第一章「自由落下の来訪者」第三話
第一章
「自由落下の来訪者」
第三話
ゆっくりと持ち上がる瞼から見えたのは、茶色の瞳。
意識がはっきりしていないのか、視線はあっちへ、こっちへと泳ぎ続けている。
そして、ふと視線が合う。
「……大丈夫ですか?」
声をかけてみた。俺は、僅かな緊張を覚えていた。見ず知らずの女性と話すというのは、本当に緊張する。しかし、視線が合ったまま、反応がない。
「落ち着いて。いま、頭を冷やしています、動かないで下さい」
極力優しく言ったつもりだった。でも、ぶっきらぼうに聞こえたのかもしれない。飛翔乙女の右手がゆっくりと持ち上がり、俺の持っている即席氷嚢に触れ、ビニール袋が音をたてる。手から伝わる感触からして、氷嚢の中身は半分以上が水になってしまっているだろう。しかし、カラカラと氷の擦れる音もある。まだ、その役割は果たしているはずだ。
「あり……がとう……ございます……」
掠れた、しかしよく通る声。少し前から窓ガラスを叩く、鬱陶しい雨音に掻き消されなかった。声を聞くことが出来ただけでも、とりあえずほっとする。
「どういたしまして。頭を強く打ったみたいだけど……救急車か病院、必要ですか?」
「いえ、だいじょ……っ!」
反射的に頭を動かした彼女は苦悶の表情を見せて喋るのを止め、振り上げられた彼女の腕は、力無く掛けられている毛布の上に落ちた。これは、思っていたよりもひどい状態なのかもしれない。本当に救急車は不要なのかと訊き直してみたが、不要だと彼女は答えた。
再び、静寂が訪れた。窓を叩く雨音は相変わらずであったが、会話はそのまま途切れてしまった。氷嚢を持つ腕を変えながら、彼女……飛翔乙女の様子を、それとなく見る。目を閉じたままだったが、彼女は寝ても気を失ってもいない。ちゃんと起きている。時折、目がうっすらと開いて、あたりの様子を見ている。うっかり視線が合うと、ばつが悪そうに目を閉じてしまう。
その素振り、なんだか叱られた子犬のようだな、なんて変なことを考えてしまった。
ちょっと失礼、と一言断って、ゆっくりと毛布の中に手を入れてみた。温かい。そっと手を触れると、彼女は手を引っ込めてしまった。別に、何をする訳でもないんだが……まぁ、いい。
「良かった。体温は戻ってきているね。氷嚢、新しいものにするからちょっと待っていて」
ゆっくりと氷嚢を持ち上げて、彼女の前髪を少し持ち上げてみた。こぶは相変わらず派手だが、そこまで酷そうには見えない。頭の怪我、というより首から上の怪我は、見た目より大袈裟に見える、と友人から聞いたことがある。曰く、例えば額や頭皮にちょっとした切り傷が出来た程度でも、洒落にならないような出血が起きる『ように見える』とかなんとか。血管が多い上に、血流も多く、流れる血液が『頭部から』ということも相まって、激しい出血のように感じてしまうからとかなんとか。
立ち上がり、居室から台所へ続く引き戸を開ける。照明のスイッチを押すと、いつもの見慣れた台所が無機質な白い蛍光灯の光で覆われた。まるで、急に現実に戻されたかのような錯覚に襲われる。いや、これは間違いなく現実だ。なぜなら……ふり返ってみれば、彼女はちゃんと居る。こちらをじっと見ている。うん、現実だよ。
不安なのか、興味なのか。なんとも形容しがたい視線に、僅かな笑顔で応えた。
さて。氷嚢を作り直さないと。
まず、包んであったタオルを剥がして脱衣所に放り投げた。きっと脱衣カゴには入っていないだろうが、面倒だから片付けるのは後でいい。縛ってある持ち手を解き、中に入っていた水をシンクに流す。やはり氷はほとんど溶けてしまっていた。
袋の中身が大体空になったところで、それを一旦横に置いておき、冷凍庫から、氷を取り出す。さっきので半分、これで半分。製氷皿はこれで空になってしまう。製氷皿からビニール袋に氷を出し、……面倒だから水を入れて冷凍庫に入れるのは後でいい。どうせ同じものがもう一つ、冷凍庫に入っているのだから。ズボラのコツはここにある。それは同じものを複数個用意すること。怠惰とは予め買うことで得られるものだ。
さて、袋に適量、水を注ぐ。軽く揉んで、冷えを確認。うん、これならいいだろう。袋の口を、もう一度しっかりと縛り直した。そして、干してあったタオルを一枚とって巻きつける。はい、完成、と。
台所の灯りを消して、居室へ。引き戸を閉めて、窓辺を見る。彼女は目を閉じていた。
「新しい氷嚢、乗せるよ?」
こくり、と頷いたのを確認してから、静かに氷嚢を額へ乗せた。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません……」
力ない声。しかし、たどたどしさが無くなってきている。かなり安心した。
