毒花の夢~駒の私が、愛に溺れたあなたを終わりに導くまで~
宝石の庭~私を過去にするのなら、私もあなたを過去にする~に登場する、王妃のお話です。
またしても長くなってしまいましたが、お時間がある時に、ゆっくりとお楽しみください。
王妃という重責を背負った、一人の女の人生を綴った手記。
テーブルの上に何冊も置かれたそれらは、子どもらしい丸みを帯びた文字から始まり、やがて筆跡が洗練されていくにつれて、その内容もまた、さまざまな感情に満ちていった。
私室の窓際で、穏やかな風に髪を遊ばせながら、彼女は丁寧にページを捲る。
その音だけが、静寂に包まれた室内に小さく響いていた。
文字を辿る美しい灰紫の瞳には、少し前まで宿っていたはずの、暗く濁った感情は見えない。
彼女はただ、思い出に浸るように淡い笑みを浮かべ、好きな香りを漂わせた紅茶へと、静かに手を伸ばした。
***
ヴィオラが幼い頃、ある日を境に、周囲の大人たちは突然ヴィオラに厳しく接するようになった。
それまで子どもらしく、毎日のように両親に甘えていたというのに、急に礼儀作法に厳しくなり、朝から晩まで勉強に追われる日々が始まったのだ。
あまりにも唐突に変わってしまった日常に、幼いヴィオラはひどく傷ついた。
なぜ大人たちが変わってしまったのか、その理由も分からぬまま、一時期は酷く癇癪を起こし、周囲に当たり散らしては叫ぶように泣いていたこともある。
しかし今になって思えば、あの頃すでに大人たちは、ヴィオラを“駒”として王家に送り込むことを決めていたのだろう。
そんな日々を辛いと感じていたある日、普段は寡黙な父が、ひとつの褒美をヴィオラに提案した。
それは幼い彼女の心を、あまりにも容易く掴むものだった。
――勉強机に向かう時間が、少しずつ増えていったのも、その頃からだ。
「お勉強と礼儀作法をがんばれば、お父様がね、ずっと夢だった猫さんをね、飼ってもいいっておっしゃったのよ! 図鑑に載ってたこーんなに大きくて、フカフカの猫さんっ!」
勉強の最中、興奮した様子でペンを振り回しながら教育係にそう告げると、たちまちマナーを窘められた。
それでも彼の顔には、どこか生ぬるい笑顔が浮かんでいた。
この時の彼はきっと、ヴィオラがあまりにも簡単に丸め込まれてしまったことを思い、少しばかり「おバカな子だ」と同情していたのだろう。
そんな幼少期を過ごし、さまざまな知識を蓄えていく中で、ヴィオラのお転婆な振る舞いも、少しずつ矯正されていった。
周囲の人々の変貌に戸惑い、泣いていた日々は過去のものとなり、いつまでも貰えないご褒美のことも、やがて忘れていった。
やがてヴィオラは、淑女として何事も取り繕う術を覚えていく。
元々激しい気性を持つヴィオラは、厳しい教育の中で感情を抑制することをひたすらに教え込まれた。
相手が欲する態度と言葉を選び、培った知識と教養を、もっとも適切なタイミングで披露する。
それらが当たり前だと思えるほど身に付いてしまえば、振る舞いは自然と洗練されていった。
社交界へのデビュタントでは、優雅に羽ばたく蝶を追うかのように、人々の視線はヴィオラを追いかけた。
それからほどなくして、王家の目に留まったヴィオラは王太子との婚約が決まり、王城での妃教育に何ひとつ躓くことなく、婚姻へとたどり着く。
国に存在する公爵家の中でも、常に中立を保ち、国への忠誠を誓ってきた誠実なベラドンナ家は、王家からの信頼も厚かった。
初代王の弟が、ベラドンナ公爵家の初代当主であるという、深い縁もある。
確かな血筋。
誠実な家柄。
そして何より、完璧と評されるほどに聡明で美しい娘。
王太子の婚約者としてヴィオラが選ばれるのは必然であり、周囲からの反対は、ほとんど存在しなかった。
「いいか。王太子が、王に続く愚者であった時は――お前が、すべてを終わらせるのだ」
「……はい、お父様」
「しかし、むやみに事を急いてはならん。どれほど時間がかかろうとも、状況を見極め、着実に進めるのだ。……頑張りなさい」
「はい。――必ず、成してみせますわ」
王家に嫁ぐ前夜、ヴィオラに、ベラドンナ公爵家当主である父が投げかけたのは、決して祝いの言葉ではなかった。
それは、ゆっくりと、しかし確実に身に染み込んでいく――毒であった。
この頃になると、ヴィオラは、自分の置かれている状況や、ベラドンナ公爵家が抱える裏の顔について、すでにきちんと理解していた。
この婚姻こそが、ベラドンナ公爵家が王家に放つ、遅効性の毒なのだと。
ヴィオラの政略結婚における最大の要因は、王の代から始まった、王家の堕落にある。
王位に就く以前は、聡明で評判も良かったはずの王は、王権という唯一無二の力を手にしたことで、次第に胸奥に潜めていた傲慢さを、露わにしていった。
王権を私的に用い、随分と自由に振る舞い始めた王は、国を想う者よりも、王におもねる者を重用した。
己の周囲を甘言で固め、耳あたりの良い言葉だけを選び取るようになった結果、貴族社会は少しずつ歪み始めていく。
やがて、その皺寄せが民へと及ぶのは時間の問題であった。
長きにわたり中立を保ち、静観を貫いてきたベラドンナ家は、ついに、本来の役目を負うこととなる。
