第8話 秩序の香り
「カオス・シーカー」号が港を離れて数時間。 私たちが直面したのは、メルクが危惧していた「混沌の嵐」ではなかった。 それよりも、はるかに恐ろしいもの。
「……風が、ない」
私が呟くと、マストの頂上で風向きを読んでいたメルクが、忌々しげに舌打ちをした。 「ねえ、じゃねえ。『死んでる』んだ、ここの風は」
メルクの言う通りだった。 海は、まるで磨き上げられた巨大な黒曜石の板だった。波一つない。うねりさえない。 帆は、ヤヌス様の神殿に掲げられた儀式の旗のように、だらりと垂れ下がったまま、微動だにしなかった。
「総員、櫂を出せ!」 ゴルドの怒声が甲板に響いた。 船の両舷から、重く巨大な櫂が何本も突き出され、ゴルドの部下たちがそれにしがみつく。 「漕げ! 漕ぎ続けろ! ヤヌス様の『凪』から抜け出すぞ!」 「「「応ッ!!」」」 男たちの掛け声と共に、櫂が黒い水面を掴む。ギシリ、と船体が軋む。 だが、船は、まるで膠に張り付いたかのように、遅々として進まなかった。
これが、オケアノス。 ヤヌス様が「混沌」を封じたという、禁忌の海。 だが、その実態は「混沌」とは程遠い、「完璧すぎる停滞」そのものだった。 故郷の空気をそのまま海に敷き詰めたような、息の詰まる「凪」。 ヤヌス様の「秩序」とは、ここまで徹底して「変化」を拒絶するものなのか。
「チッ……」 甲板の隅で、アテナが槍の穂先で床板を苛立たしげに突いていた。 「嵐なら私が斬り伏せる。混沌なら私が屠る。だが、この『何もない』は、どうしようもない」 彼女の言う通りだった。 アテナの「力」も、メルクの「知恵」も、この「何もない」の前では無力だった。
そして、私も。 「……イシュ」 メルクがマストから降りてきて、私の隣に座った。 「……あんたが『嵐』を呼ぶ、ねえ。ゴルドにでかい口叩いちまったが、アテはあるのか?」 「……ない」 私は、膝を抱えるしかなかった。「あの『力』は、私が呼びたくて呼べるものじゃない。勝手に出てくるだけで……」 「発作、か」メルクは、アテナと同じ言葉を使った。「そいつは厄介だ。ヤヌス様の『秩序』と、お前さんの『混沌』が、まだ綱引きしてる最中ってことか」
メルクは空を見上げた。そこには星一つない、のっぺりとした曇天が広がっているだけだった。 「航海士ってのは、星を読み、風を読む。だが、ここではどっちも使えねえ。……イシュ、ちょっと来い」 彼は私を手招きし、船尾にある操舵輪のところへ連れていった。 「風がねえなら、せめて『海』を読む。いいか、航海士の基礎だ」 彼は、海図にもなっていない、ただの羊皮紙に炭で線を引き始めた。
「東の世界じゃ、ヤヌス様の管理下で潮の満ち引きも決まってる。だが、ここは違う。見てみろ」 メルクが指差す水面を凝視する。 「……何も、見えない」 「違う。よおく見ろ。一刻に一度、ほんのわずかだが、船が『西』へ流されてる。この『凪』の下に、ヤヌス様でも止められねえ、巨大な『流れ』がある証拠だ」 それは、専門家であるメルクにしか分からないような、微細な変化だった。 「俺たちは今、この流れに乗るしかねえ。櫂で漕ぐのは、この流れから外れねえようにするためだ。……お前さんも、何か掴め」 「掴む?」 「ああ。ロープの結び方でも、星の(今は見えねえが)読み方でも、何でもいい。お前さんが東で何を学んできたか知らねえが、ここでは全部ガラクタだ。ここで生きるための『知恵』を掴め。……アテナの『力』が『発作』なら、お前さんは『知恵』でそれを制御する方法を探すんだ」
メルクは、ぶっきらぼうにそう言うと、私に一本のロープを寄越した。 「まずは『もやい結び』だ。これ一つできなきゃ、船乗りは溺れ死ぬぜ」 私は、そのゴワゴワしたロープを握りしめた。 エリと編んだ、滑らかな亜麻糸とはまったく違う感触。 私は、故郷から本当に遠くへ来てしまったのだ。




