第2話 曇りの香り
そして、十日が過ぎた。 私の成人の日。この世界で最も祝福されるべき、秩序の日だ。
朝からエリはそわそわと落ち着きがなく、私に着せるための純白の式服に、何度も何度も丁寧にアイロンをかけていた。
「イシュ、髪はちゃんと梳かした? 爪は切った? ヤヌス様の前で、失礼があってはならないわ」 「大丈夫だよ、お姉ちゃん。昨日、全部やったよ」 「そう……でも、もう一度確認させて」
エリは私の手をとり、まるで壊れ物を扱うかのように指先を確かめる。その目は不安に揺れていた。 この世界では、「成人」は「変化」ではなく「固定」を意味する。役目を与えられ、社会という名の完璧な歯車の一つとして、正式に組み込まれる日。 だから、エリが不安がる必要など何一つないのだ。私はただ、ヤヌス様の祝福を受け、決められた「役目」を受け入れるだけなのだから。
それなのに。 私の胸の奥では、あの日カゴを握りしめた時から居座り続ける、小さなモヤモヤが消えずに燻っていた。
「……エリ」 「なあに、イシュ」 「お姉ちゃんは、成人の日、怖くなかった?」 「怖い?」 エリはきょとん、と目を丸くした。「どうして? あんなに祝福に満ちた日なのに。私は『機織り』と『家の守り手』という、イシュを守るための役目をいただけて、本当に嬉しかったわ」 「……そっか。そうだよね」
私はそれ以上、何も言えなかった。 エリの純粋な瞳を曇らせたくなかった。
式服は、肌に触れると少しひんやりとした。清廉だが、重い。 エリに手を引かれ、私たちは街の中央広場にある「ヤヌスの神殿」へと向かった。
神殿といっても、それは豪華なものではない。ただ、完璧な円形に磨かれた石舞台があり、その中央にヤヌスの両面の神像が鎮座しているだけだ。 一つは未来を見据える「始まりの顔」。もう一つは過去を見つめる「終わりの顔」。 ヤヌス様は、その両方の顔で「現在」の私たちを常に見守り、秩序を与えてくださっている。
広場にはすでに街の人々が集まっていたが、誰一人として私語を交わす者はいない。 儀式は、完璧な静寂の中で行われるのが「秩序」だった。
「イシュ。ヤヌス様がお呼びよ」 神官が、抑揚のない声で私を呼んだ。 エリが私の背中をそっと押す。「行ってらっしゃい。何も心配いらないわ。すべてはヤヌス様のお導きのままに」
私は頷き、一人で石舞台の中央へと進み出た。 ヤヌスの神像の前に膝まずく。 神官が、ヤヌス様の「平和」を象徴するという、冷たい湧き水が入った銀の杯を差し出してきた。 私はそれを受け取り、目を閉じる。 この水を飲み干せば、私の「役目」が声となって頭に響くのだという。
(これでいい。これで、あのモヤモヤも消える。私は「役目」を得て、エリの隣で、平和な日常に戻るんだ)
私は杯を口元へと運んだ。 ひやりとした水が、唇に触れる。
その、瞬間だった。
――ゴウッ!!
