第1話 晴れの香り
――私は、平和な世界で窒息しそうになっていた。
窓から差し込む光は、いつも正確な角度で私の瞼を射抜く。 この世界――ヤヌス神の『大いなる平和(PAX)』が敷かれたこの世界では、天気でさえも約束を違えることがない。雨は蒔種の第三日曜日と決まっているし、風は収穫祭の日にだけ、踊り子たちのヴェールを優しく揺らすために吹く。 そして今朝も、完璧な「晴れ」だ。
「イシュ、起きてる? もう三度、鶏が鳴いたわよ」
階下から聞こえる声は、光よりも優しい。 私は「んん……」と意味のない唸り声を上げ、亜麻色のシーツに顔を埋めた。シーツは昨日洗ったばかりの、陽だまりの匂いがする。
「……あと、一鳴きだけ……」 「だめ。今日はあなたの大好きな蜂蜜パンが焼けたの。冷めてしまったら、ヤヌス様に申し訳が立たないわ」
ヤヌス様。 この世界を創造し、私たちを守護してくださる、双つの顔を持つ偉大な神。私たちの日常は、すべてヤヌス様の慈悲深い「秩序」の上にある。蜂蜜パンが冷めることさえ、その秩序を乱す小さな罪になるのだ。
「……お姉ちゃんが食べる分が減るだけだよ」 「それこそ大罪だわ」
くすくす、と階下で笑う気配。 私はその音に降参して、ゆっくりとベッドから身を起こした。
私の名前はイシュ。この街で、姉のエリと二人で暮らしている。 物心ついた時から両親はいなかったけれど、寂しいと思ったことは一度もなかった。私にはエリがいる。エリがいれば、私には何一つ不足しているものなどなかった。
簡素な木造りの階段を降りると、香ばしい匂いが鼻腔を満たした。 ダイニングテーブルには、湯気を立てるハーブティと、黄金色に焼き上がった蜂蜜パンが二つ。そして、窓辺の花瓶には、今朝摘んだばかりの白い野花が活けられている。 何もかもが、昨日と、一昨日と、そしておそらく明日とも変わらない、完璧な朝の風景だった。
「おはよう、イシュ。寝癖、すごいことになってるわよ」 そう言って微笑んだのは、姉のエリ。 私より少し背が高く、落ち着いた亜麻色の髪を後ろで三つ編みにしている。彼女の纏う空気は、いつも春の陽だまりのように穏やかで、温かい。
「おはよう、お姉ちゃん。……その花、また中庭の?」 「ええ。だって、この花瓶にはこの白が一番似合うもの」
エリはそう言って、こともなげに椅子を引いた。 中庭のあの場所には、もう私が知っている限り、五年はこの白い花が咲き続けている。他の色の花が咲こうとする気配さえない。ヤヌス様の「秩序」は、こんな小さな場所にも行き届いている。
「いただきます」 「召し上がれ」
二人で手を合わせ、パンをちぎる。 外はカリッと、中は驚くほどふんわりとしていて、じわりと染み込んだ蜂蜜が口の中に広がる。美味しい。毎日食べても飽きない、完璧な味だ。
「……お姉ちゃん」 「なあに?」 「どうして、お姉ちゃんのパンはこんなに美味しいの? パン屋のドル爺さんのより、ずっと」 「あら、ドル爺さんに聞かれたら怒られるわ。……そうね、きっと、ヤヌス様が『妹を想う心』を焼き込んでくださっているからよ」
また、ヤヌス様だ。 この世界では、すべてがそうだ。パンが美味しいのも、天気が良いのも、誰も病気にならないのも、すべてはヤヌス様のおかげ。 もちろん、私もヤヌス様には感謝している。エリとこうして平和に暮らせるのだから。
「そっか。じゃあ、私もお姉ちゃんを想って焼いたら、この味になるかな」 「ふふ、どうかしら。でも、イシュが焼いてくれたパンなら、たとえ炭になっていても世界一美味しいわ」 「ひどい、炭になんてしないよ!」
私たちは笑い合った。 この時間が好きだ。エリの笑顔が好きだ。 この完璧な日常が、永遠に続けばいい。 心の底から、そう思っていた。
朝食を終え、私は街へのお使いを言いつかった。 エリが編んでくれた、もう何年も使っている丈夫なカゴを提げて、石畳の道を歩く。
「やあ、イシュちゃん。今日もいい天気だね!」 「こんにちは、マルコさん。はい、ヤヌス様のおかげで!」
八百屋のマルコさんが、丸々と太った完璧な形の野菜を並べながら、完璧な笑顔を向けてくる。 この街には、怒鳴り声も、泣き声も、慌ただしい足音もない。 誰もが譲り合い、誰もが微笑み合い、誰もが昨日と同じ会話を繰り返す。 技術が進歩する必要がないから、新しい建物が建つこともない。 新しい発見も、大きな夢もない。 だって、私たちはもう「完璧な平和」を手に入れているのだから。
時折、街の広場を通ると、「大いなる眠り」の碑の前で祈る人を見かける。 この世界では、人は老衰や病気では死なない。 ヤヌス様が決めた「役目」の刻限が来ると、その人は「大いなる眠り」につく。それは悲しいことではなく、ヤヌス様の元へ還る「祝福」だとされている。 眠りについた人は、翌日には姿を消し、その人のことを誰も話題にしなくなる。それが、この世界の「秩序」だった。
パン屋のドル爺さんの店に着くと、彼もまた、昨日とまったく同じ位置に立ち、まったく同じ仕草で生地をこねていた。
「おお、イシュか。エリは元気かい」 「はい、元気です。ドル爺さん、今日もライ麦を三つお願いします」 「あいよ。それにしても、あんたももうすぐ成人だねえ」 「はい、あと十日です」
成人の日。 それが、この世界で唯一、私に訪れる「変化」だった。 成人になると、ヤヌス様から正式な「役目」が与えられる。エリは「機織り」と「家の守り手」という役目だ。私は何になるのだろう。
「役目が決まれば、お前さんも一人前だ。安心だねえ」 ドル爺さんは、心底安心したようにそう言った。 この世界では、「変化」は「不安定」であり、もっとも忌避すべきものだ。だから、成人の日に「役目」という名の「固定された未来」を与えられることは、最大の祝福なのだ。
――安心。 本当に、そうなのだろうか。
私はライ麦を受け取り、店を出た。 空は、朝と寸分違わず青く澄み渡っている。 雲一つない、完璧な空。
私は、カゴを握りしめた。 胸の奥で、何か小さな、名前のつかないものがチリッと音を立てた気がした。
早く帰ろう。 お姉ちゃんの顔を見れば、こんなモヤモヤはきっと消えてなくなるはずだ。 この完璧な平和の中で、私だけが、何か秩序を乱す異物になりかけている気がして、少し怖かった。
※コンテスト期間中、定期更新します。




