第三章「昼と夜」第三話
明朝……という表現が正しいかどうかは分からないが。
日曜の昼前、懸案事項となっていた買い物に出掛けることになった。
ヒューズというものは消耗品である。切れたらそれで捨てるしかない。繋ぎ合わせて使うということは出来ない。
消耗品だからといって、ちょっとその辺で買えるというものでもない。一般家庭にブレーカーが導入されてから、ヒューズというものはすっかり出番が少なくなってしまった。工場などでは未だに結構使われているようだが、うちは工場ではないし、そういったものの取引先もない。
ただの学生なのだ、そしてただのボロアパートの一室なのだ。当然である。
自転車に乗って駅に行き、そこからさらに電車で二駅。
電車を降りて徒歩数分のところにある電気屋で、いつもヒューズを買っている。
第三章
「昼と夜」
第三話
商店街の中にある、こじんまりとした電気屋。量販店のように新商品が並ぶ店ではないが、昔からよく使われるものは、大体揃っているお店である。
この薄利多売の時代において小型店舗というものは、価格競争という点において非常に劣性を強いられていることは想像に難しくない。だが、小型店舗にも強みがある。それは「フットワークの軽さ」である。
大型量販店では到底真似できない、身軽さがある。
簡単に言うと、助けられたのだ。
ある時、何かの拍子に部屋の電気が止まってしまった。電気代の支払いを忘れたわけでもなく、ヒューズが切れたわけでもなく。とにかく事故が起きてはいけないとブレーカーとナイフスイッチを切り、慌てて点検をお願いできる店がないかと探し回ったものの、アパートの近くの電気屋はまさしく「電化製品の販売」が主体で、修理や点検などを引き受けて貰えなかったのだ。販売はするけど修理や設置は業者さんに任せている、という話。最終的には、電力会社に連絡してください、とだけ言われた。
勿論それは考えたが、今後のことを考え、街……というより商店街というべきか……商店街まで出てきて直感的に入ったのがこの店だった。神谷電気店。家電製品やLEDや電光掲示板でテカテカなお店ではない、ちょっと古ぼけた感じのお店だった。
本当に、なんとなく、ではあったのだが。こういう店なら、店主が電気工事くらい出来るだろう、と。そしてその勘は正しかった。
店主のおじさん、髭のナイスミドルは「分かった、診てみよう」と家族に店番を任せて、工具機材一式と俺を車に積み込み、アパートまで来てくれたのだ。
チェックしてみたところ停電の理由は単純で、ジョイントボックス内での断線だった。とにかく古い建物な上に、建築ラッシュな時代に量産的に建造された建物だったためか、電線工事に使われている部材が劣化していた。レアケースらしいが、圧着端子が割れ、電線と電線の接続点が外れてしまっていた。
ジョイントボックス内の古い端子をすべて取り除き、新しい端子を取り付け、みごと復旧させてくれたのだ。さらにその時、ヒューズのスペアも二本、サービスで置いていってくれた。出張費と点検工事費を支払うことになったものの、しかしこういったところが町の電気屋さんの強みであると強く思い知った。以来、何か困った時は必ずこのお店を使うようにしている。そして今回も利用するのである。
「こんちはー」
店のドアを開けて、レジ近くに座る店主に声を掛ける。
髭のナイスミドル……某配管工を思い出してしまいそうな感じの店主は何かの機械から顔を上げ、こちらを見る。
「いらっしゃい。……おぉ、間宮君ではないか。久しぶりだね」
のんびりと喋る店主。柔和な表情と、がっちりとした「手」が対照的である。弱冷房の店内で、きっとまた壊れた機械の修理でもしていたのであろう。
いつも通りである。
何度来ても、彼、つまり店主は、何かを修理している。
「お久しぶりです。今日も修理ですか?」
レジの脇には大きな机。電気関係の工具やら部品が整然と並んでいる。だがしかし決して散らかってはいない。これがプロの仕事の仕方なのだろう。
