ほどのスーツに服が変わった。着ていたスウェットは何処に……と思ったら、スーツを掛けてあったハンガーに入れ替わりで吊るされている。

 その光景にはっとして自分を見下ろし、驚愕した。俺は、いつの間にかスーツ姿になっていた。

「最近は略装でも大丈夫なのでスーツにしました」

「……え、ちょっと、俺、まだスーツなんて持っていないよ? というか何を……」

 就職活動も入試を受けるつもりも無いのかお前は、というツッコミは無しの方向でお願いします。学生のうちは制服で良いし、既製品で十分に事足りるから、必要になってから買えばいい、とか思っていた。

「協会からの支給品、契約のお祝いですので受け取ってください。あなたの体型に合わせて申請してみましたが、違和感とか、きつかったり緩かったりしませんか?」

 そんなことは全然なかった。本当に丁度良い。少し身体を動かしてみるが、ちゃんと余裕もある。裾の長さもぴったりだ。さっき書き込んでいた数字はこれか。黒い靴下に、黒い革靴もピカピカ……の……。

「あの……さ、一応、室内だよここ。なんで靴を……?」

 沙耶香さんはにっこり笑って、

「別の場所に移動するからです」

 両手を差し出してきた。重ねろ、ってことだろうか。

 おずおずと手を重ねると、しっかり握り返してくる感触と、柔らかな温かさが伝わってきた。


「Welcome to witch’s world.」


 世界が真っ白になった。

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