王家が正道から外れた時には、その身を以て、国の安寧を図ること――それは、建国の時代に、兄弟である初代王とベラドンナ公爵家初代当主とが密かに交わした契約であった。
たとえ、どのような手を使おうとも。
国を揺らす者には、相応の報いを。
本来であれば、そのまま眠らせておけばよかったものを――王の浅慮な振る舞いが、建国の時代より続く、「忠誠」という名の化け物を、呼び覚ましてしまったのだ。
それが、自身の破滅を招くことになるとも、知らぬままに。
***
ヴィオラ・ベラドンナから、ヴィオラ・リラ・アマレスクとなって、随分と時が経った。
婚姻した王太子ジュードは、艶やかな金髪と、蒼穹を嵌め込んだような瞳を持つ、美しい男だった。
今はまだ王太子の身だが、すでに世継ぎとなる王子たちも生まれており、近いうちに満を持して戴冠式を迎えることとなっている。
傲慢に振る舞う王とは違い、その穏やかで優しい気性は、厳しい大人に囲まれて育ったヴィオラにとって新鮮に映った。
出会った当初は、この政略結婚も悪くはないとさえ思っていたのだ。
――ジュードが、国を揺るがす愚か者でさえなければ、このまま何もせず、穏やかに婚姻生活を送れるかもしれない、と。
しかし、穏やかで優しいということが、必ずしも良いとは限らないのだと、この婚姻生活を通じて、ヴィオラは身に染みて知ることになる。
今は亡き王妃の面影を色濃く受け継いだ、美しい蒼穹の瞳を持つ王子は、一人息子を溺愛する王と、甘い汁を啜るために集まった王の側近たちによって、徹底的に傀儡の王として育てられていた。
これまで周囲がすべてをお膳立てしてきた結果、彼は自分の意見を持てず、甘言に流されやすい。
高等教育を受けているため、人並み以上に勉学はできるが、それを応用することは苦手としていた。
何事にも人に意見を乞う姿勢そのものは立派だが、そうして得た成果を、あたかも自分のもののように振る舞うあたりは、傲慢な王譲りと言えるだろうか。
ヴィオラがその都度、各所へと取り成さなければ、ジュードの戴冠は、貴族たちの反対によって、随分と先延ばしになっていただろう。
ジュードのもとへ輿入れしてからは、彼の仕事を支えつつ、自身に割り当てられた公務や政務をこなす日々が続いた。
公的な社交、市民たちとの交流、そしてさまざまな慈善事業。
いずれ王妃としてジュードの隣に立つことで担うはずの政務を、亡き王妃に代わり、早々に引き継いでこなしていく。
時間があれば各部署の執務室に足を運び、積み上がる書類に目を通しながら、その中に見え隠れする、王に集る虫たちの欲望を、気取られぬ程度に一つ一つ潰していった。
そうすることで、順調に味方を増やせること自体は悪くない。
だが、彼が王となった後に、さらに背負うことになるであろう負担を思えば、素直に喜べない気持ちもあった。
ヴィオラは、彼と出会ったとき、穏やかで優しい人物だと感じていた。
だが、実際は――頼りなく、優柔不断と言った方が正しいだろう。
とにかく、今のヴィオラから見たジュードは、間違いなく玉座に相応しい男ではなくなっていた。
***
それは、戴冠式を数日後に控えた、とある日の昼下がり。
久方ぶりに訪れた、夫婦水入らずの時間であった。
「ヴィオラ……近々、側室を娶ろうと思う」
「……ジュード様、すでに王家を継ぐ男児はおります。この間生まれたばかりの赤子も身体に問題のない男児です。これ以上、世継ぎは必要ないでしょう。不要な争いの火種になるだけですわ」
「いや、そういうものではなくてな。君にはずっと言えなかったのだが……私には、心から愛する人がいるのだ」
互いに抱える公務や、王子妃宮で健やかに育つ子供たちの世話などに追われ、こうして二人きりで過ごす時間は、めっきり無くなっていた。
そんな折、珍しくジュードから先触れが届いたのだ。
そしてほどなくして王子妃宮を訪れた彼が発した言葉が、これであった。
どうやらヴィオラが王子妃宮でまだ幼い王子たちと過ごしている間に、彼は別の場所で真実の愛を育んでいたらしい。
すでにベラドンナ公爵家を支持する家の者から報告は受けていたものの、いざ本人の口から、あまりにも軽く語られてしまうと、どう反応すればよいのか分からなくなってしまう。
ヴィオラがいつもと変わらぬ様子のまま、何も言わないことをよいことに、ジュードは愛する人について饒舌に語り始めた。
「名をアナベラというのだが、ミオソティス商会の娘でな。
お忍びで市井へ降りた際、ヴィオラへの贈り物を探して立ち寄った店で、声をかけてくれたのが彼女だった。
あまりにも迷っていたからと、純粋な親切心で声をかけてくれたらしいのだが、彼女は商会の娘だけあって審美眼は確かで、話題も豊富で相手を飽きさせない手腕を持っている。
話している時も、表情が面白いほどくるくると変わるのだよ。私の周囲にはいなかったような、天真爛漫な女性で……その後も何度か会っているうちに、彼女に惹かれていった」
ジュードはそう語りながら、アナベラの笑顔を思い描いているのだろう。
その表情は、ヴィオラがこれまで見たことのないほど柔らかく、輝かしい感情に満ちていた。
その、あまりにも幸福を象徴するような笑みに、ヴィオラの胸の奥に、ぽつりと黒い染みが滲む。
それは自身の女としての矜持を踏みにじられたからか、それとも彼の世継ぎを生むことで感じていた、家族としての意識を崩されてしまったからか。
