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『平和な世界じゃ息ができないので、西の果てに行ってきます』  作者: 果肉入り餃子


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第3話 血の香り

あの日以来、私は二つの世界を生きることになった。 昼は、ヤヌス様の完璧な「平和」の中で、エリの優しい妹「イシュ」を演じる。 夜は、「混沌」の悪夢の中で、血と砂埃にまみれた「誰か」になる。


幻覚は日を追うごとに鮮明になり、もはやそれは「見る」ものではなく、「体験する」ものになっていた。 私は夢の中で、あの重い何か(それが剣と呼ばれる武器であると、なぜか知っていた)を振り回し、咆哮を上げ、そして私に憎悪を向ける「敵」と対峙していた。 目覚めると、全身がひどい疲労感に包まれている。平和な世界では決して使わない筋肉が、きしむように痛んだ。


エリは私の変化に気づいていた。 「イシュ、最近よく眠れていないの?」「顔色が悪いわ、ヤヌス様の神殿で祈祷してもらいましょうか」 そのたびに私は「大丈夫、なんでもない」と嘘の笑顔で答えるしかなかった。 どうして言えようか。あなたの愛する妹が、夜ごと夢の中で「戦い」に歓喜しているなどと。


私は、神殿ではなく図書館に通い詰めた。 「西の果てを識る者」 あの役目の意味を知るために。


図書館の最奥、埃をかぶった「禁忌」の書架。そこはヤヌス様の「秩序」以前、世界がまだ混沌としていた時代の伝承が封じられている場所だった。 管理人の老人は「若者が読むものではない」と渋い顔をしたが、私が「ヤヌス様から賜った役目です」と告げると、何も言わずに鍵を開けてくれた。


羊皮紙のページは重く、インクは色褪せていた。 そこに、答えはあった。


『――世界が形を成す前、万物は混沌カオスなり。ヤヌス神は降臨し、その両面ふたおもてにて光と闇を、秩序と混沌を分離された。 神は「秩序」を選び、我らの世界を創造された。 そして、分離された「混沌」の残滓ざんし――すなわち、無秩序な嵐、制御できぬ感情、死に至る争い、それらすべてを、世界の西の果てに「封印」された。 そこはオケアノス。大いなるの海。 ヤヌス様の『平和』が届かぬ、禁忌の場所。 渡ろうとする者は、混沌の嵐に飲まれ、二度と戻ることはない――』


「混沌の嵐」「制御できぬ感情」「争い」。 すべて、あの幻覚と一致する。 私は、あの幻覚カオスが封じられた場所を「る者」として、ヤヌス様に選ばれたのだ。


なぜ? この完璧な平和の世界で、なぜ私にだけ、そんな「異物」としての役目を与えたのか。


答えは、もう出ている気がした。 ヤヌス様が与えたのではない。 私という存在そのものが、元から「混沌」側なのだ。 だから、成人の日の儀式で、この世界の「秩序」と触れた瞬間、私の中に眠っていた「本質カオス」が拒絶反応を起こし、あの幻覚として溢れ出したのだ。


私は、この「平和な箱庭」の歯車にはなれない。 私は、この世界の「異物」なのだ。


確信は、決意に変わった。 私は行かなければならない。西の果て(オケアノス)へ。 そこに行けば、私が誰なのか、なぜ「戦い」を懐かしいと思ってしまったのか、その答えがきっとある。 このまま、エリを騙し、自分を騙し続けて生きていくことは、私にはできなかった。


その日から、私は秘密裏に旅の準備を始めた。 ドル爺さんから買ったライ麦を少しずつ干し肉にし、自分の部屋のベッドの下に隠した。 父の形見だとエリが大切にしていた、錆びついた古いナイフをこっそり研いだ。 街の地図を写し、オケアノスへと続く「西の街道」のルートを暗記した。


準備が整ったのは、成人の日からさらに十日が過ぎた、新月の夜だった。 この世界では珍しく、ヤヌス様の管理を外れたかのように、空は厚い雲に覆われていた。


私は寝台のエリの寝顔を、目に焼き付けた。 穏やかで、何の疑いも持たない、世界で一番愛しい寝顔。 (ごめんなさい、お姉ちゃん) 心の中で何度も謝った。 (私は、あなたの望む「イシュ」ではいられない)


