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『平和な世界じゃ息ができないので、西の果てに行ってきます』  作者: 果肉入り餃子


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第4話 仲間

ヤヌス様の「秩序」の門をくぐり抜けた先は、エリの言葉通り「混沌」の入り口だった。


まず、風が違った。 故郷の街で吹く風は、収穫祭の日にヴェールを揺らすためだけの、飼いならされた息遣いだった。 だが、ここの風は獣だ。何の秩序もなく吹き荒れ、私の髪をかき乱し、乾いた土埃を容赦なく顔に叩きつけてくる。


「……っ!」 身をかがめて風に耐える。寒い。 完璧な「平和」の中で育った私の体は、この予測不能な暴力に慣れていなかった。


道はすぐに途絶えた。 地図にあったはずの「西の街道」など、ヤヌス様の管理を外れた途端、ただの雑草に覆われた獣道に成り下がっていた。夜を越すたびに、故郷から持ってきた干し肉は減り、水筒の水は濁っていく。


(お姉ちゃん……)


冷たい岩陰で眠れぬ夜を過ごすたび、エリの泣き声が耳に蘇る。 あの温かいベッド、蜂蜜パンの匂い、優しい笑顔。 私は、人類が持つ「幸福」のすべてを、自ら捨ててきたのだ。 その事実に押しつぶされそうになるたび、私は強く首を振る。


(だめだ)


あの幻覚ゆめが、私を突き動かす。 血の匂い。戦いの昂揚こうよう。あの「懐かしさ」。 あれが私の一部だというのなら、私はそれから目を背けて生きていくことはできない。 私は、私を知らなければならない。


そうして何日歩いただろうか。 私はついに、オケアノスへと続く最後の「境界」と言われる、寂れた宿場町にたどり着いた。 そこは、ヤヌス様の「秩序」が及ぶ東の世界と、禁忌である「西の果て」との、まさに狭間はざまだった。 建物は荒れ果て、行き交う人々は故郷の住人とは比べ物にならないほど目が荒んでいる。彼らは、秩序からこぼれ落ちた者たち、あるいは私のように、自ら秩序を捨てた者たちなのだろう。


私は、残り少なくなった干し肉を握りしめ、港へ向かうための情報と食料を求めて、場末の酒場に入った。


「……なんだァ、嬢ちゃん。うちの人間か? 随分と綺麗な顔してるじゃねえか」 酒場の主人が、ギシギシと音を立てるカウンターの向こうで、汚れた布巾をもてあそびながら言った。


「……水と、食料を少し。それと、オケアノスへ行く方法を知りたい」


その瞬間、騒がしかった酒場が水を打ったように静まり返った。 乾いた風が、隙間だらけの扉を鳴らす音だけが響く。


「……はっ」 一拍置いて、カウンターの隅で足を組んでいた一人の男が、噴き出した。 「オケアノス、だと? おいおい、今年の『ヤヌス様の祝福・・・』は、随分とタチの悪い冗談を連れてきたもんだ」


私は、声がした方を睨んだ。 痩せた男だった。年の頃は私より十は上に見えるが、その瞳は老人のようにも、子供のようにも見えた。 埃っぽい革の長椅子にふんぞり返り、空になった杯を指で弄んでいる。


「嬢ちゃん、おうちに帰りな。ここは『平和』に飽きたガキが来るところじゃねえ。西の果てなんざ、行ったらおしまいだ。死体も残らねえ『混沌カオス』の海だぜ?」 「……あなたには、関係ない」 「関係ないねえ。大ありだ」


男は立ち上がると、軽薄な笑みを浮かべたまま、私に近づいてきた。 「その綺麗な服、その細い腕。東の『箱庭』から出てきたばかりだ。違うか? だが、その目だ。お前さん、ただの家出じゃねえな。……『役目』でも貰ったクチか?」


私は息を呑んだ。 男の目は、故郷の誰とも違っていた。すべてを見透かすような、それでいて何も信じていないような、底の知れない色をしていた。


「オケアノスに行きたい、か。いいぜ、俺が連れてってやっても」 「……え?」 「ただし、タダじゃねえ。お前さん、何を持ってる?」


男の視線が、私の腰にあるものに注がれた。 エリに隠れて持ち出した、父の形見のナイフ。


「……金目のものなど、それくらいしか持ってねえだろ。家出ってのは、そういうもんだ。そいつを寄越せ。そしたら、港への道を教えてやる」 「……断る」 「はっ。強情だな」


