第一章「自由落下の来訪者」第六話
第一章
「自由落下の来訪者」
第六話
「魔女……使い?」
彼女は静かに頷いた。
手渡された紙に視線を落とす。よく見れば、それは紙ではなかった。触り心地、硬さが明らかに紙ではない。画用紙というにもちょっと違う。やけに硬い。
「それは羊皮紙です」
文章よりも先に、しげしげと紙を調べていた俺に、彼女は言った。
「初めて触ったよ……羊皮紙って現代でも作られているの?」
「ヨーロッパでは現在でも普通に買うことができますよ」
ふーん。それは知らなかった。普通に暮らしていると、こういうものは触る機会どころか、現物を見る機会も滅多にないからなぁ。ってうわ、なんか視線が痛い。とりあえず読んでほしいって事かな……。
今度こそ、紙ではなく(現実に言えば紙でもないが)その上に書かれている文字に意識を向ける。
英語で名前が書かれている。Libraというのは天秤のことか。なるほど、ミドルネームを通称とか通り名としているんだな。そしてその下に魔女登録番号みたいなことが書かれていて、八桁の数字が書き込まれている。
本文に視線を落とした。
……一番、この契約、は、互いのなんとかのために行われる……。
……二番、願いの、実現を、伝える?
……三番、時間なんとか、人間または魔女の死亡、大きな書き換え……。
ちょっとまって、こんなに堅苦しい文章って学校で習うレベルじゃないだろ。単語が難しすぎて殆ど読めない。全部読み解かないといけないのか?
えーっと。もう一度。この契約……は、実行される、互いの利益を……。
「……沙耶香さん、ごめん、英語苦手なんだ」
諦めて白状した。
彼女は紙を覗き込み、初めて、文面がすべて英語で書かれていることに気がついたようだ。
日本語に直しますね、と言い、左手で書面をすっと撫でた。撫でた場所から、英語が日本語に翻訳されていく。
「これで日本語に切り替わりました」
タイトル部には「能力行使契約書」と書かれている。
一.本契約は甲・乙相互の利益の為に行われること。但し、本書はあくまで契約書とし、能力行使の随時契約は口頭等による意思確認により実行される。
二.甲は乙に対して願望実現の申請をすることが可能である。乙は必要な条件を甲に提示し、両名が調整・了承することで能力行使の随時契約とする。必要に応じ、乙が甲に願い出て、甲に願いを乞うことも可能である。
三.時間停止及び遡上・人間及び魔女の死亡・大幅な事象の書き換え・甲または乙及び世界魔女協会に大きな不利益や損害を与える願望及び条件は両者共に認められない。
四.契約後は契約解消まで、甲は乙に居住空間を提供し、乙は甲の身体・居住箇所の安全を確保する努力を負うものとする。両名は互いの質疑応答について、安全やプライバシーを勘案しつつ、真摯に答える努力(説明責任)を負うものとする。
五.甲は不可抗力を除き、乙の許可無く、乙の存在を他者に教えてはならない。それに伴い、乙は一般人に対して悟られぬよう、努力する義務を負うものとする。
六.乙は不可抗力を除き、甲の生命と財産を守る義務がある。
七.世界魔女協会からの出頭要請を受けた場合、甲・乙共に速やかに出頭すること。
八.乙が他の魔女と戦闘状態に陥った場合、甲は乙を援護することが出来る。但し、甲・乙共に、魔女協会規定に基づき他の魔女の契約者である人間を攻撃してはならない。
九.願望実現に対し問題が生じた場合、警告及び指導を行うことがある。
十.甲の要求した願望が継続的なものの場合、契約解除と同時に継続作業は中断される。それにより矛盾が生じる場合は両者話し合いによる適切な処置を行うこと。過去に実現させた願望については遡上取消を行わないもの(現状維持)とする。
十一.重大な問題が発生した場合は、世界魔女協会所属魔女裁判所に判断を委託するものとする。不服申し立て他の事案については、都度、魔女裁判所に問い合わせ指示を受けること。但し甲または乙が死亡した場合、強制契約解除とみなす。
十二.本契約に不備があった場合の修正、または契約内容を更新する場合は、甲・乙両名の同意が必要となる。
「何か質問があれば、どうぞ」
考える時間を貰った。
互いに正座して向き合ったまま、無音の時が流れる。
契約書という割には、文字は大きめだし、書かれていることは非常に簡潔。分かりやすいものだった。
書かれている内容をざっくりと解釈すると、こうだ。
魔女は契約相手となる人間の願いを叶えたり、安全を確保したりする。そのかわりに、人間は魔女に住む場所を提供する必要がある。この契約書は覚書のようなもので、実際に何かするときはそれを伝えて、調整すればいい。場合によっては魔女側からお願いを要求されることもある。ただ、願い事にはいくつかの規制があって、それに引っかかるようなことはできない。お互い真摯な態度で臨みましょう。あと、契約が解除されても、過去のことを無かったことにはできない。
「質問」
「どうぞ」
「さっき魔女使いって言ったけど、魔法使いではないの?」
思わず契約書に書いていないことを質問してしまう。そうは言っても、この話の根底にあたる部分だから訊かない訳にはいかない。
「回答ひとつ目。もしあなたが魔法使いになったら、私は何と呼ばれるのが適切でしょうか。或いは、魔女と魔法使いの明確な区別は可能でしょうか」
即答。ああ、そうだよね。俺が魔法使いになったら、彼女の存在を表現する適切な言葉が無くなってしまうよね、恐らく。
「回答ふたつ目。私は『魔法』という概念そのものではないです」
ごもっとも。こっちの回答は、言葉通りの質問への回答。……あれ?
