セルロイド
胃の手術が終わって一週間、僕は明日にも退院できることになった。
寝たきりで体を起こすのも億劫だった入院当初に比べ、体調はかなりの割合で元の状態に近づいていた。ちょうどベッドで読む本もなくなってしまった状態でやることもないので、僕は病院内を散策することを思いつき、実行した。
僕が運び込まれたこの病院は都内でも有数の大きさを誇る総合病院で、実に多くの色々な症状の患者が出入りし、また入院していた。しばらく歩いてみて、病棟はどこも同じ作りではあるが、それぞれのフロアや科にはやはりそれぞれに独特の雰囲気があるなと思った。そして病院内というのは体が弱っているときはそうでもないが、健康になればなるほど罰が悪くなるというか、居心地の悪さを感じるものだなと思った。ここでは僕はまるで異邦人のようだった。
「もう自分の病室に帰ろう」そう考え戻ろうとしたその時、僕はすぐ横の病室のプレートにふと目が止まり、そして動けなくなった。そこには『小井土`由紀』と書かれていた。それは十年前、高校を卒業して地元を離れる際に別れた彼女の名前だった。
「私の名字って土の右上に点がついているの。この字は凄く珍しいのよ。日本でも三世帯くらいしかいないんだって。だから私はまさに同姓同名の存在しないオンリーワンなのよ!」
つきあい始めて間もない頃の明るく笑う由紀の姿を僕は思い浮かべた。そしてその懐かしい記憶は僕の治ったはずの胃をきりきりと痛ませた。
十年はとても長い時間だ。「俺には夢がある」と言って地元を飛び出した青年が、現実に押しつぶされ、やりたくもないつまらない仕事を毎日愚痴りながら続けたあげく、その仕事でさえも体を壊してリタイアせざるえなくなる、残酷な時間だ。僕は今すぐにでもその場を逃げ出したくなる衝動に駆られたが、地元に残って暮らしているはずの由紀が遠く離れた都内の病院に入院している異常性、違和感が僕を押し止めた。
立ち去ることも、病室内に入ることできずに僕はその場にしばらくの間立ち尽くした。
「すいません、通りたいのですが・・・」
カートを引いた看護婦が後ろから声をかけてきた。僕が慌てて道を譲ると、看護婦は扉を開けて病室に入っていった。その時ベッドの上で体を起こしていた女性と目があった。
「・・・由紀」
「・・・浩司くん?」
思わず声が漏れた。その女性は記憶から比べるとずいぶん痩せ細っていたが、間違いなく僕の知っている小井土`由紀だった。
「私、不治の病なの」
由紀は冗談めかした口調でこれまでの事を語り始めた。言葉とは裏腹な遠くを見るような達観した目に僕はそれが嘘ではないことを悟った。こういう目をする時彼女はいつも真剣だったり深く悩んだりしていた。それはつきあっていた時に得た経験則だった。何よりも先程看護婦が点滴を代える際に捲られた彼女の腕の異様な痩せ具合と無数の注射の跡が、決して短くはない闘病生活を雄弁に語っていた。
「原因がよく分からない病気なの。何でも脳の作る物質の異常らしくて薬を打たないと体が動かなくなって全身に痛みが走るの。勤め始めて半年後に発病したから・・・もう十年になるのかな?」
「毎日外ばかり見ているの。あそこのベンチに座っている人ほぼ毎年この時期になると骨折して入院してくるのよ。何している人なのか分からないけど、きっとおてんばなのね」
「最近まともに話している人が看護婦さんとお医者さんだけになっちゃた。お父さんもお母さんも私の入院費を稼がなきゃならないから忙しくて、一ヶ月に一度くらいしか顔を出せないし」
由紀は病気の事、そして日々の事を淡々と語った。押しの強い彼女がいつも楽しそうに物事を語り、それを僕が聞いて適当に相づちを打つ。内容の深刻さを抜きにすれば、それは十年前と変わらない僕と由紀の関係だった。
だけど僕は複雑な感情を持たずにはいられなかった。十年という長い闘病生活、それはどれほどの絶望だっただろうか。正体も分からない痛みに夜がくるたび不安を覚え、窓の外の景色しか知らず、両親の重荷になっているだけの自分を常に意識して過ごす毎日。僕にとって十年という歳月は希望や夢なんて所詮は幻であることをつきつけられただけの虚しいものだった。同じ十年という時間、僕以上の虚無を突きつけられてきたであろう彼女が、それでもなお笑っている。その事が僕をひどく混乱させた。
「・・・由紀」
気がつくと僕は由紀を抱きしめてキスをしていた。それはとても強い衝動だった。何故そんなことをしたのか分からなかった。彼女の強さに甘えたかったのか、それとも彼女の弱さを労りたかったのか、その笑顔を健気で愛おしく思ったのか、自分にはないものとして憎らしく思ったのか、僕には判断がつかなかった。ただ彼女を抱きしめたい。そう強く思っての行為だった。
唇を話すと由紀は今日初めて悲しい顔を見せた。そして僕から視線を逸らすように俯いた。
「ごめん・・・。私もう昔みたいには戻れないよ・・・。さっき腕見たでしょう・・・もう抱きしめられる力も残っていないんだ・・・」嗚咽の混じった声で由紀は言った。
「だから・・・やめて」擦れるような声で僕を拒絶した。
僕は自分自身の浅はかな行為に唇を噛んだ。彼女が精一杯強がっていると分かっていながら、根拠も良く分からないまま自分勝手に振る舞った事がとても恥ずかしかった。
僕は何も言えず、彼女から離れた。
ウー・・・と午後の五時を知らせるサイレンが辺りに響いた。気がつくと外はもう夕焼け色に染まっていた。
「面会時間・・・もう終わりだね」
由紀は顔を上げて言った。夕日が差し掛かり、僕にはその表情が泣いているのかどうなのかよく見えなかった。
「私ばっかり勝手に喋っちゃってごめんなさい。私は浩司に会えて凄く嬉しかった。もちろん元気だった頃の事を思い出して辛い部分もあったけど、それ以上に誰かと話がしたかった。私はまだ生きていますと言うことを誰かに伝えたかった。今日はありがとう。そして、バイバイ・・・」
由紀は別れの言葉を言った。
「僕のほうこそ会えて嬉しかった。・・・バイバイ」
僕も別れの言葉で返した。
明日には退院する自分にはもうここにはこないだろう。僕には治る見込みのない彼女を背負えるだけの強さはないし、彼女もまた自分を愛おしく思ってくれるが故に苦労する人が増える重荷に耐える強さがない。だからこれでいい・・・。
僕は振り返られずに病室を出て扉を閉めた。そして自分の病室に帰ろうと歩き出したその時、不意に涙が溢れてきた。しかし、泣くまいと必死に堪えた。
「歯を食い縛ろう、いつかもっと強くなるために」
誰にも聞こえない声で僕は呟いた。それは僕の胸に芽生えた新たな決意だった。
(了)