小さな荷物を背負い、音を立てないように玄関の扉に手をかける。 この扉を開ければ、もう二度と、この完璧な朝に戻ることはできない。 私がこの「平和」を捨てるのだ。


「……イシュ?」


背後から聞こえたのは、この世で一番聞きたくなかった声だった。 振り向くと、薄闇の中に、寝間着姿のエリが立っていた。その手は、不安そうに胸元を握りしめている。


「……どこへ、行くの?」 声が震えている。 「……こんな夜中に。その荷物は、なあに?」


私は息を呑んだ。 嘘はつけなかった。この期に及んで、彼女に嘘をつくことだけはできなかった。 「……西へ、行きます」 「西……? まさか、『西の果て』のこと……?」 エリの顔が、絶望に青ざめていく。


「どうして!? ヤヌス様が禁じた場所よ! 伝承を知らないの!? 混沌の嵐に飲まれて死んでしまうわ!」 「知ってます」 「知っていて、なぜ!」 「……そこに、私の答えがあると思うから」


「答え!?」 エリは私に駆け寄り、荷物を背負った私の両肩を掴んだ。その指は、痛いほど強く食い込んでいる。 「答えはここでしょ! 私たちの家が! この平和な街が! 私が! あなたのすべてじゃないの!? 何が不満なの!?」


そうだ。エリの言う通りだ。 彼女は私のすべてだった。 彼女こそが、ヤヌス様が私をこの「平和」に縛り付けるために用意した、最も強力で、最も優しい「くさび」だったのだ。


「イシュ! 思い出して! 私たちがどれだけ幸せだったか! 二人でパンを焼いて、機を織って、ヤヌス様に感謝して……! あの幻覚は悪夢なのよ! お願いだから、目を覚まして!」


エリは泣いていた。 彼女の涙が、私の決意を鈍らせる。 (戻ろうか。荷物を置いて、エリに謝って、明日からまた「優しい妹」を演じようか) そうすれば、エリは笑ってくれる。私たちはまた、あの完璧な朝を繰り返せる。


――だが、あの「懐かしさ」を、どうするのだ。 ――あの「昂揚」を、どうやって無かったことにするのだ。


「……ごめんなさい、お姉ちゃん」 私は、エリの肩を掴む手を、そっと引き剥がした。 「……悪夢は、たぶん、こっちの世界だ」 「え……?」 「この平和は、私にとって『停滞』だ。私はここで息ができない。このままここにいたら、私は私じゃなくなってしまう。私は、あの幻覚の『本当』を知らないと、もう生きていけない」


「いや……いや……!」 エリは首を横に振り、私の服の裾を掴んだ。「行かないで、イシュ! あなたは私のたった一人の妹なのよ! あなたまで『大いなる眠り』についたら、私は……!」


「死にに行くわけじゃない」 私は、自分に言い聞かせるように言った。 「『本当の私』を、見つけに行くだけ」


私は、エリの手を、今度は強く振り払った。 エリが「あっ」と声を漏らし、床にへたり込む。 もう、振り返ってはいけない。 今、振り返ったら、私は二度とこの家を出られない。


私は扉を開け、冷たい夜の空気の中に飛び出した。 背後で、エリの慟哭どうこくが響く。


「イシューーー!!」


その声に心を引き裂かれながら、私は走り出した。 完璧な石畳を抜け、停滞した街を抜け、西の門をくぐる。


門の外は、ヤヌス様の「秩序」が及ばない、本当の「闇」だった。 風が唸りを上げ、草木が不気味にざわめいている。 道などない。ただ、西の空がわずかに明るんでいるだけだ。


私は、愛する姉を泣かせた罪悪感と、未知なる世界への恐怖と、そして心の奥底で燃え盛る「混沌」への渇望を胸に、闇の中へと一歩を踏み出した。


(さようなら、お姉ちゃん) (さようなら、私の「平和」な箱庭)


「西の果て」を目指す、私の本当の旅が、今、始まった。

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