耳鳴りではない。 熱風。 息苦しいほどの砂埃の匂い。 血の、生臭さ。
「(なに……これ……!?)」
目を開けているはずなのに、何も見えない。 穏やかな広場の風景は消え失せ、視界はすべてが赤黒い煙に覆われていた。
『――殺せ! 奴らを一人残らず殺せ!!』
知らない男の怒号。 甲高い金属音。獣のような咆哮。 ヤヌス様の静謐な世界では、決して存在しえない「混沌」の音。
『イシュタル様! お下がりください!』 『邪魔だ! どけ!!』
私の声じゃない。 知らない女の声が、私の喉から迸った。 それは怒りに満ち、歓喜に震え、そして信じられないほどの「力」に満ちた声だった。
私は何かを握っていた。 杯ではない。もっと重く、手にしっくりと馴染む何か。 それを振り下ろす。 手応えがあった。硬いものを砕き、柔らかいものを切り裂く、生々しい感触。
目の前に、誰かが立っていた。 私を見下ろしている。 その顔は憎悪に歪み、私を「殺す」という明確な意志が、その瞳から溢れていた。
――ああ。 ――懐かしい。
そう思った。 怖い、と思うより先に、「懐かしい」と。 この、命のやり取りを。 この、すべてを破壊する昂揚を。
「(違う、違う、違う!! こんなの、私じゃない!!)」
私が叫んだ瞬間、世界は再び「反転」した。
「……ッ、はあ、はあっ……!」 私は石舞台の上で、四つん這いになって荒い息をついていた。 手には、空になった銀の杯が握られている。 目の前には、何も変わらないヤヌスの神像。何も変わらない神官の無表情。 広場は、完璧な静寂に包まれたままだった。
「……終わったか」 神官が、相変わらず抑揚のない声で言った。 「お前の役目は『西の果てを識る者』。……以上だ。下がれ」
「え……?」 私は呆然と神官を見上げた。 「西の果てを、識る者……? それは、どういう……」 「役目は与えられた。意味は自ら識れ。それがヤヌス様の『秩序』だ。下がれ」
神官は私に背を向け、儀式の終了を告げた。 広場の人々は、祝福の拍手も、歓声も上げない。ただ静かに頷き合い、一人、また一人と解散していく。 それが、成人の日の「完璧な」終わり方だった。
私は、ふらふらと立ち上がった。 足が震える。 今のは、何だったんだ? あの幻覚は。あの声は。あの「懐かしさ」は。
「イシュ!」 エリが駆け寄ってきて、私の体を強く抱きしめた。 「よかった……! 本当によかったわ、イシュ! これであなたも一人前ね!」 「お姉ちゃん……私、私……」 「顔色が真っ白よ。緊張したのね。大丈夫、もう終わったのよ」 「違う、私、見たんだ……血と、砂と……男の人の怒鳴り声を……!」
私がそう言った瞬間、エリの笑顔が凍りついた。 彼女は慌てたように周囲を見回し、私の口をそっと手で塞いだ。
「しっ……! イシュ、何を言っているの。そんなもの、この世界に存在するはずがないでしょう」 「でも、本当に……!」 「気のせいよ」 エリは、有無を言わせぬ強い口調で、しかし優しい瞳で私を諭した。「ヤヌス様の『平和』に、血や争いなどありません。あなたは儀式で緊張しすぎて、『混沌』の悪夢を見たのよ。……さ、帰りましょう。今日はご馳走よ」
エリは、私の手を強く引いた。 その手は、いつもの温かい手だった。 けれど、私は知ってしまった。 この温かい手のひらとはまったく違う、「何かを握りしめた」あの感触を。
あの日から、私の世界は「反転」した。
街は変わらず平和だ。エリは変わらず優しい。 だが、私の目に映る世界は、すべてが色褪せて見えた。 マルコさんの完璧な笑顔は「仮面」のように見え、ドル爺さんの同じ動作は「操り人形」のように見えた。 ヤヌス様の「完璧な平和」は、まるで埃をかぶった「書き割り」のようだった。
そして、夜ごと、あの「幻覚」を見るようになった。 赤黒い空。砂埃。金属音。 そして、あの憎悪に満ちた「誰か」の顔。
私は、あの幻覚こそが「本物」なのではないかと、恐ろしい考えを抱き始めていた。 私の胸のモヤモヤは、今や「違和感」という生易しいものではなくなっていた。 それは「渇望」だった。 私は、知りたい。 この「書き割り」の向こう側を。
「西の果てを識る者」
神官が告げた、謎の役目。 図書館で見た、禁忌の伝承。 「西の果て(オケアノス)」は、ヤヌス神が「混沌」を封じた場所。
あの幻覚が「混沌」なのだとしたら。 その答えは、そこにあるのではないか?
私はエリに隠れて、旅の準備を始めた。 私の「違和感」は、今、明確な「意志」に変わっていた。 私は行かなければならない。 この停滞した平和の外側へ。 私が「懐かしい」と感じてしまった、あの世界の真実を確かめに。