「変な質問になるけれど、えーっと、魔女協会、だっけ。そこには女性しか居ないの?」
彼女は首を振る。
「いいえ、男性も居ます。なぜか数は圧倒的に少ないですが。契約前なので、これ以上の詳しい話はまだ出来ません」
「次の質問。魔女使いと言っていたけど、これを見る限りでは条件が対等に近い気がする。その……『不思議な力を操れる自分を使う』という表現はいささか卑下しすぎのような気がするけれど」
だってそうだろう? 自分を使う人になりませんか、だ。その言い方ではまるで奴隷のようだ。
ほらあれだ、最近流行のメイドさんの格好をした人が「ご主人様」って言うのと似ている。あれは間違いで、正しくは「旦那様」と呼ぶべきなんだ。ご主人様と呼ぶべき時というのは、その人が「主の奴隷」か、それに近い立場である場合。メイドさんは奴隷ではないのだから、これは最近の日本語の間違いの中でも最も分かりやすいものだ。
「先の質問の回答と被ってしまうのですが、契約した場合でも、間宮さんは魔法使いではありません。しかし、魔法使い使い、または魔女使い使いでは日本語として些かおかしなところになってしまいます。そこで便宜上、私たちは魔女使い、というように表現しています。魔女を使役……使う人、という表現でしょうか。参考までに英語圏では、慣例的かつ直感的にウィッチ・マスターと呼ぶ方が多いです。」
「そういう表現をしても良いなら、俺は構わないんだけど……」
「間宮さんは優しいですね」
彼女は優しく微笑んだ。
それを見て、この言葉はなんだか彼女を、または彼女たちを馬鹿にしているようで、あまり使いたくないな、と思った。
「……いま気づいたんだけど、どうして俺、この状況や話にこんなに順応しちゃっているんだろう。また“事象の書き換え”とかいうのを実行しているの?」
「いいえ、私は何もしていません。事象の書き換えによって契約を強制してしまっては平等ではありませんし、真摯な対応とは言えませんから。ただ、理解されやすいように工夫はしているつもりです。話せる範囲で、可能な限り分かりやすいように伝えるように心掛けています。とはいえこれは売り込みも兼ねてしまっているので、気に入らなければ契約しないという選択肢をとって頂いても構いません」
まったく、優しいのはどっちだよ。売り上げ獲得に血眼になっている、いきなり玄関に突撃してくるそこいらのセールスより、よっぽど良心的じゃあないか。いやまあ、営業をする人間はそれで食っていかなきゃいけない訳だから、そこを否定する訳ではないのだが。
もし、事象の書き換えとやらで状況を操作しているのなら、俺にこういう疑問を抱かせる隙すら与えないはずだよな。いや、そういう方向性を持たせておいて売り込みを……いやいや、やっていないと言っているのだ、ここは信用するしかない。
……あれ? ということは、俺もそうだけど、彼女自身にも得になる話でなければおかしい。あまり疑心暗鬼になっても仕方が無いけれど、精神論っぽい部分が多い気がする。利害関係について、ちょっと聞くべきだろうか。
「ここまで話を進めておいて、こんなことを訊くのはアレなんだけど……どうしてそこまでして、俺と契約したいの? 探そうと思えば、その……人間なんていっぱい居るじゃないか」
彼女は即答しなかった。その表情は、なんとも表現し難いものだ。
悪い質問をしてしまったのかもしれない。彼女はさっきまで、俺のことを信頼できる人間だから、と言っていたのに。しかしそこで、僅かとはいえ、俺は疑いの目を向けられてしまった。
でも、申し訳ないとは思うけれど、話が飛躍しすぎだし、美味すぎる。こちらの利点だけ強調されている気がして仕方がない。だから、彼女、魔女側に立っての利点を聞き出したかった。
彼女は小さな溜め息をついて、呟いた。
「言葉で説明するのは長くなります。額を貸してください」
彼女がゆっくり近寄ってきて、顔を寄せてきた。
うわ、ちょっと、近い、近い、近いです!
超接近ですよ、友人どころか妹にすらこの接近は許せない距離だというのに何ですかこれ!
