第一章「自由落下の来訪者」第二話
この物語はフィクションです。登場する地名・人名・団体などの名称はすべて架空のものです。
物語上、残酷な描写が「時々」現れます。ご注意下さい。
料理については自身の経験を基にして物語に組み入れています。……が、同じように作ったところで味の保障はいたしません。
あまりにも現実離れした出来事に、呆然とするしかない。この部屋に飛び込んできたこれは、一体何だ?
外からは人の声がする。事故の音を聞きつけた近隣住民の声だろう。
だが、それよりも先に現状を理解しなくては。
飛んできたそれにゆっくり近づいてみると、人だった。真っ黒でよく分からなかったけど、女性だ。年齢は二十歳程に見える。
白くて端整な顔立ち。だけど、黒スーツに、長い黒髪、黒ストッキング。黒い靴。これでは黒い何かにしか見えないのも頷ける。腕と顔以外、黒だらけ。
しかしなぜ、空から女の子が……じゃない、トラックから女の子がカタパルト……でもない。ええっと、適切な言葉が思い浮かばない。
とにかく、このまま放置しておくわけにもいかないしなぁ。とりあえず起こしてみようか?
「……大丈夫?」
肩を軽く叩く。まったく反応が無い。おい、まさか……死んで……いないよな?
手首を掴んで、脈をとってみる。本来なら首筋で行うべきだろうが、やり方がわからない。手首を使う方法は簡単に出来るが、自分の脈を間違って感じることもあるから注意しなくてはならない。
「脈……あるな」
少女……って歳でもなさそうだから、飛翔乙女と一時的に呼ぶことにしよう。飛翔乙女の顔に耳を近づけた。息もある。
呼吸もあるし、脈もある。そのことにとりあえず、安堵した。部屋に落ちてきたのは死体でした、なんて洒落にならん。
ふと、掴んでいた手の感覚に気がついた。冷たい。反対の手に触れてみると、やはり冷たい。明らかに体温が低い。額にそっと手をかざすと、そちらは少し熱い。指先に伝わる感覚は、変な膨らみ。
僅かなコブが出来ていた。
一度深呼吸。大きく深呼吸。
オーケー、改めて状況を整理しよう。女性が部屋に落ちてきた。その直前にトラックから射出された……? いやまて、その表現は色々おかしい。が、そういった類の状況としか言いようがない。ええと、その直前にトラックの荷台が歪んで……ああいや、面倒だからこれについて考えるのはやっぱり中止。
とすると、次の問題は、救急車を呼ぶべきか否か。
意識なし、脈あり、呼吸あり。だが、この状況をどう説明すればいいんだ。とにかく分からないことだらけだ。
「はい、消防です。火事ですか? 救急ですか?」
「あの、救急お願いします。女性が窓の外から室内に自由落下してきたのですが」
……駄目だこりゃ。イタズラ電話と思われる。現実的に考えれば考えるほど、面倒になりそうな予感がいっぱい。
よし、決めた。しばらく様子を見よう。昔習った応急救護を思い出せ。
……まず、額にコブが出来ているのが気になるから、ゆっくりと仰向けに倒してみよう。もし脳震盪でも起こしていたら動かさないほうがいいだろうけど、冷やすことも肝心。粉砕されたラップトップを一旦横へ片付けて、頭と背中を左腕で支えながら軽く肩を押すと、飛翔乙女は呆気なく仰向けになった。よし。
静かに、丁寧に、飛翔乙女の背中から腕を回して、ゆっくりと布団の上に引き摺らせてもらう。頭を極力動かさないように気をつけながら。腕に何か柔らかいものが当たるけど、気にしないことにした。しかし、意識のない間は軽い人でも重くなる、というのは事実らしい。悪い表現かもしれないけれど、まるで水風船を中にいっぱいに詰め込まれたぬいぐるみのような印象。ぐにょぐにょしていて動かし辛い。
適当なビニール袋に冷凍庫から取り出した氷を詰めて、水を足し、空気を抜いて口を縛る。直接当てていると不味いから、タオルで包むことにしよう。あと、身体の冷えが気になるから、押入れにしまってある毛布を取り出す。ちゃんと洗って干してからしまったものだから、大丈夫だろう。
突然、強い雨が降ってきた。続く雷鳴。あわてて窓を閉めた。
布団の上で力なく倒れている飛翔乙女に、そっと毛布をかける。靴を履いたままだが、無理に脱がさないほうが良いかもしれない。傍に座って、額に氷嚢を当ててやる。ぴくりとも動かないのは正直心配だが、呼吸に合わせて胸が上下しているのが救いだ。
片手が疲れたら持ち替えて、また片手が疲れたら持ち替えて。ひたすらそれを繰り返す。時々、毛布の中に手を突っ込んで腕に触れる。体温は戻ってきている。
混乱から覚めてくると、僅かな下心が勝手に眼球を動かす。毛布の隙間から覗く、すらりとした脚。呼吸に合わせて上下する胸部、体温を確認するためだと言い聞かせて触れる手や腕の柔らかさ。閉じられた瞳、柔らかそうな唇。……男は狼だ、とは、昔誰かが歌っていたか、言っていたな。まさしくその通りだろう。
草食系とか肉食系とか、女子力が、等とメディアが騒ぎ立てて久しいが、簡単な話、それは人間の本能に関わる部分だ。もっと言うなら、自然淘汰の残り滓。激しい生存競争や繁殖の機会の奪い合いといった、少しだけ前の世代の生物だった頃の名残。
だが、部屋の中、女性とふたり、外は雨。本物の聖人君子か紳士か、あるいは仙人でもなければ、こういう状況で「意識しない」なんて有り得ない。さっきから僅かに甘いような香りが漂ってくるような気がして、どうにも落ち着かない。
そわそわしながら時計を見ると、時刻は午後九時前だった。時間の感覚が希薄だが、おそらく三十分、もしくは一時間近く経ったと思う。氷嚢を保持したまま、もう一度肩を叩いてみる。
これで起きなければ、救急車を呼ぶしかあるまい。
「……おーい、大丈夫かー?」
ぅぅ、と小さな呻き声と共に、飛翔乙女はゆっくりと瞳を開けた。