「うむ、今は真空管ラジオを修理している。戦争を生き延びた貴重品だ。今、ラジオを作るならポケットサイズでこれ以上の性能だが……これは半世紀以上前の品だから、なかなか手強くてね」
「そういうラジオ、テレビで見たことがあります。可愛いですよね」
可愛い、という言い方をしてしまったものの、しかしそれ以外の良い言葉が思いつかなかった。丸みのある木製の筐体に大きなスピーカー、やたら重厚そうに見えるスイッチやトグル、ダイヤルは、ある種の温かみを覚える。ゴツい、とか、無駄な大きさ、という感情は抱かない。
「ふむ、なるほど可愛い、か」
失礼、と店主はこちらに一言述べて、煙草に火を着けた。頭上の換気扇のスイッチを入れて、ふう、と煙を吐いて。
「こういった骨董品のようなものを可愛いと表現する男性は珍しい。殆どの人は古いとか……今風に言えばボロい、かな。あとは大きい、とか。まぁ、殆どの人はそういう表現をする。愛好家は懐かしいとか、レトロとかね。可愛いと表現した人はキミが二人目だ。一人目はこのラジオの修理を私に頼んだ女性だよ」
しかし愛くるしい姿だと思うのは、私も同意だよ、と言い、店主はにこにことしながら煙草の灰を灰皿に落とす。
一体どういう人が、このラジオをこの店に預けたのか、とても気になる。骨董品というのは言い過ぎだとも思ったが、多分、かなりの高齢の女性なのではないか、と想像した。大戦前に製造されたものだとするなら、所有者はそれ相応の年齢のはずだ。例外があるとするならば、妹も古いものの収集癖がある……が、電気を使う物まで集めていたかどうかはよく分からない。
「こういった古いモノは、歴史の語り部そのものだ。今でこそラジオは小型化・高性能化し、デジタル化、ワンチップ化まで果たし、これ以上の進化が出来ない程にまで熟成しきっている。だがしかし、この子の世代はその進化の原点に立つものだ。この子からこの国のラジオの歴史が始まったと言っても過言ではない。価値の分かる人に出会えたのは、この子にとって幸せだろうね」
この子、とは修理中のラジオのことを言っているのだろう。店主は余程機嫌を良くしたのか、ずっと微笑み続けてみる。
「まあ、この子の修理ももうすぐ終わりだ。もう製造されていない部品が殆どだから修理より部品探しのほうが手間だったが、部品さえ揃えば、あとは交換と簡単な調整だけ。名残惜しいが、持ち主の手に返してやらねばな」
ぽんぽん、とラジオを優しく叩く。「頑張ってこい」と送り出すかのように。
本当に、この人はいつもこんな感じだ。機械を愛しているというか、古いものを大切にしているというか。
単純にレトロなものが好きというだけではないと思う。所有者の思い出を大切にしている。
誰かが永く使っていたものを修理できることを誇っている。
こういう大人になってみたいと思う。
「おおっと、すまないね、間宮君。用があったここに来たのだろう?」
店主は慌てて煙草の火を消した。そして店内をぐるりと一周し、持って来たものをカウンターの上に並べた。
並べられたものは、自分から見て左から順に、グロースターター、レセップ、ヒューズが二種類の合計四つ。
この店主はいつもこんなことをする。前に尋ねたのだが、店内を回られるのが嫌いというわけではなく、「自分の勘」を鈍らせないためにやっているらしい。
そしてその勘は全く鈍っていないようだ。笑うしかない。
「降参です。今日はヒューズを買いにきました。二十アンペアの丸穴I字のやつですね」
右から二つ目を手に取る。一番右は主幹ナイフスイッチに使う三十アンペアのヒューズだが、これは滅多に切れることがない。ヒューズの代金を払って、箱をポケットに入れた。
箱売りだからといって大量に入っている訳ではなく、普通は四本か五本。業務用ならばもっと大量に入っているのだろうが、一般家庭用ならばこんなものだ。値段も二百円程度なので、別段高価なものでもない。
「もう二年以上経っているのに、覚えていてくれたんですね、うちのヒューズの型番」
「一度部屋の中を見せて貰っているからね。なにより間宮君の部屋は現代においてはやや特殊だ、よく覚えている。このタイミングなら、これらのうちどれか、ということは経験と勘で予測できる」