男は肩をすくめた。 「じゃあ、こうしよう。俺と『賭け』だ。俺の質問に答えられたら、お前さんの勝ち。港まで案内してやる。答えられなかったら、そのナイフは俺のもんだ」


酒場の主人が「おい、メルク。その辺にしとけ」と面倒くさそうに言った。 メルクと呼ばれた男は、意に介さず笑っている。


私に選択肢はなかった。 「……いい。質問は?」 「簡単なことさ」 メルクは、カウンターから盗んだ干しブドウを一粒、口に放り込んだ。


「ヤヌス様は、なぜ『秩序』と『混沌』を分けたと思う?」


それは、神学の授業で習った。 「……『平和』のため。人々が争わず、穏やかに暮らせる世界を、お与えになるため」


「ブッブー。不正解」 メルクは心底楽しそうに指を振った。 「そりゃうちの神官が教える『建前』だ。嬢ちゃん、あんた、商売ってものを知ってるか?」 「……商売?」 「そう。高く売って、安く買う。これ、基本な」 メルクは、私の目の前に人差し指を立てた。


「価値ってのはな、嬢ちゃん。『差』がなきゃ生まれねえんだよ。 全員が同じものを持ってたら、誰も何も買わねえ。全員が平和だったら、『平和』に価値はねえ。 ヤヌス様は、世界で一番頭のいい商人あきんどだ。 あの神様は、『平和』って商品を俺たちに高く売りつけるために、わざわざ『混沌』って名の『地獄』を西の果てに創り出したのさ。 『あんな風になりたくなければ、俺の秩序ルールに従え』ってな。 あれは『封印』なんかじゃねえ。『見本品サンプル』さ」


私は、メルクの言葉に殴られたような衝撃を受けた。 平和は、与えられたものではなく、買わされたもの? 混沌は、封印された残滓ではなく、見本品?


「俺はな、航海士だ」 メルクは、急に静かな声で言った。 「ヤヌス様のせいで、海はぎ、風は止まり、俺の商売は上がったりだ。この停滞した世界じゃ、何の『差』も生まれねえ。何の『価値』も動きゃしねえ。退屈で死んじまう」


彼は私の目をまっすぐに見据えた。 「だがな、嬢ちゃん。最近、ほんの少し、風向きが変わってきた」 「……風向き?」 「そう。『凪』だったオケアノスが、荒れ始めた。ヤヌス様の『管理』が、ほんの少し、ほころびてきてる。……お前さんが東から来た、ちょうどその日にな」


メルクの顔から、軽薄な笑みが消えていた。 「お前さん、何者だ? お前さんが、この退屈な世界をひっくり返す『混沌』の“目玉商品”なんじゃねえのか?」


私は、彼の言葉の意味を完全には理解できなかった。 だが、彼が私と同じ「違和感」を、別の形で抱いていることだけは分かった。


「……ナイフは渡せない。でも、私も『西』に行かなきゃならない理由がある」 「『混沌』に用があると。そいつは奇遇だ」 メルクはニヤリと笑った。「『混沌』は『変化』だ。『変化』は『商売もうけ』の匂いがする。俺は、ヤヌス様の『停滞』をぶっ壊してくれる『嵐』に、全額賭けてみたい」


彼は私に手を差し出した。 「決めた。俺も行く。オケアノスへ。 俺はメルク。見ての通り、口は悪いが腕は一流の航海士だ。この停滞した世界で唯一、西の『嵐』の読み方を知ってる男さ」


「……私は、イシュ」 「イシュ、か。いい名前だ」


私は、ためらいながらも、そのゴツゴツとした手を握り返した。 それは、エリの温かい手とはまったく違う、乾いて冷たい、けれど確かな力強さを持つ手だった。


「さて、と」 メルクは私のナイフには目もくれず、カウンターに金貨を数枚放った。 「行くぜ、イシュ。まずは、このクソみたいな町を出て、港までひとっ走りだ。 オケアノスを渡るには、もう一人、『力』が必要だからな」


こうして私は、故郷はこにわを出て、最初の仲間を得た。 ヤヌス神を「商人」と呼び、混沌に「儲け話」の匂いを嗅ぎつける、トリックスター(知恵)のような男だった。


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