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『平和な世界じゃ息ができないので、西の果てに行ってきます』  作者: 果肉入り餃子


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第5話 私たちの旅

メルクと共に酒場を出ると、宿場町の空気は一層よどんで感じられた。 彼が言う「港」は、この町からさらに西へ半日ほど歩いた、オケアノスの荒波が直接打ち寄せる「無法地帯」にあるという。


「メルク、あなたはどうして、あの海が荒れ始めたって知ってるの?」 荒野の岩道を、ひょいひょいと軽やかに飛び越えながら進むメルクの背中に問いかける。


「ああ? 勘だよ、勘」 「勘……」 「航海士ってのは、ヤヌス様が管理する『秩序』よりも、肌で感じる『変化』を信じる商売でね。風の匂い、雲の速さ、鳥の鳴き声……ここ数日、西から届く『何か』が、明らかに変わってきてる。まるで、分厚い氷がきしみ始めたみてえに」


メルクは空を見上げ、ニヤリと笑った。 「そして、お前さん(イシュ)の登場だ。氷を砕く『つち』が来たってな」


私にそんな力があるとは思えない。 だが、彼と話していると、故郷はこにわで感じていた「異物」としての罪悪感が、ほんの少し和らぐ気がした。


「着いたぜ。あれが港だ」 メルクがあごで示した先を見て、私は息を呑んだ。 そこは「港」と呼べるような場所ではなかった。 オケアノスの灰色の荒波が打ち寄せる岸壁に、ヤヌス様の「秩序」から逃れてきた者たちが、難破船の残骸や獣の皮で寄り集まって作った、巨大なスラムだった。


「ひどい……」 「ヤヌス様の『平和』からこぼれ落ちたら、人間なんてこんなもんさ。だがな、ここには『活気』がある」


メルクの言う通りだった。 宿場町のよどんだ空気とは違い、ここでは誰もが荒々しいエネルギーを放っていた。怒鳴り声、卑猥な笑い声、そして金属がぶつかり合う音。 広場の中央で、人だかりができている。


「おあつらえ向きだ。ちょうど『試合』をやってる」 「試合?」 「西へ行く連中が、ここで仲間や物資を調達するのさ。一番手っ取り早いのが、ああやって『力』を見せつけること。勝てば英雄、負ければ奴隷だ」


メルクがそう言った瞬間、広場からひときわ大きな歓声が上がった。 人垣をかき分けて中を覗き込むと、闘技場の中央に、一人の女が立っていた。 私とそう変わらない歳に見えた。だが、その体躯たいくは、平和な故郷では見たこともないほど鍛え上げられている。 しなやかな筋肉に覆われた腕には古い傷跡があり、手には身の丈ほどもある無骨な鉄槍を握っていた。


「どうしたァ! もう終わりか! ヤヌス様の『平和』に飼いならされたオスどもは!」


女は、足元に転がる三人の男たちを見下ろし、挑発するように槍の穂先を突きつけた。 その瞳は、私の悪夢・・に出てくる「戦い」の昂揚こうようそのものに濡れていた。


「……すげえ女だ」 メルクが感嘆の声を漏らす。「あれだよ、イシュ。俺たちが探してた『力』は。ありゃあ、ヤヌス様の『秩序』じゃ飼いならせねえ、本物の『混沌カオス』だ」


女は、次の挑戦者がいないのを見ると、槍を肩に担ぎ、人垣を押し分けて出ていこうとした。 「待って!」 私は、無意識に声を上げていた。


女が、ゆっくりとこちらを振り返る。 その視線は、生きている人間を見る目ではなかった。獲物を品定めするような、冷たく、鋭い視線。 「……なんだ、チビ」 「あなたも、オケアノスへ行くの?」 「だったら?」 「私たちを、仲間に入れてほしい」


女は、私と、私の隣に立つ痩せたメルクを、頭のてっぺんから爪先まで、侮蔑ぶべつするように舐め回した。 「……はっ。聞き間違いか? お前たち(・・)が、を、仲間に?」


女は腹を抱えて笑い出した。 「面白い冗談だ。東の『箱庭』から来た、ミルクの匂いがするお嬢ちゃんと、口先だけの詐欺師トリックスターもどきが、この私と? 私はアテナ。この港で『戦鬼せんき』と呼ばれている。お前たちのような『荷物』を背負って、西へお遊戯ゆうぎに行く趣味はない」


「荷物じゃない!」 私はカッとなって言い返した。 「この人はメルク! 腕利きの航海士よ!」 「航海士? 結構だ。このいだオケアノスで、航海士なんぞに何の価値がある。必要なのは、嵐に耐え、混沌かいぶつを殺せる『力』だけだ」