幼いころから彫り込まれていたベラドンナ公爵家の使命を、一瞬でも忘れてしまうほどには、確かに存在していた感情もあった。
これまでの婚姻生活で、ほとんど残滓といえるほど小さくなったそれを、ジュードはこの瞬間、笑顔で踏み潰した。
けして悪びれることもなく、妻であるヴィオラの前で、別の女への愛の賛辞をそらんじる。
真実の愛がどれほど尊いのかを、滔々と語って聞かせるジュードに、ヴィオラは小さく息を吐いて、言葉を遮るように口を開いた。
「確かに、ミオソティス商会はこの国でも名の知れた商会です。しかし、平民であるその娘を戴冠前の王太子が側室として召し上げるなど、年頃の娘を抱えた貴族たちに不満が募りましょう。……本当に迎え入れたいとおっしゃるのであれば、側室ではなく、妾になさいませ。国の責務を負わぬ妾であれば、どこかの屋敷に囲い、子を成さぬ限り、貴族たちからの圧力も避けられましょう」
ヴィオラの言葉を不快に思ったのか、ジュードの表情は一気に曇り、眉間に深い皺が寄る。
「アナベラに、日陰の存在となれと……。あれほど才気溢れた女性に、側室が務まらないと申すのか」
「わたくしは、アナベラ様を存じ上げません。たとえどのような才能をお持ちであれ、市井の常識と貴族の常識は、まったく異なります。持つべき教養も、求められる才能や努力も、市井で培ってきたものとは別物でしょう。わたくしも公爵家にて相応の教育を受け、さらに王城で妃教育を受けてまいりました。それほどの時を国に捧げてもなお、足りぬと感じることがございます。……商家の娘が側室となるのであれば、わたくしと同じものとまでは申さずとも、相応の教育は必要になるでしょう。あなたの知る彼女は、それに耐えられますか」
「もちろん、アナベラも承知の上だ。それでも私と共にありたいと、すでに覚悟を決めている。私も、彼女を支えるつもりだ」
ジュードの言葉に、ヴィオラは手にしていた扇で口元を隠し、冷笑を漏らす。
「ふふっ……支える、ですか。支える必要のある者を、やすやすと王家に迎え入れるなど、随分とおかしなことをおっしゃるのですね?わたくしが受けてきた妃教育では、王族の一員となるからには完璧であれと――それは徹底的に教え込まれたものですけれど」
「君の立場ならそうだろうが、彼女は違うっ!」
「当たり前でしょう?それが身分の差というものなのですから。ですから、貴族と平民という生まれが違う時点で、彼女には到底、王の妃など務まりません。……これほど言っても、まだ、お分かりにならないのですか」
言葉を荒げることはしなくとも、その声は随分と冷え切り、まるで地の底を這うように低い。
持っていた扇が軋むほど強く握りしめながら、ヴィオラはジュードを強い眼差しで見つめ返した。
ジュードの浅慮な言葉を耳にするたび、沸き上がるマグマのような感情が、ヴィオラの体内を無遠慮に這いずり回る。
昔のように声を上げ、感情のままに喚いてしまいたくても、これまで培ってきたすべてが、その衝動を押しとどめてしまう。
ヴィオラの内に生まれた醜い感情が冷静な思考をかき乱していても、それでも身体は、淑女としての体裁を崩すことを許さなかった。
――彼女を支えるつもりだ。
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオラの胸に真っ先に湧き上がったのは、深い怒りだった。
支えられるべきなのは、その女ではない。国と、民と、そして国の根幹を担うヴィオラと二人の子供たちのはずだ。
王という存在にすべてを背負わせるわけではないが、地位には相応の責任がある。
そしてそれに伴う体裁も必要だというのに、彼は戴冠もしていない状態で他の女を囲い、真実の愛を貫きたいと言ったのだ。
それになにより、自身の妻への贈り物を、まったく知らぬ女に選ばせた挙げ句、その女に惹かれたと平然と口にすることがどれほどヴィオラにとって屈辱であるか。
ヴィオラが王族の一員となるために、何を捨て、どれほどのものを積み重ねてきたか――そのすべてを、ジュードは意に介さぬかのように脇へと放り投げ、自分の幸せだけを掴み取ろうとしている。
まるでヴィオラの存在など、すでに不要であるかのように。
ジュードの描く「幸せ」の中から、ヴィオラも、子供たちも完全に弾き出されてしまっていることを、彼女ははっきりと悟った。
しばらくの沈黙が、部屋を包み込む。
張り詰めた静寂の中、ヴィオラの様子を窺うジュードの視線が煩わしく、彼女は怒りを押さえつけるように目を瞑ると、そのまま顔をジュードから逸らした。
「……あなたの中では、すでに結論が出ているのですね。あなたはただ、わたくしに報告にいらしただけ。これ以上わたくしが言葉を重ねたところで、何かが変わるわけでもないのでしたら――もう、言葉は不要でしょう」
一拍置いて、ヴィオラは淡々と続ける。
「どうぞ、後のことはご自身でお決めになってくださいませ。この件に関しまして、わたくしは一切関わりません」
ヴィオラの主張に、ジュードは礼節を忘れたまま、ガタリと席を立った。
その拍子に、テーブルの上の紅茶が大きく波打ち、縁から溢れてソーサーを汚す。
