第一章「自由落下の来訪者」第四話
料理回。
注意書きにもありましたように、美味しく作れるかどうかは、あなたの腕次第。
第一章
「自由落下の来訪者」
第四話
彼女に服とハンガーを手渡し、台所へ退避。「後ろを向いていてくれれば結構です」と言われたが、さすがにそれは出来ない。女性の着替えですから。
想像する。引き戸のむこう、自分の後ろで女性が着替えている。しゅるしゅると聞こえる衣擦れの音は、劣情という高圧配管のジョイント部の、理性と書かれたボルトを一本ずつ、レンチで緩めていくようなものだ。当然、配管の中は常圧ではないから少しずつ漏れ始めて、一定のところまで緩めると負荷が他のボルトに一斉に掛かって破断する。
……いや、駄目だろ、それは。そもそも緩めるな危険。
が、薄っぺらな理性はねじ切れられ、振り返る。すりガラス越しに、人の動く影というか、色のようなものが見えている。当然ながら、鮮明な光景は見えない。当たり前だ、そのためのすりガラスなのだから。
コップを手にとって乱暴に水を注ぎ、衝動と一緒に飲み込んだ。劣情と衝動を水と一緒に飲み込んで、腹を壊したという話は聞かない。聞くか、そんな話。落ち着け俺、人の信用を損ねるような行為をしてはいけません。
「すいません、お待たせしました」
がらり、と音がして左を見ると、スウェットに着替えた彼女が立っていた。上は、肩幅がちょっと大きいが、袖・丈は思っていたよりも緩い感じではなかった。下はちょっと緩そうな感じだけど、なんとか大丈夫。左手には靴を持っていた。
「靴、玄関に置いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
一歩踏み出したところで、彼女はよろめいた。慌てて支える。服越しに伝わる肌の柔らかさと、ふわりと漂う女性の香りに、ドキドキが止まらない。というか胸元がちょっときつそう……失敗したかも。
おもむろに彼女の手から靴をとって、玄関に向かう。玄関といっても数メートルだ。
しかし随分と不思議な靴……なのだろうか。いや、これは靴で間違いない。女性用の靴はよく分からないけれど、ヒールにしては、随分とデザインが凝っている。踵の部分はそんなに高さがある訳ではないが、幅が十ミリ程のベルトが何本も繋がれていて、それぞれの縫い目は見たことが無いもの。手入れも行き届いているのか、まるでよく磨かれたような革靴のような強い光沢を放っている。結構高いものかもしれないな、これ。
靴を置くと、後ろから「ごめんなさい」という小さな声が聞こえたが、聞かなかったことにした。俺は別に何も求めていない。自分がしたいことをしているだけ。
振り返ったところで、ぐぅ、という音がした。彼女からではない。自分だ。
そういえば、今日はずっと考え事をしていて夕食を食べていない。それもこれも、あの憎き進路調査だ。燃やして良いなら今すぐガスコンロで燃やしてやりたい。食用油をたっぷりと馴染ませてからだ。彼女はクスッと笑って。
「お世話になりっぱなしはいけません。何か作りましょうか?」
と聞いてきた。
「歩くだけでふらつくのに、危ないよ。いいからゆっくりしていて。それより、竹下さんも何か食べる?」
「え……あの、そこまで気を遣って頂かなくても……」
「その様子だと、何も食べていないだろ?」
ぅ、と彼女は小さく声を上げる。それが全てを物語った。時刻は午後九時。
さっきの騒ぎから恐らく一時間程度。つまり午後八時から八時半に事が起こった。スーツ姿から察するに、彼女が大学生であったとしても、社会人であったとしても、夕食は食べていない時間だろう。……あれ、ちょっと待てよ。仮にそうだとするなら、この時間、徒歩か自転車で移動していたと仮定するなら、この近所の人なのかな?