吐息が、沙耶香さんの吐息が分かるっ……分かるほどに近い、腕が背中に回されて……あぁ、なんかこれ、傍から見たらキスするように見え……。
「……っ!」
思わず息を止めてしまった。
それに気づいたのか、彼女はクスクスと笑って……額がゆっくり重なった。
とんでもない速度だった。それは語るより速く、理解しやすい形でやって来た。そして、語るより速く、理解しやすい状態で彼女に流れてゆく。感じたのではない、それは整然とした「意識の流れ」だった。
――魔女側にとっての利点は、まず住処を確保できることです。魔女は契約者がいなければ放浪を続けることになります。人から身を隠し続け、移動を続けるのは負担が大きいのです。勿論、完全に無理という訳ではありません。一応、帰る場所……協会本部がありますから。しかし人に匿ってもらうことで、私たちは安心して生活できます。それが信頼できる人間なら尚のことです。住環境というのは、それだけ大きな問題なのです。
――次に、人がもたらすものについて。願いを叶えるというのは、魔女という立場からすれば大して難しくないものが殆どです。重要なのはそのプロセスや代償です。食事を代償にしてくれれば、私たちは温かいご飯を食べることができます。欲しいものを貰えれば、自分の研究環境を充実させることができます。そして、何よりこれはとても嬉しいことなのです。また、願いを叶える過程で何かを得られたり、人が研究のお手伝いをしてくれたりすることで、私たちは能力や資質を高めることができます。
――そして、人そのものが与えるものについて。私は魔女で……いいえ、私達、という表現のほうが正しいかもしれませんね。魔女はもともと、人間です。素質を持った人間のことを私たちは「資格者」、魔女になれるだけの条件を満たしたものを「適格者」と便宜上呼んでいます。それはともかく、今は魔女でも元が人間ですから、やっぱり他者との交流は欲しくなります。人恋しい、と表現をすべきでしょうか。孤独のままに生きることは辛いです。ですから、人との交流は私達の精神の安定、文化の取り込みに大きく寄与します。
……それが人間と魔女との間に交わされる契約の、魔女側の利点、でいいのかな。
――肯定です。労使関係で表現するなら、人が自分自身で叶えることが困難な願いを極力叶える「仕事をする」のが魔女側、労働の対価としてお金のかわりに何かを「支払う」のが人側。こう言えば分かりやすいでしょうか。そしてもうひとつ重要な事があって、私たちを形作る『燃料のようなもの』、どのように呼んで頂いても構わないのですが、今風に言えば魔力とか、エネルギーとか、そういう類のものについてです。自分で作れる分は必要な分だけですので、人間から分けて頂くことでかなりの負荷の軽減が可能です。
……その支払うものは、お金じゃ駄目なんだ?
――魔女は身を隠しているのです、例えば、透明人間が買い物をしていたら、どう思いますか?
……ああ、なるほど、分かりやすいね。じゃあ、さっきの質問に繋げてほしい。人間はたくさん居る。俺と契約したいと思う理由を教えて欲しい。
――あなたは私を助けてくれました。多少の下心のちらつきがあるのは、あなたが男性で、若いのですから当然のことでしょう。でも、あなたは事象の書き換えによる揺さぶりに対して狼にはならなかった。私に尽くしてくれました。介抱してくれました。先ほども申し上げましたが、適切な人との触れ合いは、私達にとって精神の安定になります。残念なことに、人と不適切なコミュニケーションを行ったことで、人を嫌ったり、狂ってしまったり、堕落してしまう魔女も居ます。力になれる人間と、信頼できる人間は違う。ですから、私達も人を選ばなくてはならないのです。私の上司の言葉を借りるならば、「我々は人を選ぶ鏡である」……まあ、ちょっと皮肉めいた言葉でもありますが。
……恥ずかしいなぁ。そんなに褒めても何も出ないよ。
――そうですか? 既に私への介抱がひとつと、動かぬ『物証』がテーブルの上に出ていますよ。
……物理的なテーブルの上のものは本当に動いていないように見えるんだけど。あと、どちらかといえば、これは卓袱台だと思う。というか、どういう原理で何が起きているのか、さっぱり、これっぽっちも理解できてないのだが。
――動いていないように見えても仕方がないですね。一秒という時間を伸ばせるだけ伸ばしていますから。魔女の能力に関していえば、不思議な念力、とか、超能力、とは違います。契約して頂ければ細かく伝えられるのですが、簡単にいえば様々な事象に干渉することができる、といったところです。ところで、そろそろ離れてもいいですか? 長く繋がり続けると、結構疲れてしまうので。
……あ、ごめん。ありがとう。言いたいことはよく分かったよ。しかし、魔女ね……いまだに実感が沸かないんだけど。
――非日常的なものを受け入れるのが難しいというのは理解できます。しかし、慣れればその結束の強さが実感できると思います。安心してください、あなたに害を与えたりしません。あくまでも相互扶助が前提です。ただ、欲に塗れて堕落しないように、それだけは気をつけて下さい。
まるで電話を切るかのように、ぶつりと流れが切れた。