「それは駄目だ!……確かに、身分の低さゆえに貴族たちの反発もあるだろう。それを、どうにか君に抑えてほしいのだ。どこかの家に養子として入り、王家に迎え入れれば、多少は反発も和らぐだろうが……血筋にこだわる者は多い。アナベラは、貴族の血を一切引かぬ平民だ。……だから、君が!」
「お断りいたします」
ヴィオラは即座に言い切り、感情を交えぬまま、淡々と告げた。
「どうぞ、お帰りくださいませ」
ヴィオラは椅子から立ち上がることもなく、扇で扉を指し示して退出を促した。
その凍てつくような眼差しに、ジュードもそれ以上言葉を重ねることはなく、小さく息を吐いてから、大人しく宮を去っていく。
彼自身も、感じていたのだろう。己の言葉と要求が、どれほど相手を不快にさせるものであったのかを。
「……あの人、子供たちのことなど、まるで忘れているみたいに振る舞うのね」
ジュードとの間に生まれた、二人の息子。
第一王子のヘザーと、生まれて間もない第二王子のシオン。
まだ二人とも幼く、人の手を借りねば生きてはいけないほど、儚い存在。
ヴィオラは、この宮の別室で、すやすやと眠っているであろう子供たちを想う。
ヘザーもシオンも、柔らかな頬に触れれば、ヴィオラの指に小花のような柔らかく温かな手がキュッと絡んで、それは愛らしく笑うのだ。
彼はそんな愛らしい子供たちに会いに行くどころか、その安否すらも聞こうとはしなかった。
子供たちの父親が、いったい誰なのか。
――言うまでもなく、ジュードに決まっているというのに。
彼は、父親であることにも、そして近い未来に王となることにも、何ひとつ自覚を持っていなかった。
真実の愛という目先のものに囚われ、己が何を背負っているのかさえ自覚しないまま、国の頂に立つ。
「……そんなの、許せるはずがないわ」
一人きりの室内に零れたのは、誰に向けられるわけでもない呟きだった。
「わたくしは、ベラドンナ公爵家の駒であっても、王家の踏み台ではない。――このままで済ませてなるものですか」
王家に嫁ぐにあたり、常に完璧であることを求められてきた。
ベラドンナ公爵家で施されてきた教育も、それを見越したうえでの、厳しいものだったのだろうと、今では理解している。
常に王を立てよ。
感情を乱さず、冷静であれ。
そして最大限、王の役に立ちなさい――。
王城で妃教育を受けるたび、幾度となく繰り返し聞かされた言葉だ。
自らの人生を、その教えに捧げてきたとはいえ、それを守るのであれば、ヴィオラは王となるジュードの役に立たねばならないのだろう。
アナベラの側室入りを認め、貴族たちの反発を抑え、二人が過ごしやすいように取り計らう。
それが、今の王家における――王妃としての役目。
頭でっかちで、とるに足らぬ駒。
隙のないほど磨き上げておきながら、跡継ぎさえ得られれば、あとは用済みとばかりに放り出される存在。
それが、今のヴィオラだった。
王家がヴィオラをそのように扱うのならば、ベラドンナ公爵家の使命を、今一度果たしてみせようではないか。
たとえ幾度、朝と夜を迎えようとも、王家の腐った果実を、必ず落としてみせる。
決して、簒奪とは言わせぬほど――静かに。
ヴィオラは、すっかり冷たくなってしまったティーカップを手に取り、香りの飛んだそれで、唇をわずかに湿らせた。
しかしすぐに顔をしかめ、ハンカチで口元を押さえながら、静かにカップを置く。
そしておもむろにベルを鳴らし、侍女を呼んだ。
ほどなくして入室してきた侍女に、柔らかな笑みを浮かべ、優しく問いかける。
「この紅茶、ブレンドよね? ……どちらからの献上品かしら」
「王子妃様への贈り物として、殿下より直々に届けられたものにございます。ミオソティス商会の勧めで、ご購入されたものだとか」
「そう……」
ヴィオラは目を伏せ、しばし思案する。
やがて再び顔を上げ、穏やかな声のまま続けた。
「悪いけれど、この紅茶は下げて、新しく淹れ直してちょうだい。私の好みではないから、今後は出さないでもらえるかしら。そうね……確か、ベラドンナ公爵家から送られてきた物があるでしょう? その中の――特別、甘い香りのものをお願い」
***
その後、やはりというべきか、ジュードの恋人であるアナベラの扱いについて、開かれた貴族会議では、随分と紛糾した。
身分差を何だと思っているのか、という声もあれば、平民でも嫁ぐことが出来るのなら、下級貴族である自身の娘でもよいだろうと、己の娘を召し上げさせようと画策する者もいた。
大半の貴族たちが反対意見を述べる中、結局は王の勅命によって、強引にアナベラの側室入りが決定する。
ヴィオラは、紛糾する貴族会議を静観しながらも、王族の傲慢ともいえる決定によって、貴族たちの不満と不安が一気に膨れ上がったことを感じ取っていた。
そうしてまた一つ、盤上の駒が進んだ。
***
「母上、あの人はまた、例の別邸に行っているそうですね」
王妃宮の執務室を訪れ、ため息交じりにそう告げたのは、第一王子であるヘザーだった。
その言葉に、ヴィオラは目を通していた書類から顔を上げ、かけていた眼鏡を外すと、眉間を揉みこむ。
「ええ、相変わらず政務を放り出してね。まあ、城内が静かでいいけれど」
「ですが、こうも父上の政務を俺に回されると……さすがに困ります。俺、まだ成人前なんですが……」