なんだかよく分からない。
「で、では……お言葉に甘えて……」
遠慮がちの声で、思考から引き戻された。まぁいい。自分から泊まるように言ってしまったんだし、本人もそれを了承済み。面倒だからそこらへんの追及は後でいいや。
どこかで何かが、かちり、と音を立てた。
冷蔵庫を開けた。自炊習慣がついてから、食材は一通り揃えないと落ち着かなくなってしまった。自称、のんびり屋でズボラだから、作るものも大体ズボラだけどな。手間と時間と金をかければ飯は幾らでも美味くなる。が、食事に関しては、あまり手間をかけずに美味しいものをっていうのがモットーだ。実家からの仕送りにも感謝。
ズボラは自炊なんてしない、という意見は受け付けない。自炊しない人間は友人にもたくさんいる。そういった人たちは大抵、ズボラではなく面倒臭がり(動きたくない)か、金がある(外食産業の恩恵を受けられる)か、料理を知らない人のいずれかに当てはまる。自宅住まいというのは別として。
竹下さんには居室に戻って待っているように伝えたが、どうにも落ち着かないらしく、結局、台所の隅に置いてある椅子に座っている。
「あ……ご飯炊くの、すっかり忘れてた」
生卵を見て、気付いた。何ということだ。
冷蔵庫のドアを一度閉める。
「……えーっと。全体的に洋食でいい?」
「はい、大丈夫です」
ニコニコしながらこちらを見られても……期待されているようで、なんだかくすぐったいのですが。
さて、考えタイム。食材は一通り揃っている。とはいえ一人暮らし前提なので、一般家庭のそれとはちょっと違う。それなりに保存の利く野菜や食材が多い。週末で時間に余裕があったから夕方に買出しに行ってきたが、これは正解だったな。
調味料に関しては、どうしても捨てきれないこだわりがあるから色々揃っている。食器に関してはビバ・ズボラーなので三セット位ある。それだけあれば、一度や二度食器を洗うのをサボっても支障がないから。家を出るときに両親に言われたことを思い出す、お前は何人で食事するつもりなんだ、って。
さて、冷蔵庫の上には未開封の食パンがある。四枚切り。八枚切りを二枚食べれば良いじゃないか、という無粋な意見は聞きたくない。一回で二枚分食べられるじゃないか。それでは二枚切りにしてしまえばいいのでは、というのもナシだ。俺の口はそこまで展開できない。
冷蔵庫の脇の「仕送り段ボール」の中を確認する。人参、玉ねぎ、ジャガイモ。まぁ、この辺はメジャーなところだよね。あとは乾物やレトルト、米、即席ラーメン。缶詰も入っている。
冷蔵庫の中には卵に各種野菜と調味料、ハムやベーコンに肉。ヨーグルトに牛乳、その他諸々。これだけあれば数日大丈夫だろう、という生鮮食品。魚は焼く環境がないので、食べたくなったらお惣菜を買うようにしている。
今日の夕食決定。ちょっと見栄張ってみよう。
玉ねぎを取り出し、皮をむいて切る。みじん切りにはしないが、薄切りよりも細かく切る。二人分なので、人参も少し刻んで加えておこう。僅かなオリーブオイルを鍋にひいて、人参と玉ねぎ投入。焦げ付かないように弱火でこまめに炒める。
次のメニュー。溶き卵を用意。砂糖を加えて少しだけ甘く。食パンを斜めにカットして三角形にする。厚みがあるのでパンの中心に切れ目を入れて、ハムを挟んでおこう。そう、フレンチトースト、しかも贅沢にハム入り。ただしフランスパンではない。……あれ、ということは、これは「ハムエッグトースト」? なんだかよく分からないけど、とりあえずそれらしいもの。パンを小さなバットに入れて、溶き卵を絡ませ、しばらく浸す。
作業しながら、鍋で炒めている玉ねぎと人参の様子も見る。必要なら少しだけオリーブオイルを足してもよし。但し、焦れて火力を上げると焦げ付きの原因になる。ここは少し辛抱。レストラン料理ではないのだから、あめ色になるまで炒めなくても、火が通れば大体問題ない。
さっきから視界の隅で、竹下さんがこちらを真剣な眼差しで見ている。時折、おぉ、とか、へー、とか言いながら。
「竹下さんは、食事は自分で作るんですか?」
言ってから気がついた。いかん、この質問は地雷だったか?
「自分で作ることもたまにありますが、どうしても出来合いモノを食べることのほうが多いですね」
気持ちはわかる、よく分かる。
「あ、名前で呼んでくれて構いません。寧ろ名前で呼んでください」
……手が止まった。彼女のほうを向く。なんて?