もっとも四つ並べればひとつくらい、当たりがあるものだ。と付け加えて。
蛍光管や普通の電球を出してこないあたりは流石である。それについて過去に尋ねたことがあるが、「そういうものはコンビニとかで売っているだろう?」と返された。
まるで見透かされているようで最初はびっくりもしたが、何度か来ているうちにすっかり慣れてしまった。いまのところ、勝ったこと――つまり店主の予想を全て外した事――は一度も無い。
うちのような町の電気屋っていうのは、こういうことが出来ないと仕事にならないのさ、と言いながら、店主は残りを元の場所に戻した。
そんな感じで雑談をしつつ買い物をし、折角街に出てきたわけだし、少しくらい他に買い物をしてもいいかな、などと考えたものの、結局何も買い物をせず、ウインドウショッピングじみたこともせず、駅で切符を買って、そのまま改札を通ってしまった。
預金通帳の残高欄が七桁という、高校生らしからぬ小金持ち状態になってはいるもののズボラになる為の買い物もせず、無駄遣いもしないあたりは流石の俺と言うべきか。理由は単純明快。一人暮らしから二人暮らしになったから。どの程度追加費用が必要なのか、まだ分からなくて正直不安だ。
……変な心配をかけたくもないので、所持金が地味に増えていることに関しては両親に言わないことにしておいた。仮に言ったところで仕送りを止められても、まぁあと半年、普通になんとかなるものなのだが、親にすがっておくのも今のうちかもしれないし。
苦笑するしかない。貧乏性じみた部分は、そう簡単に抜けるものではないのだ。閑散としたホームのベンチに座って、電車を待つことにした。
人影は、まばらだ。日曜の昼。通勤通学で電車を使う人は居ない。昼食の時間にも被っているので、ほぼ誰も居ないといっても良い。ふと、昼食をどうしようかと考える。沙耶香さんのことだから、そろそろお腹を空かせて机で突っ伏しているかもしれない。色々と遠慮の無い人、というか魔女なのだが、冷蔵庫を漁ったりしないので、そこは大いに助かる。冷蔵庫の中身を勝手に消費されると料理をするのに非常に都合が悪くなる。告知があった上で消費するのは構わないが、そうでなければ冷蔵庫の中身と直近の食事が破綻する。
勿論それを阻止するため、別の方向から予防策を施している。乙女部屋のデスクの上には浅めの洗濯カゴ並という常軌を逸したサイズの籠を置いておき、その中に徳用大袋お菓子をこれでもかとぎっしり詰め込んであったりするのだ。お菓子の効果は絶大のようで、五日間程度でその籠はカラになる。もし空のまま何もしなかったらどうなるのか、考えたくはない。そろそろ補給用のお菓子を購入せねば。
駅の自動アナウンスが流れ、電車が近付いてきた。電車はガラガラで、所謂「空気輸送」状態だった。平日はそれなりに人が乗っているが、地方私鉄路線な上に乗客の数も少ない曜日と時間帯。すっかり油断してしまった。
……そうだ。ここで、俺はもうちょっと周囲の状況に気を配るべきだった。
乗り込んだのは、三両編成の電車の真ん中。この車両に乗り込む乗客は、俺の他にはいない。
「…………?」
違和感に気付いた。この車両に、誰も乗っていなかった。乗っていない。誰も。俺以外は誰も。俺以外は誰も乗り込まない。
はて。いまホームに入ってきた時、この編成の他の車両には最低でも数人乗っているのは見えた。何故この車両には誰も乗っていないのだろう。少なくとも降りた人はいなかった。
それに気づいたのは、偶然にしては妙な違和感を他所に、ドア横の座席に座って、正面を向いた時だ。視界の上のほうに、見慣れない『それ』があった。
それ。それとはつまり、俺の他の、もうひとりの乗客である。
誰しも一度くらいは電車に乗ったことがあるだろうから、一々細かい説明はしない。しなくても分かるはずだ。
網棚。荷物を載せておくスペースである網棚の上に、寝ている人がいた。
「…………」
スーツ、ヒール、ショートヘア、暑いのにストッキング。女性である。男でその格好は無いだろう。なんだっけ、この行為……D寝台?