ヴィオラと同じ紫黒の髪を煩わしそうにかき上げ、疲れた様子を見せるヘザーに、ヴィオラは申し訳なさが胸に込み上げた。
あれから随分と成長した彼は、かつて小さく頼りなかったその手で、今ではヴィオラの手を包み込めるほどになり、背丈もここ数年でぐっと伸びて、息を呑むほど見栄えのする美しい青年へと育っている。
彼もすでに十六歳となり、来年には成人を迎える。
まだ学園に通い始めたばかりの初々しい学生だというのに、本来であれば担わずともよい政務や公務に追われ、いまだ、まともな学生生活など送れてはいなかった。
父や祖父の在り方を間近で見てきたこともあり、ヘザーには常に周囲の模範となる王子であれと教えてきた。
だが、だからといって、まだ子供の域を出ていない息子を、ここまで働かせてよいものかと、思わぬ日はなかった。
もっとも、ヴィオラ自身もまた、彼と同じような道を一通り歩んできた。
そしてそれが、今になって自身の力となっているのも、また確かだった。
「そこのソファに座りなさい。……母と、少し休憩しましょう」
ヴィオラは手にしていた書類を置くと、使用人に声をかけ、軽食と紅茶を頼んだ。
そして彼の向かい側に腰を下ろし、身内しかいないことをいいことに、ソファに深く沈み込み、ぐったりとしているヘザーを眺める。
膨大な仕事量に、心身ともに疲れているのだろう。
彼の顔色はあまり良いとは言えず、心なしか覇気も感じられなかった。
「……あなたにも、シオンにも、随分と苦労をかけるわね。せめて、共に歩んでくれる婚約者を見つけようとは思っているのだけれど」
「俺は、婚約者なんてまだ必要ありませんよ。こんな父上の尻拭いを、婚約者だからと手伝ってもらうなんて……さすがに、そのためだけに選ばれたと勘違いされるのは嫌です。それに、今決まったとしても、結局は父上に邪魔されるだけでしょう?」
「そうなのよねぇ……」
ヘザーの言葉に、ヴィオラの口からは、自然とため息が漏れた。
本来であれば、第一王子のヘザーも第二王子のシオンも、とっくに縁談が整っているはずだった。
しかしジュードは、公務経験を積んでから、成人してから、帝王学を修了してから――と、もっともらしい理由を並べ立てては、二人の縁談を先延ばしにしてしまう。
そのせいで、王子たちは宙に浮いたような立場に置かれ、縁を結びたいと望んでいた多くの貴族家もまた、身動きの取れない状況にあった。
アナベラの側室入りから、間を置いて授かった待望の子供――第三王子のカイン。
まだ九歳という幼さの彼だけが、すでに後ろ盾を目的とした、政略ありきの婚約者を持っている。
名を、ユーリア・リリィシアム。
リリィシアム公爵家――ベラドンナ公爵家と同程度の権勢を誇る、古くから続く名門公爵家。その長女であり、内気ながらも従順な少女だ。
ただし、厳しくも温かなベラドンナ公爵家とは異なり、リリィシアム公爵家の内情はあまり芳しいとは言えないらしい。
家庭環境に恵まれなかったこともあり、人から向けられる初めての好意に戸惑いながらも、アナベラたちの在り方に理想の家族像を見いだし、密かに憧れを抱いている節があった。
高位貴族たちからすれば、リリィシアム公爵家のような家庭など、たいして珍しくもない。
貴族にとって政略結婚とは、古くから続く当然の制度であり、ヴィオラ自身もまた、それを身を以て経験している。
政略で結ばれる以上、個人の好みなど顧みられず、互いの利益のためだけに夫婦となる。
そこに愛が芽生えるかどうかは、結局のところ本人たちの努力次第だ。
歩み寄り、上手くやっている夫婦も決して少なくはない。
もっとも、ヴィオラたちの場合は、家の思惑や政略、さらには本人同士の相性の悪さなど、そもそも愛を語る以前の問題であったが。
だからこそ、アナベラの在り方は、高位貴族たちにとって鮮烈に映る。
貴族女性特有の張り詰めた雰囲気はなく、どこまでも自由な心と、眩しいほどの無邪気さ――まるで永遠の少女のような女性。
王によって彼女につけられた使用人たちは、ことごとくその妖精のような在り方に心酔し、彼らの家族ごっこを諫めるどころか、微笑ましく見守っているという。
人の懐に入り込むのが上手いのは、ジュードの言っていた商人としての才覚か。それとも、生まれついての人たらしなのか。
ジュードは、そんなアナベラの産んだ最愛の子供に、自身の王冠を授けたいのだ。
同じ血を分けたヘザーやシオンが、どれほど努力を重ねても、一瞥すらくれないというのに。
「当分、その話は進めないでくださいね。余裕がありませんから」
「わかっているわ。どうせ進めようとしても邪魔が入るのなら、別のことに時間を使ったほうが有益ですもの。あなたも大変でしょうけれど、今のうちに、ある程度政務をこなせるようになっておきなさい。いずれ必ず必要になるのだから」
軽食に手を伸ばしながら、淡々と告げるヴィオラに、ヘザーは何かを思案するように黙り込み、ソファにもたせかけていた体を起こして母へと視線を向けた。
「そういえば……少し前から、アナベラ妃が体調を崩しているそうですね」
「えぇ、そうみたいね。随分と、お加減が良くないみたい」
この頃、アナベラは体調を崩しがちになっていた。
はじめは軽い風邪か何かだと思われていたそれは、次第にめまいや動悸、喉の渇きを伴うようになり、酷い時には意識が混濁して起き上がれない日もあるという。