「苗字で呼ばれるのは、好きではないので」
「あー、そうなの……なるほど。では沙耶香さん、でいいですか?」
はい、結構です、と言って彼女はまたこちらの動きを真剣に見つめている。
なんだか不思議な人だ。どうして初対面の、しかも男相手に、そこまで余裕をもって居られるのだろうか。
鍋の中で炒めていた人参と玉ねぎに火が通ったので、ここで水を加える。二人ぶんなら四百ミリリットル……いや、ここは五百入れよう。余ったら明日朝食べてもよし。火を中火にして軽く混ぜる。灰汁が出てきたら、おたまで掬っておく。
ここで食パン再登場。必要な分だけ切り分けた後、さらに細かく切り、油を少しひいたフライパンで一気に炒める。食パンだけで。これで即席クルトンが出来上がり。フライパンから即席クルトンを別の容器に移し、フライパンは洗って水を切る。
「すいません、サラダ盛ってもらってもいいですか?」
「はい!」
彼女は喜んで冷蔵庫を開ける。まだフラついているように見えるが、それでも先ほどより安定してきたようだ。
「ズボラで申し訳ない、カットサラダが入っているので、食べたい分だけ食器に開けてもらっていいですか?」
「わかりましたー。あ、プチトマト乗せてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
満面の笑みで、彼女は食器を選び始めた。
じゃあ、こっちも仕上げといきましょうかねっと。
フライパンにバターを落として、溶かし広げる。焦げ付かないように気をつけながら、中火程度で溶き卵に浸しておいたパンを落とした。ジュワー、と良い音をたてて焼きあがっていく。夕食メニューにしてはちょっと軽かったかな、と思いながら。
さて、鍋のほうも仕上げに入る。ここからは手早さが求められる。灰汁が抜けてコトコトしている鍋に、顆粒コンソメを必要量入れる。これだけでは少し間の抜けた味になるので、少量の塩と乾燥バジルを加える。味見。うん、これならいいだろう。
フライパンの上で焼けてきたパンをひっくり返して、焼きあがるまでの間にオニオンコンソメスープをスープ皿にとる。これにクルトンを適量投入し、最後に乾燥バジルをもう一度、微量ふりかけて完成。居室のテーブルへ。テーブルには既にサラダが載っていた。
進路調査票は……勉強用の机の上に移動されていた。一瞬でも燃やすとか思ってしまってすまない、きみに罪はない、赦してくれ。後でちゃんと向き合うから。
台所に戻ると、彼女はシンクの中にあった食器を洗っていた。ありがたや。
パンのほうは、もうすぐ焼き上がる。グラスを二個とオレンジジュースを居室へ。なんだか手が込んでいるとか贅沢っぽく見えますが、手抜きできるところはきっちりと手抜き済み。これがズボラクオリティ。
フライパンの前に立って、パンをもう一度ひっくり返す。丁度良い焼き色になっている。最後に、バットの中に少量余った溶き卵をからめるように掛け、軽くひっくり返して火が通れば完成! あ、手にとって食べたい人は、お皿に乗せる時に一部をアルミホイルで包んでみてね。
本日のメニューは、似非ハムフレンチトーストにサラダセット、オニオンコンソメスープ、そしてオレンジジュース。うん……贅沢?
「すっごく美味しそうですね!」
瞳を輝かせて、彼女は食器をそろえた。高校男児の夕食って、こういうイメージではないのだが……まぁ、たまにはいいか。
着席。外の雨は相変わらず窓をたたくように降り続けている。
「突然のことなのに、ここまでご用意して頂き、本当にありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げて、しかし「痛っー」と唸って頭を押さえた。
ここで笑ってしまっては駄目だな。
「どういたしまして。沙耶香さんに大怪我が無くてよかった。そしてこの出会いも何かの縁、堅苦しいのは止めにしましょう」
たぶん、それなりに、それっぽく紳士的なまとめ方だったと思う。
「それでは」
「「いただきます」」
作者はこう言った。
――私ならばもうちょっと美味しく作れる。
……果たして、それを信じる人が何人居るのだろうか。