表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『平和な世界じゃ息ができないので、西の果てに行ってきます』  作者: 果肉入り餃子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

第8話 秩序の香り

「カオス・シーカー」号が港を離れて数時間。 私たちが直面したのは、メルクが危惧していた「混沌の嵐」ではなかった。 それよりも、はるかに恐ろしいもの。


「……風が、ない」


私が呟くと、マストの頂上で風向きを読んでいたメルクが、忌々しげに舌打ちをした。 「ねえ、じゃねえ。『死んでる』んだ、ここの風は」


メルクの言う通りだった。 海は、まるで磨き上げられた巨大な黒曜石の板だった。波一つない。うねりさえない。 帆は、ヤヌス様の神殿に掲げられた儀式の旗のように、だらりと垂れ下がったまま、微動だにしなかった。


「総員、かいを出せ!」 ゴルドの怒声が甲板に響いた。 船の両舷から、重く巨大な櫂が何本も突き出され、ゴルドの部下たちがそれにしがみつく。 「漕げ! 漕ぎ続けろ! ヤヌス様の『凪』から抜け出すぞ!」 「「「応ッ!!」」」 男たちの掛け声と共に、櫂が黒い水面を掴む。ギシリ、と船体が軋む。 だが、船は、まるでにかわに張り付いたかのように、遅々として進まなかった。


これが、オケアノス。 ヤヌス様が「混沌」を封じたという、禁忌の海。 だが、その実態は「混沌」とは程遠い、「完璧すぎる停滞」そのものだった。 故郷はこにわの空気をそのまま海に敷き詰めたような、息の詰まる「なぎ」。 ヤヌス様の「秩序」とは、ここまで徹底して「変化」を拒絶するものなのか。


「チッ……」 甲板の隅で、アテナが槍の穂先で床板を苛立たしげに突いていた。 「嵐なら私が斬り伏せる。混沌かいぶつなら私がほふる。だが、この『何もない』は、どうしようもない」 彼女の言う通りだった。 アテナの「力」も、メルクの「知恵」も、この「何もない」の前では無力だった。


そして、私も。 「……イシュ」 メルクがマストから降りてきて、私の隣に座った。 「……あんたが『嵐』を呼ぶ、ねえ。ゴルドにでかい口叩いちまったが、アテはあるのか?」 「……ない」 私は、膝を抱えるしかなかった。「あの『力』は、私が呼びたくて呼べるものじゃない。勝手に出てくるだけで……」 「発作、か」メルクは、アテナと同じ言葉を使った。「そいつは厄介だ。ヤヌス様の『秩序』と、お前さんの『混沌』が、まだ綱引きしてる最中ってことか」


メルクは空を見上げた。そこには星一つない、のっぺりとした曇天が広がっているだけだった。 「航海士ってのは、星を読み、風を読む。だが、ここではどっちも使えねえ。……イシュ、ちょっと来い」 彼は私を手招きし、船尾にある操舵輪そうだりんのところへ連れていった。 「風がねえなら、せめて『海』を読む。いいか、航海士の基礎だ」 彼は、海図にもなっていない、ただの羊皮紙に炭で線を引き始めた。


「東の世界うちじゃ、ヤヌス様の管理下で潮の満ち引きも決まってる。だが、ここは違う。見てみろ」 メルクが指差す水面を凝視する。 「……何も、見えない」 「違う。よおく見ろ。一刻いっときに一度、ほんのわずかだが、船が『西』へ流されてる。この『凪』の下に、ヤヌス様でも止められねえ、巨大な『流れ』がある証拠だ」 それは、専門家であるメルクにしか分からないような、微細な変化だった。 「俺たちは今、この流れに乗るしかねえ。櫂で漕ぐのは、この流れから外れねえようにするためだ。……お前さんも、何か掴め」 「掴む?」 「ああ。ロープの結び方でも、星の(今は見えねえが)読み方でも、何でもいい。お前さんがはこにわで何を学んできたか知らねえが、ここでは全部ガラクタだ。ここで生きるための『知恵』を掴め。……アテナの『力』が『発作』なら、お前さんは『知恵』でそれを制御する方法を探すんだ」


メルクは、ぶっきらぼうにそう言うと、私に一本のロープを寄越した。 「まずは『もやい結び』だ。これ一つできなきゃ、船乗りは溺れ死ぬぜ」 私は、そのゴワゴワしたロープを握りしめた。 エリと編んだ、滑らかな亜麻糸とはまったく違う感触。 私は、故郷はこにわから本当に遠くへ来てしまったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