原因はいまだ不明。
王宮医師たちも症状に応じて様々な薬を処方しているようだが、病状は一向に回復していない。
「あの人はこのところ、ずっと別邸で療養しているアナベラ妃にべったりだそうよ。成果の出ない医師たちに当たり散らしているとか。あの人が激昂して、医師たちの首が物理的に飛ぶようなことになっては困るから、彼らの側には万一に備えて騎士を置いているわ」
国の最高権力者に怒鳴られる医師たちには気の毒だが、どうにか耐えてもらうしかない。
「……ねぇ、ヘザー。あなたは知っていて?」
少しの間を置いて、ヘザーに語りかけたヴィオラの声が、二人きりの執務室に静かに響いた。
重く、圧し掛かるような、あまりにも冷たい声色に、ヘザーは思わず息を飲む。
「彼女の好きな菓子、茶葉、アクセサリー、ドレス……。さまざまな物が、ミオソティス商会から“献上品”という名目で、彼女のもとへと届いていたわ。ねぇ、随分と娘想いだと思わないこと?」
「ミオソティス商会は、大商会と言えるほどの規模ですから。彼女を広告塔として利用し、さらに商会の名を広めようとしているのでしょう」
「そうね。一族から王家へ嫁いだという名声を使いたい――それは自然な考えだわ。でもね、わたくしのもとにも、ミオソティス商会から献上品が届くの。“我が娘のアナベラ妃がお好みの品を、ぜひ王妃様にもお楽しみいただきたい”と言ってね」
各地の名産品であったり、これからを担う新たな品であったりと、日々、王宮に届く物は実にさまざまだ。
それらは一つ一つ、危険がないかを確認され、幾重もの検査を経て――初めて、それぞれの王族のもとへと届けられる。
少なくとも、そうあるべきだった。
しかし、国でも名の知れた商家であるという信頼と、側室の実家という大きな肩書が、その重要な検査を簡素なものへと変えてしまった。
「……それが、いったい今の話と、どういう――」
「わたくし、驚いてしまったの」
ヴィオラは、どこか楽しげにそう言った。
「たとえば紅茶なのだけれど、彼女、随分と不思議な“味”を好むのねって。思わず特製のブレンド茶で口直ししてしまったわ。あのようなものを好んで口にするなんて……それは、体調も崩すわけよねぇ。それに、香りのついたキャンドル。灯すと、果物を混ぜたような甘い香りが部屋いっぱいに広がるようにできているのだけど――その香りの中に、随分と苦手な香りが混じっていてね。彼女の好みは、正直、少し理解しがたいわ」
扇を口元に添え、優雅に微笑むヴィオラの仕草だけで、ヘザーは何かを悟り、思わず身体を強張らせた。
点と点が繋がるように、彼女の言葉を切り取り、繋ぎ合わせ――やがて、一つの線として理解する。
「……まさか……」
テーブルに置かれた紅茶へと視線を落としながら、ヘザーはすでに、一つの答えに辿り着いていた。
明確な言葉を口にすることはないまま、ヴィオラは息子へと、ぞっとするほど昏い眼差しを向ける。
「どれも、わたくしの好みではないし……それに、彼女がお好きなものですのに、それを、わたくしが無理に嗜むのは違うでしょう?」
一拍の間を置き、ヴィオラは静かに告げた。
「――だから、彼女に届けたの。“お父様からの素敵な贈り物が紛れておりましたので、お返しいたします”――そう添えてね」
この会話から、それほど間を置かずして、
アナベラ・リラ・アマレスクは、治療の甲斐もなく世界を離れ、永遠の園へと旅立った。
すすり泣く声が、大地を打つ雨音に混じり、静かに溶けていく。
ヴィオラは子供たちと共に、どこまでも続く長い葬儀の列を、嘆き悲しむジュードを、棺に顔を寄せるカインやユーリアを、涙ひとつ落とすことなく、ただ感慨もなく眺めていた。
ジュードを愛し、彼の負う責務を理解したうえで、貴族社会というまったく未知の世界へと飛び込んできたアナベラ。
彼女はジュードの隣に立つため、側室として在り続けるために――その覚悟を示すかのように、ひたむきな努力を重ねていたことを、ヴィオラは知っている。
その純粋で健気な姿に心を打たれ、彼女を支えようと手を貸す者もいた。
そして時には、一途な恋を邪魔する障害を取り除こうとして、一線を越えてしまう者すらいた。
彼女の周囲は、いつも笑みの絶えない幸福で満たされていなければならない――まるで、残酷さと幸福が同居する童話の中の世界のように。
そんな、信仰に近い日々を送る彼らの姿は、ヴィオラの目には、どこか異様に映った。
ヴィオラは、その歪な物語の悪役を押し付けられ、そして、悪役の名に恥じない動きをしてみせた。
この物語は終演へと向かい、彼女はもはや、アナベラの死を悼むことも、目の前で悲嘆にくれるジュードを慰めることもせず、ただその背後で、彼らがこれから辿る末路を想うだけだ。
結局、自身の父が己の欲に負け、いったいどこの貴族に踊らされ、何をしようとしていたのか――それを、アナベラ自身が知っていたのかどうかも、分からない。
ただ、彼女は届けられた品々を疑うことはなかったのだろう。
品の一つ一つに付けられた、真似のできない加工が施された特殊な印。
そう、それはどれも、見覚えのあるミオソティス商会の印が刻まれた品々だったのだから。