アテナと名乗った女戦士は、私に背を向けた。 「消えろ。ヤヌス様の『平和』が恋しくなる前に、おうちに帰るんだな」


「待って!」 私は彼女の前に回り込み、腰のナイフに手をかけた。 父の形見。エリとの繋がり。 それを今、使う時だ。


「……私と、勝負して」 「……なんだと?」 アテナの眉がピクリと動いた。 「と、勝負しろと?」 「そう。私が勝ったら、私たちを西へ連れて行って」


酒場にいた時とは比べ物にならないほどの静寂が、荒々しい港を包んだ。 メルクが「おいおい、イシュ。正気か」と私の肩を引く。


アテナは、心の底から可笑しいというように、再び笑った。 「いいだろう。その『勇気』……あるいは『無謀』という名の『混沌』は、少し気に入った。だが、私は手加減というものを知らん。お前が死んでも、ヤヌス様を恨むなよ」


彼女は槍を捨て、腰の剣を抜いた。 「死なない程度に、遊んでやる」


「イシュ! 馬鹿よせ!」 メルクの制止を振り切り、私はナイフを構えた。 だが、構えた瞬間、背筋が凍った。 ダメだ。勝てない。 平和な世界で育った私が、本物の「戦鬼」に勝てるはずがない。


「どうした、チビ! 祈り(・・)の時間か!」 アテナが地を蹴った。 速い。 故郷はこにわでは見たこともない、殺意という名の「力」。 剣が、私の喉笛を狙って横薙ぎに閃く。


(死ぬ)


そう思った瞬間。 あの幻覚・・が、現実を塗り潰した。


――ゴウッ!! 赤黒い空。砂埃。金属音。 そして、私の目の前に立つ、憎悪に満ちた「敵」の顔。


それは、アテナの顔ではなかった。 私の夢に毎晩出てくる、あの「誰か」の顔だった。


「(ああ……)」


懐かしい。 懐かしい。 懐かしい。


「(邪魔だ、どけ!!)」


私の喉から、あの「声」がほとばしった。 私は、アテナの剣を避けていなかった。 最小限の動きでナイフを逆手に持ち替え、アテナの剣のはらを打ち据え、体勢を崩させようと懐に飛び込んでいた。


「なっ!?」


アテナの目が、初めて驚愕に見開かれる。 私の動きは、故郷はこにわの「イシュ」のものではなかった。 血と砂埃の中で何千、何万回と繰り返した、「戦いの女神イシュタル」の動きだった。


アテナは咄嗟とっさに剣を引き、私を蹴り飛ばそうとする。 だが、遅い。 私は彼女の脇腹を狙い、ナイフを突き立てて――


寸前で、止めた。


「……はあっ、はあっ……!」 幻覚が消え、現実が戻ってくる。 私のナイフの切っ先は、アテナの脇腹の服を数ミリ切り裂いたところで、震えながら止まっていた。 アテナは、信じられないという顔で、私と、私のナイフを交互に見ている。


「……お前……」 アテナが、絞り出すように言った。 「……その動き……どこで……」


「……分からない」 私は、ナイフを取り落とした。全身の力が抜け、その場に膝をつく。 「分からない。でも、体が、勝手に……」 「……勝手に、だと?」


アテナは剣をさやに納めた。 彼女の瞳から、侮蔑の色は消えていた。代わりに宿ったのは、私と同じ「混沌」の匂いを嗅ぎつけた、同類の目だった。


「……面白い」 アテナは、槍を拾い上げると、私に向かって手を差し出した。 「合格だ、チビ。お前、ヤヌス様の『平和』に毒されてねえ、本物の『力』を持ってる」 「……え?」 「私は『力』こそがすべてだと信じている。この停滞した世界で、私の力を試す場所は『西の果て』しかない。……だが、あのいだオケアノスを渡るすべがなかった」


彼女の視線が、メルクに移る。 「そこの航海士。お前が『知恵』で海を渡すなら、私は『力』で混沌かいぶつを殺す」 そして、彼女は私を見た。 「そして、お前、イシュ。……お前は、私たちの『嵐』だ。お前がいれば、ヤヌス様が止めた風も、きっと吹く」


メルクが、やれやれという顔で笑った。 「決まりだな。ようこそ、『戦鬼』アテナ。これで役者は揃った」


アテナは私の手を掴み、強引に立たせた。 「勘違いするな、イシュ。私はお前を認めたわけじゃない。お前の中の『混沌なにか』に興味が湧いただけだ。……だが、西へ行くまでは、この槍でお前たちを守ってやる」


こうして私は、二人目の仲間を得た。 ヤヌス様の「平和」を「停滞」と呼び、「力」こそがすべてだと信じる、戦鬼ちからのような女だった。 「知恵」と「力」、そして「わたし」。 私たちの「西の果て」を目指す、混沌の旅が、今、本当に始まろうとしていた


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