思わず左右を見る。前の車両と後の車両に、乗っている他の人は居る。但し、この車両に乗っているのは俺だけで、当然他の乗客は連結部から見えるだけだ。
「…………」
何も言葉が出ない。それが何なのか、一発でピンときてしまったからだ。
……魔女の可能性。いや、十中八九魔女である。
いやそれ魔女じゃあなくて普通に網棚の上で寝てる人じゃあないのか、と思いたかったが、若い女性がこんな場所で、こんな格好で白昼堂々と寝ていれば、いくらなんでも車掌なり他の乗客が気付く筈である。全員これを見て見ぬフリをして他の車両に移ったなんて都合の良い話がある訳が無い。
それよりもさらに重要な事項がある。
この車両に俺以外の誰も乗っていないこと、である。
「…………」
ドアが閉まります、というアナウンスに続けてドアが閉まる。
考える。
考えてみる。偶然にしては出来過ぎである。誰も乗らない車両に、俺しか乗っていない。
そして。推測する。
なぜ、俺は『この場所に座ったのか』。
どうして『座る前に気がつかなかったのか』。
……多分、この状況は『意図的に作り出されている』のだ。
ドアが閉まって、列車が走り出す。
冷房の効いた車内で、背中に冷たい汗が流れる。
誰も居ない車両は偶然そうなったのではなく、『近寄りがたい』ようになっている。どうして座る前に気がつかなかったのか、というのは多分逆で、『座らなければ気がつかない』のだろう。どうしてこの場所に座ったのか、というのはきっと単純で、『そういう風にセッティングされていたから』だと思う。
多重フィルターなのだ、つまりは。そのフィルターを『通り抜けられる』のは同じ分類に属する者……いや、こうなると最早フィルターじゃあないな。罠だ。設置型トラップに近い。
「……ん?」
網棚の上に寝る女性が、こちらに気付いた。寝ぼけ眼の茶色の片瞳が、まっすぐに俺を見る。
視線が交わる。
トラップなのだ。トラップ、つまり罠といわれるものには幾つか種類があることは知っている。
人間に危害を加えるために仕掛けられるものがひとつ。例えば地雷。
動物を捕らえるために仕掛けられるものがひとつ。例えばトラバサミや落とし穴。
侵入者などを知らせるためのものがひとつ。例えば鳴子。
反射的に、本当に反射的に。挨拶の仕草――右手の親指と人差し指を折り、胸の前に手を当てる――をしてしまった。相手がただの女性なら、たぶん意味が通じないだろう。
だが残念なことに、意味が通じてしまったようだ。その魔女は身体を起こした。
思考を止めるな、ひとまず考え続けろ。多分、この方向で合っていると思う。
……この罠は、たぶん複合的な罠なのだろう。特定の種類の人間、つまり「魔女使い」を選定して誘い込み、席に座ると罠を設置した魔女が気付く。自分以外の人が車両に誰も乗っていないのに、立ったまま乗車し続ける人なんてまずいないだろう。
彼女は、ひょいと網棚から飛び降り、音も無く床に着地する。片方の目はウィンクでもするかのように閉じたままだ。濃い茶色のショートヘアを左手でかきわけてから、右手で挨拶の仕草をして、深く一礼して。
しーっ。
人差し指を口の前で立てて「喋るな」の合図をした。何のことかと思ったが、すぐに理解できた。
車内検札、と思ったが違う。鉄道会社の従業員のようだ。魔女は一歩下がって座席に座る。口は噤んだまま、唇に指先を当てて。喋るな、の意思を継続して訴えている。
なんだかよく分からないが、とりあえず黙っていてみようか。
座席に座ったまま、近付いてくる人を見つめる。車両後方から来て、まるでここには誰も居ないかのように通り過ぎていった。そして前方の車両へ移動していった。
「喋っていいよ」
沈黙を破ったのは、当然魔女のほうからだ。
俺は大きく息を吐いた。一体何が起こるのか分からず、そして少々緊張していたからだ。
「今のは……何をしたんだ? そして、日本語分かるのか」
その容姿は明らかに日本人ではない。多分、ヨーロッパ系の人種だ。
魔女は相変わらず閉じた片目のままで微笑んで。
「最初の質問から答えよう。私とあなたが『ここにいない』ように見せていただけ。私は人間に危害を加える魔女ではないから、安心してほしい。次の質問に答えよう。ほとんどの魔女は母国語に加えて、英語、日本語か中国語、あとは欧州のどこかの言語くらいは喋ることができるよ」
座席からゆっくり立ち上がって、魔女は自己紹介をする。
「はじめまして。私は陽光の魔女、サンライズ」