それらを手に取りながら、アナベラは何を思っていたのだろう。
家族から贈られた品で、気がつかぬうちに、少しずつ、しかし確かに命を削られながらも――何も知らず、ただ無邪気に、家族の愛を感じていたのだろうか。
物悲しいアナベラの物語は、ここで終わりを告げる。
そして、ほどなくして――
アナベラという広告塔を失ったミオソティス商会は、その勢いを急速に落とし、気がつけば、その名を耳にすることもなくなっていった。
***
理想の家族像は崩れ去り、過去の亡霊に囚われた人々は、時が流れるほどに頑なとなり、今は無き幸福を追い求めては嘆いた。
幸せな日々は、遠ざかるほどに美しく、手が届かぬほどに尊いものへと変わっていくのだ。
あれからというもの、ジュードはアナベラの面影を宿すカインへ、いっそう執着するようになった。
カインを甘やかすことで、在りし日の最愛を思い出しては、己の心を慰める。
その姿はまるで、彼の父――先王そのものだった。
結局彼は、カインの失態を庇おうと無理を重ね、その玉座を愛する子に渡す以前に、自らの愚かさによって遠ざけてしまった。
退位が決まり、身の置き場さえ失った彼のもとへ、ヴィオラはただ一度だけ足を運んだ。
王の私室らしく絢爛な室内は、憔悴しきった彼の頼りなさとは、ひどく不釣り合いだった。
ベッドに力なく腰かけ、手で顔を覆っていたジュードは、ヴィオラの気配に気づくとゆっくりと顔を上げる。
そして彼女の表情に何の感情も浮かんでいないことを悟ると、唸るような声で言った。
「これで、満足か」
その短い問いに、ヴィオラはふっと微笑む。
「えぇ。この上なく」
その短い答えに、ジュードはすべてを察したように自嘲気味に笑った。
そこに、初めて出会った頃の陽だまりのような面影はない。
目の前にいるのは、地位も名誉も失った、ただのひとりの男が、寂しく背中を丸めているだけだった。
「何もかも……君の手のひらの上だったか」
「あなた様が愛に溺れて目を曇らせていなければ、いくらでも気づけたことでしょう。この王宮にベラドンナ公爵家に所縁のある者がどれほどいるか。貴族たちの動向も、世論の流れも、王族として務めさえ果たしていれば、見えてくるものばかりですから」
「怠慢が招いた結果、ということか……。そうだろうな。アナベラのことばかりを気遣い、君も、ヘザーも、シオンも、国さえも……ずっと蔑ろにしてきた。……すまなかった」
「その言葉を口にするには、もう遅すぎますわね」
すべての後処理が終わったあとに差し出される謝罪ほど、空虚なものはない。
ヴィオラが歩んできた人生が消えないように、ジュードもまた、今さら悔いたところで過去をやり直すことなどできないのだ。
「そうそう。わたくし、あなた様にお別れを言いに来ましたの」
「別れ……?」
「えぇ。わたくしも身を引くことにいたしましたが、あなた様と共には参りません。あなた様には、アナベラ様の思い出が詰まった別邸で余生を送っていただきます。よかったですね。これで心置きなく――アナベラ様を想い続けられますわ」
それは、ジュードにとって今までと変わらぬ日常のように思えるだろう。
だが、これからの彼には、好きに振るえる権力もなく、誰かを都合よく頼ることもできない。
その違いが、やがてどのような未来をもたらすのか。
王宮にすべてを置き去りにし、その身ひとつで一途な愛を貫き続ければいい。
すべてを失ってなお貫けるのなら、それを本物の愛と呼んでやろう。
扇で口元を隠し、首をわずかに傾けて、昏く静かに微笑むヴィオラ。
その笑みに、ジュードはひどく動揺し、そして自身の未来を悟ったように絶望の色を浮かべた。
「わたくしは今までの功労として、離宮を賜ることになりましたの。そこで、これから楽しい余生を送る予定ですわ。きっと息子たちも結婚して、孫ができて、わたくしが休めることなどないでしょうけれど……それはそれで、きっと楽しいでしょうね。今までより、ずっと」
そして、やわらかく微笑む。
「……大丈夫ですよ。あなた様は、ただずっとアナベラ様を想って生きていればよいのですから。どうぞこちらに構わず……ずっとね。――さようなら、ジュード様」
そして、ヴィオラはジュードに背を向け部屋を後にする。
扉越しに聞こえる嗚咽を残し、新しい未来に向かって歩き出した。
***
最後のページを捲り終え、ぱたりと本を閉じる。
当時の気持ちを綴った日記は、激しい感情を生々しく写し取り、読むほどにヴィオラを深く、あの頃へと誘っていく。
あれから、ジュードはすべてを失ったことで孤独のうちに心を病み、あの幸福が詰まった別邸で、ただひとり、アナベラの肖像画を眺めながら、彼女だけを想って生きている。
思い出に逃げ込むように、ぼんやりと日々をやり過ごしているらしい。
ヴィオラも子供たちも、誰ひとりとして彼に会いに行くことはない。
最低限の使用人のみを付け、彼の日常を報告させてはいるが、それすらも不要と思えるほど、彼は毎日を無為に過ごしている。
一方、この一連の騒動の元凶である先王は、退位して隠居したあともしばらくは横暴さを失わなかった。
だが、ヴィオラが以前から密かに進めていた側近たちの不正の摘発により、次第に振るえる権力を奪われていった。
やがて、かつての栄華は見る影もなく衰え、人が離れていく恐怖に苛まれながら、先王はゆっくりと気鬱の底へ沈んでいった。
