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『平和な世界じゃ息ができないので、西の果てに行ってきます』  作者: 果肉入り餃子


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第7話 雨の香り

ゴルドのねぐらである船倉せんそうは、カビと酒の匂いで満ちていた。 中央の椅子にふんぞり返っていた隻眼の男は、アテナの姿を見ると一瞬眉をひそめたが、すぐに金勘定に戻った。


「……何の用だ、『戦鬼』。それと、ヤヌス様の『平和』から迷い込んだ雛鳥か? うちは託児所じゃねえぞ」 「商談だ、ゴルド」メルクが前に出た。「あんたの船を、オケアノスまでチャーターしたい」 「オケアノス?」ゴルドは、唯一残った目でメルクを嘲笑あざわらった。「正気か、航海士メルク。あの海が『』いで何年経つと思ってる。風がなけりゃ、あんたの腕もただの飾りだ。無駄死にの片棒を担ぐ趣味はねえ」


「風なら、吹くぜ」 メルクは、私の肩をポンと叩いた。 「こいつが『嵐』を呼ぶ」 「……なんだと?」 ゴルドの視線が、初めて私に焦点を結んだ。


「ゴルド」メルクは声を低くした。「あんたも気づいてるはずだ。この港の『歪み』によ」 「……歪み、だと?」 「ああ。ヤヌス様の『平和』は完璧すぎた。完璧すぎて、停滞し、腐り始めてる。この港の連中を見てみろ」


メルクは、船倉の隅でうつろな目をして座り込んでいる男たちを指差した。 「『秩序』から弾かれた連中が、最初は『自由』だの『混沌』だの騒いでここに来る。だが、どうだ? 結局、オケアノスを渡る『変化』を恐れ、この停滞した港で昨日と同じ酒を飲み、昨日と同じ暴力に明け暮れるだけ。東の『箱庭』と、何が違う?」


ゴルドは黙っていた。


「ヤヌス様の『平和』は、一種の『病』だ。生きる活力を奪い、緩やかにすべてを『死』に向かわせる。あんたの商売も、このままじゃジリ貧だ。違うか?」


それは、私が故郷はこにわで感じていた「違和感」そのものだった。 エリの完璧な日常も、マルコさんの完璧な笑顔も、そしてこの港の荒くれ者たちの虚ろな目も、根は同じ。 すべては「停滞」という名の、緩やかな「死」に向かっていた。


「こいつは違う」 メルクは、再び私を指差した。 「こいつは、ヤヌス様の『平和びょうき』に感染おかされていない、『異物』だ。 こいつが東から来た日、オケアノスの風が変わった。 俺は、この『嵐』に賭ける。こいつが西の果てに行けば、停滞したこの世界に『変化』が起きる。 『凪』が終わり、『嵐』が戻ってくれば……あんたの商売ふねも、本当の『価値』を取り戻せるんじゃねえのか?」


ゴルドの隻眼が、私を射抜いた。 値踏みするような、探るような目。 私は、ゴルドの目をまっすぐに見つめ返した。アテナと対峙した時のように、私の中の「何か」が、ゴルドの視線に反発していた。


「……面白い」 ゴルドは、長い沈黙の後、口の端を吊り上げた。 「『嵐』を呼ぶお嬢ちゃん、か。ヤヌス様の『平和』をぶっ壊すと?」 「……私は、私を知りたいだけ」 「その『答え』が、世界の『混沌』と同じ意味だとしてもか?」 「……構わない」


「ククク……」ゴルドは笑った。「いい目だ。ヤヌス様の『平和』に飼いならされた連中とは違う。……いいだろう。賭けてやるよ、あんたの『嵐』に」 彼は立ち上がった。「船を出せ! 燃料と水を積めるだけ積め! 客人まろうどは、この『嵐』のお嬢ちゃんと、その仲間たちだ!」


メルクの「知恵ハッタリ」と、アテナの「力(威圧)」、そして私の「混沌いぶつかん」が、鉄の「秩序ゴルド」を動かした瞬間だった。


船が出るまでの三日間、私たちはオケアノスを渡る準備を進めた。 その過程で、私はメルクの言った「歪み」を、より深く目の当たりにすることになった。


港には、ヤヌス様の「秩序」から外れた、「静かに狂った」者たちがいた。 ある男は、来る日も来る日も、オケアノスの海に向かって意味のない石を投げ続けていた。彼にとって、それは「変化」を求める唯一の抵抗なのだという。 ある女は、存在しない「子供」に話しかけながら、ボロ切れを抱きしめていた。ヤヌス様の「平和」では「役目」以外の生殖は認められず、彼女は『秩序』から弾かれたのだとメルクは言った。


彼らは「平和」では生きられず、かといって「混沌」へ踏み出す勇気もない、世界の「狭間」で壊れてしまった人々だった。


(お姉ちゃん……) 私は、エリを思った。 (もし私が故郷はこにわに残っていたら、私もいつか、こうなっていたかもしれない) 「完璧な平和」という名の檻の中で、自分の「違和感」を持て余し、ゆっくりと狂っていく。


「……行かなければ」 私は、オケアノスの荒波を見つめながら呟いた。 「このままじゃ、ダメだ。お姉ちゃんの世界も、この港も、緩やかに死んでいくだけだ」


アテナが、私の隣で槍を磨きながら言った。 「感傷か、イシュ。だが、お前の言う通りだ。停滞は『死』だ。私は『力』を行使できる場所で生きたい。それがたとえ『混沌』の嵐の中であっても」


メルクが、船の甲板から顔を出した。 「準備万端だぜ、二人とも! いよいよ出航だ! ヤヌス様の『箱庭』の壁紙を、派手にブチ破ってやろうじゃねえか!」


私は、ゴルドの船「カオス・シーカー(混沌を追う者)」号に乗り込んだ。 背後で、港の連中が私たちを遠巻きに見ている。羨望、嫉妬、そして恐怖。


ゴルドが銅鑼どらを鳴らす。 「いかりを上げろ! オケアノスへ、出航だ!」


船が、岸壁を離れる。 秩序と混沌の狭間だった港が、急速に遠ざかっていく。 私は、東の空を振り返った。 エリがいる、故郷はこにわがある空。


(ごめんなさい、お姉ちゃん。でも、私は行くよ) (この世界を、緩やかな『死』から救うために。……そして、私が『私』であるために)


灰色のオケアノスの水平線の向こうに、私の答えが待っている。 ヤヌス様の「なぎ」を破る、私たちの本当の航海が、今、始まった。


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