NO.5 ジャム 著 口笛 『Un sifflement』
この町には、昔から小さい草原があって、香野深雪のお気に入りの場所だった。その草原に全高一メートルくらいの岩がひとつだけぽつんと存在していて、昔から気分が落ち込んだ時には、その石の上に座り込んで空を見上げていた。
しかし、最近になって、一人の男が来るようになった。彼の姿を見たのは、これで四回目だ。深雪が行く日は、いつも先に来ていて、石の上に乗って口笛を吹いている。深雪は口笛が吹けないから、上手いかどうかは分からない。だけど、何かの曲を吹いているということは分かった。
諦めて帰ろうとしたとき、方向転換に失敗して、右足を捻って倒れこんだ。派手な音がして、しまったと思った。急いで立ち上がり、帰ろうとするが、右足に激痛が走る。
「あの、大丈夫ですか?」
後ろから男の声が聞こえた。かなり近い、五メートルもない距離だろう。勝手に口から、痛い、という言葉が出てしまい、彼は目の前に来た。
「掴まってください」
彼は手を差し出した。深雪は素直に手を取って立ち上がる。彼の手は冷たい。
「歩けますか?」彼が聞いてきた。
「直ぐには、無理みたいです」深雪は右足首を動かしながら答える。
「捻挫かもしれないですね。家まで送りましょう」
「あ、えっと……、家よりも、あそこの岩に行きたいんですけど」
「分かりました。じゃあ、失礼します」
そう言うと彼は、深雪の身体を持ち上げた。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。いきなりだったので、深雪は抗議をした。初対面でこんなことを、とも思ったし、何より恥ずかしい。誰も見ていないことだけは幸いだ。
「落としたりしませんから、安心してください」
「そういうことじゃなくて……」
一人では、まともに歩けないことは明白だし、彼の答えが面白かったので、深雪は口を閉じることにした。それから岩の上に着いて、痛みが和らぐまで会話をした。
話をすると、いくつかのことが分かった。まず彼はフランスと日本のハーフらしい。これは深雪も同じで、第一印象から、自分と同じ感じがしたのは、当たっていたようだ。やはり、名前も二つあるという。そして、彼がいつも口笛で吹いていた曲は、フランス人の母の持っていたオルゴールの曲だということが分かった。曲名は、風の声。これは彼が和訳したもので、本当の曲名はフランス語だという。彼の口笛の曲が気に入って、深雪も口笛を吹きたくなった。
「口笛って、どうやって吹くの?」深雪はきいた。
「えっと、唇をつぼめて、強く息を吐いてみて」
何回か、お手本を見ながら練習したが、まったく音が出ない。そればかりか、彼が深雪の唇を見て笑い出したため、彼女も釣られて笑い、口笛を吹くどころではない。
「こっち見ちゃ駄目」深雪は自分の顔を手で覆う。
「はいはい」彼は後ろを向く。
背中合わせになった。彼は、手は冷たかったけれど、背中は温かい。冷え性みたいだ、と考えたらまた笑えてきて、全然集中できない。
後ろから口笛が聞こえてくる。
なんとか吹こうと、唇を色んな形につぼめてみる。10回程度、息を吐いていると、ピューと音が出た。
「あ、出来た」
「あともう少し」
一端コツを掴むと、それからは簡単だった。面白いように音が出てきて、直ぐに吹けるようになった。しかし、曲を吹くとなると、まだ練習が必要だった。彼のように音域を操れるようになるには、先が長そうな気がする。不器用な自分に腹が立った。
「そういえば、何で、この場所を知っているの?」
「ここは、母さんがお気に入りの場所だったんだ」
「そうなんだ。私も、ここはお父さんに教えてもらってから、よく来るようになったの」
「ああ、やっぱり……」彼は急に真面目な顔をして、深雪の方を向いた。「深雪、いや、クロエ」
「どうして、私のもう一つの名前を知っているの?」深雪は驚いた。
もう一つの名前は、父と自分しか知らないはずだ。父は誰にも言っていないと聞いたし、深雪自信も、誰にも教えたことはない。
「やっと見つけた。僕はクロエの……、姉さんの種違いの弟なんだ」
「嘘! 変なこと言わないでよ」深雪は俯く。「もう、帰る。助けてくれてありがとう」
「待って姉さん」彼は深雪の手を掴む。
「離して! 聞きたくない!」深雪は叫んだ。
「分かった離すよ」彼は手を離す「だけど、少しでいいから聞いて欲しい」
「少しだけだよ」
「この場所が、母さんのお気に入りの場所って言ったけど、正確には、母さんと母さんの好きだった人の、お気に入りの場所なんだ」彼は言う。「そして、僕の母さんの名前はシャルロット。姉さんの、母親の名前は?」
言葉に詰まる。彼の言っている事と、決して母の事を語らなかった父の態度。すべてが明白で、涙が出てきた。気付くと、深雪は彼に抱きついていた。
「姉さんは、母さんに似て美人だ」