今では、ジュードを助けることすらできない辺境へと身を移し、ただ静かに余生を送っている。
本当に――似た者親子だと、つくづく思ってしまう。
ヴィオラは、誰よりも近くで、彼らの辿る末路を眺めていた。
盤上の駒のほとんどは――自分自身さえも含めて――長い年月をかけて正しい場所へと配置し終えている。
あとは言葉ひとつ落とすだけで、すべては望んだとおりに動いていく。
アナベラの子、カインもまた、想像以上にジュードに似ていた。
婚約解消の場でのやり取りの報告を受けたときには、思わず笑みがこぼれたほどだ。
親子そろって同じ理屈を並べ立て、平然と相手の心を踏みにじる。
まるで、かつての光景の再演を見ているかのようだった。
そんなカインの処遇は、今のところ宙に浮いたままだ。
自身の行いが引き金となってジュードを退位へ追い込んだことを理解しているのか、彼は今のところ大人しく謹慎を受け入れている。
いっそこの国から出してしまうのも悪くない。
甘える場所をすべて失って初めて、自分の足で大地を踏みしめ、思考するようになるだろう。
結局のところ――人は環境によって歪められ、元来の気質をこじらせ、あの親子のように、愛に狂う愚か者へと成り果てるのかもしれない。
そんなことを思いながら、日記の表紙を指先でそっと撫でていると、扉が小さくノックされた。
侍女に開けさせた途端、小さな悲鳴が上がり、何かがひゅっと隙間から飛び込んでくる。
そしてそのまま、勢いよくヴィオラへ向かって走ってきた。
「……きゃっ!」
「あぁっ、ヴィオラ様、申し訳ございませんっ」
慌てて続いて入ってきたのは、つい最近リリィシアム公爵家からベラドンナ公爵家の娘となった、ユーリアだった。
彼女は侍女とともに駆け寄ると、ヴィオラの膝の上で満足げに寝転がっている子猫を、さっと抱き上げる。
「ユーリア。この子……可愛らしいけれど、どうしたの? 王宮で飼い始めた子かしら」
ユーリアの腕に収まったフカフカで真っ白な毛並みの子猫は、なおもヴィオラへ短い前足を伸ばし、みゃあみゃあと甘えるように鳴いている。
その様子を指先で軽くあしらいながら問いかけると、ユーリアは困ったように首を横に振った。
「いえ、わたくしにも実はよくわからなくて。ご褒美だと言って突然……」
「――ベラドンナのお爺様から渡されたんですよ」
ユーリアの背後から、ゆっくりと近づいてきたのは、同じく困ったような笑みを浮かべたヘザーだった。
彼は子猫をユーリアから受け取ると、そっと床へ降ろす。
自由になった子猫は、小さな足でてちてちと部屋の中を歩き回り、まるで探検でもするかのように、あちこちの匂いを嗅ぎ始めた。
「今日はベラドンナ公爵家に少し用事がありまして、二人で寄らせていただいたのです。その時に、お爺様から“連れて行け”と手渡されまして……ヴィオラ様へのご褒美だとか」
今はヴィオラの兄が当主となっているベラドンナ公爵家。
ヴィオラの父はその地位を退き、今は何かを探して妻を伴い、国中を渡り歩いているのだという。
そんな二人が久々に戻ってきたところへユーリアたちが鉢合わせし、そしてこの子猫を託されたらしい。
「なんでも、随分と珍しい品種らしいですよ。とにかくものすごく大きくなるのだとか。わざわざ北の辺境にある生息地まで足を運んで見つけてきたらしくて……あの厳格なお爺様が。どういう風の吹き回しなんでしょうね」
首を傾げるヘザーを見て、ふと、ヴィオラの脳裏に在りし日の記憶がよみがえる。
『お勉強と礼儀作法をがんばれば、お父様がね、ずっと夢だった猫さんをね、飼ってもいいっておっしゃったのよ! 図鑑に載ってたこーんなに大きくて、フカフカの猫さんっ!』
あぁ、そういえば、そんな約束があった。
あの時のご褒美を、まだ頂いていなかったのだわ。
ヴィオラはもう、癇癪を起こして泣いていた頃の子供ではない。
自分でも忘れていたほどの、遠い昔の話だ。わざわざ守らなくてもいいような、小さな約束。
それでも父は覚えていて、律儀にも果たしてくれた。
すべてが片付き、ベラドンナ公爵家の使命を終えた娘への、ひとつの褒美として。
「ふふ……ふふふっ。やだ、お父様ったら……あの時の約束、まだ憶えていてくださったの? 本当に……不器用な人よねぇ」
いつもは厳格なヴィオラが、無邪気に声を立てて笑う。
その姿を、ユーリアたちは珍しいものを見るような顔で見つめていた。
目尻に滲んだ涙を時折拭いながら、テーブルに置きっぱなしの日記が視界に入る。
自然と、これまでの人生が胸の奥に浮かび上がった。
厳しい教育を受け、ベラドンナ公爵家を出てから、辛いことも、苦しいことも数えきれないほどあった。
けれど、そこに恨みも憎しみもない。
常に陰でヴィオラを支え、時に手を差し伸べてくれたのも、またベラドンナ公爵家の者たちだったのだから。
充分な支援を受け、長い年月をかけ、皆で成し遂げてきたこと。
――だからこそ。
今くらいは、素直に喜ぼうではないか。
ヴィオラはゆっくりと子猫のもとへ歩み寄り、その場に屈んで優しく抱き上げる。
ゴロゴロと喉を鳴らす小さな体に、愛おしい眼差しを向け、そっと撫でた。
「ふふ、わたくしの夢が、またひとつ叶ったわ」
了