「あー、まぁ、こちらも状況がよく分からない状態だから、動けるようになるまでそういうのは一旦ナシで」
こくり。
「まぁ、何かの縁だし、まずは自己紹介だけ。俺は、間宮覚。あなたは?」
少しの間。
「竹下……沙耶香です」
「竹下さん、えぇっと……とりあえず今日は布団を貸すから、泊まっていくといいよ。事情は明朝聞くってことで」
……え、いや、ちょっと待ってくれ、俺の口。突然何を言っているんだ、おい。
ああ、ほら見たことか。竹下さん驚いているじゃないか。
「男と二人、同じ部屋っていうのは抵抗あるかもしれないけれど、そんな状態で帰宅は無理があると思う。まぁ、えっと、決して綺麗といえる部屋ではないけどさ……」
こら、黙れ。勝手に喋るな。その口ぶりでは、まるで狼にならない言い訳をしているようじゃないか。
「……あの」
ぎくりとした。まさかこの間で割り込まれるとは。
恐る恐る視線を落とすと、彼女はこちらを見ていた。その瞳は妙に澄んでいて、まるで俺を計るような。
じっとこちらを見て、一言。
「ありがとうございます……お邪魔します……」
やっと笑顔を見せてくれた。
なんだか、ちょっと嬉しくなった。何故だろう。
「それで……ちょっと……お願いしたいことがあるのですが……」
「うん?」
「流石に、このままの格好で眠るのは申し訳無いので……」
「あ、そうか……」
彼女は上下スーツのまま、しかもストッキングも履いたままだ。
とすると、着替えか、風呂か……困ったな。いや、ちょっと待て。せっかく頭を冷やしているのに、熱にあてられて風呂場で倒れられたりしたら尚のこと困る。そっちは一旦我慢して貰おう。とすると着替え、か。
「うーん……失礼だけれど身長、いくつ?」
「百六十四センチです」
彼女は俺の考えていることを、すぐに察してくれたらしい。百六十四センチメートル。女性としては高めな身長、なのかな。自分が百七十センチメートルを少し上回る程度だから、ちょっと小さい服があれば貸せる、かな?
右手に持っていた氷嚢を左手に持ち替えて、少し考えてみよう。ズボラモード、オフ。
現在から、高校に入った時までの記憶の海を遡り、部屋の中にあるはずの服を照らし合わせる。中学生や高校生というのは当然成長期であり、服のサイズが一年で変わることもあった。そんな中から、彼女に着られそうな服を思い出す。
ちょっと失礼な行動だが、彼女の首から下を見る。毛布が被っているとはいえ、身体のラインは何となく察しがつく。エクセレント。……いや、そうじゃなくて。
何かが頭の中で引っ掛かった。そうか、服を上下で分けた場合、上のほうはそれなりになんとかなる。男性と女性の体型差を考えれば分かる。デザイン上ぴったりの服でなければ、そもそも服は余裕があるように出来ている。だから、おおよそのサイズが合っていれば極端に考慮する必要がない。上は丈と肩幅、下は腰周りか。
腰上は……丈は多少長くても良い。むしろ厄介なのは肩幅か。男性と女性ではそれが決定的に違うはず。そもそも男性用と女性用では服のサイズ表記どころか、この要素が結構違うはず。今、自分が着ているようなシャツでは「肩幅が大きすぎ」で、「袖がぶかぶか」で、「丈が長すぎる」と思う。まだ夏服だから、袖に関してはそこまで考えなくても良い。
とすると、ワンサイズ小さい服で、柔軟性があるような服が良い。
次は下。女性の場合、ウエストの細さがある。男性の服との決定的な違いは恐らくそこかな。下手すると、ワンサイズ程度、大きさを落として考えなければいけない。
「……あ。良さそうなものが、あるかも?」
ちょっとこれ持ってて、と彼女に氷嚢を持って貰う。
タンスの前に立って記憶を手繰り寄せ、一番下の引き出しを開ける。中に、左右に分けて衣類圧縮袋に入った服があった。この袋は『何故か』……これ強調ね、何故か妹が持ってきたもので、着ないだろうと詰め込んだのは自分だ。
――確か、右側だったよな?
右側の袋を取り出して、ひっくり返してみた。そこに入っているのは薄手のスウェット。見覚えのある柄だった。これだ。高校入学後に部屋着にするつもりで買って持ってきたが、しばらく経っていざ着てみようかと思ったら小さくなってしまった、ではない、自分が大きくなってしまったから使えなくなったもの。
袋の口を開けた。中の衣類たちが大きく空気を吸い、一気に膨らむ。
……念のため、ゆっくりと袋を押し、その口から「こっそり」匂いを嗅いでみた。色々な服とごっちゃになって圧縮されていたが……うん大丈夫、たぶん男臭くないと思う。
袋の中から引き摺り出してみた。およそ二年振りの再会、ちょっと懐かしい。
上下揃っているから、まずはこれで試してもらおう。
「こんなので、いい?」
振り返って、服を見せた。
彼女は上半身を起こし、服を見て、頷いた。
……面倒だから、衣類圧縮袋を片付けるのは後でいいや。